七夕の詩歌中国の詩歌
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夏小正・時代不明
七月 漢案戸 初昏織女正東郷 斗柄県在下則旦

十月 初昏南門見 織女正北郷則旦
南門者 星名也 及此再見矣 織女星名也

 『夏小正』は『大戴礼記』の中の一編で、夏の時代の暦が書かれたものです。

 この記述は詩経よりも前のものであるとされておりまして、織女が出てくる最古の記述であります。


詩経・春秋時代
維天有漢 監亦有光 跂彼織女 終日七襄
雖則七襄 不成報章 皖彼牽牛 不以服箱

 (大意)周王朝の政治に苦しむ東方の人々の嘆きで、天の川に織女がいても 現実には織物ができるでもなく、牽牛の牛に車を牽かせるわけにもいかないと 歌ったものであるとされております。

 この詩は「織女」「牽牛」の文字がセットであらわれた最古のものです。
 この中の「漢」は「中国の河の漢水」ひいては「天の川」を指します。 また文中で「七襄」という言葉が使われておりますが、 何のことであるか現在でも良く分らないそうです。

○七襄とは
 「星は日中に卯から酉までの七星次を経過すること意味する。」 この説では昼間の七時の内に織物が出来上がらないと云っているわけですね。 でも織物は1日で織れるものではないので、当然といえば当然ですね。

 また、「織物の作業手順と関係する言葉である。」此の説は、 終日機織りをしても7手順?はできないと云うわけですね。 この七襄の「7」は7月7日から来ているとするのでしょうか!?

なお此の詩自体が七夕とは全く関係ないと云う説が最も有力であるようです。

参考:「西王母と七夕伝承」「年中行事を科学する」「孔子の見た星空」他


楚辞・(九歌・四・しょう夫人より抜粋)
 楚辞は詩経と並ぶ民間の詩集の草分けでありまして、 楚の国の宗教辞令が詠まれたものであるとされております。 この本に七夕説話の元となった話「九思」「哀歳」の二つあるとされておりますげれども、 そのような項目が見つからないのです。 楚辞の中で配偶神が詠まれていて二人は余り逢えない話を見つけましたので、 下記のもので一時代用しておきます

朝に余が馬を江皐に馳せて、夕に[さんずい筮]に濟る。
佳人の余を召すと聞き、將に騰駕して偕に逝かんとす。

 (大意)朝には馬を大川の岸辺に走らせて、夕方には西の水際を渡った。 慕しい人が私を召されると聞き、一緒に車に乗っていこうと思う。

 この詩の前段は心ひかれる夕べの会合を待ち望みつつ、 何か不安な前兆がしきりに起こる詩の話の中盤部分です。 しょう夫人は河の神のようなものとされておりますて、 配偶神のしょう君に会いに行くところの詩です。

余が袂(へい)を江中に捐(す)て、余がちょうをれい浦に遺(す)て
汀洲(ていしゅう)の杜若(とじゃく)を搴(と)り、將に以て遠き者に遺(おく)らんとす
時は驟驟(しばしば)得(う)可(べ)からず、聊(しばら)く逍遥(せうえう)して容與(ようよ)せん

 (大意)私の肌着を川の中に投げ、私の単衣をれい浦に落として、 中州のやぶみょうがを取って、遠いあの方に送ろう。あなたと会えるときは、 しばしばないのだから、暫く散策して、ゆっくり遊びましょう。

 この時代、女性が自分の身につけているものを送る習慣があったそうです。 このようにしょう君に贈り物をして、しばし遊ぼうとの詩です。

 しょう夫人は五帝「尭」の次女である説がありましたが、 今では「しょう水の風波神」が男女二神に別れたものであろうと云われております。


文選・戦国時代・古詩十九首
迢迢牽牛星 皎皎河漢女 繊繊擢素手 札札弄機杼 終日不成章
泣涕零如雨 河漢清且浅 相去復幾許 盈盈一水間 脈脈不得語

 (大意)彦星が遥か遠くで光っている。織女は輝き、手で機を織っているが、 一日織っても模様ができない。涙が流れる。天の川は浅く清くても、二人は逢えない。 ただ一筋の河があるだけなのに、語ることもできない。

 この時期になりますと、七夕説話が大分具体的になってきようです。

 この詩の成立年代には色々な説が有るようですが、後漢の後半には出来ていたのは確かなようです。


●続斎諧記
ここで初めてカササギ橋が出てきます。現在原典を探しております。


●後漢代・風俗通義(佚文・歳華紀麗)・応劭
織女が七夕に河を渡ろうとするとき、カササギに命じ橋にならせる


●晋代・
ここで初めてカササギ橋が出てきます。現在原典を探しております。


文選・三国時代・古詩十九首・文帝(曹丕)
名月皎皎照我牀 星漢西流夜未央
牽牛織女遥相望 爾獨何辜限河梁

 (大意)名月皎皎として 我が牀を照らし 星漢西に流れて 夜未だ央らず 牽牛織女 遥に相望む 爾獨り何の辜ありてか河梁に限らる

  長い詩なので最後の四句。星漢は天の川、牽牛織女 遥に相望む。説話の体裁としては十分ですね。

 曹丕(187年-225年)後漢皇帝に退位を迫り後漢を滅ぼした初代魏の皇帝。


荊楚歳時記
天河東有織女 天帝之子也 年年織杼役 織成雲錦天衣
天帝哀其独処 許配河西牽牛郎 嫁後遂廃織(糸任) 天帝怒責令帰河東
唯毎年七月七日夜 渡河一会

 (大意)天の川に東にいる織姫は天帝の子。いつも天の衣を織っていました。 天帝は独身であるのを可哀相に思い、天の川の西の彦星との結婚を許しました。 しかし嫁に行った後機織りをしなくなったので、天帝は怒って織女を戻ってこさせ、 七月七日の夜だけ川を渡って会うことを許しました。

説話として完全な形になりました。


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