文章いろいろ

加害者

連日恐ろしい事件が起こっています。

誤解の恐れがあるのを承知で、ちょっと怖い話をしようと思います。ずいぶん前から悩んでいることです。

読んだ方も多いと思いますが、少し前に、背筋が寒くなるような新聞記事がありました。神戸で児童を連続殺傷 した、あの事件の被告についての話です。
その新聞記事の内容を信用するならば、彼は特に反省するような素振りを見せてはおらず、「自分が子供を10人殺すのと、事故で子供が10人死ぬのに、そんなに違いはない。世間は騒ぎすぎ だ」というような発言をしている、ということでした。

この、冷酷無比で非人間的な発言。しかし、実は私が背筋を寒くしたのは、その発言が冷酷だったからではないのです。

昔、私はふとこんなことを考えたことがあります。
「不可抗力の事故や天災で人が死ぬのと、殺人で人が死ぬのとでは、どちらがより大きい悲劇なんだろう?
毎日1人ずつ10日間人が殺されるのと、いっぺんに10人の人が殺されるのでは、数字の上では同じなのに、何故こんなに受ける感覚は違うのだろう?」

あわてて弁解しておきますと、もちろん私はこのような発想が不快で危険なものであることを理解しています。それに、悲劇というものは理屈や数字に属するものではなく、生理的感情的なものだから、そもそも疑問の立脚点自体に問題があるといえるかも知れません。

ただ、読んだ人は気づいたでしょうけれど、先程の重大犯罪の被告の発想と、私の素朴(といってよければですが)な疑問は、どこかしら似ています。
私の背筋を凍らせたのは、その共通性です。わかりやすく言えば、それは、
「私も、彼も、同じ人間なんだ」
という、認めたくないけれども、当たり前の事実、ということです。


時々、「いじめは悪いに決まっているが、でもいじめられる人間にもそれなりの理由がある」「詐欺は悪いことだが、でもだまされる方にも隙があるのだからよくない」といった議論を聞きます。

私はこれに、賛成しません。

「いじめられやすい(だまされやすい)」あるいは「いじめられるに足る(だまされるに足る)」理由も性質も存在しないと思っているからです。

 

その根拠をここで述べることはしませんが、代わりに言うならば、「いじめられやすい、だまされやすい『境遇』はある」とは思います。そして、境遇である以上、それは人間であれば誰でもそうなる可能性を持っています。

たぶん、どんな人間であっても、一定のセッティングを整えた上で一定の段階を踏ませていけば、いじめや詐欺の被害者に仕立て上げることができるでしょう。これは、私の偽らざる確信です。


そしてそれと同時に、「重大犯罪を犯す人間は、そうでない人間とは全く違う異質なものである」「あいつらは人間じゃない。死んだっていい奴、むしろ殺すべきだ」という考え方にも、私は実は賛成できません。

血も凍るような恐ろしい行為をしでかした人間を、邪悪の権化、悪魔の化身として排除し、抹殺することができれば、気が楽だろうとは思いますが。でも私は、彼らをそれほど距離のある存在だとは思えないからです。


(もちろん、私にも無条件の嫌悪と怒りと憎しみを引き起こす「地雷」はあります。犯罪でいえば、動物虐待と強姦がそれです。やった奴は死刑では済まない、足と手を切り落として片目片耳を切り落として砂漠に放置しろと、思います。が、それは全くの感情論であることを私は知っています。そして実際そうできる権力を持ったとしても、実行するかどうかは正直言って疑問なのです。)

たぶん、私は、どんな人間も、一定のセッティングと段階の経過があれば、この上ない邪悪の権化になれると感じて いるのでしょう。どんな人間も、無垢の被害者に仕立て上げられるように。


私は人生で数限りない失敗と過ちをしてきました。それは過失であったこともありますし、故意であったこともあります。そして私は、常に、「いつか私も加害者になるかもしれない」という感覚を、心のどこかに持っているのです。
もしあなたが、「私は善良という訳ではないけれど、法に触れることはしてないし、故意に加害者になることなんかない」と言い切れるのなら。
あなたは、この上なく、幸せです。

「自分は加害者になるかも」「自分は加害者なのだ」という感覚は、私にとっては、罪悪感などという生ぬるい言葉では表せないほどの、本当に本当に本当に筆舌に尽くしがたい恐怖と苦しみです。

それは、後悔や罪の意識に苦しめられるといったレベルの話ではありません。たとえ、自分の中でどれだけ真っ当で正当な理由があったとしても、正しい行為であったとしても……人間が生きていく上での最も大切な「何か」が、すっぽりと抜け落ちてしまうような体験なのです。

 

「あんな犯罪を犯した人間が、無罪になるなんて、許せない」という台詞をよく聞きますが、私は、法律や社会がどう判断を下そうとも、犯人が「ほっとしている」とは思えないのです。


重大犯罪を犯した人間は、それ以前の生活・心情には二度と戻れないと聞きます。彼らの魂の中では、一体どんなことが起こってしまうのでしょう。

「与えたものは三倍になって返ってくる」という格言があります。

仮に人を殺せば、返ってくるのは死ですらなく、死の三倍も恐ろしく無惨で耐え難い生なのでしょうか。


こう書くと、私は人間性悪説を信念としているように聞こえるかも知れませんけれど、実はそうではありません。性善説と性悪説をどちらか選ばなくてはならないのなら、むしろ性善説を選びます。
たぶん、人間の心に光が当たる時、その光線の具合によって、同じ色が明るくなったり暗くなったりするのでしょう。そして光線がどう当たるのかは、人間の力だけで左右できるものではないのです。

にも関わらず、私達は精一杯与えられた光線の中で、綺麗な絵を描かなくてはなりません。何故?と訊かれても答えることは私にはできませんが。
どんなにひどい光線が当たっていたとしても、その中で描いた絵が醜ければ、人はそれに責任をとらなくてはなりません。

ケルトの神話では、人間の運命はゲームに例えられていると聞いたことがあります。

選びようもなく勝手に与えられる、手札のような「宿命」と、与えられた手札を利用して最善を尽くす「自由意志」によって、運命は形作られるのだそうです。

そういう意味で、重大犯罪を犯してしまった人間は、与えられた手札を使い切る前に賭け金を失った、ゲームの敗者なのかも知れません。
敗者は敗者として、その結末を受け入れなくてはなりません。が、勝者が勝ち誇る類のことなのかは……私にはわからないのです。


何か力強い意見、カタルシス、納得できるような世界観を求めて読んでくださった人には、本当に申し訳ないのです が、私はこの悩み、整理のつかない思考の断片に、これ以上の答えを出すことができないのです。せめて臨終までに、私なりの答えが出すことができればいいとは、思うのですが。

 

       

このページでも一二を争う、暗い文章です。
こういう文章を書くと、いかにも社会不適応者という印象を与えそうなので、危険だということはわかっているのですが、犯罪にせよあるいは疾患にせよ、「オレハチガウゾ」と思っているうちは本当の対策は見つからず、「自分がそうなっていないのは僥倖だ」「あの人達は、私の身代わりなのだ」と思うところから始まるのではないかと思うので、あえて掲載しています。