Repeat
第四部『シン』
10.誓い
彼女に何が起ころうとも、太陽は沈み、夜は更け、また朝日は昇る。ヴィレ調査部部長式波・アスカ・ラングレーの毎日は、何事も無かったかのように、変わらず同じ時を刻む。
帆風ユゲジは跡形もなく消えた。その存在が初めから無かったかのようだった。ヴィレの厨房にその姿はなく、それどころか、その名を知る者さえ、何処にもいなかった。やりどころのないアスカの想いは彼女の中で生煮えとなり、宙ぶらりんのままに残された。
それから数日後のこと。アスカはただひたすらに、目の前の業務をこなしていた。幸いにして、タスクは売るほどあった。ひとり、またひとりと、スタッフはアスカに声を掛けて帰宅していく。そして気づくと、広いオフィスにはアスカ一人だけが残されていた。
時計は二十三時を大きく回っていた。
「この辺にしとこうかな」
アスカは大きく伸びをすると、叩いていたノートPCをシャットダウンして、席を立った。
だが、真っ直ぐ帰宅する気も起きなかった。アスカの足は自然と、別棟のラボに向かっていた。
アスカが訪れたのは、技術部のラボだった。目の前にはブルーグレーの円筒形のモノ――第13号機のエントリープラグがあった。アスカは手を伸ばし、スッとそれを撫でるようにする。
「何かしらの理由があると思う、か」
アスカはマヤの言葉を思い浮かべた。マヤは、何もわかっていないと言った。それはその通りなのだろうと、アスカは思う。
アスカは身を乗り出して、プラグ内を覗き込んだ。アスカがその中で目を覚ました時と同じように、そこでは“EMERGENCY”のランプが弱々しく点滅していた。そのランプだけは消えないのよ、とのマヤの言葉が思い出される。
「よっと」
アスカはプラグの中に身を乗り入れて、そのシートに身を落ち着けた。胸の奥から沸々と、堪えきれない思いが沸き上がってくる。
エヴァがあったから、今の自分がある。それは確かだった。いや、エヴァの為だけに生まれてきたのが、式波・アスカ・ラングレーなのだ。だが今、アスカは思う。こんな自分でもきっと、ここにいる意味はあるのだと。
アスカは何気なしに腕時計を見た。時刻はあと十分ほどで、日付を跨ごうとしていた。
「明日は、七夕か」
腕時計の日付を確認して、アスカは不意に、ユゲジが語ってくれた七夕の物語を思い出した。ユゲジは言った。一年に一回でも、逢えることが約束されているのならば幸せだと。アスカはその時、それは自分に対して向けられた言葉だと思っていた。
だがアスカは、今また想う。それは、帆風ユゲジ――碇シンジ自身にも向けられていたのではないか、と。
「わたしはあの子たちにだけじゃなくて、あんたにも借りはあるのよ」
この中で見つけた彼の弁当に、アスカは想いを巡らせた。それは今のアスカに、彼女がヒトであることを教えてくれた。それは少女の頃のアスカに、人との触れ合いを教えてくれた。
そのままシートに深く腰を潜り込ませて、アスカは眼を閉じた。
「七夕……?」
不意に、アスカの脳裏に、ひとつの光が灯った。
「あり得ないことはあり得ない、でも……」
時刻を確認すると、あと四分ほどで日付は変わろうとしていた。
アスカは胸元からスマートフォンを取り出すと、手早くメールを作成する。それを送信予約してからスマートフォンの録画を開始し、エントリープラグのシートに座る自分の姿を記録させるために、プラグ内の隅にそれを置いた。
アスカは、エントリープラグに身を据えた。その瞳は使徒迎撃に向かっていたあの頃のように、揺るぎない色を湛えていた。
根拠があったわけでは、もちろんない。
『この配置の根拠は』
『女の勘よ』
その声が思い出された。アスカはニヤリと不敵な笑みを零す。
「女の勘ってものも、あながちバカに出来ないわよね、ミサト」
あと十五秒で時刻は零時。アスカは数秒眼を閉じて、そして力強く眼を開いた。
アスカの呼吸に呼応したかのように、目の前の“EMERGENCY”ランプが、スッと消えた。ボンとモニターが点灯し、そこに六つの文字が浮かび上がった。
『READY?』
アスカはニッとほくそ笑むと、高らかに宣言する。
「もちろん! 式波・アスカ・ラングレー、行くわよ」
その声とともにアスカの姿は、手品のようにエントリープラグの中から消えた。
その五分後。アスカからのメールが、赤木リツコと伊吹マヤの元に届いた。駆け付けた二人がそこで見つけたものは、一部始終を録画していた、アスカのスマートフォンだけだった。
◇
アスカの眼前には、見たことのない光景が広がっていた。
何処かの駅のようだ。屋根から下がっている看板が日本語なので、きっと日本の何処かなのだろう。“宇部新川”と、それは読めた。
向かいのホームには、仲睦まじい様子のカップルの姿が見えた。だがその姿は遠く、霞んで見えた。
キィーッと金属が
擦れ合う音を立てて、列車がホームに停車した。一両編成の茶色の車両だ。アスカはベンチから腰を上げて、それに乗った。
車内は緑色のシートが並んでいた。木材が敷き詰められた床は、ワックスで磨かれたように、
薄らと光沢を放っていた。アスカの他に、乗客は誰もいなかった。それどころか、運転席にも人の姿はなかった。長座席の真ん中に一人で座るアスカを乗せ、ゴトンゴトンと揺らぐ音を立てて、列車は進む。
女性の声で、アナウンスが流れた。
「式波・アスカ・ラングレーさん。あなたの想いのままに、この列車は進みます。あなたは何処へ行くことを望みますか?」
アスカは不敵な笑みを湛えて、その声に向かって宣言する。
「決まってるじゃない。バカシンジのところへよ」
一拍の間の後、その声は言う。
「そう。シンジのところに行くのね」
その声は少し、優しくなったように聞こえた。アスカは腕を組んで、次の言葉を待つ。
「シンジがいるのは、イマジナリーの世界。物理法則ではなく、意志の力で成り立つ世界。そこでシンジを見つけるためには、アスカさんは、シンジのことをもっと知らなければならない。シンジと波長が合わなければ、そこで逢うことは出来ない。その覚悟はありますか?」
「覚悟?」
その言葉に眉をひそめたアスカが瞬きをすると、アスカの向かいには、一人の幼い男の子が座っていた。
「お姉ちゃんが知りたくなかった碇シンジを、知るかもしれないよ」
「今ならまだ、元の世界に帰れますよ」
男の子に続いた女性の声に、アスカは口元をニヤリと歪めた。そして目の前の男の子と、天からの声に胸を張って告げる。
「上等よ。そのためにわたしは来たのよ」
その男の子の表情は眩しい夕日の逆光となり、アスカからは良く見えない。だがその声は嬉しそうに、アスカに届いた。
「じゃ、よろしくね」
◇
ガタンゴトンと、何処か郷愁を感じさせる音を立てて、アスカ一人を乗せた列車は進む。そのアスカの眼前を流れる車窓に映し出されたのは――いや、それはアスカの脳裏に直接投影されていたのかもしれない――幼い男の子と、その父親らしき姿だった。アスカの向かいに座る男の子の、アスカの頭に直接囁き掛けるような声が聞こえてきた。
――僕が母さんと、そして父さんと別れた時の事だよ。僕は四歳だった――。
そこに映る幼い男の子は、ギュッと握り締めた両手を震わせて、涙を懸命に堪えているように見えた。
「……お母さんは?」
「母さんは、ユイは、遠い所へ行ってしまった」
「そんなのいやだ! お母さんは、お母さんはどこ!?」
――僕は、父さんに抱きしめて欲しかった。でも父さんは、僕を捨ててどこかに行ってしまった。僕は要らない子供なんだって、その時、思ったんだ――。
◇
次に映し出された
場面は、エヴァンゲリオン初号機の前だった。学生服姿の碇シンジが、初号機の向こうに見える部屋に立つ碇ゲンドウと、初号機越しに対峙している。少年は、父への思いを堪えるように叫ぶ。
「父さんは、僕が要らないんじゃなかったの!?」
だが、少年を見下ろす彼の父は、無表情に言うだけだった。
「必要だから呼んだまでだ。乗るなら早くしろ。でなければ、帰れ」
他人事のように淡々と、その幼い男の子はアスカに伝える。
――僕は十四歳になった。僕は突然、父さんに呼び出された。今さら何の用だよって思ったけど、でもまだ僕は、少しだけ父さんを信じていたんだ――。
父への期待を裏切られ、エヴァへの搭乗を拒絶したシンジの目前に、移動式ベッドに乗せられて一人の少女が運ばれてきた。頭と手に包帯が巻かれて点滴を打たれたままの瀕死の状態に見える少女は、シンジの代わりにエヴァに搭乗しようとする。崩れ落ちた少女を抱き抱えたシンジは、呪文のように唱えた。
「……逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ」
アスカの耳に、感情を押さえたかのような、静かな男の子の声が響く。
――みんなが僕に、エヴァに乗れって言った。僕の話なんて誰も聞いてくれなかった。綾波のために、僕が乗るしかなかった。でも僕は、本当は――。
瞬きも忘れて一コマ一コマを注視していたアスカのその両手は、いつの間にか、血の色を失うほどにきつく握り締められていた。
(これが、バカシンジとエコヒイキの出逢い……そう言うことか)
◇
そこに映る場面はパラパラと風に吹かれたように変わり、それはネルフ本部の中から、眼下に第3新東京市を望む高台へ、そしてミサトの自宅へと移った。
「シンジ君、ここは、あなたの
家なのよ」
躊躇いがちに一歩を踏み入れた少年を、彼女は温かく迎えた。
「お帰りなさい」
「ひとつ、言い忘れてたけど。あなたは人に褒められる、立派なことをしたのよ。胸を張っていいわ。頑張ってね」
――ミサトさんの家で、僕は、何だか落ち着かなかった。でもそれは、全部が嫌な気持ちでもなかった。先生のところに居たときは、何も起こらない日々だった。でもここに来て、僕の何かが変わりそうな、そんな予感がしていたんだ――。
玄関前で戸惑ったシンジの姿に、アスカは想う。
(あなたの
家……か。あんたの気持ち、少しはわかるかもね)
◇
アスカの目の前が暗くなり、夜の高台がアスカの目前に映し出された。
碇シンジと綾波レイが、零号機と初号機の前で、その作戦開始を待っていた。
(これは、あのヤシマ作戦……?)
その様子を俯瞰で眺めるように捉えているアスカは、自分の頭の中のデータを探り当てた。アスカの耳に、少年と少女の会話が聞こえてくる。
「これで、死ぬかもしれないね」
「いいえ、あなたは死なないわ。私が護るもの」
「綾波は、なぜエヴァに乗るの」
「絆だから。私には、他に何もないもの」
搭乗前。少女は少年に、その一言を言い残して去った。
「さよなら」
(あの子、エレベーターの中で……)
アスカの中に、その時の少女の言葉が蘇る。
『――私は繋がっているだけ。エヴァでしか、人と繋がれないだけ』
◇
視力が失われんばかりの、眩い閃光が走った。使徒の攻撃を受けた初号機が、山腹に叩き付けられていた。しかし初号機は、這うようにして使徒に向かう。
「彼は逃げずにエヴァに乗りました。自らの意志で降りない限り、彼に託すべきです。私も、初号機パイロットを信じます」
ゲンドウにそう言い切ったミサトは、続けてシンジに告げる。
「シンジ君――私たちの願い、人類の未来、生き残った全ての生物の命、あなたに預けるわ。頑張ってね」
一部始終を確認したアスカに、複雑な笑みが浮かんだ。
(……あいつ、柄にもなく頑張ったじゃない。エコヒイキも、あのバカを護った――ふたり揃って、人類を救うヒーローとヒロインって感じね。参ったわね)
◇
一瞬、アスカの目の前が真っ白になった。アスカの眼が視界を取り戻すと、そこには少年と少女がいた。
零号機のエントリープラグをこじ開けた碇シンジが、綾波レイに向かって、涙と笑みを向けている。
「別れ際にさよならなんて、悲しいこと言うなよ」
「なに、泣いてるの? ――ごめんなさい、こういう時、どんな顔すればいいのか、わからない」
「笑えば、いいと思うよ」
片時もそこから目を離すことが出来ずにいたアスカに、男の子は抑揚のない声で言った。
――こうして、ヤシマ作戦は終わったんだ。色々なことがあったけれど、それでも僕は、ここに来たのも悪くないと思ったんだ――。
アスカは口に出すどころか、言葉を思い浮かべることすら、出来なかった。
◇
澄み渡った青空が見える基地に、場面は変わった。その場面にはアスカも、憶えがあった。
「で、どれが七光りで選ばれた、初号機パイロット?」
「あんたバカぁ? 肝心な時にいないなんて、なんて無自覚。エヴァで戦えなかったことを恥とも思わないなんて」
――ここから先はお姉ちゃんもよく知ってることだよね。この時の碇シンジの気持ちは、後で本人に直接聞いてね。逢えればだけど、ね――。
アスカの心に、初めてシンジと逢った時の想いが去来する。
(わたしは日本行きに、何も期待していなかった。わたしは自分の仕事をこなせばいい。わたしは独りで生きていく。他には誰も必要ない。だけど――わたしはバカシンジに出逢ってしまった)
◇
場面は、長閑な山間の農村地区に変わった。そこにユラリと立つ第9の使徒――アスカを取り込んだままのエヴァ3号機。アスカは眉間にしわを寄せて一瞬顔を背けようとするが、キッと唇を噛み締めて、すぐに顔を上げた。
「でも、目標って言ったって……アスカが乗ってるんじゃないの……アスカが……」
「シンジ。なぜ戦わない?」
「だっ……て……アスカが乗ってるんだよ……父さん……」
「お前が死ぬぞ」
「いいよ! アスカを殺すよりはいい!」
――この時、僕がどう思っていたのか。これも、碇シンジから直接聞いて欲しいな。僕の口から喋っちゃうのは、彼に申し訳ないからね。だから今は、事実だけを観て欲しい――。
「そんなの関係ないって言ってるでしょ! 父さんは……あいつはアスカを殺そうとしたんだ。この、僕の手で……! なんで! なんで! なんでなんだよ! 父さんも、大切な人を失えばいいんだ! そしたらわかるよ!」
血の滲むような眼をして、アスカは奥歯をギリッと鳴らした。アスカの胸中には、幾重もの複雑な思いが、主役の座を巡って激しく争っていた。
(バカシンジ……あんた……)
その姿は子供だと思った。だがその情感もわかった。怒りも伝わってきた。後悔も伝わってきた。あいつは――。
アスカはそれ以上、言葉にすることが出来なかった。
――お姉ちゃんには、辛さしかない出来事だよね。ごめんなさい。でも、この時の僕を、知っておいて欲しかったんだ――。
◇
場面は、アスカにとっても懐かしく思える、葛城ミサト宅の玄関になった。荷物を背負った少年が、腕を吊った彼女に背を向けて、その家から立ち去ろうとしている。
「あの日……レイは碇司令も呼んでいたの。シンジくんにお父さんと仲良くなって欲しかったの。一緒に笑って欲しかったのよ」
「僕はもう、誰とも笑えません」
アスカはただ、その少年の横顔を見つめるだけだった。碇シンジのその顔は、アスカがそれまで見たことのないものだった。
――これは僕なりの、一つのケジメだったんだ。僕はネルフを去った。もう、エヴァには乗らないと決めた。それが父さんに対する、精いっぱいの反抗だったんだ。でも――。
◇
場面は暗転し、第10の使徒の襲来を受けるネルフ本部内の、エヴァ格納庫に変わった。碇シンジがエヴァンゲリオン初号機を前にして、頭上の碇ゲンドウを見上げている。両肩で息をする碇シンジは、碇ゲンドウに向かって叫ぶ。
「乗せてください! 僕を、僕を、この初号機に乗せてください!」
「何故ここにいる」
「父さん、僕はエヴァンゲリオン初号機パイロット、碇シンジです!」
アスカは微動だに出来ず、シンジのその顔をじっと見つめていた。その顔は、アスカが知らない少年のようだった。
――僕はまた、エヴァに乗ろうと決めた。今やらなかったら、お姉ちゃんの時みたいにまた後悔する。そう思ったんだ――。
初号機は第10の使徒を地上に掴み出して、それを抑え込もうとしていた。だが、使徒と組み合う初号機の動きが不意に止まった。
「エネルギーが切れた!?」
沈黙する初号機を、第10の使徒がなぶり殺しにする。だが、初号機は再び動き出す。
「綾波を……返せ!」
エネルギーを失っていた筈の初号機は再起動し、あり得ない程の力で、使途を圧倒し始めた。
「僕がどうなったっていい。世界がどうなったっていい。だけど綾波は……せめて綾波だけは、絶対助ける!」
覚醒していくエヴァ初号機。アスカは瞬きすら忘れ、そこから目を離すことが出来ずにいた。初号機は、使徒のコアに向けて手を伸ばす。
「わたしが消えても、代わりはいるもの」
「違う! 綾波は綾波しかいない! だから今、助ける!」
初号機は綾波レイの姿と共に、天に向かって浮かび上がる。初号機の直上に、幾重もの光の輪が広がっていく。初号機は光の翼となり、世界が終ろうとしていた。
(これが、碇シンジの覚醒と、ニア・サードインパクトの始まり……)
データでは知っていた。だが目の前に映し出されるその姿は、アスカの認識を書き換えていく。“碇シンジ”という人物に仕組まれた運命に、当惑を処する術を持ち得なかった。
アスカの耳に、自分自身への憤怒の念に満ちているかのような、幼い声が聞こえてきた。
――この後のことは、僕もよく憶えていない。次に気がついた時は、お姉ちゃんもよく知っている、十四年後のあの時だったからかね。後で、これが僕の起こしたニア・サードインパクトになったと知った。ただ、この時僕は、ただ綾波を助けたかっただけなんだ。僕はお姉ちゃんを助けることが出来なかった。もう二度と後悔をしたくなかった。だから、またエヴァに乗ったのに――。
◇
何度目だろうか。切り替わった場面は、ヴンダー艦橋だった。そこには十四年振りに目覚めた碇シンジの姿があった。
「やっぱりエヴァ2号機! よかった……無事だったんだアスカ……。ミサトさん! 初号機、ここにあるんでしょ! 僕も乗ります! アスカを手伝います!」
艦橋内に、冷え込んだ空気が満ちる。そこにいる全員を代弁して、十四年振りに、ミサトはシンジに口を開いた。
「碇シンジ君。あなたはもう、何もしないで」
――お姉ちゃんが無事で、僕は驚いたし嬉しかった。今度こそ、お姉ちゃんの、みんなの役に立ちたいと思った。僕はお姉ちゃんの事故の時、お姉ちゃんを殺すくらいなら自分が死んだほうがいいって、何もしなかった。綾波の時だって、逃げずに最初から乗っていれば違ったかもしれない。だから、今度こそはみんなの役に立ちたいと思っただけなのに――。
アスカの瞳では、幾重もの色彩が複雑に交錯していた。
(ミサトも、みんなも、目覚めたシンジに戸惑っていた。わたしだって、感情を抑えきれずに……)
◇
廃墟となったネルフ本部に、ふたりの少年がいた。銀色の髪の少年は、喜びに戸惑うシンジに、仄かな笑みを向ける。
「僕はカヲル。渚カヲル。君と同じ、運命を仕組まれた子供さ」
――僕はここで、カヲル君に出会った。カヲル君は僕に、楽しいって言ってくれた。優しい言葉を掛けてくれた。安らぎを与えてくれた。でも――。
「知りたいかい?」
場面は暗転し、渚カヲルの抑えた声が、アスカの耳に響いた。
アスカの眼前は、真っ白な霧に包まれていた。絶壁に架かる階段に立つ銀髪の少年と、その隣でうずくまる防護服姿が見えた。やがて、箒で掃かれたように霧が掻き消えていく。世界の有様が、防護服の碇シンジの前に露わにされた。
「――ネルフでは、人類補完計画と呼んでいたよ」
「リリンの言うニア・サードインパクト。全てのきっかけは、君なんだよ」
「そう。どうしようもない君の過去。君が知りたかった真実だ。結果として、リリンは君に罪の代償を与えた。それが、その首のものじゃないのかい?」
「君になくても他人からはあるのさ。ただ、償えない罪はない。希望は残っているよ。どんな時にもね」
――僕はわかっていたんだ。この世界の有り様は、全て僕のせいだって。でも、僅かな望みに
縋った。カヲル君なら、それは君のせいじゃないって言ってくれるんじゃないかって――。
アスカは何も言えなかった。そこに有ったものは、全て事実だった。碇シンジと言う運命を仕組まれた少年が仕出かした、その結果だった。もちろんアスカは、その顛末を知っていた。だが、その情景と共にあるその少年の姿は、それを俯瞰で見るアスカの胸をキリキリと締付けていく。
◇
膝を抱えて座り込んだ碇シンジを背に、黒いプラグスーツを
纏った“アヤナミレイ”は言った。
「命令にないから」
「そう。アヤナミレイ」
「知らない」
――僕は、信じたくなかった真実を、目のあたりにしてしまった。僕のやったことは全て、無駄だった。それどころか世界中を滅茶苦茶にしただけだった。僕の目の前はグルグル回った。僕はもう、何もしたくなかった。しちゃいけないと思った。でも、カヲル君は僕に言った――。
「でも、僕は信じて欲しい」
「気にしなくていいよ。――いずれはこうするつもりだったんだ」
「第13号機とセットで使えば、世界の修復も可能だ」
「ふたりでリリンの希望となろう。今の君に必要なのことは、何よりも希望、そして贖罪と心の余裕だからね」」
「いつも君のことしか考えていないから」
――僕は、カヲル君の言葉にしがみ付いた。エヴァに乗れば世界を元に戻せると信じた。贖罪なんかじゃない。そこに縋りつくしかなかったんだ――。
銀髪の少年に向かって、アスカは
癇を立てずにいられなかった。
(渚カヲル……あんたはシンジをたぶらかすために現れたの? あんたはシンジの何なのよ)
◇
宙に浮かぶエヴァ第13号機。世界を包む幾重もの光の輪。浮遊を始める黒き月。呆然とする碇シンジと、全てを悟ったような渚カヲル。
「フォースインパクト。その始まりの儀式さ」
「君のせいじゃない。――僕がトリガーだ」
「ごめん、これは君の望む幸せではなかった」
「シンジ君は、安らぎと自分の場所を見つければいい。縁が君を導くだろう」
「そんな顔をしないで。また逢えるよ、シンジ君」
泣きじゃくる碇シンジの目前で、シンジに笑顔を向けた渚カヲルのDSSチョーカーは発動し、少年は飛散した。
――僕はまた、取り返しのつかないことをしてしまった。僕のせいでフォースインパクトが起こった。僕のせいでカヲル君が死んだ。後悔なんて言葉じゃ言い表せない。僕が生きていることが罪だった。かと言って、死ぬことも出来なかった。それは、カヲル君に対する裏切りだと思ったんだ。でも、もう何もしたくなかった――。
アスカはただ淡々と、目の前で繰り広げられる碇シンジの物語を眺めていた。アスカの心からは既に、怒りも、悲しみも、憐みも、全てが吹き飛んでいた。
◇
そしてアスカの脳裏には、シンジと過ごしたその日々が、早送りのフィルムのように流れていく。
第13号機のエントリープラグから引きずり出したその姿。
紅い大地を歩き続けたその姿。
言葉を失いすべてを拒絶して
蹲るその姿。
アスカが渇望する食さえ拒んだその姿。
アヤナミレイに救われたその姿。
ヴンダーに乗ると告げたその姿。
拘束され耐爆隔離室に連れられるその姿。
アスカの最期の言葉に振り向かなかったその姿――。
暗幕が降りた。そして静かに幕が開けるように、紅い海と白い砂浜が、アスカの前に現れた。そこには、ふたりの姿があった。
その場面は、第13号機のプラグ内で目覚めた時のアスカには、蘇らなかったものだった。
――お姉ちゃん、思い出した――?
アスカの耳に、男の子の声が響いた。
――お姉ちゃんは碇シンジに、もう一度逢えたんだよ――。
腕を組んで鼻でフンと息を吐いたアスカは、至極当たり前のことのような顔つきで、目の前に座る男の子に告げる。
「ご丁寧に二度も言われれば、閉じ込めた情景だって蘇るわよ」
組んでいた腕を解いたアスカは、目の前の男の子の姿をじっと見つめる。
「忘れてたんじゃない。思い出したくなかった。あのバカに、二度と逢えないと思いたくなかったから」
アスカは一度、眼を閉じた。再び開いたその瞳に、確かな光が灯る。
「でもね、わたしはわかった。そして決めた」
その想いを確かなものとして、アスカはその子に、そして自分に、宣告する。
「わたしは、二度でも、何度でも――あいつに逢うわ。世界が変わっても、時空が捩じれても、わたしはあのバカを探し出してみせる」
アスカの眼前には、紅いプラグスーツを纏って横たわるアスカと、蒼いプラグスーツの膝を抱えて座り込む、シンジの姿があった。
アスカはその情景を、懐かしい想い出のように眺める。
『良かった、また逢えて。これだけは伝えておきたかったんだ』
『ありがとう、僕を好きだと言ってくれて。僕も、アスカが好きだったよ』
『さよなら、アスカ。ケンスケによろしく』
◇
ガタンゴトンと列車が奏でる音が、再びアスカの耳に聞こえてきた。心地の良い振動が、緑色のシートを通じてアスカの体を揺らす。目の前には、幼い少年の姿が再び現れた。
「これで、碇シンジの物語はおしまい。お姉ちゃん、どう? イヤになった? 帰りたくなった?」
アスカは不敵な笑みを湛えて、腰に手を当てて胸を張り、その男の子に確かな口調で告げる。
「あったりまえじゃない。あのバカを、ますます連れて帰りたくなったわ」
アスカの前に座っていたその男の子は、一瞬、驚きの吐息を漏らした。眩しい逆光の中、僅かに緩んだその男の子の口元だけが、アスカからは確認できた。
その姿は、終わった映像を追いかけるように、そこから消えた。そして、その声が、何処からか聞こえてきた。
「……ありがとう、アスカ」
列車は静かに停車した。ガタガタと滑車の音を立てて、車両の扉が開く。アスカはすっくと立ちあがり、車両を降りていく。
アスカの眼前には、広く青い海と、真っ白な砂浜が広がっていた。眩しい太陽の光に、アスカは思わず手をかざし、目を細めてその砂浜を見た。
小さく、人影が見えた。
アスカの心が震えた。痛い程に激しく。
アスカの視線のその先には、膝を抱えて座り込む、一人の姿があった。
息を呑み、次の瞬間には、その後姿を目指してアスカは駆け出していた。
顔が見えなくてもわかる。姿が変わっていてもわかる。そこにいるのはあいつだった。アスカの全身の毛穴が開き、身体中の血潮が沸き立った。
まさにその時だった。
アスカの眼の前で、大地が割れた。割れた大地からは光の川が現れた。白い砂浜が、その人物の背中が、一気に遠ざかっていく。
「シンジ!」
アスカは叫んだ。力の限りに。しかしその声は、白い砂浜に届かない。
「シンジ! シンジ! シンジ!」
小さくなっていく、その後姿。その姿は、何かに気づいたかのようにふらりと立ち上がり、こちらに顔を向けた。だがアスカは、遠くなっていくその顔を、確認することは出来なかった。
アスカは叫んだ。
「何とかしなさいよ、バカシンジ!」
だが、遠ざかるその姿に、アスカの声は届かなかった。
11.きみはともしび
声を聞いたような気がした。
「……アスカ?」
そんな筈はないじゃないか。バカだな、僕は。
僕は戻ってきた。この、僕のいるべき世界に。
目の前には広く青い海が広がっていた。青空からは燦燦と日差しが降り注いでいた。僕は白い砂浜に膝を抱えて座っていた。でもその光景さえも、僕にとっては意味のあるものではなかった。僕が望めばそれは、
如何様にでもなってしまうものだった。
「大人になったアスカ、綺麗で、カッコよかったな」
厨房の中から初めて見た“式波部長”に、僕は戸惑った。ピンと張りつめていて、何かに追い詰められているように見えた。でもその姿は、アスカ自身が言ったように、少しずつ変わっていったように思えた。
アスカが大学に戻ると言った時、僕はとんでもなく驚いた。アスカの言葉にも、その表情にも。アスカが綾波のことをあれほどまでに考えていたなんて、僕は想像もしなかった。そしてその時のアスカの表情は、本当に綺麗で、凛々しくて、優しかった――。
僕は大人になったアスカの姿を思い浮かべながら、砂浜に背を預けた。僕の姿はふわりと消えて、次には新たな姿が現れた。
「アスカと並ぼうとすると……こんな感じかな」
僕の姿はあの頃の少年から、年相応の青年に変わった。手足は伸び、顔つきも少しだけ角ばってきて、体つきもそれなりに男らしくなっていた。
「バカだな。今更、姿かたちをアスカに合わせたって……」
僕は今、アスカのことしか考えられなかった。
『あなたにあれこれ言われる筋合いはない』
『それが何だって言うのよ! あんたはシンジでしょ!』
『あの時も、そして今も。シンジ、あなたのことが好き』
でも僕は、アスカのために何も出来ない。
アスカの言うとおりだ。何様のつもりなんだ、僕は。
◇
僕とアスカの、その最期の日々。
明日はアスカがヴンダーに戻る日だった。僕がケンスケの所に帰った時、そこにはアスカと、ケンスケがいた。
それは別に、珍しいことじゃなかった。でも、その時のアスカは、僕が今まで見たことがない顔をしていた。ケンスケに向けるアスカの顔は、ケンスケのことを信頼しているような、それだけじゃなくて、ケンスケに心を許している顔のように、僕には見えたんだ。
僕はわかった。僕は、ふたりの間には入れない子供なんだって。
白いプラグスーツを
纏ったマリさんの腕が、ぬっと僕の視界を覆った。
『だーれだ』
僕はあの時、アスカに振り返ることが出来なかった。
『最後だから訊いておく。わたしがあんたを殴ろうとした訳、わかった?』
アスカの声が、つい今しがた聞いたかのように、鮮明に蘇ってくる。
その時の僕の答え。それにアスカが満足したのかは、わからない。でもアスカは、こう言ってくれた。
『ちっとは成長したってわけね』
僕は、綾波の、アスカの、みんなのおかげで、ヴンダーに乗ろうと思った。何が出来るのかはわからなかったけれど、みんなに応えたいと思った。
でも、アスカのその言葉も、僕は黙って聞くことしか出来なかった。
『――最後だから言っておく。いつか食べたあんたの弁当、美味しかった。あの頃はシンジのこと好きだったんだと思う』
本当は、アスカの顔が見たかった。もっとちゃんと話がしたかった。
でも、僕はケンスケじゃない。アスカを支えることは出来ない。僕に出来ることは、ただアスカを受け止めることだけだと思ったんだ。
『でもわたしが、先に大人になっちゃった』
子供の僕は、アスカの想いを受け止めることすら、出来なかったんだ。
◇
何故か、ピアノの音色が聞こえた気がした。
『だから君に惹かれた。幸せにしたかったんだ』
僕に逢うために生まれてきたと言ったカヲル君。そんなカヲル君に新しい世界で幸せに生きて欲しいと、僕は願った。
『えぇ、それはあなたの幸せだったんです、渚指令。あなたはシンジ君を幸せにしたいんじゃない。それにより、あなたが幸せになりたかったんです』
僕は加持さんの姿を借りて、カヲル君に向かって確かにそう言った。
僕の中で、一つの線が繋がった。
――そうか。そうだったんだ。
アスカを幸せにしたかった。だからケンスケに託した。
でもそれは、アスカの幸せじゃなかった。僕の幸せだったんだ。
『シンジ君は、安らぎと自分の場所を見つければいい。縁が君を導くだろう。また逢えるよ』
アスカとはまた逢えた。一度じゃない、二度も逢えた。でも、僕はその大切な縁を、自分で切ってしまったんだ。
目の前には、青い空間が広がっていた。多分、青空なんだろう。
『アスカはアスカだ。それだけで十分さ』
僕は、その言葉と共に、ケンスケにアスカを託した。そうすればアスカもきっと幸せになれると、ずっと思い込んでいたんだ。
その僕にアスカは――。
『わたしが傍にいて欲しいのは、古今東西、全宇宙を探しても、あのバカ一人だけ』
僕はそこで眼を閉じたまま、呼吸さえ忘れたようにその身を横たえていた。
長い時間が過ぎた。この世界で時を数えることに意味はないけれど、多分、呆れるほどの時間だったんだろうと思う。僕は久しぶりに、両眼を開けた。目の前の空間は、変わらず、青空のようだった。
一つ、瞬きをしてみた。するとその青い空間は、幕を引くように、漆黒の星空に変わった。
「アスカと観たプラネタリウム、楽しかったな」
僕の瞼の裏には、大きな天の川が浮かんでいた。
「七夕、か。もうすぐだったんだよね」
僕が星を好きになったきっかけを、僕の七夕の話を、アスカは楽しそうに聞いてくれた。それは既に、遠い記憶のことのように思えた。
僕はアスカに、僕の七夕の思い出話をした。先生の所での初めての七夕。僕はそれを、とても楽しみにしていたんだ。
「そう言えば、七夕に僕はお願いをしたっけ。外国で逢ったあの子に、もう一度逢いたいって」
僕は今まで、願いを掛けたことも、その女の子の事も忘れていた。
「七夕に願ったあの女の子。あの子は――」
何故か、胸がズキリと痛んだ。
僕は何かを、思い出そうとしていた。
僕の意識は、現在から過去へと、僕の意識を紡いでいく。
その時の情景が、薄ぼんやりと僕の脳裏に蘇ってくる。
そうだ。僕はその女の子を忘れていたんじゃない。想い出したくなかったんだ。心の奥に封じ込めていたんだ。だってそこには、父さんと母さんがいた。子供の僕にその思い出は、辛すぎたんだ。
でも、僕は今、想い出さなくちゃいけない。
ずっと昔に父さんと母さんと一緒に赴いたそこは、雪が降る寒い異国だった。幼い僕は、初めて見る雪に驚き、喜び、そしてそこで、一人の女の子に出逢った。
同じくらいの年だっただろうか。ニット帽を被り、縞々のマフラーをグルグルに巻いてリュックを背負った、金色の髪と蒼い眼の女の子。淋しそうな顔をしていたその子は、僕がその次に見掛けたときには、座り込んで俯いていた。僕は数歩近づき、声を掛けようとしたけれど、そこから先の一歩を、どうしても踏み出せなかった。何故ならば、その女の子は、泣いていたから――。
僕の背中に、ビクンと電気が走った。
ケンスケに託した幼いアスカの姿も、僕の中に蘇ってきた。
あの時、ケンスケに託したアスカも、淋しそうに泣いていた。
異国で逢ったあの女の子は、アスカと同じ、金色の髪と蒼い眼をしていた。
幼いアスカの姿と、異国で出逢った女の子の姿が、合わせ鏡のように重なった。
「――僕はあの時、アスカに逢っていた?」
そうだ、あの子はアスカだったんだ。僕はアスカに逢っていた!
なんてことだ。僕は何度もアスカに逢っていた。
そうだ。僕はもう一度、アスカに逢わなくちゃいけない。逢って伝えなくちゃいけない!
僕は立ち上がって砂浜を踏み締めた。周囲を見回して、天を仰いだ。
何処からか、声が聞こえたような気がした。
「アスカ……?」
僕は海を背にして、声の在り処を探そうとする。だが、人の姿はもちろん、何一つ、動くものさえ見当たらない。
僕はまた天を見上げて、その瞳を閉じた。
また、その声が聞こえた。
「何とかしなさいよ、バカシンジ!」
その声はかつて、僕を十四年の眠りから呼び覚ました。
その声はかつて、アスカを護りたい僕の想いに響いた。
その声は今、時空を超えて僕に届いた。
アスカの声を、姿を求めて振り返った。
幕が開いたように何もなかった砂浜が割れて、光の川が現れた。
広い光の川の向こうに、その姿が見えた。
僕が縁を切ってしまったはずの、その姿が――。
「アスカ!」
僕は叫んだ。アスカだ。アスカがいる!
わけがわからない。なぜそこにアスカがいるんだ。僕は蜃気楼を見ているのか。
「……ジ!」
微かにアスカの声まで聞こえる。僕は遂に狂ってしまったのか。
「ガキじゃないなら、何とかしなさいよ!」
その声がまた、確かに聞こえた。やっぱりアスカだ!
僕は目を凝らして、豆粒のように小さく見えるその姿を見た。間違いない。アスカだ!
僕は手を振り上げて、光の川を消し去ろうとした。でもそれは消えない。何故だ。何故僕の思い通りにならない。青空だって瞬時に星空に変えられるのに。
僕は力を込めて、何度も光の川を薙ぎ払おうとした。でも光の川は微動だにせず、悠々と僕らの間を流れていた。僕は意を決して、光の川に足を踏み込もうとした。消せないのなら、自分の力で渡るだけだ。
バン!
僕は光の川に弾き飛ばされ、叩き付けられて砂を噛んだ。畜生、どうしてだ!
何度やっても同じだった。どうなっているんだ。この世界はすべて、僕の思い通りになるんじゃなかったのか。
僕はアスカに逢わなくちゃいけないのに。僕はアスカに逢いたいんだ!
僕は願った。アスカのことをただ想った。
雪の降るドイツで逢ったアスカ。
初対面で僕を罵倒したアスカ。
僕の弁当に眼を丸くしたアスカ。
特別にアスカでいいと言ってくれたアスカ。
弁当がなくて怒ったアスカ。
十四年振りに再会した眼帯をしたアスカ。
ガラス越しに僕に殴り掛かったアスカ。
第13号機のエントリープラグから僕を助け出したアスカ。
僕に裸を見せても平気だったアスカ。
僕に無理やりレーションを食べさせたアスカ。
ケンスケと特別な関係に見えたアスカ。
僕に別れを告げたアスカ。
イマジナリーの中でまた出逢ったアスカ――。
僕の中で、何かが弾けた。
僕は、無数に光る星の渦の中にいた。数多の光に包まれていた。
僕は探した。アスカは、アスカは何処だ! ここでアスカを見つけられなかったら、僕が生きている意味がない!
アスカ!!
向こうで、ひとつの星が瞬いた。
僕はもう一度叫んだ。アスカ!!
一筋の光が、僕の足元からその星に伸びて――。
◇
波の音が聞こえた。
僕は、砂浜に横たわっていた。
目を開けるとそこには、僕を見下ろす彼女が立っていた。
長い金髪に空色の瞳。ヴィレの制服を着た彼女は、腰に手を当てて仁王立ちしていた。
彼女の背後には、光の川――天の川に、真っ白な橋が架かっていた。
「シンジ……」
「アスカ……?」
アスカが、僕の名を呼んだ。僕はアスカの名を呼び返すことしか出来なかった。様々な気持ちが渦巻きすぎていた。数多の想いに押し潰されていた。そんな僕を見て、アスカは笑いもせず、怒りもせず、白い死装束を纏っていたあの時と同じように言った。
「生意気に、身体もちっとは成長したってわけね」
そしてアスカは、小さく鼻で息を吐いてから、呆れたような、それでいて可笑しそうな顔をして、僕に言ったんだ。
「姿かたちが変わったって、あんたのことはわかるわよ」
12.Repeat
「バカシンジ。助けてくれないんだ、わたしを」
シンジの傍に仁王立ちするアスカは、砂浜に背中を預けたままのシンジを見下ろして、無表情に言った。ふたりの間には幾多もの記憶や想いが大河のように流れ、言葉を失ったように、ふたりは互いの顔を見つめるだけだった。
だがアスカは、記憶の一点に心を留めて、僅かばかりに口元を緩めた。
「あの時、同じこと言ったわね」
横たわるシンジは、アスカを見つめたままだ。
「――それでもいいわ」
アスカは、吹っ切れたような笑みを、そこに浮かべた。ふたりの視線はまっすぐに、そのまま繋がっている。
アスカはその頬を、スッと引き締めて続けた。
「あの時シンジは、わたしを見てくれなかった。でも今は、そうじゃない」
アスカの胸中には、緩やかな満足が浮かんだ。だがアスカはそれを押し殺しながら、シンジに向かう。
「わたしはシンジに、何度も助けられた。だから、今度はわたしが助ける番」
瞼をピクリと瞬かせたシンジにアスカは、表情を変えずに重ねて言う。
「わたしだけじゃない。みんながシンジを待っている。ケンケンも、リツコも、マヤも、たぶん北上ミドリも」
「そして、エコヒイキも、渚カヲルもね」
そうしてアスカは、横たわるシンジに手を伸ばした。
「さ、帰るわよ」
アスカの言葉に半身をを起こしたシンジは、差し伸べられたアスカの手をじっと見つめた。だが、シンジの手は、砂の上から動かない。差し伸べられたその手の白さを見つめながら、シンジはアスカに応える。
「僕はここで、みんなのことを想った。そして、エヴァが無くてもいいように、世界を書き換えた」
シンジは顔を伏せた。アスカの瞳から、シンジの顔が消える。
「僕の役割は終わった。僕はもう、満足なんだよ。だから、僕はここにいる」
顔を伏せたシンジの背中には、彼の固い意思が浮かんでいた。アスカはその背中をじっと見たままに、彼の言葉を待つ。
「でも、ひとつだけ、後悔していた」
顔を伏せたままでシンジは、その気持ちを砂に吐露する。
「僕はアスカに、何も出来なかった。アスカのためだと思っていたことは……ぜんぶ、僕の、勝手な……思い込みだった」
咽るようなシンジの声を、アスカは黙って聞く。
「ケンスケに、アスカを……託した。それが、アスカの幸せだって……思い込んでいた。でも――」
込み上げる想いに
嗚咽びかえるシンジを、アスカはただ、黙って待った。
「ごめん、アスカ。それは、アスカの幸せじゃ……なかった。もう二度と……逢えないと、思っていた」
やがて、その顔はゆっくりと上を向き、アスカの瞳を再び見つめた。
「アスカ、来てくれてありがとう。それだけで僕は、十分だ」
アスカの手を見つめながら、シンジはゆっくりと立ち上がった。
アスカは僅かに視線を上げ、頭半分上から向けられる、シンジの視線を受け止める。
「アスカが来てくれた。それだけで僕は、もう十分だ。でも僕は、アスカのために、何も出来ない。だからアスカは、みんなのところに帰って欲しい。僕は、ここに残る」
アスカは差し伸べていた手を腰にやり、フンと小さくため息を吐いた。
「そう言うと思ったわよ。あんた、頑固だもの」
呆れ顔を浮かべつつ視線を切ったアスカは、シンジにもう一度顔を向けた。
「なら、わたしの前に現れた帆風ユゲジはなんなの? あんた、本当は帰りたいんじゃないの?」
じっとシンジを見つめるアスカの視線に彼は、乾いた淋しそうな薄笑いを見せる。
「……でも、ダメなんだ。これが僕のケジメなんだ。僕は一度、世界を滅茶苦茶にした。そんな僕が、人並みに生きていいはずがない」
そしてシンジは、アスカから視線を逸らした。奥歯を噛み締めて、白い砂にその気持ちを投げ捨てる。
「だから僕は、ここでずっとみんなのことを見ていくって決めたんだ」
そこに捨てられたシンジの想いを探すように、シンジが睨みつけているその先を、アスカはじっと見た。ひとつ、大きく息を吸ったアスカは、想いを整えながら、ゆっくりと息を吐く。
「……わかった」
アスカは、シンジを真っ直ぐに見た。
アスカは、シンジの応えを期していた。
アスカは、自分の心を決めていた。
アスカは、秘めていた想いをシンジに明かす。
「それなら、わたしもここに残る」
「え!?」
その告白にシンジは、とっさに顔をアスカに向けた。
「独りじゃ淋しいでしょ。一緒にいてあげるって言ってんのよ」
「そんな! ダメだよ! アスカは向こうで……」
感情を封印したかのように淡々と告げるアスカの表情に、シンジは血相を変えた。だがアスカは、シンジのその顔色にも、眉一つ動かさなかった。
「あんた、知ってるでしょ。わたしはエヴァの為に作られたのよ。そのエヴァが無くなった。じゃ、わたしが生きる意味はなに?」
「それは……でも、医学を勉強するって……」
アスカの言葉は、ずしりと重くシンジに降り掛かる。口籠り、たどたどしい様子で、それでもシンジはアスカから目を逸らさなかった。
「うん、それはわたしが見つけた、一つの目的。でもね、それはわたしじゃなくても出来る。だけど、あんたといてあげられるのは、わたししかいない。そうでしょ」
アスカは真っ直ぐにシンジを見つめたままだ。
「……でも」
「でも、なによ」
シンジはアスカを見つめたまま、何も言えなくなった。その沈黙にアスカの表情は、何かを察したようなものに変わった。
「そっか、コネメガネがいたっけ。コネメガネと仲良くやってるのね。わたしの出る幕は――」
「違う! マリさんは、マリさんは、ここにはいない。マリさんは、僕を見守ってくれているだけだ」
大きく見開いた揺らぎのない眼で、シンジはアスカを見返した。アスカはフンと息を吐くと、呆れたような顔でシンジに告げる。
「ならいいじゃない。何より、わたしがそうしたいの」
自明の事のように、迷いのない意志をアスカはそこに表す。
「ここから、みんなのことをずっと見ていくのも……悪くないかもね。シンジと一緒ならさ。みんなが年を取って、そして死んでいっても、わたし達はずっと変わらないまま。みんなの子供やその孫の生きる姿を見守るのも……悪くない」
そしてアスカは、優しい笑みを、シンジに投げ掛けた。
「シンジとなら、退屈しないで済みそうだしね。揶揄い甲斐があるから」
そうしてアスカは、口惜しい想いをその目元に、僅かばかりに浮かべて言う。
「シンジのご飯が食べられないことだけが……残念だけど」
アスカが見つめるシンジは、一言も発することが出来ず、その顔には驚きと戸惑いが張り付いていた。アスカはシンジのその面持ちを真っ直ぐに受け、彼の言葉を待つ。
「アスカ……」
「なに?」
「アスカは、どうしてそこまで……」
シンジのその一言に、アスカは露ほども迷いも見せず、諭すように、されど目元には微かな笑みも浮かべて、シンジに告げた。
「シンジって、やっぱりバカね。あの時言ったでしょ。わたしがシンジのことを好きだからよ。好きな人とずっと一緒にいたい。それだけのことよ」
表情を変えることなく、アスカは続ける。
「そういうシンジはどうなのよ。わたしと一緒にいるのはイヤなの? 迷惑?」
「そんなわけないじゃないか!」
シンジもまた、一欠片の迷いも交えずにアスカに返した。
「僕はずっと、アスカのことを考えていた。アスカに幸せになって欲しいと願っていた。時間だけは、たくさんあったからね」
シンジは想いを確かめるように、一拍を置いて告げた。
「だから、帆風ユゲジの姿で、アスカの幸せを探しに行ったんだ」
暫時、シンジは黙り込んだ。そして、アスカとのもうひとつの縁を、伝えたかったことを、アスカへの想いを、言葉に変えていく。
「僕は想い出した。僕は幼いころ、アスカに逢っている」
蘇ってきたその記憶と想いを伝えようとするシンジを、アスカはただ黙って受け止める。
「雪が降る寒いドイツで、僕は一人の女の子と巡り逢った。僕はその子と仲良くなりたかった。でも、その子は泣いていた」
シンジは一時、言葉に詰まった。
「僕はその女の子に、泣かないで欲しかった。笑顔を見てみたかった。でも、幼い僕に、そんなことが出来るはずもなかった」
シンジは苦しそうな表情を隠さなかった。アスカは黙ったままで、シンジの言葉を待つ。
「その女の子は、アスカだったんだ。その時からアスカは、僕の中にいたんだ」
シンジはその苦さを彼の想いに加えて、今そこにいるアスカに告げた。
「アスカに笑って欲しい、アスカの願いが叶って欲しい。あの頃から、今でも、それだけが僕の望みなんだ。アスカの幸せが、僕の幸せなんだ」
苦しさに溺れたシンジの顔が、歪んだ笑みに変わっていく。
「ケンスケは大人だし、いい奴だ。僕はケンスケに、何ひとつ敵わない。ケンスケとなら、アスカは幸せになれると思った。だからあの時、あそこからアスカを送り出した時に、僕も嘘を言った」
アスカはシンジを見つめたままに、何も言わずにその想いを受け止めようとする。
「アスカのためだと思ってた。僕が出来ることはそのくらいだって、思っていた」
シンジの表情がさらに歪み、そこに悔恨が現れたように、アスカには思えた。
「でも、アスカに怒られちゃったね。余計なお世話だって」
アスカに向けられた自分を咎めるようなシンジの顔は、力ない笑みに変わっていく。
「アスカの言うとおりだ。僕はバカだ。いつも、何度も、手遅れになってから気づくんだ」
アスカが見つめたままのシンジは、堪えきれないかのように、視線をアスカから逸らした。白い砂浜にぶつけるようなシンジの言葉を、アスカはただ、受け止めていた。
「もう二度と、アスカには逢えないと思った」
数刻、シンジは顔を伏せたままで黙り込んだ。アスカからはその表情は窺えない。だがシンジは顔を上げ、その顔をアスカに向けた。そこには、嗚咽を必死に抑える、シンジの顔があった。
「でもアスカは、こんな僕を見つけに来てくれた――」
必死で笑顔を作ろうとするシンジを、アスカはただ見つめる。
再び堪えきれなくなったシンジは、きつく歯を食いしばり、視線をまた砂に落とす。
「だからこそ思うんだ。アスカは、アスカ自身の幸せを掴んで欲しいって」
砂浜に打ちつける波の音が、変わらず静かに聞こえていた。その音だけが、ふたりの間に流れていた。
アスカは細く長く息を吐くと、まじまじとシンジの顔を覗き込むようにした。やがてその顔は、呆れたような、それでいて優しく微笑むような、ふたつの想いを重ねたような色に変わった。アスカのその表情に、シンジは戸惑う。
「……アスカ、どう、したの?」
アスカはもう一度、大袈裟にため息を吐く。そしてまた、その複雑な笑みを、シンジに向けた。
「呆れたっていうか、安心したっていうか。ホント、あんたって変わらないのね」
アスカは鼻を鳴らして、目元に薄い笑みを浮かべる。
「鈍感。オマケにやっぱりバカね」
「……え?」
言葉を失ったシンジに、アスカは首をすくめて軽く苦笑いを浮かべる。
「シンジが自分で言ったでしょ。わたしの幸せがシンジの幸せだって。そういうことよ」
そこでアスカは笑みを消し去って、シンジの顔を正面から見据えた。
「わたしの幸せは、シンジが幸せなこと。わかる?」
アスカは、シンジの顔を真正面から射るように見て、そのまま続けた。
「わたしもね、シンジに幸せになって欲しいの。シンジに笑って欲しいのよ。一緒に笑いたいのよ」
そしてアスカは、シンジに向かって胸を張る。
「だから、わたしはここに残る。シンジと一緒にね。わかった?」
呆けたように聞いていたシンジの頬が、ヒクリと動いた。
シンジの肩が小さく揺れて、その眼はアスカを見つめ返す。
シンジの両手がアスカへ伸びる。
シンジはそこに想いを込めて、アスカの両手を強く握る。
シンジは寸刻面を伏せて、またその面持ちをアスカに向ける。
アスカが見たその表情は、泣き顔と笑い顔を行き来するように、複雑に揺れていた。
「アスカ……ごめん。僕は本当にバカだ」
震えるような、それでいて響くような声で、シンジは続ける。
「ありがとう。こんな僕を見つけてくれて。ここでアスカに逢えるなんて、思ってもいなかった」
その言葉を絞り出したシンジに、アスカは仄かな笑みを向けた。
「今だから言うよ。アスカが来てくれて、天地がひっくり返るほど嬉しかった。死んじゃうかもしれないって思った」
シンジは、更に両手に力を込めた。そして、喜びに満ちた顔を、アスカに向ける。
「僕の願いです。アスカ、僕と一緒にいてください。僕と一緒に生きてください。それだけが、僕の望みです」
蒼い眼を大きく丸くしてシンジを見つめていたアスカは、その瞳の色を優しく変えて、シンジとの距離を縮めた。
「バカね……あんたが天地がひっくり返るとか言うと、洒落にならないわよ」
アスカは自分の手を包むシンジの両手を、優しく解いた。そのまま両手を広げて、シンジを包み込むように抱きしめる。
「あんたがバカなことをしないように、このわたしが見張っていてあげるわよ。――ずっとね」
ふたりを見守るように流れる天の川の
畔で、ふたりは静かに抱き合った。
ふたりを妨げるものは、今はもう、何もない。
一瞬、ふたりの姿は消えて、そこには幼い男の子と女の子が現れた。仲良く手を繋ぎ、ニコニコと笑顔を向かい合わせていた。
続いて現れたふたりは、中学校の制服を纏っていた。昼休みの教室で、仲間と共に賑やかに弁当を食べていた。
その姿もやがて消えていく。
過去を巡ったふたりは、今まさに望む姿で、寄り添いながら砂浜に立った。
アスカはシンジを僅かに見上げ、シンジはアスカの腰に優しく手を回す。体温を感じるほどに身体を寄せ合ったふたりは、やがて互いを強く抱いていく。
「ありがとう、シンジ。あなたに逢えて、嬉しかった」
「アスカ、ありがとう。僕にこんな幸せが訪れるなんて、思っていなかった」
ふたりは
一時身体を離し、眼と眼を真っ直ぐに見合わせた。
見つめあうふたりは、巡りめく数多の記憶と想いを共に抱き、その笑みに、遥か彼方への道のりを誓った。
だがアスカはその笑みに、彼女の中に潜んでいた悪戯心を盛り合わせる。
「……ところでさ」
「なに?」
甘い口調で返したシンジに、アスカは爆弾を落とした。
「シンジって、エコヒイキのこと、今でも好きでしょ」
「な、なに? いきなり」
シンジの狼狽を楽しむようにアスカは、爆弾を投下した口に笑みを浮かべた。
「わたしね、ずっと、シンジはあの子のことが好きなんだって思ってたのよ。ううん、今でもそうだって思ってる」
そうしてアスカは、額を彼の胸に預けて、
一時、瞳を閉じた。
「ごめんね、シンジ。わたし、シンジのことをたくさん知ってしまった。そうしないと、シンジに逢いに来れなかった。シンジのあの子への想いも知っちゃった」
表情と言葉を失ったシンジに、アスカは素直な気持ちを伝える。
「でもね、それでもいいのよ。わたしがシンジを意識した時には、すでにあの子とシンジは一緒にいた。あの子を大切に想うシンジを、わたしは好きになった」
アスカは心の奥で、その少女の姿を思い浮かべる。
「その上で、バカで、頑固で、嘘を吐けないシンジが、わたしと一緒にいたいと言ってくれた」
シンジの胸から顔を上げて、真っ直ぐに彼の瞳を見たアスカは、その想いをそこに告げる。
「それだけで、わたしはシンジのことを信じられる。それがシンジの気持ちだって想える。だから、それでいいの」
シンジは暫し、言葉を失った。シンジの喜びは許容量を超え、高鳴った心を表す語彙は彼の中に見つけられなかった。
シンジの顔に赤みが差していく。その色は羞恥の色ではなく、喜びに震える色だった。だからシンジは、ただ実直に、彼の想いをアスカに伝える。
「アスカ……ありがとう。僕のことを知ってくれて。僕のことを信じてくれて。僕も、アスカのことを信じる。信じられる」
彼のただ真っすぐな
思恋を、アスカはその胸に刻んだ。
「アスカとなら、いつまでも一緒にいられる。一緒にいたい」
重なり合った影から、彼の声が漏れてきた。
「もう、これ以上の幸せはない」
抱き合ったままのふたりの姿が、ふわりと砂浜から浮かび上がった。
静かに、くるりくるりと宙を舞う。
ふたりの輪郭と宙の境界は、次第に曖昧になっていく。
その姿は徐々に色彩を失い、宙に溶けていく。
溶けていく光の中で、ふたりは互いを確かに見つめていた。
アスカにはシンジの、恥ずかしそうな、それでいて胸を張るような、混じり合う感情が見えていた。
シンジもまたアスカの、鼻を鳴らすような、それなのに満たされたような、重なり合う想いが見えていた。
「アスカ、何時までも一緒にいよう」
「あら、それってプロポーズ? ちっとは大人になったからって、生意気ね」
「ダメかな……」
「ダメだったら、こんなところまで来ないわよ」
「……ありがとう、アスカ」
「バカ。わたしが何年待ったと思ってるのよ」
長い時を経て、世界さえも飛び越えて、ふたりはようやく幸せを掴んだ。
ふたりは静かに笑みを湛え、互いを見つめたまま、その姿を光の粒に変えていく。
砂に足跡だけを残し、碇シンジと式波・アスカ・ラングレーは、その姿を昇華させていく。
そこにある確かな幸せと共に、ふたりは肉体を捨て、意識そのものの存在へと変わっていく。
イマジナリーの世界。そこにふさわしい存在に、ふたりは変容していく。
それはきっと、ひとつの幸せのかたち。
ふたりの物語は、そこでひとつのピリオドを打ち、新しい世界へ羽ばたいていく。
満たされた想いとともに、ふたりの姿は淡い光の渦へ溶けていく。
・
誰かが、ふたりを見ていた。
ふたりの直上で、キラリとひとつ、光が瞬いた。
天から、その声が聞こえた。
「ひめー。ワンコ君との進捗、
如何かにゃー?」
「コネメガネ!?」
宙に意識を拡散させつつあったアスカは、その言葉に針で突かれたように反応した。
その声が触媒となって光の粒が再び集結し、ふたりは
現の姿を取り戻す。
ふたりは再び、砂浜に降り立った。
「姫、お久しぶりだにゃー。美しく大人になった姫を見られて、私ゃ嬉しいよ」
「コネメガネ、出てきなさいよ! どこにいるのよ!」
天から降り注ぐその声に、シンジは空を見上げ、アスカは声を張り上げる。
「残念ながら、私は姿を見せられないんだにゃ。この世界の理でね。ごみん。申し訳ない!」
真剣さのかけらも感じられないその声が、アスカに懐かしく響いた。
「それに、私ももう姫とバディを組んでいた時の私じゃないからにゃ。もし街角ですれ違っても、姫は私に気づかないと思うよ」
僅かばかりに郷愁を感じさせる調子に変わったその声に、アスカは寸秒の間もなく反応する。
「ふん、見くびらないでよね。あんたのことくらい、姿かたちが変わったって、一発で見つけて見せるわよ」
「わオ! 姫の告白、頂いちったー! ワンコ君、妬ける? 妬けちゃう!?」
とぼけた調子に戻ったその声に、アスカは声を張り上げてその主を呼ぶ。
「ふざけてないで出てきなさいよ!」
「うーん、いくら姫の頼みでも、これだけはダメなんだにゃ。それに、私ゃワンコ君にこっぴどく振られているからねー。いやー、ワンコ君は頑固! 一途! 参った参った」
天からの声は、そのトーンに少しばかり、慈愛を乗せた。
「私はずっと、姫のことを見ていたよ。ワンコ君の報告みたいな独白も、勝手に楽しく聞かせてもらってた」
穏やかなその声に、アスカも、そしてシンジも、声を出すことが出来ずにいる。
「シンジ君、君はもう、十分に責任を果たしたよ。ここで長い長い時を過ごして、君は大人になった。もういいと思うよ」
そしてその声に、確かな意思が籠った。
「だから、ここからは私が引き継ぐ」
「マリさんは……それでいいの?」
何も言えずに空を見上げていたシンジは、両手をグッと握り締めて、天に問うた。
一瞬、吐息のような間があった。そしてその声は続く。
「私はね、ユイさんとの約束を果たすことが、唯一最大の望みだったんだよ。でも、途中でもう一つ、望みが加わっちゃった。姫の幸せを見届けたいという――ね」
その声には、優しさと、強さと、喜びが溢れていた。
「だから、私はここにいる。それが私の望みであり、幸せなんだよ」
迷いのない意志が、アスカに、シンジに、確かに伝わっていく。
「必ず連れて帰るって、艦長に約束したしね」
小さく笑ったようなその声はまた、アスカとシンジに深く響いた。
「それにここなら、叶わぬ夢だと思っていた、古今東西全て本を読むことも出来そうだからにゃ」
お道化た彼女のポーズを思わせるものに戻ったその声は、ふたりの心と身体に染みわたっていく。
「そうそう、姫が気にしているあの子、元気にしているよ。その時が来たら、きっと逢える。勉学に励んで、その時を楽しみにするといいよ」
アスカに伝えたその声は、頷くような間の後で、シンジにも向けられていく。
「それから、シンジ君が気にしてるあの彼も、ちゃんと元気だよ。必ずまた逢える」
その声は、ふたりの背中を優しく、力強く抱きしめた。
「だから君たちは、君たちの望みを、幸せを掴めばいいのさ――」
そうしてその声は、余韻もなく途絶えた。耳に、心に響いていたその声は、もう聞こえてこなかった。
その優しさに包まれながら、ふたりはお互いを見つめ直した。その声を、気持ちを受け取ったふたりの顔には、穏やかな笑みが浮かぶ。
「コネメガネに、大きな借りが出来ちゃったわね」
「……うん。返せるのかな」
不安を浮かべたシンジの言葉に、アスカはニヤリと口元を歪めて、楽しそうに言い放つ。
「そんなものはね、踏み倒せばいいのよ!」
アスカは天を仰ぎ、そこに気持ちを浮かべる。
『――そうよね、マリ』
ふたりが振り返るとそこには、ブルーグレーのエントリープラグが、あたかも最初からそこにあったかのように、ふたりの搭乗を待っていた。
シンジはそこに、自分の為すべきことを見つけた。その顔を傍らのアスカに向けて、そこに確かな気持ちを滲ませる。
そしてアスカに向けて、その手を迷いなく差し伸べた。
「さぁ、行こう、アスカ」
その手に、その言葉に、その表情に、アスカは声を呑んだ。
その手は、初めて差し伸べられた手だった。
その言葉は、初めて掛けられた言葉だった。
その表情は、初めて見た、希望に満ちた顔だった。
そしてアスカの瞳には、驚きに代わって、会心の笑みが浮かぶ。
アスカはシンジの手を取って、しっかりとその手を握り返す。
「うん、行こう」
◆
第13号機のエントリープラグに、ふたりは身体を滑り込ませた。そのシートに背中を預けたシンジは、懐にアスカを抱き抱える。
「ふたりで乗るの、なんだか変な感じだね」
ふたりは、顔を見合わせ、互いに苦笑いを浮かべた。
「……でもなんだか、懐かしい感じ」
「あ、アスカも? 僕もずっとずっと昔に、こんなことがあったような気がしたんだ」
アスカの笑みにシンジもまた、賛意を示して頬を緩めた。
「ふたりでエヴァに乗ったことなんてないのにね。でもそれも、面白いかもね」
顔を見合わせたふたりの顔からは、既に苦笑いは消えていた。穏やかさと満足を湛えて、ふたりは視線を交える。
「帰ったら、シンジは何をするの?」
シンジの体温を背中に感じながら、彼に背を預けて、アスカは訊く。
「そうだね、やっぱりみんなのためにご飯を作りたいかな。アスカと違って、僕が出来そうなことは、それくらいだしね」
「そっか。またシンジのご飯が食べられるんだ。みんな、きっと喜ぶわね」
その碧眼に穏やかな笑みを浮かべて、アスカはその情景に想いを馳せる。
「アスカはどうするの?」
「わたしは、あの子たちに借りを返したい」
「借りって?」
アスカは身を
捩って振り返り、そう訊いたシンジに向かって、ニンマリと笑った。そして、彼の額に自分の額を重ね、彼の瞳に映る自分の姿を見ながら、楽しそうにそう言った。
「あんたの事よ、バカシンジ!」
◇
七月八日深夜零時。ヴィレ技術部のラボに保管されている第13号機のエントリープラグのモニターが、ブンと点灯した。
プラグ内に、ひとつ、ふたつ、みっつと、光の粒が浮かんできた。その粒は、蛍のようにフラフラとプラグの中を浮遊し始め、その数は指数関数的に増えていく。その光の中で、キラキラと一際強く瞬く光の粒は、徐々にふたつのシルエットへ集結していく。エントリープラグの中から、眩いばかりの光が溢れ出してくる。
ラボ中に光が充満したように見えたその時、対消滅したかのように、スパッと光の渦は消えた。
そして、何事も無かったかのように、辺りは静けさを取り戻した。
第13号機のエントリープラグから、ふたつの頭が、ひょっこりと顔を出した。
碇シンジと式波・アスカ・ラングレーは、ふたりが生きる世界へと帰ってきた。
辺りを窺う四つの眼には、常夜灯の明かり以外には何も映らなかった。
「誰もいないね……」
思わず呟いた彼の顔を、彼女はじっと見つめた。彼もまた彼女の視線に応えて、彼女にその眼を向けた。
常夜灯だけが照らす薄暗いラボの中で、ふたりの瞳は、お互いの姿だけを捉えていた。
やがてふたりの間には、穏やかな笑みが零れる。
そしてどちらともなく、
啄むように、ふたりは唇を合わせた。
13.あなたに逢えてよかった
「ええ、わかったわ。合格おめでとう。そう、臨床研修はパリで受けるのね。大丈夫、こっちはこっちでうまくやってるから。戻ったら顔を出しなさいな。ええ、じゃ、楽しみにしているから」
電話を切ったリツコの目尻には、久しぶりの笑みが浮かんでいた。
「式波部長のご帰還か。さて、どうなることやら」
◆
リツコに報告してから、二ヶ月の後。わたしは三年振りに、パリの地に足を下ろした。三年間を過ごしたハイデルベルクからパリまでは、列車で四時間ほど。決して遠いわけではない。でもわたしは、その三年間はパリに戻らないと決めていた。あいつに逢わないと決めていた。それがわたしの覚悟であり、ケジメだった。
三年が経っても、パリの街並みは何も変わっていないように思えた。そのことに少しばかり安堵を覚えたわたしの口から、生欠伸が一つ出た。スーツケースをゴロゴロと転がして歩き始めたわたしの足は、久し振りの街並みに感慨を覚える暇もなく、そのペースを上げていく。
そしてわたしは、三年振りにそのアパルトマンの前に立った。三年前まで私が住んでいたその部屋は、今はそこを引き継いで、一人の人物が居住している。
エレベーターのボタンを押した。三年前から変わらぬその扉が開くのを、わたしは今か今かと待つ。
そしてわたしは、待ち望んだその扉の前に立った。
玄関ドアを前に、わたしは
躊躇ってしまった。予期せぬ緊張感に襲われてしまった。
あいつにどうやって逢えばいいかと、昨晩から何度もシミュレートを繰り返した。そのプランの数は二桁になった。でも、どれも今ひとつ。わたしの三年間を、三十二年間を、体現できるものではなかった。結果、昨晩はほとんど眠れなかった。
『どんな顔して逢えば……』
指紋認証センサーをじっと見て、わたしはそこで立ちすくんでしまった。この扉の向こうではあの笑顔が待っているはずなのに、その一歩を踏み出す力がない。
『ええい、悩んでも仕方がない!』
思いつめたわたしが手を伸ばそうとした、その時。
「あれ? アスカ?」
間の抜けた声が、背後から聞こえてきた。
背中に電気が走った。肩が震えた。
その声を、聞き間違えるはずもない。
身体を軋ませるようにして振り返ると、そこには、わたしが待ちわびた姿が、笑顔があった。
「シ、ンジ……」
わたしはそれ以上、何も言えなくなった。諸々のプランは全て、吹き飛んでいた。
だが、目の前のその男は、人の良いバカみたいな笑みを湛えながら、両手に持っていたスーパーのビニール袋をわたしに見せて、ニコニコと子供のように屈託なく笑って言った。
「アスカ、今帰ったんだ。ごめんね、ちょうど買い物に行ってて。でも、中で待ってればよかったのに」
わたしの昨晩からの悩みなど露ほども想像していないであろうその顔は、満開の笑みとなってわたしに言った。
「今日はアスカの帰還祝いだからね。頑張って作るよ」
そう言うと彼は、さっさとドアを開け、わたしのために道を開けた。すっかり気が削がれたわたしは、ハァと大袈裟にため息を吐くと、彼の隣をすり抜けてのそりと部屋に入ろうとした。
彼の視線がわたしの真横に来たその時、彼は不意に口を開く。
「あ、アスカ」
「……なによ」
わたしはすっかり不貞腐れた気分で、横目で彼を睨むようにした。すると彼は、そのにこやかな笑顔を、彼の想いが込められた笑みに変えて、わたしに投げ掛けた。
「おかえりなさい。これからも、ずっとよろしく」
その一言に、わたしはそこから一歩も動けなくなった。
その一言は、わたしに深く響き、心と身体に染み入ってゆく。
そうね。
あなたに逢えてよかった。
わたしには、その言葉を伝える
人がいる。
喜びに彩られたわたしの眼と口は、彼に、その言葉を伝える。
「――ただいま」
【了】
APPENDIX
Thanks to:
Repeat // 緒方恵美
1.再生 // Perfume
2.春よ、来い // 松任谷由実
3.君住む街へ // オフコース
4.君がその気なら // チャットモンチー
5.もうええわ // 藤井風
6.揺れる想い // ZARD
7.幸せは罪の匂い // 高橋洋子
8.君と暮らせたら // スピッツ
9.そして、僕が届かない // CHARA
10.誓い // 宇多田ヒカル
11.きみはともしび // サンボマスター
12.Repeat // 緒方恵美
13.あなたに会えてよかった // 小泉今日子
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