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創作・発明 はぐれ走想 3
創の視点論点


 競争社会と品格

死語となりつつある言葉の一つであろう「上品、下品」。全く使われない訳ではないが、意味のあやふや理解で使われ
るために、いまや間違った語彙に変質してしまいそうで心配している。
語彙とは言っても、辞書によれば、「上品」イコール「品が良いこと」しか書かれていないから、現在の使われ様も致し方
なく責められない。
大体が品格とは何だ?
思うところ、私は「人を不快にさせない」事と解し、生活観に取り入れている。不快にさせない礼儀、不快にさせない言
葉使い、不快にさせない主義主張、身のこなし、着こなし、こんな気遣いで生活できたら?至福だ。
だが、事「独創」を思う時、こんな生活観ではいられない。
と言うのは、そもそも、この「上品」と言うのは、身分制度を発祥とした言葉であって、「上の身分の身の律し方」の心得
であったり格付けだったのである。
つまり、争いごとに加わらない公家たちの品位格付けと育て方の心得だから、下級の武士や、農、工、商人が競い合う
中では、「もともとの死語だったのかも知れない。
言わずと知れた現在は、まさに「競争社会」。ここで品格を唱えることは、地味にして置いて行かれる、負けるを意味す
る。こう考えると、身分制度も良いなあ?気楽だなあ?て考えちゃいますね。
競争社会だから、消えていく「上品」かも知れません。一方で、競争社会だから、残したい感性でもあります。
枠と言うものがあった「身分制度社会」。高い望みがなければ、急ぐのない悠々豊をえられる。枠のない競争社会は、
例えるなら、やはり戦場だ。道に、空き地に遺体が転がり、敗れ堕ちた人間が路頭に迷ってたむろする。これが本当の
競争社会の姿だ。
競争社会の殺伐を少しでも、なくそうとの社会制度が構築されて、現代がある。けれど本質は、「今、内戦で飢え苦しむ
避難民の姿と何ら変わりない。」
大戦後、日本は象徴として天皇家が存続された。
日本国民は、競争社会にいて戦い続けていても、「ふっと、天皇家家族を見て」競争ではない人間の行き方を垣間見
る。「戦い過ぎを諌める風を心に通す」事が出来るのである。そして、人間としての品格を思い、原点回帰を思い描く。
競争が人間を、人間社会を進歩させていることを否定できないし、改革も出来ない。成り上がりが成り上がりのままで
はいけない。品格を失うと本当に戦場絵図化してしまう。現代社会の殺伐感も勝った者に品格がないからだ。
日本競争社会で失っているものがある、そして願いたいことがある。

競争に勝ったものは、品格を持って上品になれ!争いに勝って人の上に立ったら、上品になれ!人よりも長生きした
ら、上品になれ!
それで、競争社会は救われる。

 好き嫌いの裏面

自分の口から「昔は」「昔は」が良く出てくる。自分が年取ったことを自分が認め始めた、端的現象だ。嫌ですね〜。
ノスタルジーにふけることは、ある種ロマンだし、自己愛の側面を深く味合う時期かも知れない。トレンド言葉で言えば、
「自分を褒めてあげたい」。誰も褒めてくれないものね〜。イジイジと自分の傷を自分で舐めて治す。これ、いつの世も
心のケアとしてやらねばならないメンテナンス。ここに、最新も高度の技術もありません。
「自分のことは自分で」 人に「頼りたくも有り、頼りたくもなし。」
結局、、最も解らないのは「自分自身」 他人は自分を映す鏡なんて言われ方をするが、その通りでしょう。
友だち関係なんてものも、自分の好き嫌いで集まった関係。要は自分の好都合の打算が大きい訳で、常に「先々のた
めの深層」がある。 まあ、お互いがそう思っているわけだから、友達という言葉を傷付けるけど、純真な互助関係と言
えば、こちらが似合っている。

そもそもが、好きと嫌いで選択した関係。偏りは有る。
食育としての「偏食もいけない」が、人を好き嫌いすることは、「いつまでも自分が解らない」成長しないを過ごすことだ。
好き嫌いは、強烈な主観で、自己主張だから、バランス感覚は働かない。自己愛がそのままダイレクトに出る行動なの
である。
「好き」には自分の目標、理想、都合を叶える要素があるし、「嫌い」は何を隠そう、自分の嫌いな部分の排除、そして
自分は正しい、の思い込み行動なのである。 この理屈を判って、好きと嫌いは、ほんの少し、塩加減程度にしたいも
のである。

人間である以上、好き嫌いは言う。言うなとは言わない。だが裏側を知ってしまうと自己嫌悪に陥るほど、未熟で幼稚
な自分の心を映し出す。そんな行為だ。
どんな人も、好き嫌いで行動し、物事を選択し、判断し、それ自身活動の源になっている。ただ、それだけでは、自分の
現在地が見えない。
人生、マラソンと例えても、山登りと例えても、ゴールもあって現在地も有る。なければ漂流者だ。具体的なマラソンや
山登りに例を取れば、その必要も理解できるであろうが、人間、自分自身には甘いと言うか?解らないと言うか?
そう、一番難解なのは、「自分の心」これは、結局、人を介して自分を知るしかない。私も含めて、多くの人は、「根拠も
なしに、自分は正しい」と思っている。「立場が悪くなれば、あちこちから言い訳や理屈へ理屈を持ってくる」おぞましい
限りだ。
本当に根拠も無しにだ。「自分の正しさをいう奴に良い奴はいない」 いわゆる社会の正しさは別として、人は落ち度を
侵すたびに自己防衛の正しさを振り回すもの。それも追い詰められれば追い詰められるほどに。良いこと悪いことの現
在地の忘れ果てた、あがきをする。

事、心の問題は、傷つきたくない一心も作用して、現在地を、あるいは足元を見ようとしない「逃げ」を人間皆、持ってい
るものだ。 好き嫌いは、極端に自分を表しているものだから、分析すれば「嫌な自分も好ましい自分も緯度経度も高
度も皆、見えてくる。
理性的に判断しているつもりでも、例えば、親子関係はどうだろう?可愛くて愛して余りあるを置いといて、妙に腹が立
つ事、厳密な意味でお気に入り、そうではない子。あると思う。これは、「自分の嫌な面を持つ子、好きな面を持つ子」に
よる。兄弟でもそう、気が合う兄弟とは、実は、自分等は違う面を持った兄弟で、似たもの兄弟というのは、絶えずケン
カばかりしている、ことが多いのである。
人を好きになり恋におちいる。「私たち似たもの同士」は違います。どちらかと言えば、「自分とは違う面を持った相手に
にあこがれるし、好きになるもの」
職場の、あるいは学校のイジメもそう、出あった瞬間「相手に自分の嫌な面を見てイジメる」です。極論的に言うと「自分
で自分をイジメてる」こういう相手は、イジメの関係を乗り越えると「かえって無二の親友になる」要素もあるものです。

私自身「こいつ〜!」と思う人をまず「自分に似た奴」と思うようにしている。すると反目部分を飛び越えて、早く親しくな
れる思いでいます。「自分の嫌な部分を目の当たりにしてくれて、改めさせてくれる人」大切な人と思うようにしている。
好きは、何ら問題は起こさないが、もし起こすとしたら、「気があってる」の勘違い。いわゆるツーカーになれる関係でな
いのになった気分になるとズレが生じてくる。

まあ、自分の好きと嫌いを箇条書きに書き出してみれば、「正確な自分の心」それが面倒なら、好きな人嫌いな人を上
げて御覧なさい。同様に、浮き上がってくるのは、「現状等身大の自分の心」です。 イジメたくなるのは自分の嫌な面
にくく思う心がそうさせる。蛸のように自分の足を食べて生きるが如し、の馬鹿な行為だ。

 頂上から目指すもの

チャレンジ精神は我ら?にも判るものの、王者の精神と言うものは判らない。
それは、王者と言う経験が出来る者が限られているからである。1人の王者にチャレンジャーは2人?以上O万人?O
億人かも知れない。王者になってからの精神を体験できるのは、それほどに凄いことだ。
王者と言うものは、どんな精神世界なんでしょう?。
拙者など、もう歳も歳、最後の最後まで10円の生活費を稼ぐチャレンジで終わりそうで、とても体験など出来そうもない
けど、扉か?入り口を感じるのは、この発明、創作において「無から有を生む」精神状態に近いのでは?と思えること。

岡本太郎氏が言うように「人の真似は死んでもするな」精神を尊べば、まずは孤独。最低限、これに打ち克つ強さを持
たない限り、精神は、チャレンジに留め置いて、トップに上り詰めた瞬間に、下山した方が宜しかろうと察する。
確かにトップを掴めば、人は寄り集まり賑やかさは耐えない。ただ、トップを継続することは、継続力も並大抵なことで
はない想像が出来る。それ以上にただただ広い視野が広がっても目指す風景がない。あるのは足元から見上げる視
線だけ。親、兄弟でさえ、敬意か?奉る視線しかくれない。よそよそしさの生活で目線を合わせた人間関係が皆無とな
る。目線が期待、期待が重圧、重圧が守りを呼ぶ。

だからこそ、トップを維持する人は偉大と言わざるを得ないのだろうが、「本人に生きた証たるもの」が有るや無しや?
結局、「自分にはこれしかない。と言うマインドコントロールが出来ない」と素質的に無理がくる。
歌の天才は歌以外やらせてもらえない。これを幸せと思うか?不幸と思うか?である。
こんなことを思う自分に、素質がない証拠だけれど、チャレンジャー目線や、敬意の目線、期待の目線、これらに答え
ることは、やはり神の領域か?

世の中、誰でも生まれた時からチャレンジャー。チャレンジャーはいつでも成れる。もっとも現代においてはチャレンジ
ャーを放棄する人もいるから話も濁ってしまうが、トップは、そういう育ちをさせなければ届かないし、身に付けるは、チ
ャレンジ精神ではなくて「真摯な帝王学」なのだろう。

スケールの小さい話ではあるが、出世する子供は「男女関係なくお父さん子」 お母さん子は「平均的な育ち方しかしな
い」 父親と接すると「自分の夢の不足と必要を学ぶ」 母親と接していると「あの子に負けるな、遅れるなの世間平均
値を学ぶ」視点の差が大きい。
「母親から育っても、大出世する子は居るぞ」 おっしゃるとおりですが、その場合、母親が父親の役目を果たした結果
が見えてきますよ。
「今の子供に夢がない」それは、親父が「無い」意味です。出世しない親父でも「どうすれば出世できるか?」は知ってい
るものですよ。お母さん。 言い訳でなくて、少なくとも「学校成績で出世は出来ない」親父達は全員知ってます。
親父をないがしろ虐げる家庭で出世小僧は輩出出来ないんだぞ! どんな親父でも「帝王学」は本質的に持っているも
のです。・・・ 母親軍団の批判がこわ〜い。 小さい話ままにお終い、にしとこ〜。

 遵守志向の日本人

歴史を積み重ねる、は心の広さに反映するのかも知れない。
ルールというものに歴史を積み重ねているのは、やはりヨーロッパ文化であり、ヨーロッパ人であろう。
東洋人の、悟りとして真理探究する傾向とはちょっと趣が違うように思う。
どちらがいい?ではなくて、現代のこの経済システムの中で言うなら、ヨーロッパ人のルール感覚が先端感覚であろう
し、学ぶと共に研鑽実践していかねばならない。

近代国家のなった日本。日本文化の秀逸は秀逸として、でも日本人の最も良いところは吸収力と活用力。この力を持
って近代国家の仲間入りを果たしたけれど、これは眼に見える物事に対してであって、文化的心根は、そう簡単には切
り替らない。その一つが「ルール感覚」
この民主社会に必要な「ルール感覚」いまだ持ち続ける日本人の「ルール感覚」に違和感とズレを思うのは私だけでは
ないと思う。

ルール社会を創っては壊れ、壊し、また作り直しを重ねた歴史。ただものではない、当然多くの血を流してきた血統を
引き継ぐ如くのものであろう。まあ歴史を見ても、単に土地の奪い合いや権力だけでなく、色んな戦いをしてきた連中だ
から、「平和という感覚」も日本人とはちょっと違う感じ。日本人はどうも「永遠普遍」を求めすぎなきらいがある。
日本の仁侠映画でも、法に逆らってでも儀を貫く、そのかっこよさを現しつつも「法が悪いとは言わない」
だが、あのクリント・イーストウッドの「ダーティハリー」でハリーに言わせています。
「法律だから仕方が無いんだ!」に、ハリーは
「じゃあ、その法律が間違っているんだ」
映画のストーリーとは言え、きっぱり言っちゃてるんですね〜。これが「感覚、違うぞ〜」のキッカケでした。

そう考えてみると、ヨーロッパ発祥のスポーツルール変わること、変わること!今のバスケットルールは私の子供の頃と
は相当に違っているし、バレーボールしかり、サッカーしかり、徐々に変わり、急速に変わり、現状に合致の志がある。
象徴的なのは、F1レース、毎年毎年。レギュレーションを変えていくことが定例になり、結果として「進化」をかもし出し
ている。
前頁でも、法やルールは「人間社会の道具である」と言いました。
彼らヨーロッパ人の法の変え方を見ると、一重に「平等」の一言。その平等の目的に貢献もあろうけれど、私が注目す
のは、その道具たる法を変える事で「進化」もまた広まり、生活も変わると言うこと。
日本人は、そこまでの法を変える勇気を持っていないだろう。一般集約として、「生活を良くしたい、けどルール、法は
変えなくても良い」感覚。 これは、「工夫工面でしか事がよくならない」のあきらめ。 民主社会の自律した人の感覚で
は無いと思う。
「良い生活」を求めた時、民主のこの時代、まずもって着手することは、大道具「法ルール」進化と言う変化。
誰もが解っているんだけれど、それこそ、日本人の血がね〜、立ち止まらせるんだよな〜。
「法やルールを奉りすぎなんだよ」
憲法の改正だって、「悪法に変わることだけを心配している」  道具だもん、結果が悪かったら変えりゃあ良いんだ。
変えると言う勇気が有れば、決して悪しき方向へはいかない。  これ!理屈。
「古い」ものは古いもので残る方法と新しいに変わって生きる方法の二つしかないし、時代は常に動くことを想定すれ
ば、「新しく変えて残す」を私は選ぶ。

「新しいものを取り入れるのが上手」と言われる日本人も、全てが上手という事でもないらしい。
現代日本人がルール、法感覚と同等に扱っているものに「物事の基礎」がある。
「基礎が大事」日本だって世界各国全て、何処でも格言として残っている事でしょう。やれスポーツ、音楽、仕事、はて
は学び方、生き方まで「基礎」がある。この基礎を煩わしいとも無用とも、言うつもりは無い。
しかし我が日本においては、この「基礎大事」の取り扱いを変えなければ行けない時代になっていると言う思いはつの
る一方なのだ。
日本が発展途上国で「追いつけ追い越せ」意識で全ての分野が回転しているならそれでいい。
けれど現在の日本は、世界のリーダーとして道を切り開いてリードしていく立場にある。この立場にいる責務として基礎
に留まることは、「停滞」ややもすれば「逆行」を導く。

そもそも「基礎」と言うものは、先人の「知恵の塊」である。その先人はその時代を懸命に生きて苦悩して作り上げたの
か基礎。そして貴重なもの。そうした先人は未来の人間を「縛りつけよう」と創り上げた物ではない。
「基礎を出発点に更に発展させよ」の思いが込められていると思うのである。
「基礎と言うのは閉じ込める籠ではないのです。発展するための踏み台」なのです。
基礎だから、基礎だから、と言って遵守をしたら先人が泣きますよ。先人は「踏み台をもっとしっかりと立派にせよ」と言
いますよ。
少なくとも今の日本は、「追いつくことに精一杯ではない」トップ争いをしなければならない立場にいる。そこで生きる
我々は、「基礎そのものを進化させる責任があるんです」

例えば野球。昔の基礎を押し付け遵守させたら、現代スピード野球に勝てない。サッカーは?スピードサッカーが「オー
バヘッド」も「ノールックパス」を生んだ。バスケットは?創造あふれたトリッキーパス、シュートが出来なければ勝てない
でしょう?
我が日本スポーツにおいて実例がある。かつてオリンピックでバレーボールが金メダルを獲得した時は、常識を覆した
「回転レシーブ」という武器の発明があった。モントリオールでは、「Aクイック、Bクイック、Cクイック、時間差攻撃」とい
う武器の発明で成し遂げた。現代において「回転レシーブ〜時間差攻撃」は単に1つの基礎でしか無いのです。
「頂上に立つ、金メダルを取る」と言うことは、「独自、独創を持っていないとダメだ」と言うことです。
「根性、猛練習」も独自と言えばそうだけど、そこから「新しい発想を生まない限り根性も猛練習もうたかた」です。
「基礎は基礎」 そこから何を産み出すか?が大切なのです。産む出す苦悩に対して「基礎に返れ!」が有るんです。

基礎を守れているから優秀ではないんです。それは「せいぜい上手の部類」 そして、ややもすれば「遅れを取る」こと
です。「温故知新」で言えば「温故」。「知新」を導かねば、基礎も先人も泣きますよ。
現代日本で生きようとすれば、基礎を学んだだけでは日の目を見られません。基礎から飛翔する能力が最低限必要な
のです。 基礎から飛び出せない者を「基礎馬鹿」って言うんです。
世の中には、「人に教しえてもらう事が、とにかく好きな連中がいます。」 教えてもらうこと自身、知識欲からは離れて
いますから、それは自己満足。
まず自ら知ろうと行動して、欲求の中で教わらないと、ただの「知ってる」辞書的知識になってしまうものです。
自分の進化、技術の進化、全ての進化には基礎の進化を伴なうものです。
基礎の進化の無いものは「ものまね」といいます。

 団塊世代よ!かく語れ!

団塊世代、急な引き合いに出されて困惑か?誇らしく思うのか?当事者としては素直になれない。素直になれない年
齢と定年リタイアが控える断崖絶壁の境遇だ。断崖絶壁に立つ天邪鬼。自分が天邪鬼だから感じているのか?
ここまでたどり着いた時代経過を遡ると、団塊世代というより、天邪鬼世代が正しい気もする。
個人、流行、平和に一早く反応し、全体モラルもあり、個人モラルもあり、それぞれ選択して考えて生活を作って、リタイ
ア間際に至って振り返れば、皆々、不均一で格差ある生活をしている。極々当り前であるが、当時はもっと良い未来を
描き、それほど描いた通りではないし、むしろ平凡と思った生活に落ち付いてしまった。
「これからの時代」「昔とは違う」と主張してきた時代を迎えることが出来たのだろうか?

世代の面々がリタイヤ及び間際を迎えて、いわゆる戦士からの勇退的立場に変わる訳ですが、すなわちこれは自由に
思いを吐露できる立場に変わると言う事でもあります。
この思いで団塊世代のHPやエッセイ、コラム、投書の読ませていただいても、「切れていな〜い」何処かしら、遠慮が
有る様に思えて成らないのです。
私が、今、好き勝手に思いついたままを書く。これはサラリーマンや商い、下請け業者の立場では「言いたい事が言え
ない」の思いが強くあったのと、このままサラリーマンを続けると「主張を持ち続けられない」の危機を感じてのこと。
どうでしょう?同じ世代として「言えなかった一言」を言って欲しいと思うです。

「我々は、自由に育って自由社会に溶け込んで生きてきた。」そう自覚する一方で、社会に入信し、言いたい事も抑えて
生きてきた事も思い起こす。
そう、会社組織とか、社会組織とか、タダ年上を敬え、先輩を立てろ。の上下関係の厳しい。軍隊組織教育を色濃く受
けてきている。それもまた団塊世代。「良いとか悪いとか」は言うつもりは無い。現実に、戦後、高度経済成長下に一団
塊となって機敏に働いて現在の日本を作ってきた。これは誇らしいことだ。
だが我々の汗水が、全ての面で良き物ばかりとも言えないのは、物事の裏表に殉じてある。団塊世代の汗水を、企業
はただただ利益追求理論に向ける、そして不信不正の営業と化し、子供と言えば、自由を蝕むことでしか、物事の価値
を見出さない。誇らしい自負がある反面、負の遺産も有るのである。

私が、サラリーマンからこうした立場を望んだのも、組織の中で言いたいことが言えない現実と、言いたいことを言える
時期も無いと思ったからです。
例えば、新聞をにぎわす「天下り」「談合」にしても、自分の会社が大いに遣っていながら「意見は出せますか?」身近か
な事で「上司の間違いや社長の間違いを正せますか?」 目標が成長一つの時は、それでも違和感がなかったけれ
ど、こう、多様な価値観が氾濫すると、上下関係を無くして正し合わなければなりません。現実問題として会社は時代の
先端を走っても、会社幹部は1時代後れた箇所を走っている。ね!
「無礼講、無礼講と乗ってしまって明朝、首!」なんてね、まかり通る。むしろ我々が新入社員の頃よりも、反時代的に
上下関係に気を使う雰囲気になっている気がしてならない。

私は組織から抜け出して「好き勝手を言っている」が、団塊世代の同胞よ、会社組織を離れた今、世の為に、自分が描
く社会のために、「今こそ、かく語れ!」 貴方達には、その資格も義由も有しているし、一番に世を変える一言を持って
いるはずだ。
20歳前後で自由かつ軍隊式平均教育を受けてきた我々だ。次ぎの社会も教育も団塊世代の回顧録がスタートにな
る。しなければならない。
若い時から受け続けてきた組織教育のトラウマから飛び出た、今こそ!
味わってきた社会悪や、不合理を告発してこそ、子供たちに残す社会でしょう? 環境や、国の借金、福祉年金の問題
よりもよっぽど大事、と考えるのは、たったの一人かなあ?  だって社会悪や組織不合理が是正できたら、全面解決
じゃない。

 賢こくなる、引き換えに

「何かを得れば、何かを失う」と言う。日本人が貧乏時代に教養が欲しい、学歴が欲しいと願って今日の子供たちに思
いがあって、実現もしている。 「はて?はて?」思いは何も、「自分の子供だけ良ければ良い」エゴの心で邁進した訳で
はなかったと思う。
ただ、結果がこの社会だ、と思う時、親の願い、社会の願いとは裏腹に、人々の関わり方と言うものは「より頭脳的、巧
妙的になって、新たな物陰に燻り世界を作ってしまった」気がしてならない。
犯罪にしろ、交渉ごと、運営ごと、どこかの物陰に嘘を隠している。事が発覚しても、「謝らない」「開き直る」「隠す」「見
解の相違で正当化する」  もう、うんざりですよね。

高学歴社会になって、皆々「教養の高い良い人だらけの社会」と思いきや、実態はとんでもない。官僚に始まり末端の
社会まで、「賢いの勘違い」の多き事に情けなくなりますね。 ストレートな正統賢者がいなくって、教育がそうなのか?
競争社会がそうさせるのか?「賢いも、ずる賢い」も同等に扱われる有様。「ずる賢い」を自慢する者に至っては、人糞
を見せられる思いすらする。 「賢いとずる賢い」は天と地の差ですよね。
おそらくは、この国の教育システムの中で「教わる事のない素養」なのでしょう。
「そんな、甘い、人の良いことを言っていると、負け組だよ」そんな声も聞こえてきそうですが、起る事件のズルに腹を立
て憤りを覚え、自分の生活では、平素行っていたとしたら、自分が解らない中毒患者でしょう?
ずる賢いはあくまでアウトロー。決して正統化してはいけないんです。これは悪魔との取引です。
正統化した時から、「馬鹿、愚か」が育ってしまうんです。

昔、母親に「勉強した事は使える様にしておくものだ」「使えない知識はバイ菌と一緒」と言われた事がある。使うと言う
シュミレーションが大切だ、と言うわけである。学者は別として、我らにとってそれほどの知力が必要なのか?必要な時
に勉強して十分ではないか? 思うこの頃である。
思えば、今時、核爆弾や、記憶に新しい「化学兵器」など多少の勉強と資金があったら誰にでも「造れる時代」なので
す。皆さんも私も「使うつもりが無いから勉強もしない」でしょう?「必要が無い」からもそうですが大切なのは、「それほ
ど高度な知識を持っているし、知識を習得する学習力を持っている」事ですし、「良い事か?悪い事か?」知識に力を
感じていないのも現代人です。
我々が持っている知識は、「知識、技術の粋を集めて造られた車と一緒。」「使い方次第で人々に役立つものでもある
し、凶器になる、両面を持ったもの」なのです。

お解りのように、現代は「教養知識の、良いドライバー教育がなされていない、置き去りにされた教育」なのです。
知識を習得する、また使いこなす、素養が無い人間にまで教育の場が与えられている社会でありながら、基本的な勉
学素養を問題にもしていない。
いわば、せっかく積み上げた知識の「暴走族ドライバー」の氾濫と言ったところ。目立つ現代を残念に思います。
昔、昔、「教育が行く届けば、犯罪が減る」なんて言う人もいたし、貧困も減るなんて事も言われた。現実は、さにあら
ず、組織構造が変わらないのだから有りえないです。野球は何処まで歴史を積んでも1人の監督と9人でゲームが出
来るもの。現実に当てはめれば、昔のホームレスは無学な他人だったかもしれないが、今のホームレスは大卒もいる
と言う事です。教育を受けるなんてことは、その程度の価値なんです。
そんな卒業証書よりも、自分の直面した問題に対決して切り開く「使える学問を身に着ける」のが現代から未来流であ
ろう。

インターネットの中に居ても「知能犯ばかりで気の休まる時が無い」こんな事に能力を使い切るのも「非効率」の象徴と
言うべきところ。ずる賢くセコセコ働くゴキブリが多くなった世を根本変革する社会組織論から創造する人間が一人とし
て出てこない。「卒業証書目当ての勉学では出てきようがないわな〜」
純真に「必要学問」「活用学問」イマージュクリエーターをプロシードしないとダメだね。学問も出世の道具として見込ま
れたら、そりゃあ不純そのものだ!
テレビを観れば「重箱の隅をつつく教養人?」「教養人なら大系や夢をかく語れ!」

 知識とは爆弾である

誰も指摘しない事を書こう、などと意識過剰になってインパクトあるタイトルを掲げたわけでは有りません。
これは本来の道理で有り、真理です。知識教養の諸刃の刃、裏表な合わせ持つ力を、改めて言ったに過ぎません。1
個の人間として知識教養をつけても、人間社会として知識教養をつけても、これは変わることは有りません。火を扱う
猿となって、知識を身につける人間となって歴史の歩みと共に「爆弾の破壊力は増している」
物事の「裏側を考えなくても良い」のは「世の中が善意で動いている証拠だから」今は良しとしても、いつも原点回帰の
頭脳を持たないと「恐竜絶滅」を人間が再び行う事となるでしょう。

現実を見ても、人類は、地球を何度も消滅させる事の出来る「核爆弾を所有して」必要最低限(地球一個分)の個数に
さえ歯止めが掛けられない。これを知識に振り回されていると言わずしてなんと言いましょう?
「核爆弾を造る頭脳で、地球破壊10個分の核爆弾、足し算引き算の出来ない頭脳。」
これが人間の実態。人間社会の繁栄をもたらしたのは「積み重ねた知識」
同時に、「積み重ねた知識」が風船のように膨らみ続け「破裂する危険の存在」と両輪になっていることを忘れてはなら
ない。

やれ教育だ、学歴だ、教養だ、向上心だ、スキルアップだ、社会の善行のように薦められるが、果たしてそうなの?
我々個人が身に着けようとする学問や教養も、「変わりのない爆弾」である事を解っているのだろうか?
確かに、学問を教養を持って、しかも高いレベルを目指す事は、自分自身のためであり、社会に貢献できる事です。し
かしながら、そもそも知識の世界と言うのは「迷宮」「混沌」であることを忘れてはならない。
つまり、これを解らないと「迷子になったり、ご操作をしてしまう危険が伴なっている」と言う事。
今、教育問題が色々な側面から取りざたされていますが、ただレベルを上げればよいと言うものでは無いと思うので
す。

「知識を身に着ける」に何の依存は有りません。
ただ、知識を使いこなす段階を考慮すれば、その人の素養、理想、信念、人間性と共に身に付けないと、他人を傷つ
ける爆弾にしたり、自爆爆弾を持ってしまうことと成るのです。
高度な知識は、高い人間性に扱われて、世の為人の為になる。

知識の世界は「迷宮」と言いましたが、「人間の生善説、生悪説」こうした場合に、良いとか悪いとかではなくて、また正
しいとか間違いだとかで無く、「自分は生善説で、知識を使って生きていく」これを信念にする。
ある人は「生悪説で知識を使って社会貢献する」でも構いません。
大事な事は、信念もなしに人間性もなしに「知識を使われたら爆弾以外何者でもない」と言う事。

記憶に新しい「9・11」高度な叡智が爆弾になりました。社会欄の事件はどうだ?叡智を逆手に取った犯罪を見るたび
「なぜ?」と憤るのは、どなたも一緒でしょう?
個人の心の病を増やしているのも、「多様な知識を交通整理が出来ない迷子」それが「うつ病」 信念と言う開き直りと
共に成長していたら、避けられる病気です。
一言で言うなら、「単に教養を身に付ける行為は、単に迷宮に送り込む行為」 本人の為にも社会の為にもならない。
「心の病気は、頭のいい人しかならない」
ここに、現代、欠けている物がある。

 個性を育む教育

全くこの国は、言葉遊びが好きで、それが行き過ぎて言葉に遊ばれている感が否めない。
日本語の繊細を上っ面で使いこなす事で、優劣を競おうとする。学識が高ければ高いほど、この巧みさを「明晰」と思っ
ているから厄介だ。 物事の深さを追求する為の日本語構造を逆手にとる。これでは、優秀な日本語を創り上げてき
た、ご先祖様に全く持って申し訳ない事だ。

教育が問題視されれば、あちらこちらから、耳障りの良い言葉や、先進国の手法を間借りして対面を保つ。「自分で考
えた事ってないのか!」  
この事を、見るに付け「日本の教育はおかしい?」 そうテレビに出て物言う「貴方達や身体を動かそうとしないお役人
達」  「あなた方を育てた教育が間違っているのであって、暴走する若者の教育ではないんだよ!」

「教育改革改革どうの」と言ったって、世の中全体が、「進級、進学、一流校、一流企業、上流生活」の「目的」流れを作
って産業を生んで邁進する以上、変わり様がないではないか? 教育改革を言う親が、子に「目指せ!目指せ!」とい
って、「目標」に向け鞭打つ。 他人の他族と自分の家族に格差を持って話すこと自体、非教育的だ!

教育と学習の分離
競争教育をするなら、本来、年齢など関係なしに、学びたい時に学べる、と言う受け皿なしに個性教育は無い。

  宇宙に彷徨う遺伝子

私は論理物理学のような思考が好きだ。
お金も何も掛からない、極めて単純容易、好奇心と向学と妄想でできる哲学と同様の頭脳作業だ。貧乏から身を立て
るには、この分野が一番良いのかもしれない。

その論理物理学の思考も何処が面白いか?と言えば、「道筋の発見」に尽きる。私がいつも言う「知る過ぎると周りが
壁だらけになる」論理から理論を一本道としてしまうと結局、行き詰って「何でも知っている先生」で終わってしまうので
す。
ところが、私なんぞは、何も知らない、あちらこちらのツマミ食い知識しかない、その代わりには垣根が無い。何を言っ
てるのか? つまり妄想力が学者先生よりも有るって事。その妄想力こそが、その学者先生に一矢報いる、と言います
か対等になれる力だと思っているんです。  私にとって、だから一発逆転のパワーと夢、ここのロマンがエネルギー産
んでいるような気がします。
気がします、と言うのは、自分で作ってきた性分ではなくて生来授かった発想(傾向)性分で、自分では、どうにも止まら
ない遺伝子プログラムと自認している次第。

思考と言うのは、知識の積み重ねが無いと直ぐに幕引きになってしまうから、沢山の習得勉強をする。ところが習得勉
強をすると自由な発想の壁を作る。小学3年生で思っていた事です。ある意味、矛盾を持った勉学の矛盾回避法は、
平等意識です。
つまり、「好き嫌いでモノを見ない」で、私の場合は「(好き)でモノをみる」を心掛けて解決しているつもりです。これも小
学3年生時の思考です。

妄想力、一般的には病的意味に使われることの多い言葉ですが、私にとってはアルゴリズム開発に取って欠かせない
パワーとの認識です。(独りよがりと聞いて下さい)

さて、長い前置きを終えて、先程出た、遺伝子について考えてきた事を吐露します。遺伝子解明からDNA解析、解明。
高度な技術は次々と解析解明を果たして生きます。
しかし、どんなにプログラムを解析出来ても、実態が解らない。このプログラムは、設計図通りの家を、大工さんは作ら
ないプログラムなんですね。生き抜いてきた経験が封じ込められた超高度なプログラムだと思います。

得意の妄想で絡めれば、どうしてもシステム生命体とドライブする生命幽体を仮に認めた方が展開が進みます。
形のある生命体と形のない生命体。私は今、形ある生命体だから、それしか解りようがないが、ただ遺伝子情報を見
ると、ただただ「ひたすらに生きるプログラム」と成っている。
と言う事は、形のない生命体と言うのは「正常地ではないという事なのか?」です。

男と女が出来、二つの性に分かれたのと似たプロセスが有るのか?どうか?結果から考察すれば、理由があるのでし
ょう。その理由とは、地球上には無いと妄想します。
地球上の生命DNAには、地球上で作られたDNAもあるでしょうが、このDNAには生命が住み着いた星、そして何度も
星消滅を体験し、宇宙を彷徨って来たプログラムがあるとしか考えられないのです。
なぜならば、地球上でのみ育った生命ならば、例えば、季節外れの寒波で花が死ぬように、地球自身の気まぐれに勉
強体験する前に死滅してしまう、可能性が頗る高い訳です。ここに、村の長老の様に、身体が衰えても体験的知恵が
救う仕組みになっている。 困難な場面で右往左往しつつも、神が描いたような結果に向って事は進む。

生命にとって条件の揃った地球とは言え、誕生から幾多の絶望的状況もあった筈で、それをことごとく踏破してきたの
は、「現場の知恵ではない」と考えるのが成り行き。太陽の寿命が約50億年、しかしこの銀河系が、他所の銀河系と衝
突して消滅するまで約30億年、あと30億年を前に、人間は何をしているか?
それは、生命存続にエコロジーも大事でしょう。言いたい事は、人間は、高度進化して自然に、宇宙に好奇心を持ち、
飛び出そうとしている事実です。損得利益ではない好奇心事態がプログラムと思いませんか?

少なくとも、あと1億年を待たずに人間(地球生命)は宇宙を旅して彷徨うでしょう。それもこれも、「ただ生きる為」ここに
遺伝子DNAの「ただなんとしても生きる為」の意志の共有を見ル事が出来ます。
さて、人間はどのように宇宙を彷徨うのか?人間の身体は地球専用品だから、この身体では、かえって邪魔になる。

そもそも、地球に辿り着いた生命とはどんな形なのか?(ロマンですね〜、手塚治になった気分で)
思うに、DNAで冬眠移動と、幽体(意志)生命と言う、形ではなかろうか?です。宇宙間を移動するのに、理想な形が見
え出しているのではないでしょうか。

こうした何億光年の踏破ですから、私個人がこの身体で永遠を命を作って行くのも方法ではあるが、宇宙の環境は
我々の身体も生命も変えてしまうでしょう。でも、DNA&幽体も単に一つの方法、まだまだ違う方法もあるかも知れな
い、のです。仮に宇宙船で辿り着いたにしても、結果として地球環境に淘汰され、、同じ姿でいるでしょう。  様々な生
命が地球上に現存している様にです。絶滅していく生物は、プログラムが足りないのかも知れませんね。

どちらにしても生命を宇宙視点から考える時代です。皆、妄想しましょう。

このあくなき生命拡大意志は、どういう意味があるのでしょうね。まるで宇宙が膨張している、イコール 生命が膨張し
ているように思えてならないのですが。

地球上にある宗教の殆んどに、生命体と意志(幽体)思想がある事も、一つにはDNAが発想を導いている、気もしま
す。とりわけ、宇宙観で言うなら、仏教的思考はキッカケ入門に有利だと思いますね。
「石ころにも魂(幽体)が宿る」まんざら本当のような気もしてきます。遺伝子解明、宇宙解明、がんばれ!東洋人。

宇宙を彷徨う為の姿から生命を考えるのも面白い。30億年後の生命はどの形を選ぶのだろうか? その前に、幽体
存在と何処で生態と融合するのか?妄想は続く。DNAがナノ世界なら幽体もナノなんでしょうか?


 人よ、かく語れ!

人は生物学的に生きると、考えを生きる、2面がある。
以前にも 「精神をが死んだままで生きていると言えるか?」 三島由紀夫の言葉に影響され、人生後半のこの年まで
引き継いでいる気がする昨今ですが、まあ、三つ子の魂、死ぬまで、と言う事なのでしょうか?
自分に子供が居たなら、自分を引き継いで生きてくれる 「形而上の安心がある」と思うのですが、 「はて?」
草木がいろいろ地中から栄養をもらい、陽や風、雨の恵みを得て、苛酷な自然環境に負けずに生きていく。
こんな遺伝子だけで生きて行くだけでは、人が生きて行く事は変化が激しく間に合わない生き方となる。


1秒でも逢った人の考えを吸収しながら生きている。

 核廃絶運動を核根絶にするには

不幸にも日本人ほど核と接近した民族はいないのである。当然、核に対する思いも独特と言って良い感情がある。
それを言葉で悲惨、残酷、地獄模様と尽くしたって納まる場所をを持たない。
ただ、さすがに感情の沸点する思いだけでは、世界に伝わらないし後世にも形として残せない。

私だって言いたい事は沢山ある。
ユダヤ虐殺のナチスを非難して、原爆の惨状をアメリカは肯定するのか? 日本軍が行った虐殺、毒ガス、人体実
験の後ろめたさを持つ日本政府の不断の姿勢。言い出したらこれもまた、納まるところを知らない。

結局、「運動」と言う凧揚げに頼らざるを得ない民意。気持ちも理屈もメディア時代に伝心しないこのストレスは、懐か
しい神経衰弱という国家の病気か?
そもそも正義を貫くと言うのは、損得勘定が入ってはいけない事なのに皆々、その覚悟が無い。

今世界に降って沸いた核廃絶運動は、どれだけの本気を束ねているのだろうか? 疑問も疑心に近い。
「やった側の論理とやられた側の論理は何処まで行ってもレールの如く交わることは無いものです。
損得勘定する国がある限り、話し合い廃絶なんか通用する訳もなし、誰が「猫に鈴を着けるか?」にらみ合いの時間
が延々と続くだけで、我らはまたストレスに埋まって身動きが取れなくなる。

核は、核廃絶を言うより、「核の無能化によってのみ根絶できる」が私の持論である。
核を不発にするとか使っても防御できる、とかの話ではなく、損得で勘定で「核よりも効率のよい武器の出現を果た
せば」良く。 「使おうにも使えない兵器、脅しにもならない」事を解らせれば良いだけ。
核を古い過去の遺物兵器にしてしまえば、自然淘汰で消えていく。
そう、これからガソリンエンジン車が電気自動車に変るように、だ。 その最右翼にいるのが「日本の科学技術と実
現力」と、それと被爆国の思いがその開発力の相乗の効果を実現するだろうと思うわけだ。

何か?腹案があるのか?それは武器である以上、有って言えないですが、「これから以降は、機械(ロボット)戦争で
あること、大型兵器時代ではなく小有効率兵器が大型を無能化する。 具体的に言えず歯がゆいが、「蟻が堤防を
破壊するが如く」と言っておこう。 大を壊すのは小、小を踏み潰すのは大。核は小に弱いのである。

ん?これもある種、「手塚治虫」遺産かな?手塚治虫の子供たちよ。知恵を搾り出そうよ。

とにかく行政屋さんよ、政治家さんよ、頭が良いんでしょう?自分で考えろよ!
人の話ばかり聞いて「良い人」になっていたら、身動き出来ないよ。決断と言うのは一つを得て一つを捨てること。
孤高の志しで考え尽くさないと人は付いて来ないよ。
本当に核を無くそうと思ったら、方法は幾らでも創出できるって!








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創作・発明 はぐれ走想 4
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