文章いろいろ

疎外

たとえば飲み会や、パーティや、そんな人が大勢集まる席で、誰も自分に話しかけない、自分も話さない瞬間が、哀しいけど結構好きだ。
部屋の隅に、飲み物を片手に座って、空気を眺めやる。
人の熱と、言葉の熱と、アルコールの熱が、ゆらいで、たゆたいながら渦を巻き、不定形の広がりとなって右往左往する。
誰がどんな話をしているのか。誰が誰と会話してるのか。誰が誰を熱っぽく見つめているのか。笑い声。議論。うなずき。
熱気が、焼き肉の表面の脂のようにてかてかきらきら輝いているのを、たまたま通りがかった透明な妖精のように、ただ眺めやる。
大樹となって、自分は揺るがず、世界だけが周囲で鳴動する時間。
それは決して「楽しい」時間ではないけれど、また自分で望んで作り上げる時間でもないけれど、独特のテンポと非日常感がある。ただ見ている、という気持ちよさと冷酷さ。

友達のネットの日記を読んでいたら、ふとそんなことを思い出した昼下がり。

       

mixiの2004年7月の、「空気を眺めやる」というタイトルの日記。私の文章としては大変珍しい、短文です。他人には大変好かれないタイプの文章ですが、自分としては結構面白いので、載せてみました。

毎日の暮らしにおける、独特の疎外感、自分の周囲に透明な膜があって世界の全てが自分を通り過ぎていく感覚は、割と頻繁に感じる感覚のひとつです。他の方も、そうなのでしょうか。