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 有馬郡誌によれば名塩は平安中期の武将・源(多田)満仲の家臣・藤原仲光が仮住いしたことに始まったとある。
 唯、この藤原仲光は架空の人物と思われ、この時代にこの村が存在した証はない。
■集落としての名塩は教行寺(浄土真宗・本願寺派)の創建から始まるといわれる。1475年、本願寺第8世・蓮如上人がこの地に暫く留まられた折りに村内の中山に草堂が道場として建てられたが、これが教行寺の創建とされている。
■その後、蓮如のもとへ名塩の村民が訪れ、中山の草堂を仏閣となし住持をすえ常に法要を聴受したいと願い出た。蓮如は、第19子の連芸に教誨を命じるが、名塩は山峡の村で、生活物資にも乏しく、寺を設けても維持永住が出来ないであろうと案じた連芸に、村民は「全村あげて檀家となり、春、秋2回米及び麦を3升ずつ、さらに初穂米を1升寄進します」と、破格の条件を提示したところ、蓮如はこれを承諾し、連芸が名塩に赴任した。
■連芸は村民の生活安定を計るため、法話をしながら農地開発を説き、人々は村を挙げて開発や開墾に従事した。やがて中山道場は名塩御坊と呼ばれ寺名も名塩教行寺となった。
■以後、連芸の子孫が代々これを嗣ぎ、その間に羽柴)秀吉をはじめとする有名武将から送られてきた文書等の貴重な資料が多数保存されている。名門寺院だけに、京都の公家や名家との婚姻関係も深く、毛利元就の孫娘藤が、連芸の孫准超のもとへ嫁いできている。
■また教行寺は名塩の指導的立場となり、秀吉からも村を寺領として認められ、紙漉についても紙漉業者や和紙取扱商人のまとめ役でもあったと思われる。
■名塩が歴史舞台に登場するのは室町時代末期である。
■1445年、木元で戦国の世を象徴する悲劇が起った。嘉吉の乱後、播磨守護職となった山名持豊は赤松満政の所領・播磨東三郡を取り上げた。満政はこれを奪回せんとして、挙兵したが敗れて一族の有馬持家を頼った。持家は満政を援けて挙兵したが、細川勝元が山名持豊を助けたことから、赤松方は散々に打ち破られて大敗した。これを期に持家は満政父子を討って自家の安泰を図ったため、満政は木元の山中で一族とともに自害した。
■名塩の東端の木ノ元バス停西側に木之元地蔵尊(木之元寺)がある。討手の赤松持家が満政一族を供養するために建立したと言われている。境内には十三重の塔が残されている。 その後、荒廃したが大正12年に再興され、現在は浄土宗西山光明寺派の寺院になっている。毎年8月23日には地蔵盆で賑わう。
■名塩の紙漉きは1645年の史書「毛吹草」に「名塩鳥子」の記述が見られ、少なくとも江戸時代初期には行なわれていたといえる。その起源については諸説があるが、いずれにしても、越前から伝えられたということは推測できる。
■名塩紙は、江戸時代中頃から藩札用いられ、名塩千軒とも言われるほど「紙漉きの里」として繁栄した。名塩紙の評判が上るにつれ、紙漉職人の株仲間、紙を買い上げる京大阪の紙問屋、名塩村の領主の利害や思惑が錯綜し、複雑に展開していたようだ。
■原料の雁皮に地元の泥土を漉き込む独特の製法の名塩紙は、日焼けや火にも強く、長期保存がきく。
■「名塩雁皮紙」は重要有形文化財に指定され、その技術を唯一保持し、継承している谷野武信氏は、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されている。
■記録がなく創建年代は定かでないが、江戸後期の寛政年間発刊の摂津名所図会には石清水八幡宮より勧請したとの記述がある。
■明治10年頃からダンジリの曳き回しが始まったようである。現在も毎年10月19、20日の例祭には8基のダンジリが蘭学通りや町内の国道176号線で曳き回される。
■幕末から明治初年の約7年間、名塩で蘭学塾が開かれていた。この洋学塾を指導していたのが、当時有名な蘭学者・緒方洪庵の適塾出身の英才、伊藤慎蔵だった。 
 慎蔵が、学問とは縁がなさそうなこの地に蘭学塾を開いたのは緒方洪庵の夫人・八重が名塩の出身であったからだ。慎蔵は八重夫人の世話で名塩出身の娘と結婚するが、妻の病気静養のため、空気の良い名塩に移り住むことになる。そこでこの地で、八重の父・億川百記や、適塾出身の大漉き元の弓場為政の協力を得て開塾の運びとなった。
■このように名塩に蘭学をもたらした八重夫人だが、緒方洪庵との出会いは、父・百記と洪庵が大坂の有名な蘭方医、中天遊の門下生であり、百記が洪庵の兄弟子だったことによる。百記は、若き日の貧乏書生であった緒方洪庵の将来を期待して娘の八重をその嫁にと考え、結婚にこぎつけた。

■塾のあった跡地にはJA兵庫六甲名塩支店の建物が建っており、玄関横には八重夫人の胸像が置かれている。また名塩東口から名塩バス停までの国道南側には「蘭学通り」と名づけられた旧道がある。