文章いろいろ

東京

静岡から東京にやってきた、知りあいと電話で話した。ずいぶん前のことである。
同じように静岡からやってきた友達が、夢をあきらめて、故郷に帰って結婚するという話を、淡々とその人は話した。 彼も故郷に帰ることを考えたそうだが、こちらは好きな人が首都圏にいるので、もうちょっとがんばってみることにしたと言う。

東京を出る。故郷に帰る。その言葉を、高校生だった私は全く実感なく、不思議な思いで聴いていた。

産まれたのは東京だったが、物心ついた時には横浜よりさらに先の、リゾート地にほどちかいところで生活していた。 沿線の終点の駅で、私にとって、世界は私の家から始まり、私の家で終わっていた。けれどもそれなりに首都圏の隅っこにぶらさがっているところではあった。

東京には、頻繁ではないが行った。年の頭頃に、書道の集まりがあって、家族でよく銀座に出かけた。実家のある大森にも、しばしば顔を出した。
電車の時もあるし、クルマの時もあった。クルマの中で、流れる風景を見ながら考え事をするのが好きだったので(今でもそれは好きだけれど)、あっという間に目的地についてしまうドライブはつまらなかっ た。東京が目的地の場合は、期待していたほど時間がかからないので、いつも何となく物足りなかった。

東京に行くと、いつも寒かった。潮風とは全く異なる冷たさを持つ、ビル風の強さだけが記憶に残った。レストランの食事はそれなりにおいしかった、と思う。
ビルはいつでも高く、父と手をつないでいなければ人波に押し流されそうで 怖かった。東京は家族とでなければ行かなかった。一人で東京に出かける用事は、何もなかった。

私にとって東京は、憧れるには近すぎ、親しむには遠すぎる街だった。嫌いだった訳ではない。ただ、そこには何もなかった。

何年かたって、東京で暮らすようになった頃、埼玉寄りの東京の街に、心から愛着を持つ人に出会った。
彼は自分の街のことをよく知っていたし、近所の商店街がテレビや雑誌に載ると子どものような顔をして喜んだ。
家からそれほど遠くはない母校の前を通った時に彼が浮かべた、遠い眼差しと遠い笑顔は忘れられない。新宿の都庁の展望台に行った時、まるで自分の庭の置物を説明するかのように、彼は建物のひとつひとつを教えてくれた。その人といる限り、私は東京で道に迷うことはなかった。

今現在、東京で暮らしていながら、私はあの人のような東京に対する愛着も知識もない。好きな街はある。苦手なところも。でも、故郷の街が遠くなった今でさえ、私には東京に対するあの愛情はない。

静岡から東京にやってきた人も、東京を庭のように知っていた人も、私の知らないところで、それぞれ暮らし、がんばっている。会うことができなくなった今も。
そして、地方の人が「東京を去る」と言う時の悲しい口調も、東京の人が東京を愛しつづける理由も、私には生涯理解しきることはできないと思う。

そして私は今、東京に住んでいる。東京の店で食事をし、東京で遊ぶ。しかし、血肉にさえなっているはずの東京を、私は感じることができない。私は住んでいるのではなく、ただここにさまよっているのだと思う。

東京は嫌いではない。もしかしたら、ここで生きて、ここで死ぬのかも知れない。けれど東京は嫌いではない。ただ、それだけの言葉しか、私の中には存在しない。

 

       

文章自体は実はとても古くて、第一稿は高校生の時に、図書委員会の会報に掲載するエッセイとして書きました。が、会報の趣旨にそぐわないという理由でボツになりました。今考えてみれば当たり前ですが……。こんな暗い文章が載っている図書委員会の会報なんぞ、誰も読みません。

その後、時間経過とともに、自分の環境や出会った人が変わったために、何回か書き直して掲載しています。
ここに書かれている二人のひとというのは、大体お察しのことと思いますが、かつて交際していた男性です。

地方出身の彼の、「好きな人がいるのでもう少し東京にいることにした」という話の「好きな人」というのは、その当時は私のことだった訳ですが、ほどなく彼にはもっと大事な人ができて、私はお払い箱となりました。私が知る限りでは、今も元気に東京で、その彼女とがんばっているはずです。

現在、私は東京の端っこに住んでいますが、未だに自分の町に愛着が湧きません。そういうもののようです。