Repeat





第三部『Q』





8.君と暮らせたら


「アメリカですか?」
「そ。往復含めて一週間の短期だけどね。渉外部のお供って感じ」

 ふたりの衝突、そしてその後のユゲジの“お詫び”の更に翌週のこと。アスカとユゲジは、いつの間にか習慣のようになった土曜日のランチを共にしていた。ユゲジを前にして、アスカは来週からの出張予定を伝える。
「そうですか。大変ですね」
「何でもやるわよ、わたしが出来ることならね」
 さらりとそう言ったアスカに、ユゲジは頬を緩める。
「式波部長らしいです。頑張ってください」
「ありがと。ま、本来の役割じゃないんだけどね。でも、元エヴァパイロットと言う肩書は色々と役に立つのよ。使えるものなら何でも使ってやるわ」
 ニヤッと口元を歪ませたアスカにユゲジは顔を綻ばせて、フッと小さく息を吐く。その顔に頷いたアスカは、一息置いてから、ポツリと呟いた。

「わたしの他には、もう誰もいないしね」

 アスカは浮かぶ想いをそこに滲ませて、軽く目を伏せる。ユゲジの瞳は微かに揺れた。
 運ばれてきたパスタをフォークでクルクルと巻きながら、アスカはユゲジをチラッと見て、何の気もないかのような軽い口調で訊いた。
「ねぇ、帰るのはいつなの?」
「え?」
 唐突なアスカの問いに、ユゲジは一瞬、戸惑いを顔に浮かべた。アスカはその蒼い眼を少しだけ呆れた形に変えて、ユゲジの顔をじっと見る。
「帰らなくちゃいけないって言ってたじゃない。理由は訊かないけど、時期くらい訊いてもいいわよね?」
「あ、そうですね……」
 ユゲジは言葉を濁した。自分を真っ直ぐに見るアスカに後ろめたさを感じたかのように、その視線はアスカから外れ、テーブルの上の食べ掛けのドリアに移った。ユゲジは少し考える様子を見せてから、ボソボソと、迷いを交えた口調で答える。
「本当はそろそろって考えていたんですけど、でも、もう少し居ようと思っています」
「そうなの?」
 ユゲジの答えに、アスカは少しばかり瞼をパチパチとさせた。そのアスカの顔に、ユゲジの声のトーンは少し上がる。
「ええ、なんだか楽しいんです。みんな、僕の料理を喜んでくれているみたいですし。でも、ちゃんと時期を決めないとダメですよね」
「ふーん」
 喜びを滲ませて顔を上げたユゲジに、アスカは曖昧な返事をする。
「確かに、あなたの料理が食べられなくなるのは、ちょっと残念ね」
 そしてアスカは視線をユゲジから外し、窓の外を眺めた。そのままポソリと、独り言のように口に出す。

「でもそれなら、わたしの方が先かもね」
「え、どういうことですか?」

 アスカのその言葉に、ユゲジはポカンと口を開けた。そしてアスカの顔を見返し、そっぽを向くようなアスカの顔を覗き込むようにする。そのユゲジの視線を受け止めるように、アスカは顔をユゲジに向けた。そして彼女の言葉を求めているユゲジの瞳を、真っ直ぐに見る。

「わたし、ドイツに帰るのよ」
「え……」

 ユゲジは、顔色と共に言葉を失った。

     ◇

 話は数日前のことになる。時刻は二十時。ヴィレの会議室で一人、アスカはその相手を待っていた。ふと顔を上げたところで、会議室のドアが開く。
「お待たせ。悪いわね、待たせて」
「ううん、二十時ジャスト。流石ね、本部長」
 ドアを開けて入ってきたのは、ヴィレ本部長の赤木リツコだった。彼女はそのまま、アスカの対面に座る。
「悪いわね、忙しいところを」
 アスカは形ばかりの会釈をして、リツコの顔を見た。
「この前の話?」
 リツコの察しの良さは流石だった。アスカは黙って頷いて、そのままリツコを真っ直ぐに見た。一瞬アスカは、息を止めるかのように、その口元をギュッと結んだ。そして、リツコの眼に自分の視線をぶつけて、その決意を口に出す。

「わたし、一度大学に戻ろうと思う」
「大学?」

 リツコは目を丸くして、組んだつま先をピクリと震わせた。そのままアスカの顔を正面から見射るようにする。それはアスカの決意を確かめるかのようだった。
「うん。わたし、医学を勉強したい。独学でやってはいるけれど、やっぱり限界がある。目標として、医師免許も取りたいしね。それにはもう一度、大学に行くしかないと思う」
 アスカは秘めた想いを真っ直ぐに、揺るぎない視線でリツコに向けた。
「……そう。正直、アスカに抜けられるのは痛いけど、でも了解。好きにするといいわ」
 リツコは即答した。全く躊躇することなく、アスカの決意を再確認することもなかった。まるで予定調和のことのようだった。その眼を倍ほどにも見開いたアスカは、その戸惑いをそのまま口に出す。
「いいの?」
「いいも何も、あなたの人生でしょ。私がとやかく言うことじゃないわ。あなたが抜けた穴は私が考えます。大丈夫。ヴィレはそれほど脆弱な組織じゃないわ」
 リツコの応えにも、アスカは口をポカンと開けたままだった。そのまま次のアクションを探すかのように、アスカは焦点の合わない眼でリツコを見る。リツコは黙って、アスカの視線を受けたままだ。

 ややあって、アスカはフゥと息を吐いた。強張った肩の力を抜き、背中を椅子にトンと預ける。一旦目線を切ったアスカは、リツコをもう一度、今度はすっかり力の抜けた眼で見て言った。
「……どうして医学を勉強したいのかも訊かないのね」
「訊いて欲しいの?」
 リツコは今度も即答した。アスカは一瞬の驚きを顔に浮かべた後で、思わず苦笑する。
「そうね、訊いて欲しかったのかも。でもいいわ。なんだかスッキリしちゃったから」
 そのアスカの様子を見て、リツコは初めて目尻にしわを寄せた。
「そう。話したくなったら言いなさい。聞くことだけなら出来るから」
「そうね。ありがと、リツコ」
 
「で、いつから?」
「これから編入の手続きをするんだけど、うまく受理されたら九月、実際に大学に行くのは十月からね。ちゃんと受理されたら、だけど」
 アスカは両肩をすくめて、力の抜けた笑みを浮かべた。リツコは表情を変えぬままで応える。
「アスカの経歴なら大丈夫でしょ。ドイツに行くのね?」
「うん、そうするつもり。一応母国だからね。大学もあっちだったから、母校なら何かと都合がいいし」
 アスカはリツコ向かってしっかりと頷く。リツコもまた、アスカに頷き返した。
「そう。頑張ってね。アスカなら大丈夫よ」
「ありがと。三年で帰ってくるつもりだから、待ってて」
「了解。楽しみにしているわ」
 そう言って、リツコは席を立つ。そして思い出したかのように、一言付け加えた。
「そうそう。SPは付けさせてもらうわよ。それだけが条件」
「ま、仕方ないわね。わたしの我が儘だし、逆に申し訳ないわね」
 アスカは首をすくめて、苦笑いを浮かべた。リツコはそのアスカの顔を見返し、頬を緩める。
「世界でただ一人残されたエヴァパイロットだもの。大切にしないとね」

     ◇

 リツコとの会話と思い出しながら、言葉を見失ったようなユゲジの表情を、アスカはじっと見つめた。リツコの答えを聞いた時のアスカのように、彼の眼はまん丸に見開かれている。その様子を認めたアスカは、彼の顔を見つめたままで続けた。
「大学に戻って、勉強し直すの。だからヴィレも九月までね」
 暫し呆然としていたユゲジは、はたと気づいたように、ポソリと口を開く。
「九月、ですか」
「そうね、引っ越しとかあるし、色々と準備もあるから、九月頭には向こうに行こうと思ってる」
「そうですか。あと二ヶ月、ですか……」
 ユゲジは俯いて、そのまま黙り込んだ。

 軽くジャズが流れるカフェの雑踏の中、ふたりは会話もなく、何気ないその日常を楽しむように――少なくとも周囲からはそのように見えていた。アスカはフォークを手にしながら、チラリとユゲジの様子を窺う。ユゲジの顔が上がり、アスカと視線が交わった。
「大学で、何をするんですか?」
 ユゲジはアスカから視線を逸らさずに訊いた。
「医学を勉強するの」
 アスカはユゲジの眼を見ながら即答した。アスカの眼に、ユゲジの瞳の揺らぎが映る。
「独学じゃ限界があるし、ちゃんと医師免許も取りたいのよ」
 自分の想いは秘めたままに、アスカはサラリと答えた。少し落ち着いたのか、ユゲジは感心したような表情を浮かべる。
「そうですか。そう言えば、初めてお会いした時、医学書を買ってましたよね」
 アスカは眼をパチリと瞬かせ、そのままユゲジの顔を見返した。
「よく憶えてるわね。そうね、本で知識は得られるけど、それは単なる知識でしかないのよ。だから、ちゃんと勉強したいの」
 アスカは力を込めて頷いて、その決意を滲ませた。
 そのアスカの顔を眩しいもののように見つめていたユゲジは、ようやく気持ちが少し落ち着いたのか、再び顔をアスカに向けて問い掛けた。

「でも、どうして医学なんですか?」
「訊きたい?」

 アスカはクルリと眼の色を変えて、口元を僅かに緩ませる。
「二回目ね。あなたがわたしのことを訊いたのって」
「え……」
 二ッと和ませた顔を向けたアスカに、ユゲジは戸惑いを見せる。少しばかり弾んだ声を、アスカはユゲジに掛けた。
「初めて話をしたときに一回。そして今回が二回目。いつもわたしが一方的に話すだけだったから、なんだか新鮮な感じね」
 アスカは微かな笑みをフッとユゲジに向けた。
 アスカは軽く肩を引いて、力を抜いた。目を閉じて、ひとしきりそこに想いを巡らせてから、浮かんできたものを乗せるようにして、ユゲジに伝え始めた。

「子供の頃の話よ。わたしがドイツから日本に来てから、一方的にライバル視してた女の子がいたのね。その子はちょっと変わった子だったんだけど、わたしはとにかくその子が気に入らなかった。そして、あろうことか同じ男の子を好きになった。でもその子は、自分の恋心にも全然気づいていなかったのね。ほら、変わってたから。その子」
 アスカは幼い頃の自分たちを愛でるように、そして何処か楽しそうに、その口元にフワリとした笑みを浮かべる。
「わたしはわたしで、素直に自分の気持ちを認められなかった。自分の拠り所って言うか、気持ちをどうやって扱えばいいのかがわからなかったのね。プライドだけが先に立っててね」

 そしてアスカはユゲジから視線を外して、彼の向こうに掛かっているリトグラフに目を遣る。それを眺めるでもなく、ひとしきりそこで気持ちを整理したアスカは、視線をテーブルの上のパスタに落した。
「ううん、プライドじゃないわね。自分に自信がなかっただけ。もちろん、必死に頑張ってたわよ。今思い返しても、よくやったって褒めてあげたいと思う。だから今のわたしがいるんだしね。でも、あまりに子供だった。仕方なかったけど」
 そこでアスカは顔を上げて、苦笑いのような、恥ずかしいものを思い出したかのような、幾つもの感情が入り混じった色の表情を、ユゲジに見せた。
 そしてまた、瞼を伏せて、アスカは続ける。

「その後は、まぁ、いろいろあった。わたしが事故に遭ったこともあって、結局その子とはそれきりになっちゃった。その子ね、ちょっと特別な事情があって、身体が弱かったのよ。定期的にお医者さんに診てもらう必要があったの。今、その子が何処でどうしているのかわからないけれど、たぶん何処かで生きていると思ってる。わたしはその子とまた逢えると思ってる。だからその時に、その子の力になりたいのよ。わたしは、その子――その子たちに、人を好きになるってことを教えてもらった。わたしはその子たちに借りがあるの」
 そしてアスカは顔を上げて、ユゲジを嬉しそうに見る。

「だからこれは、とても個人的な理由。人類の為とかじゃないの。自己満足かもね。どう? ガッカリした?」

 顎の下で両手を組んで、小首を傾げるようにして、アスカはユゲジの顔をそっと見た。そのままアスカは、暫し無言になる。ユゲジもまた、アスカの表情から目が離せなかった。一言も発することが出来ず、魅入られたようにアスカを見つめる。
 そのユゲジの視線に、アスカはふと気づいた。
 ユゲジ相手に、どうしてここまで素直になれるのか。今まで誰にも明かしたことが無かった胸の内を、なぜ彼に語っているのか。
 だがアスカは、今のこの気持ちに逆らわなかった。そのユゲジの表情に満足したかのように、アスカはスッと顎を引いて、俯き加減に、その想いをユゲジに告げる。
「でもね、これがわたしの、一つの生きる理由かなって思えるのよ。そう思えるようになったの。結果として、他の誰かの役に立てるかもしれないしね。その子ほどじゃないけど、わたしもちょっと複雑な生まれでね。だからかな、その子たちを――」
 アスカは目元に柔らかい笑みを浮かべて顔を上げ、ユゲジにその想いを向けた。だが、そこで彼女は、言葉を失った。

「あなた……どうして泣いてるの?」
「――え?」

 アスカの目の前のユゲジは、その黒い瞳から静かに零したもので、テーブルクロスにひとつ、またひとつと丸い染みを作っていた。アスカの声にユゲジは、初めて気づいたように、慌てて両手で瞼を押さえる。
「あれ、変ですね。どうしてだろう。あはは、ごめんなさい。僕、変ですね」
 ユゲジは両手で両目を擦りながら笑おうとするが、その努力はその涙に掻き消されていく。その表情は哀しみとも、喜びとも、淋しさとも、悔しさとも取れるような、むしろそれらが混じり合ってマーブル模様になったかのような、そこにしかない複雑な色をしていた。
 寸刻、アスカは面を凍らせたようにしていたが、手元のハンドバッグからハンカチを取り出し、黙ってそれを差し出した。目の前に差し出されたそれを、ユゲジは戸惑いながらもぺこりと頭を下げ、ゆっくりと握り締めて受け取る。サワッとふたりの手が触れ合った。ユゲジはそのままアスカのハンカチを目元に当てて、顔を伏せる。

 どれくらい経っただろうか。眼にアスカのハンカチを当てたままで、微かに肩を震わせていたユゲジは、スッと顔を上げて、その赤い眼をアスカに向けて、なんとか作り出したような笑みを見せた。
「すみませんでした。驚きましたよね。本当にごめんなさい。ちょっと、感極まってしまって……」
 そう言った彼は、視線をテーブルの上に落とす。
「式波部長のお話に、感化されてしまったのかもしれません。初めてです、こんな気持ちは。どうしてだかわかりませんけれど、でも……」
 そうして彼は、目元に笑みを零してアスカに向かった。
「式波部長はやっぱり素敵だな、って思いました」
 そのユゲジの言葉にアスカは眼を丸くして、その表情をピタリと固めた。だがすぐに表情を取り戻すと、呆れたような、感心したような顔になって、ユゲジにその顔を向けた。
「あなた、やっぱり女の扱いに慣れてるでしょ」

     ◆

 それから十日後。アスカの米国出張は、滞りなく終わった。アスカの役割は正に『そこにいること』であり、特に為すべきことがあったわけではなかった。同行した一回りほども年齢の違う渉外部の課長は、『式波部長には申し訳ないです』と恐縮しきりだったが、当のアスカは『わたしが居ることで交渉がスムーズに進むのであれば、それはわたしの仕事です』と気にする素振りもなかった。
 とは言え、退屈な時間が沢山有ったことには変わりなく、お陰でアスカはそのつもりはなくとも、あのことをたっぷりと考えてしまった。

 米国からの帰路の機中で、ノートPCを眺めながら、アスカは心に決めていた。彼のあの涙の意味。それを確かめなければならない。

     ◆

 米国出張からパリに戻ったアスカはユゲジに連絡を取り、毎週土曜日の恒例ランチに彼を呼んでいた。アスカの自宅からほど近い、小ぢんまりとした街外れの小料理屋で、ふたりは向かい合って座っていた。アスカはラタトゥイユを、ユゲジはキッシュを注文する。

「出張、お疲れさまでした」
「一週間くらいの海外出張って、一番キツイのよ、特に時差ボケがね。向こうに慣れた頃に帰国だからさ」
 肩をすくめて答えるアスカに、ユゲジは気恥ずかしそうに、赤い顔を俯かせた。
「どうしたの?」
「いえ、この前、恥ずかしいところを見られちゃいましたから……」
 苦笑交じりに、アスカはユゲジを見返した。
「あなた、時々わたしを戸惑わせるわよね」
 アスカは恥ずかし気なユゲジをさほど気にする様子も見せず、アメリカでの出来事を途切れることなく話す。
「NYもいいんだけど、あのバカみたいに甘いカップケーキはどうなのって思うわよ。勧められて買ったけど、後悔したわ。あの甘さは暴力ね」
「甘すぎて、食べ切れなかったんですか?」
「まさか。残すの嫌いだからね。根性で全部食べたわよ。その日一日、胃がもたれて辛かったけど」
「根性で何とかするあたり、式波部長らしいですね」
 やがて運ばれてきたラタトゥイユとキッシュを味わいながら、アスカは時折微笑を交え、ユゲジはそんなアスカに相槌を打ちながら、ふたりの会話は続いていた。その様子は、仲睦まじいカップルのようにしか、見えなかった。
 だがそのふたりの空気は、次のアスカの一言で、ガラリと温度を変えた。
 ラタトゥイユをフォークで突いていたアスカは、明日の天気を訊くような口調で、ユゲジに問い掛けた。

「ところで、コネメガネは元気にしてる?」

 アスカはラタトゥイユの皿を見たままに、ズッキーニとナスを纏めてフォークで刺して口に運ぶと、モグモグと咀嚼してから、視線を目の前のユゲジに移した。
 ユゲジの顔からは、体温が失せていた。口を真一文字に結んだその表情は、にわかに凍り付いていた。
 フゥと小さくため息を吐いたアスカは、どこか悲しそうな色を瞳に浮かべて、ユゲジに言った。

「あなた、嘘を吐けないのね」

 そしてアスカはまた、顔をラタトゥイユに向けた。一口、また一口と、黙々と皿のものを口に運ぶ。
「食べた方がいいわよ、冷めちゃうから」
 アスカのその一言に、ユゲジはピクリと身を震わせた。顔を上げることなく、無言でフォークを口に運ぶアスカに、ユゲジは何も言うことは出来ない。アスカの言葉に強いられてノロノロとフォークを動かし、顔色を失ったままに、ユゲジはキッシュを口に運んだ。
 やがて、ふたりの皿が空になった。
「さて、それじゃ、ちょっと付き合って」
 アスカはすっくと立ち上がり、ユゲジの手首を掴む。そのまま彼を店外に連れ出して、街を歩き始めた。

 歩き始めてから五分程経ち、ふたりはとあるアパルトマンの一室の前にいた。ロックを解除し、扉を開けるアスカ。ユゲジの手首を掴んだまま、アスカはユゲジを促す。
「入って」
「え、でも……」
 戸惑うユゲジに、アスカは表情を変えずに告げた。
「ちゃんと話をしたいからね。他人が足を踏み入れるのは、あなたが初めてよ」




9.そして、僕が届かない


「その辺、適当に座ってて。お茶を用意するから。まさか、逃げないわよね」
 ユゲジをリビングに案内したアスカの声は、いつもと何ら変わりのないものだった。証言台に立つ被告人のような表情をしたユゲジは、座りの悪そうな様子で、傍らのソファーに浅く腰を掛ける。
 やがて、奥のキッチンの方からコーヒーの香りが漂ってきたかと思うと、トレイを手に、アスカが戻ってきた。そのトレイにはカップが二つと、ひとつの包みが乗っていた。

 長円形の平たいその包みを見た瞬間、ユゲジの眼の動きは、ピタリと止まった。

 アスカはそのユゲジの様子にも構わず、ソーサーに乗せたコーヒーカップをユゲジの前に置いた。ユゲジを斜向かいに見る格好で、テーブルの傍にクッションを引き寄せ、アスカは膝を折ってそこに腰を下ろした。
「砂糖は要らなかったわよね?」
 その問いに、ユゲジは答えることが出来なかった。アスカは気にする素振りも見せず、一口、また一口と、静かにカップに口をつける。ユゲジは、カップに手を伸ばすことも出来ない。
「冷めるわよ、って言いたいところだけど……それどころじゃなさそうね」
 アスカは小さく息を吐くと、手にしたカップをソーサーに置いた。

「これ、見覚えがあるでしょ」
 アスカは、トレイに乗せたままのピンク色の布の包みに目を遣った。それでもユゲジは、身じろぎすら出来ずにいる。
「沈黙は肯定とみなすわよ」
 鋭い視線をユゲジに向けるアスカ。ユゲジはその包みを視界の隅に認識しつつも、押し黙ったままだ。
「否定、しないのね」
 顔を上げることが出来ず、ユゲジはそのまま黙り込む。その様子に、アスカは大きく息を吐いた。
 アスカは宙を眺め、その記憶と想いをそこに浮かべて見る。そして、静かに、長い話を始めた。

「わたしはね、ケンケンのところで、第13号機のエントリープラグの中で目覚めた。目覚めたら、わたしはこの身体になっていた。そして、世界からエヴァは消えていた。エヴァそのものが元々無かったみたいにね」
 そしてアスカは、トレイの上のピンク色の包みに視線を遣り、それをじっと見つめた。
「そこで、わたしはこれを見つけた。ごく当たり前のお弁当よね、あの時に、あそこにあったこと以外は。でもこれは、わたしがずっと求めていたものだった。何も食べられなくなっても、いつの日かと願っていたものだった」
 その包みの中にあったものは、アスカに、驚きと、希望と、絶望を与えていた。アスカは寸刻、眼を閉じる。
「でもそれは、叶わぬ願いだと諦めていた」
 夢から覚めたように瞳を開き、アスカは続けた。

「それが、わたしが目覚めた時に、すぐ傍にあった。当然思い浮かべるわよ、ひとりの人物を」
「碇シンジはそこにいなかった。わたしはその時にわかったのよ。こんなことをするのは、碇シンジだけ。様変わりしたこの世界はすべて、碇シンジが成し得た結果。わたしをこの世界に送り届けたのも、碇シンジのやったこと。そして、そこにあったお弁当は、碇シンジの餞別」
 そこでアスカは、チラリとユゲジに視線を送った。ユゲジはまるで蝋人形のように、瞬き一つせずにそこにいた。
「わたしは、碇シンジには二度と逢えないと思った。そして、自分が何をすればいいのか、どうやって生きていけばいいのかすら、わからなくなった。だってエヴァがないんだもの。わたしの生きる意味はなくなった。全部、ぜんぶ諦めた」
 アスカはそこで、口をつぐんだ。その視線は、テーブルの上でフラリと揺れる。
 暫し、鉛のように重い沈黙が、ふたりの間に降りた。しかしアスカはそこから顔を上げて、遠い彼方へ意識を向けるようにする。

「でもね、ケンケンに言われたのよ。碇を助けてやってくれって。碇は一人で頑張っているはずだって」
 アスカはまた、チラリとユゲジに目を遣った。ユゲジの表情は、未だ変わらないままだった。
「わたしは、もう一度、碇シンジに逢ってみたいと思った。だからヴィレに残った。それが、エヴァを失ったわたしの生きる意味だった」
 淡々と、自分のことではないかのように、アスカは続けた。

「それから一年、わたしは我武者羅がむしゃらに生きてきた。碇シンジとの接点を探すためにね。でもね、一年が経って、そして帆風ユゲジに逢って、わたしは少し変わったのよ。わたしはわたしなりに、生きてもいいのかなって思うようになってきた。あんたに、帆風ユゲジに言ったわよね、医学を勉強するんだって。それはこの一年、碇シンジに再び逢うために、脇目も振らずに走り続けた結果でもあるのよ」
 アスカは、目の前に座る物言わぬ蝋人形に向かって、話を続ける。
「その気持ちを確認したのは、帆風ユゲジに逢ってからよ。あんたとの何気ない会話の中で、わたしは自分を見つめ直すことが出来た」
「何より、あんたには、わたしも素直になれた。どうしてだ、わたしはそんなに軽い女だったのかって、結構悩んだんだけど……良かったのか悪かったのか」
 アスカの言葉は、最後には、やや自嘲気味に変わっていった。その表情に、薄い笑みが浮かぶ。

「碇シンジに逢ったらわたしはどうするだろうと、ずっと思ってた。初めはね、怒り狂って殴り掛かるだろうと思ってたのよ」
 アスカは、ユゲジにしっかりと視線を送る。
「でも今は、結構冷静かも。どうしてかしらね」

 ユゲジは未だ、蝋人形のままだった。構わずアスカは続ける。
「碇シンジは、ご丁寧にケンケンにも頼んでいたらしいわね。アスカをよろしくって。でも、ケンケンは言ってたわよ。碇に逢ったら伝えてくれって。式波・アスカ・ラングレーはお前に任せる、ですって」
 アスカは呆れ顔で、ふぅと大きく息を吐いた。
「ったく猫の子じゃあるまいし、ホイホイとよろしくも何もないっつーの」
 そしてアスカは、ユゲジに乾いた笑いを見せる。
「ね、帆風ユゲジ」
 蝋人形だったユゲジは、ピクリと、アスカの言葉に反応した。アスカはそのまま、じっとユゲジの姿を見つめた。

「で、どういうことなの? 帆風ユゲジ――いえ、碇シンジ」

 真っ直ぐな表情を見せて、アスカはユゲジに顔を向けた。アスカのその言葉を覚悟していたかのように、ユゲジは、ゆっくりと、僅かに顔を上げた。しかし未だその表情は、アスカからは陰になったままだ。
「まさかとは思ったのよ、わたしもね。ホントに……そのまさかだったわよ。状況証拠は揃ってた。何度も、もしかしてって思ったわよ。でもその度に、わたしは否定する材料を探した。一度は振り切ったしね」
 アスカは、自嘲気味に小さく頷いた。
「でもね、あんたのあの涙。あれは響いた。わたしはもう一度、あんたのことを考えてしまった。でも、あんたには、否定して欲しかった」
 アスカはそこで、ユゲジの表情を確かめるように、一拍を置いた。
「どうしてだと思う?」
 フッと鼻で小さく息を吐いたアスカは、顔を上げられないユゲジに、その想いを告げた。
「こんな形であんたに逢いたくなかったからよ。こんな、他人の姿を借りて騙すようなあんたには、逢いたくなかった」
 アスカは静かな、しかし重い声で、ユゲジの心を問いただした。
「どうして、正々堂々と姿を現さなかったの」
 アスカが見つめたままのユゲジの面が、ゆらりと上がった。その眼には既に動揺の色はなく、ある種のおもいが浮かんでいた。ユゲジは、静かに言った。

「ごめん、アスカ」
「認めるのね」

 ユゲジの声に、アスカもまた、抑えた口調で応える。ユゲジは、長い間押し隠していたものを、アスカに伝える。
「……うん。僕は、碇シンジ、だったものだ」
「だったもの?」
 ユゲジの言葉に、アスカはピクリと眉を上げた。ユゲジはそのアスカの表情の動きを確認して、彼女に告げる。
「僕はもう、あの頃の碇シンジじゃない。この姿は幻だ。仮初めの姿だ」
 そしてユゲジ――碇シンジは、胸に秘めた決意を、アスカに向けて露わにする。
「僕はもう、碇シンジとして、この世界に現れないって決めたんだ」
 帆風ユゲジの姿をした碇シンジは、その決意の色を瞳に浮かべて、アスカに告げた。そして次には、視線をやや下に落とす。
「でも、僕は気づいたら、この姿でこの世界に現れていた。この姿は、僕の未練だ。僕のたったひとつの願いだ。でも――」
「あんた、ホントにつくづくウルトラバカね。あんたがシンジじゃなかったら、一体誰なのよ」
 シンジの言葉を遮って、呆れ顔を隠さずにアスカは更に続ける。
「あんたの姿かたちなんて関係ない。あんたはあんた。碇シンジじゃないの」
 そして次には、シンジの顔をジロリと睨み付けるようにする。
「それともなに? コネメガネとよろしくやってるからわたしは邪魔だっていうの? 気紛れに様子を見に来ただけ? ハン、おめでとう! だったら今すぐ消えて。二度とわたしの前に現れないで」
 睨み付けるアスカの視線に、シンジは脊髄反射のように大きな声を上げた。
「違う! マリさんとはそんなんじゃない! 僕はただ、アスカに逢いたかっただけだ」
「だったら――」
 今度はシンジがアスカの言葉に被せるようにして、吐き捨てるように言った。

「アスカは何も知らないんだよね。僕はもう、人のことわりを超えてしまったんだよ」
「それがなによ」

 アスカは当たり前のように、至極あっさりと言い切った。眼を白黒させるシンジに、アスカはきっぱりと言い切る。
「それが何だって言ってるのよ。あんたはシンジでしょ。姿かたちが変わったって、ここにいるのは碇シンジ! バカシンジでしょ!」
 抑えられていたアスカの口調は、徐々に熱を帯びてくる。そしてシンジの次の一言に、アスカの血潮は一気に沸点を突破した。
「僕が望めば、この世界を滅ぼせるとしても?」
「そんなの知らないわよ! あんたはどうしたいの!」
 昂ったアスカの口調に感化され、シンジもまた声を荒げていく。
「そんなこと言ったって、どうしようもないじゃないか! 僕はもう、あの頃の僕じゃない! わけのわからない存在になってしまった!」
「それが何だって言うのよ! あんたはシンジでしょ! バカで、頑固で、優しくて、あんたはシンジ! なにも変わってない!」
「だって、ここにいる僕はただの幻だ。本当の僕はもっと違う所にいるんだ」
 苦しそうに叫ぶシンジの姿にも構わず、アスカは激しく問い続ける。
「そんなの関係ないって言ってるでしょ! あんたはどうしたいのよ!」
「僕だってアスカと一緒にいたい! でも、ダメなんだ。それが僕のケジメなんだ」
「ケジメ? バカシンジのくせに、えっらそうね。あんた、何様のつもりよ!」
「何様って……」
 シンジは言葉を見失った。自分は何者なのか。それはシンジ自身にも全くわからなかった。絶句したままのシンジに、アスカは込み上げる想いをその顔に浮かべる。

「あんたはシンジ、碇シンジ! それ以上でもそれ以下でもない! バカで、優しくて、でも頑固で……そうでしょ」
「アスカ……」
 アスカの言葉に、表情に、シンジは言葉を紡ぐことが出来ずにいる。
「本当のあんたがどうなっているのかなんて、わたしにはわからない。ここにいるあんたは、もしかすると幻なのかもしれない。でもね」
 激しい言葉と共に腰を上げかけていたアスカは、テーブルの上に身を乗り出して、膝立ちになった。そのままにじり寄るように一歩また一歩とシンジに近づき、シンジの足元に膝を揃えた。
 アスカはそっとシンジの両手を取る。そして、じっとシンジの顔を見上げて言う。
「この暖かさは嘘なの? この温もりは偽りなの? ここにいるあんたは、碇シンジじゃないの?」
 アスカは膝立ちのまま、ソファーに座るシンジに身を預け、その身体をそっと抱き締めた。

「わたしは、シンジのことが好きよ。ようやく言える。わたしも大概よね。こんな状況にならないと言えないなんて」
「あの時、わたしはシンジに嘘を言った。好きだったって誤魔化した。先に大人になったなんて、強がりを言った。わたしは大人になんて全然なっていなかった」
「今、ようやく素直になれた。あの時も、そして今も。シンジ、あなたのことが好き」

 シンジの背中に回した両手に、アスカはギュッと力を込めた。
「まったく、これだけのことが言えないなんてね。中学生かって笑っちゃうわね」
 アスカが抱き締めるシンジは、その手を動かすことも出来ずに、熱くなったその眼を、ただ閉じた。

 そのままふたりは、何も言葉に出来なかった。アスカはシンジを強く抱き締め、シンジはアスカの背にその手を回せずにいた。
 ただふたりは、お互いの温もりを、その気持ちを、確かめあった。
 やがてシンジは、眼頭の熱さをじっと堪えながら、震える口調でアスカに告げる。
「アスカ、ありがとう。僕はもう、大丈夫だ」
 アスカに抱き締められたままで、シンジは湧き出る想いをアスカに伝えようとする。
「アスカが僕のことを想っていてくれた。そして好きだと言ってくれた。僕はそれだけで、独りでもずっと生きていけると思う。ありがとう、アスカ」
 アスカの体温を感じたままで、シンジは自分の決意を、もう一度繰り返す。
「でも……僕は帰らなくちゃいけない。アスカ、アスカが綾波のことを気に掛けてくれて、嬉しかった。アスカはやっぱり優しいなって思った」
 アスカの存在をそこで想いながら、シンジはアスカへ願いを告げる。
「綾波がどこでどうしているのか、それは僕にもわからない。意外と不便なんだ、今の僕も。でも、僕は綾波を送り出した。アスカと同じようにね。だから、どこかにいることだけは、間違いない」
「だからアスカ、もし綾波に逢えたら、僕が気にしていたって伝えて欲しい」
 アスカの全てをその身に刻むようにして、シンジはアスカに別れを告げる。
「この二ヶ月、楽しかった。勝手でごめん。今度こそ、本当にさようなら、アスカ」
 シンジは、その言葉を、もう一度アスカに告げた。

「――ありがとう、僕を好きだと言ってくれて。僕もアスカのことが、ずっと好きだったよ」

 アスカの両腕は、スゥっと宙を抱いた。
 アスカの眼の前から、帆風ユゲジという形の碇シンジは、ツイと消えた。










 第四部『シン』

 


 Menu