涙、涙の最終回
(Weekly Column 1/4「プレスルームから…」より)


 コンクリートの上に座ると、あまりにひんやりしていて、気分が落ち込んだ。「これ、敷いて下さい。ちょっとはマシです」。サンスポのカタクラ記者が、カバンから日刊スポーツを取り出して、広げてくれた。
 仕事を始めて10年あまり、雪の降る中、電話ボックスで原稿を書いたこともあるし、時間がないため、満員の新幹線の車中で、立って原稿を書いたこともある。ファックスが見つかちず、電気店の展示品から送信する、という荒業を駆使したこともあった。このコラムのタイトルは「プレスルームから…」、となっているが、実際、プレスルームで原稿を書いて送れる日は、記者にとって運のいい日、というよりほかない。記者は、いつでも、どこでも、どんな手段でも原稿を書き、そして送る。
 これまで数々の情けない取材を経験してきたが、この年になって、情けなさ度を更新する取材をするとは。わたしたちは11月下旬の寒い夜、代々木上原の駅で、地べたに座り、ハンバーガーショッブのシャッターに背中をつけて原稿を打っていた。なぜか。加茂監督の続投会見前夜、長沼会長宅を取材し、締め切りの真っ最中にたどりついた駅周辺には、暖を取りながら原稿を打てる店がなかったからだ。
 日ごろ、役に立つとも思えぬスポーツ新聞にも、こんな使い道があったのかと、お尻に敷くと、確かにマシである。
「もう(締め切り)時間がないから、ここで打ちます」。カメクラ記者は潔かった。
「さすがにみんな見てますね」。デイリーのマツモリ記者は、上目づかいに、改札から降りてくるサラリーマンの冷たい視線を分析していた。トウチュウのオオツカ記者は「家族がいるんだぜ、オレだってさ」と、半ばやけクソ気味に笑い、灰色の会衆電話にワープロ送信用のコードを差し込んだ。そして送信を終えたわたしは、念のため写真影をしておいた。本当は、「プルスルームから…」の最終回にふさわしく、いかに真剣に、日本代表監督問題に取り組んだかを、左ページの写真でお見せしようと思ったが、4人の構成は独身を含み、家族持ちばかりである。写真掲載は断念することにした。
 会社の郵便受けには、手紙やお知らせ、さまざまな刊行物が届いている。1か月、さまざまな本を、じつに大ぎっばに読む。
「へー、面白いね」と思わずつぶやいたのは、ジェイランキング「EPA」の10、11月号の「移籍に賛成? それとも反対?」という記事を見つけたからだ。移籍、退団の季節がやって来ただけに、興味深い。さらに興味深いのは、移籍支持派が100人中何と81人もいたことだ。確か、Jリーグが開幕した2年前、加藤久が川崎から清水に移籍した時には、小紙のアンケートでもまったく逆の話果、つまり反対派が圧倒的だったはずだ。ある代理店のアンケートでは、FA制度が導入されたプロ野球では、移籍賛成派は反対派を大きく下回るという話果が出ていた。
 移籍賛成派が多い、ということはサッカーの良さでもある。とにかく、移籍のエキスパート、Jリーグにあって、非常にユニークなキャリアの持ち主に話を聞くことにしよう。
「いろいろと、大変な季節になったね、選手会としても、考えなくっちゃならんのだけどねえ」。35歳の大ベテラン、信藤健仁(平塚)は、しみじみと言った。Jリーグ以前からサッカーを見ているファンなら、彼が4年間に渡って代表DFを務めていたこと、日本代表の主将だったことも知っているはずだ。年齢的にも引退すると、勝手に思っていたのだが、どっこい、そうではないようだ。シンさん、大変失礼いたしました。
「それで東北のJFLから話があるんですか?」
「そうなんよ、この歳になって、自分を評価してくれるところがあるっていうのは、最高にありがたいことやね。引退して仕事につくことも考えてるんだけど」。マツダ(現広島)、浦和、平塚と3チームを渡り歩いてきた信藤は笑った。「でも気持の半分は、オレはまだまだできるって、感じとるのよ」。引退も選択肢のひとつだが、今一度、若いチームをJリーグに昇格する感動を味わうのもいい。知らない土地、単身赴任、35歳の年齢……心は揺れるが、挑戦を取る可能性も強いようだ。
 先輩・木村和司も、同い歳の選手、水沼貴史も横浜Mを引退した。気がつくと、同期の現役は、もう柱谷幸一(柏)しかいない。出場試合は減ったが、'93年、ベテランの経験を買われて、Jリーグ入りを狙う平塚に移籍して以来、若いチームを常にリードしてきた。昨年、第2ステージで優勝を狙い、天皇杯を制した若いチームにあって、彼は練習中、常に先頭を切ってランニングをしていた。「ベテランらしく、後ろからダラダラ走っても、彼らは自分を認めんでしょう」。それが理由だった。
 1クラブで終わるのも人生、だけど全国渡り歩いて、経験を肥やしにするのもまた人生、と信藤は言う。「若い人へのアドバイス? そうねえ、プロはね、もし失敗したら、なんて考えたらダメなんよ。成功するためだけに仕事するんやからね」。この号が出るころには、35歳からの挑戦が始まっているかもしれない。
 今年も年の瀬がやってきた。11月いっぱいで契約更改、または解雇の通知がされることになっており、30日には、通告内容が入った封筒を手に、選手が複雑な表情でクラブハウスから出てくる光景が見られた。ある選手は、ロッカーへの入り口で、ひぎを抱えてしゃがみ込んでいた。「風邪をひくよ」と、声をかけようと思ったがやめた。こんなとき、かける言葉は見つからない。解雇される場合、金額欄は「0」と記されている。3年間で、多くの選手がJリーグに入り、そして去って行った。
 どこのコーチも、若い選手であればあるほど、早く見切りをつけてやることも、指導者の責務だと教えてくれる。Jリーグ、準会員のクラブはそれぞれ、3年前大量に選手を獲得した。サテライトリーグもこなさねばならなかったからだが、例えば、平塚でもこの3年でのベ150人がクラブの門を叩き、そのうち、トップに上がれたのは、3人に過ぎない。平塚の森コーチは「3年で、サッカーからすっばり足を洗ったヤツも多いですね」と振り返る。
 実家の鉄工所を継いだ選手もいるし、市役所の職員なった者もいる。クラブのマネジャーに転身した者もいるし、ほかのクラブにも、引退した選手と会社を作った人もいる。大学の体育会ではなく、同好会に「経歴を詐称して」入り、仲間を驚かせたという茶目っ気たっふりの選手もいた。辞めた選手たちは、Jリーグにどんな夢を見て、どんな夢をあきらめて去って行ったのだろう。今年までに、Jリーグに一度は登録して離脱した選手は約200人にものぼる。Jリーグが定着するとすれば、今年は後に、大きな節目の1年と言えるはずだ。
 さて、チャンピオンシップである。
 人は怒らせてはいけない。そう、プライドを傷つけてはいけないのだ。「ロッテよ弱い巨人」と何気ない一言で、日本シリーズを失ったチームを思い出してほしい。チャンピオンシップ直前のテレビ番組で、190人のJリーガー、監督らに「どちらが勝つと思うか?」とアンケートを取っていた。マリノス、と答えたのはたった40人だった。「40人もいたの」と、人のいい横浜Mの選手たちは口々に笑っていたが、ウソに決まっている。本心は「ふざけんなよ」である。自分にマーク不要とした、川崎に対して、ビスコンティが燃えたのも言うまでもない。
 来年にはオリンビック、その前には6月1目、2002年の投票もある。ぞっとするほど忙しい。忙しいが、できれば原稿くらいは「プレスルーム」から送りたいものだ。17回もの連戦を読んでくださり、なかには手紙をくださった読者もいる。どんなシュートにも、アシストがあるのと同じように、出稿するにあたって出してもらったすばらしいパスの数々に、感謝するよりほかはない。

(週刊サッカーマガジン・'95.12号より再録)

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