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郷土誌「山口村誌」の記述
史跡探訪をテーマにした朝の散策が続いている。今朝は、これもかねての疑問だった廃寺跡の探訪に出かけた。
 郷土誌「山口村誌」の「第8章 社寺・教会」に廃寺・永蓮寺の項目があり、以下の記述がある。『上山口通称永蓮寺山にあったと伝えられている。「有馬郡誌」上巻に永蓮寺山として、「往古永蓮寺の在りし所にして、今猶ほ老いたる松樹数本あり。土地高燥、上山口の里を眼下に瞰て風光佳なり」』。また山口の古刹・明徳寺の本尊は、快慶作といわれ国の重要文化財である。明徳寺寺記にこの本尊がかって永蓮寺にあり、寺が兵火で焼失した際に明徳寺に安置されたと記されている。
廃寺・永蓮寺の歴史と格式 
 以上の記述を読むと、廃寺となった永蓮寺の歴史と格式の重みが窺える。永蓮寺があった永蓮寺山とはどこなのかが、かねての疑問だった。今朝の散策のテーマである。
永蓮寺山を訪ねて
 山口と有馬温泉を結ぶ98号線から神鉄・岡場駅に向う道路に入ってすぐ北側に上山口墓地がある。人伝に永蓮寺がこの墓地周辺にあったと聞いていた。墓地の南で畑仕事をしていたおばあさんに尋ねると、墓地の南東すぐの所にある小山を指して「あの山に昔お寺があったと聞いたことがある」と教えられた。竹に覆われたその小山に分け入ったが、寺の遺構を示すものは何も見当たらない。周囲を巡っていると耕運機で作業中の同年輩のオジサンを見かけた。尋ねると、「そういえば、ワシらの子供じぶんにはあの山をエレンジ(永蓮寺)山と呼んでいた」とのこと。伝承とは言え、廃寺跡を裏付ける有力な証言だった。
小山に分け入る
 ほぼこの山に間違いないと判断して、あらためてその小山に分け入った。ひょとして何かそれらしき遺構がないかを知りたかったからだ。辛うじて人の踏み跡のある竹やぶに入ると、真正面に年輪を重ねた山桃の大木があった。残念ながら有馬郡誌記述の「老いたる松樹数本」は現存しない。寺院の遺構らしきものも何もない。
上山口区誌
 昭和48年(1973)発行の「上山口区誌」をみると、巻頭の写真集に永蓮寺山の写真があった。この写真には数本の松の老木の姿が残されている。山の形状も現在の姿に酷似している。年配の上山口在住の方から「松の老木が生えていた丘陵の南部分は、岡場に向う道路を通すために削り取られた」という証言を得た。松の老木数本が消失した謎が解けた。
この山が永蓮寺山であることが物証で証明されたといえる。