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 御旅所の中に「旌忠(せいちゅう)」と刻まれた大きな石碑が建てられている。御旅所前を通るたびに何の石碑なのか不思議だった。先日、知人から「戦没者慰霊祭催行百周年の栞」と題されたパンフを頂いた。平成21年9月23日付けの山口町徳風会発行の資料だった。この資料を読んでこの石碑のかねての疑問が氷解し、忠霊塔に関する知らなかった情報を得た。以下はこの栞をもとにした山口の戦没者慰霊碑についての記述である。

 旌忠碑は、明治43年(1905)3月10日に当時の山口小学校の校庭(現在の山口幼稚園東側)に建立された。碑石の題字は陸軍大将・川村影明氏(元陸軍姫路第十師団長)の揮毫が刻まれた。建設費は、村民や有志の当時238円の浄財で賄われた。建立直後に除幕式と第1回招魂祭が併せて執行された。
 その後、山口小学校の児童数増に伴う運動場拡張、校舎増築のため、旌忠碑は新運動場の奉安殿横に移転した。 
 太平洋戦争の戦線拡大と長期化に伴って、戦病死者数も多くなり、納骨設備のある忠霊塔の必要が生じた。そこで、昭和17年初頭から忠霊塔建設工事が始まった。工事は隣保単位の村民の負担で行なわれ、経費も村民の浄財で賄われた。
 その結果、昭和18年春に、山口国民学校の校庭に地上8m余りの堂々たる忠霊塔が完成した。同年6月18日、除幕式、収骨式に続いて、第1回慰霊祭が執行された。
 また、旌忠碑は、忠霊塔新設に伴い、英霊を顕彰する役目は終ったが、忠霊塔の左脇に安置され、二度目の移転が行なわれた。

 敗戦による政経分離政策により、旌忠碑と忠霊塔の二つの慰霊碑は、国民学校の校庭から撤去しなければならなくなった。忠霊塔の移転先は、上山口字尼ノ子山に決定され、昭和22年秋から工事が始まり、翌年春に移転工事が完了した。そして昭和23年5月3日に慰霊祭が執行された。
 また、忠霊塔と同じ国民学校に設置されていた旌忠碑も、下山口四丁目の公智神社御旅所内に移転された。
 山口での戦没者慰霊祭は、明治43年の第1回挙行以来、毎年欠かさず祭祀が行われ、平成21年には百回目を迎えるに至っている。
 祭主については当初の山口村から澍真会(遺族会)、山口生産森林組合、山口町徳風会と変遷し現在に至っている。祭場も、山口小学校校庭、明徳寺本堂、尼ノ子広場と推移した。
例祭日 毎年、秋分の日(9月23日)
祭場   山口町上山口尼ノ子山2025番地ノ9
祭典   仏式、神式を隔年で祭祀
御英霊 「西南の役」以降の戦役で戦病死され
       収骨された諸士の百四十八柱
祭主   財団法人・山口町徳風会、