文章いろいろ

永続感情

この間、友達と話をしていた時、「恋愛が永遠に(せめて何十年か、あるいは一生)続くことは、ありえるか」という話題になりました。
私はその時、「ありえない」という立場に立ちました。

素晴らしいパートナーにめぐりあって、自他共に認める幸せな結婚をしている私がそう言ったことで、かなり驚いた友達もいたようです。もしかしたら彼女は、結婚をすれば愛情は冷めてしまうという哀しい印象を持ったかも知れません。
その場では時間がなくて、また何となく話の流れが向かなかったので、私の話をきちんとすることはしませんでし た。もしそうしたら、彼女の印象はちょっと違うんだよ、ということを説明することができたのですが。

今、つれあいである軽鴨の君に恋愛をしていますか? と訊かれたら、私はきっと「いいえ」と答えると思います。
では、もう愛情は冷めてしまって、あるのはただの信頼関係や家族的な共同体意識なのですか? と訊かれたら、「そういう訳ではありません」と答えます。
私の中には、様々な色とベクトルを持った「愛情」が存在しています。私は軽鴨の君を愛していますし、同時に実家の家族を愛し、軽鴨の君の実家の家族を愛しています。とても強く、近藤さんを愛し、もけもけ氏やくろねこさんを愛し、 冒険企画局のみんなを愛し、習い事の仲間を愛し、中高時代の親友達を愛しています。もしかしたら、過去に恋愛関係を結んだ初号機くんや弐号機くんさえ、未だに愛していると言えるかも知れません。
けれど、それは恋愛では、ありません。わかりやすく言えば、恋ではないのです。

軽鴨の君に恋をした瞬間というものを、私は未だに覚えています。ついでに言えば、弐号機くんに恋をした瞬間もよく 覚えています。もっと言えば、何と初号機くんに恋をした瞬間さえ(十年以上前のことですが)はっきりと覚えているの です。
それは全くもって瞬間でした。
空から突然落ちてきた頭を直撃した隕石のように、その刹那は私を何の前触れもなく捉えました。

それについて、私は自分の意志を働かせることは全くできませんでしたし、避けることもできなければ積極的にのめりこむことさえできませんでした。

それから数ヶ月に渡る、ハイとしか言いようのない時間は、多分人類誰にでも共通だと思います。

世界の全てが見たこともない新しい光を見せ、私は自分がとんでもない行動に出ているのを意識しながら、それを止めることができませんでした。
例えば大学時代、図書館のカウンター業務のアルバイトをしていたそのひとを遠くから見つめるためだけに、私は図書館の窓にずっとずっとずっと立っていて、いよいよ時間がなくなってしまったので仕方なく図書館に入り、笑って一言「ああ、こんにちわ。また」と挨拶するためだけに本を借りました。よくある、誰にでも覚えのある、あの間抜けな言動の一パターンです。

軽鴨の君とデートをして、ああもう少しで終電が来てしまう、帰らなくちゃいけない、と思った時、私の身体は私の理性とは全く無関係な物体になり、突然凄まじいめまいと吐き気を起こして倒れる、という芸当をやってのけたことさえ あります。あの時私が自分で自分の心臓を止めなかったのは、単に無意識に心臓の筋肉をコントロールする能力がなかったからに過ぎません。

それはとても楽しく、心躍る、どきどきする、めまいがするような多幸感でしたが、ものすごく体力と気力を消耗する時間でもありました。
たぶん、あの状況が年単位で続いたら、私は死んでいたのではないかと思います。恋愛は続き ません。というより、物理的に続けられないのです。死にます。ひとは、自分で自分の心身をコントロールできない状態に、何年も耐えられるものではありません。

何年も続いているとしたら、それはきっと、恋をする時間とは別に、自分をがっちりと取り戻している時間を確保しているのでしょう。私はあまりそういう切り替えが得意ではなくて、恋をしている時は二十四時間コンビニのように開店してしまっているので、長くは続きません。

私は、恋をした相手を、とても広く深く知ろうとします。理解することが、私の愛情なのです。
逆に言えば、私は常に未知に恋をするということです。それはきっと、多くの人に共通なのではないかと思います。
未知を未知のままに留めようとする人もいるでしょうが、私にとっては愛することはイコール知ることなので、それは不可能です。そしていつか必ず、量的には、既知が未知を圧倒する瞬間がやってきます。

相手の考えていることや気持ちが手にとるようにわかる。価値観や好きなものが見えてくる。反応が予想できる。その時、私にとって恋は、終わります。そして、幸せの形は変わります。

私と相手が深く知り合い、そして今まで知っていた自分の形はゆっくりと(あるいは一瞬で)変化していきます。二つの色が混ざり合って違う色になるように、私は変わります。それはとても幸せな時間ですが、自分で自分を制御できないあのボルテージの高い瞬間ではありません。そこには私のはっきりした意志があるのですから。

今の私は、軽鴨の君に恋をしていません。私は彼を、たぶん自分の次に知っています。そんな相手に恋はできませ ん。
けれど、彼は私という人間の一部で、彼が失われた時に私は死ぬだろうと思います。それは肉体的な死ではなく、今知っている「私」という存在が取り返しのつかない形で壊れる、ということです。軽鴨の君にとっても、さとみんという生き物はそういった位置を占めていたとしたら、驚くような幸運ですが。

言うならば、恋は私にとって、世界の新しい局面へ自分の顔を強制的に向けさせる、天の女神が持っている手綱のようなものです。
手綱そのものが私の脚を動かす訳ではありません。そして手綱が向けた方向へいつまで歩いていくか、それは私と相手が決めるのです。
手綱がなくなっても、私がそのひとと一緒に歩いていこうと思い、それによって自分がより善い存在に変わることができるなら、それは素晴らしい奇跡です。手綱に引きずられるままギャロップを続けていくことよりも、ずっとずっと素敵なことでしょう。

要するに、私は恋をあまり尊いものだと思っていないのです。恋は女神に属するものという意味で神聖なものですが、 いつか必ず消えるものですし、また消えるべきものだと思っています。
恋よりも重要なのは、ひとが、在るべき形で在ること。そしてその在り方が、より美しく素晴らしい形になること。

それに比べれば、どきどきすることが、陶酔することが、呆然と見つめることが、世界が薔薇に包まれることが、一体どれほどのものだと言うのでしょう?

       

恋愛について書いた文章その2です。これも日記からかな。

恋と愛の違いについては、さだまさしの「恋愛症候群」はじめ、数々の名言があるので、今さら私が付け加えるものはないのですが、恋の非常性と、愛の日常性の対比をきちんと文章化してみたくて、書いてみました。

「軽鴨の君」というのは、ホームページの中で私のつれあいを示す呼び名です。カルガモが好きな本人の希望で、こういう名前になりました。ホームページ上で描写される彼は、現実の、肉体を持ち社会的責任を背負った彼とは微妙に違う存在なので、本名やハンドル名ではなく、こういう呼び名を使っています。