文章いろいろ

世界観

私が思いますに、人は皆、ひとかたまりの粘土を与えられて生まれてくるのです。

生きるということは、この粘土をこねて、形作って、自分が生まれ落ちたこの世の雛形、模型を造ることなのです。そして、人が「世界」だと思っているものは、実はこの自分が抱えている粘土で造った雛形のことなのです。

生まれて間もない頃は、粘土はまだ柔らかく、ちょっとした力で形を変えることができます。しかし年をとるにつれ、 粘土は乾き、固くなっていきます。
物事にはすべからく両面性がありますので、この粘土が固いことにも柔らかいことにも、長所と短所があります。

粘土が固くなれば、別の形に変えることは大変難しくなります。その代わり大きな足で踏まれても壊れたりしません。形作った美しいオブジェは、生きている限り残ります。
柔らかいうちは、色々な形に変えることができる代わりに、「それ何?」と訊かれた時に「……」としか答えられない羽目に陥ります。しかもちょっとした風や雨で変形してしまったりもします。

年をとる、ということは、私にとっては肉体が衰えることではなく、この粘土が固くなって、可塑性を失うこと(そ して丈夫になること)なのです。

人間は皆同じ世界を真似して粘土を形作りますから、大抵の雛形は似たような形をしています。
しかし、人間たちが思っているほど似通った形ではありません。
幸か不幸か、人間は他人が造っている雛形を見ることがほとんど ないので、お互いの雛形がどれくらい似ているのか、わからないのです。

そしてもうひとつ、人間が気づいていないことがあります。
それは、粘土が固くなると、知らず知らずのうちに他の粘土に型押ししてしまうということです。

固い物を柔らかい物に押しつけると、柔らかい物は圧迫されて形が変わります。 そういうことが、人間にも起こる訳です。何しろ粘土なので、その固い物がなくなっても押された跡が残ったりします。 固くて丈夫な、そして美しい雛形を持っている人は、そうやって他の人の雛形に自分の形を残していきます。

問題があるとすれば、柔らかい方が形が変わったことに気づいたとしても、固い方はそれほど大した圧力を感じる訳ではないので、自分が相手の粘土を押していること自体、知らなかったりするということでしょうか。

固くなればなるほど、自分の雛形を圧迫するほどの別の雛形に出会うことは少なくなっていきますので、他の雛形があることに気づいた時には相手はすでにこっちの形に沿うように変形していた、なんてことはざらになります。

そして周囲は自分の雛形にフィットするような形になってしまっているので、自分の雛形の美しさと正しさをますます強く実感していくという訳です。
それは頭が固いとか柔軟性がないとかいう人格的な問題のレベルではなく、ほとんど物理法則に近い、どうしようもないこと、であったりします。

人間にできるのは、せいぜい自分以外の雛形がこの世に存在していることを知ることまでなのでしょう。
もちろん、努力や訓練や教育や偶然によって、自分以外の雛形や、もしかしたら世界そのものの姿を垣間見ることはできます。スピリチュアルな体験、超越者とのシンクロ、異文化との邂逅、そういったものによって。

しかし、人間はその体験をそのまま反芻することも、記憶することも、表現することもできません。なぜなら、それを反芻し記憶し表現しようとするための道具として、自分の持っている雛形を使わなくてはならないからです。
体験したことのうち雛形に合わない部分は、容器からあふれた水のようにこぼれおちてしまい、それはただ「語られ得ぬもの」として伝えられ、似たような体験 をした人たちの間で秘やかに共有されていくのでしょう。わずかに存在する雛形の共通項を頼りないよすがとして。

こう書くと、いかにも私は他人の雛形を見ることのできる柔軟性あふれる人間だと自覚しているかのように見えますが、もちろんそんな都合のいいことはありません。
私は脆く弱々しい雛形の持ち主で、しかもその雛形が壊れてしまうことをひどく恐れている、ごくごく平凡な人間に過ぎません。

そして、今書いてみたような「世界観」がまさに私の持っている雛形であり、与えられた粘土のうち、もはや可塑性を失ってしまった一部分なのです。

この世界観ゆえに、私は人を説得したり自分の真実性を主張したりすることをもはやあきらめています。

そして全ての真実が誰かの雛形であると思っているがゆえに、誰かに心から心酔することも、何かの思想に傾倒することも、あるものを絶対的に信頼することもなく、それが出来る人間だけが持つあの圧倒的な強さを持つことも、多分ないでしょう。私は運命の存在を感じていますけれど、それを証明することもできないでしょう。

自分の世界観に対する揺るぎない信頼と確信に満ちている人に、私は常に憧れています。
しかしそういった人に出会っても、私は彼らに生涯を賭してついていくことができない。
私はただ、彼らのエネルギーが私の雛形をより美しくしてくれることに感謝し、彼らの幸せを祈るだけです。

そして私がいつか去っていった時に、彼らが私を裏切り者呼ばわりしても、否定することも申し訳なさそうな顔をすることもせずに、ただ頭を垂れるのみなのです。

       

どうも自己主張の強い、確固たる信念を持つ強い人に縁があるようで、おまけにそういう人に目をかけられたりすることもたまにあって、結構精神疲労のもととなっていました。
しかも、私にはボズウェル的というかユリアン・ミンツ的というか、「愛弟子願望」とでも言うべき憧れがあって、何とかそういう強い人を支えるよき弟子になれないものかと、右往左往しており、それが混乱をさらに拡大させていたのです。

どうして自分はダメな人間なんだろう、そういう人を支えられるよき徒弟となれないのだろう、とつらつら考えてみた時に、自分の中にある、万物に対する相対性というか距離感にたどりつき、ああ私は愛弟子というやつにはなれないんだと自覚したのでした。

ところでこれは、珍しく、感想のメールをいただいたことがある文章です。

意外と、こういう「熱くなれないタイプ」という人は多くて、そういう人にとっては腑に落ちる文章だったようですね。