■セブンアイ
 
井原正巳


 ほんの十数年前、日本サッカー界が国際舞台を目指して歩き始めた長いトンネルには、灯りといえる道標がなかった。しかし井原正巳は、明らかな「灯り」が見えるまで一度も先頭を譲らずに暗闇を走り続け、若手も、もしかすると私たち記者も、その背中をじっと見つめていたように思う。
「こっちの方向で大丈夫そうだ」と。

 日本代表の最大の目標と夢でもあったW杯開催と、ベスト16への進出が果たされた2002年の終わり、井原が35歳での現役引退を表明した。大学2年から日本代表として出場した123試合は、歴代1位である。代表以外の国際試合、Jリーグ、そのほとんどの試合で彼はいつも「キャプテン」だった。

「キャプテンマークを巻くと、腕が、気持ちがズシリと重くなりました。辛いことも多かったのですが、あのプレッシャーと戦わなければ自分はここまで来られなかった」

 どんな惨めな負け方でも、自分のプレーに納得が行かなくても、チームに何が起きても、彼は常に私たちの前に立ってチームを代表するコメントをした。98年フランスW杯直前、三浦、北澤ら「戦友」がメンバーを外れた日も、本当は泣きたいほど辛く心細く、しかもその動揺からかW杯出場が危ぶまれる大怪我をしていたのに、練習後、彼はすべてを胸にしまい、大勢の報道陣の前に立った。
「代表は立ち止まるわけには行かない」と毅然と言った姿を思い出す。
 フランスから3敗で帰国した日、無得点に終わったFW城が水を掛けられると、「的外れなFW批判は止めてくれ。自分はFWの働きを誇りに思う」と、珍しく声を荒げた。

 井原がピッチで体現し続けたのは、「信頼」や「責任」という、ともすればあやふやな存在の、正義の形である。田舎の分校で体育の教員を、と願っていた選手が刻んだ123試合は、勇気と歴史そのものだった。

「やるだけのことはやったと信じたい。悔いはないです」寂しいが、そう言われた時、反論はしなかった。ひどかった首のヘルニアに苦しむことももうない。
 一つの時代を走り抜けたキャプテンに、感謝を。心からの敬意を。

(東京中日スポーツ・2002.12.27より再録)

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