Repeat





第二部『破』





5.もうええわ


 アスカとユゲジが連絡先を交わしてから、約二週間後。昼休みの食堂は、いつものように混雑していた。
 アスカは窓際の二人掛けの席に座り、メンチカツ定食を一人で味わっていた。

「式波部長、ここ、いいっすか」
 頭上から降ってきた声にアスカが顔を上げると、そこには北上ミドリがトレイを持って立っていた。あの後、彼女もまたヴィレに留まることを選択し、今は技術部第四課課長の任を担っていた。
「北上課長、珍しいわね」
 アスカは意外だという顔を隠さずに表に出したが、ミドリは気にする様子も見せず、アスカの前にトレイを置いて、対面に座った。

「式波部長はメンチカツですか。美味いですよね、それ」
 食べかけのアスカの皿をチラリとみて、ミドリは手元の箸に手を伸ばした。
「でも、このカレーうどんも絶品っすよ。食べたことあります?」
 予期せぬミドリの登場に少々呆気に取られていたアスカは、ようやくその口を開く。
「それはまだ食べたことないわね。今度食べてみるわ」
「是非ぜひー。お勧めっすよ」
 ミドリはアスカの顔を一瞥することもなく、ズズズとカレーうどんをすすり上げた。
「気を付けないと跳ねるのだけが難点ですけどね」
 そう言ってミドリはまた、ズズズとうどんをすすり上げる。そのまま暫く、二人は会話も交わさず、目の前の食事に集中するようにしていた。

 ふと、ミドリが箸を止めた。
「式波部長、聞いてもいいっすか」
 その声にアスカが顔を上げると、ミドリはいつもの、とぼけたような不機嫌なような表情で、アスカをじっと見ていた。アスカはフッと小さく息を吐くようにする。
「用があったんでしょ。聞くわよ」
 アスカのその顔に、ミドリは表情を変えずに、そのぷっくりとした唇を開いた。
「式波部長、最近、男と付き合ってます?」

 それには流石に、アスカも目を丸くした。メンチカツを突いていた箸が止まり、ミドリの顔を見返すようにする。
「ウチの課の若い子が騒いでたんすよ。“あの”式波部長が男と食事をしていたって。まぁ、私はそんな噂話には興味はないんすけど、式波部長のことだったら、ちょっと話は別なんで」
 何も言えずにいるアスカに構わず、ミドリは続けた。
「相手はあの帆風って聞きましたよ。へーって感じですけど」
 ミドリは立てた左の親指で、背後の厨房を指し示すようにした。そして、その不機嫌なのかわかりにくい仏頂面を変えないままで、またカレーうどんを口に運んだ。
 呆けたままのアスカは、その真意を量るかのように、うどんをすするミドリをじっと見る。ミドリは顔を少し上げて、アスカの顔を上目遣いにチラリと見た。
「いいと思いますよ。相手の男には私は興味はないですけど、式波部長が選んだ男なら、きっといい男なんでしょ」
 そしてまたうどんをすすりながら、アスカの顔を見ないままで、ボソリと呟くようにした。
「帰ってこない疫病神を待つよりは、ずっと健全でしょ」

 そのまま暫く、ミドリは黙ってうどんをすすった。
 黄色い汁がピッと跳ねて、彼女は小さく舌打ちをする。彼女は胸元を確認するが、幸いにしてそれは、彼女の制服を汚すことはなかったようだ。それをきっかけにミドリは箸を止めたまま、その丼からアスカへ視線を動かした。

「ハッキリ言いますね。私は、疫病神は当然として、式波部長たちエヴァパイロットを憎んでいましたよ。でもエヴァパイロットに頼るしかなかったし、そんな自分たちの無力さにも腹を立ててた」
 そこでミドリは、肩の力を抜くように、小さく息を吐いた。
「でも、あれから一年経って、少し気持ちも変わったんです。碇ゲンドウは別として、その息子には同情する余地はあるかなって、思うようになったんす。疫病神を憎む気持ちが無くなったわけじゃないですけど、でも、どうしようもなかったのかな、ってね」
 そこでミドリは次の言葉を確かめるように、一つ息を呑み込む。そして、顔をやや伏せるようにして続けた。
「それは、式波部長に対しても同じです。あの頃、2号機パイロットに対しては苦々しい気持ちしかなかったんすけど、今はそう思ってないですよ」
 次第に真剣な表情に変わっていったミドリのその顔を、アスカもまた表情を変えることなく、そして一言も発することもなく、じっと見つめていた。
「だから、式波部長がいいと思うなら、それでいいと思います」
 そこまで言って、ミドリはまた、箸を動かし始めた。ズズッと黄色く染められたうどんをすするミドリ。その様子にアスカは、フゥと小さく息を吐く。
「ありがとね。気を遣ってくれて」
 そう言ってアスカは、ミドリに小さい笑みを向けた。その声にミドリはパッと顔を上げて、その笑みに目を見張った。
「初めてっすね、お礼言われたの」
「そうかもね。それ以前に、ちゃんと話したことってなかったでしょ」
「そーですね。話してみると、結構話せるもんですね」
 そこでミドリは、ニヤッと初めての笑みを見せた。だがすぐに先ほどの表情に戻って、アスカに真っ直ぐな顔を向ける。

「さっきの話に戻りますけど、式波部長は、自分の幸せをちゃんと考えるべきだと思いますよ。人類がどうこうじゃなくて。そう言うのはもう、十分でしょ」

     ◆

 アスカは一人、人気が疎らになった食堂の席に座ったままで、窓の外を眺めるようにしていた。
 雨が降っていた。鉛色のどんよりとした空だった。だがその空の色は、アスカの眼には映っていなかった。
 少し前まで対面に座っていた北上ミドリは、『じゃ、お先に』と一言だけ言い残して、さっさと立ち去って行った。それはきっと、ミドリなりの心遣いなのだろうと、アスカは思う。
『話してみないと、人はわからないわね』
 ふぅと、アスカは小さく息を吐いた。

『自分の幸せをちゃんと考えるべきだと思いますよ』
『そう言うのはもう、十分でしょ』

 先ほどのミドリの言葉が、アスカの頭の中で、静かに何度も響き渡る。
『心配されるほど、思い詰めて見えるのかな』

 この一年間の自分を、アスカは振り返る。
 ヴィレに戻ると決めたあの時から半年、リツコらと共にヴィレの立て直しに奔走した日々。更に半年、日本、欧州、米国、そして先のカナダと、調査のために飛び回った日々。それはもちろんケンスケとの約束を果たすためでもあったが、我武者羅がむしゃらに突っ走ったのは、それだけが理由でもなかった。
 自分の存在意義。アスカはそれを、探していた。エヴァのために作られた自分。エヴァが無くなった今、その事実は、アスカに自らのレゾンデートルを問い掛け続ける。自分に負荷を掛け続けないと、アスカは自分を見失ってしまいそうだった。

 この一年、世界のどこに行っても、エヴァの痕跡は跡形もなく消えていた。紅い世界も、正しく神の手によって修復されていた。それが碇シンジの仕業であろうことを、アスカは、そしてリツコも、疑っていなかった。
 だがその碇シンジの消息は、露ほども知れなかった。流石に疲れていたのかもしれない、アスカはそう、自らを眺めるようにする。そして自嘲する。
『わたしもヤキが回ったわね。あの頃は十四年待ったのに、平和になったらたった一年で根を上げるの?』
 アスカはチラリと、食堂の厨房の方に目を遣る。

 ミドリが言うように、アスカはユゲジと頻繁に会っていたわけではない。最初の昼食の翌週に、同じように昼食を一回、共にしただけのことだ。
 もちろん、二人の間には何も起こらなかった。ユゲジはアスカの話を静かに聞くようにして、アスカはそんなユゲジの態度を好ましく思っていた。それだけだ。だが、アスカがそのような行動に出たことは、ユゲジ以外になかったことも、また事実だった。
 アスカはふと、彼と書店で逢った時のことを思い出す。あの時どうして、自分は彼を昼食に誘ったのだろうか。確かに、街角で声を掛けられることが多々あってそれが面倒だと思っていたこと、それは事実だ。
 だからと言って、初対面に近い男を昼食に誘うのか? このわたしが? アスカは自問自答する。
 アスカは、自分の心がわからなかった。

 ガタリと椅子の音を立てて、アスカは背を伸ばした。
 柱の時計を見ると、時刻は十三時を三十分ほど過ぎており、食堂には疎らな人影しか残っていなかった。彼女は改めて、午後のスケジュールを思い浮かべる。今日は珍しく、一件の予定も入っていなかった。
「たまには……サボるか」
 アスカは胸ポケットからスマートフォンを取り出し、一件のメールを打つ。するとすぐにそれは振動し、新着メールを伝えた。
『問題ないわ。たまにはサボりなさい』
 リツコからのその返信にアスカは小さく鼻を鳴らすと、調査部課長全員に一斉メールを打ってから、席を立った。

     ◆

 その夜、アスカは自宅のキッチンに立って、真新しい包丁を握っていた。
 手元のタブレットを覗き込みながら、そして少女の頃の記憶を手繰り寄せながら、ぎこちない手つきで食材を捌き、フライパンを振るい、味付けを確認する。
 たっぷりと一時間ほどを掛けて、アスカはハンバーグを作り上げた。炊き立てのご飯と、具に苦慮した味噌汁を器によそい、不揃いなキャベツの千切りをハンバーグに和えた。もう一品のハッシュドポテトは、無理をせずにスーパーの総菜で済ませた。

「いただきます」
 あの頃からの習慣で両手を合わせたアスカは、独りの静かな晩餐を迎えた。メインディッシュは自分で作ったハンバーグだ。ユゲジの言葉を思い出しながら、それを口にするアスカ。ゆっくりと咀嚼する。
 お世辞にも、上々な味だとは言えなかった。でも、食べられない程に不味くもなく、十分に味わうことが出来るものだった。
『玉ねぎはもう少し細かく刻んだ方がいいのかな。焼き加減も、こんなに焼かなくて良さそうね』
 持ち前の探求心がムクムクと頭をもたげ、次はこうしようとアイディアを思い浮かべるアスカ。知れず、彼女の頬には、今日の満足が浮かんできた。
「ま、初心者にしては上出来でしょ」





6.揺れる想い

 午前三時過ぎ。アスカはムクリと目覚めた。
 起きざまに頭を掻きむしり、こめかみを押さえて頭を小さく降る。
「ったく、なんなのよ、この夢は」

 アスカは枕元のスマートフォンで時間を確認すると、ハァと大きく息を吐いて、ベッドを抜け出してキッチンに向かった。ココアを淹れようとしたところでそれを切らしていたことを思い出し、代わりにホットミルクを淹れて、そのマグカップを手にしてリビングに向かう。そのままソファーに腰を沈めて、マグカップを両手で握りしめたまま、瞳を閉じた。
 最近彼女は、頻繁に同じような夢を見ていた。ある時は、ヴィレの厨房で碇シンジが調理をしていた。またある時は、例の巨大な書店で碇シンジとアスカが出逢っていた。またある時は、碇シンジとアスカがオープンカフェで食事をしていた。つまり、帆風ユゲジの役を、碇シンジが代わって演じていた。更に笑えることには、その碇シンジは十四歳の姿のままだった。
 それはそうだろう。アスカは十四歳の碇シンジしか知らないのだ。だが、その姿で帆風ユゲジの役を演じるとなると、それは相当に滑稽だとしか言えなかった。アスカは眼を閉じたままで、ボソリと漏らす。
「寝られないよりはいいけど、これはこれでキツイわね」

 一口、また一口と、ホットミルクを飲みながら、ぼんやりと壁の向こうを見るようにする。知れず、その少年の姿を思い浮かべてしまう。
「自分の幸せ、か」

 ごく普通に生まれ育った人にとって、それは簡単にイメージ出来るものなのだろうか。アスカにとってそれは、実体のない蜃気楼のようなものに思えた。
 いくら追いかけても、絶対に近づけないもの。あるように見えて、実体が無いもの。無いとわかっていても、砂漠で遭難した旅人のように、そこにすがってしまうもの。
 アスカは残りのホットミルクを飲み干すと、ノソリとベッドに戻った。ウツラウツラと浅い眠りにつくまでには、それから小一時間ほどを要することとなった。

     ◆

 その週末、土曜日の正午。アスカは街角のカフェで彼を待っていた。待ち合わせの時間までにはまだ三分ほどあったが、キィッとカフェの扉が開くと、慌てたようなユゲジの姿が飛び込んできた。
「すみません、遅くなりました」
 申し訳なさそうに頭を下げる彼に、アスカは少しだけ呆れたような顔で、それでも目元を下げながら応えた。
「何言ってんの。まだ時間前じゃない。謝る必要なんてないわよ」
「あ、はい。そうですけど……なんだか申し訳なくって」
「気にしすぎ。わたし、そんなことで気を悪くしたりしないから」
「あぁ、そうですよね。スミマセン」
「ほら、それ」
「あ、はい、ご、いえ、その……」
 ユゲジのその様に、思わずアスカは吹き出してしまう。
「あなた、謝るのが板についているのね。まぁいいわ。とにかく座りなさいよ」
 その場に立ったままだった彼は、そこで初めて気づいたようにして、アスカの対面に腰を下ろした。

「悪いわね、また呼び出して」
「いえ、式波部長のお役に立てるのなら、僕は嬉しいです」
「そう言ってもらえると助かるけど……無理しないでね」
「はい、大丈夫です」
 ユゲジが席に着いたところで、ウェイトレスがメニューを持ってきた。それを受け取ったユゲジはページを開き、アスカに向かってそれを差し出す。適当にランチメニューを選ぶアスカに軽く頷き、ユゲジはウェイトレスを呼んで、ランチメニューを二つ、注文した。

 ウェイトレスがメニューを抱えて去ったところで、アスカは軽い口調で話し始めた。
「この前、ハンバーグを作ってみたんだけど、やっぱり難しいわね。あなたみたいには、とてもとても。ホント、あなたの凄さを思い知ったわよ」
 ユゲジはそのアスカの台詞に驚きも見せず、微笑みで応える。
「でも、式波部長も、やろうと思ったところが凄いですよ。その一歩を踏み出すのはなかなか大変ですから」
「そう? 確かにそうかもね。どうしてやろうと思ったのかは、自分でもよくわからないけど」
「どうでした? 楽しかったですか?」
「そうね、次はこうしようかな、とか考えたから、楽しかったんだと思う。ね、ハンバーグってパン粉とパンと、どっちを使うのがいいの?」

 滑らかに続くアスカの話を、時折相槌を打ちながら、ユゲジは楽しそうに聞いていた。他愛のない日々の話が続いた後で、アスカはふと、思い出したようにユゲジの顔を見た。
「そう言えば、星が好きだって言ってたじゃない? 何かきっかけがあったの?」
「そうですね……物心がついたころには星が好きだったんですけど、僕が小さい頃の話をしてもいいですか?」
「そうね、聞いてみたいわね」
 その眼に興味を浮かべて、アスカはユゲジに頷く。
「式波部長は『七夕』ってご存じですか?」
「たなばた?」
「ええ、元々は中国の伝説から来ているらしいんですけど――」

 ユゲジは楽しそうに、七夕の起源から始まって、日本での七夕の風習までを一通りアスカに語った。
「憶えてはいないんですが、僕が四歳か五歳のことだそうです。初めて七夕の話を聞いてその日を楽しみに迎えたら、その日は朝から一中雨だったそうです。そうすると織姫と彦星は会えないじゃないですか。可哀想だって、僕は大泣きしたらしいんですよ。どうやら、それをきっかけにして星に興味を持ったみたいです」
「へぇ、あなた、ロマンチストなのね」
「あはは、子供の頃の話ですよ。でも、今でもやっぱり、七夕が近づくと天気が気になっちゃいますね。もうすぐその七夕ですけど、今年は晴れるといいなと思ってます」
「去年はどうだったの?」
「去年は……僕のいたところはここじゃないですし……」
 ユゲジは微妙に語尾を濁して、返答を避けた。アスカは少しばかり訝し気な表情を見せたが、それ以上は気にする様子もなく、彼の顔を見て言った。
「今年は、晴れるといいわね」
「そうですね、なにせ一年に一回ですし」
 彼はそうして、天井の向こうの空を見上げるようにした。


「ごめん、これからヴィレに行かなくちゃいけないから、また今度ね」
 小一時間も経たないうちに、申し訳なさそうな表情を浮かべたアスカは、席を立とうとする。
「相変わらずお忙しそうですね。また調査があるんですか?」
「もうちょっと先だけどね。今度は大掛かりになりそうだから、色々と下準備とかね」
「そうですか。頑張ってください。でも、お体にはくれぐれも気を付けて下さいね」
「そうね。ありがと」
 ユゲジに軽い笑みを見えながら、テーブルに備えられた端末で、アスカは手早く会計を済ませた。
「あ、お会計……」
「いいのよ、わたしが誘ったんだから。ここはわたしの奢り」
 僅かに口元を緩めたアスカに、ユゲジは肩をすぼめて恐縮する。
「スミマセン……ありがとうございます」
「ん。気にしないで。じゃ、また今度ね」
 そう言い残して、アスカは足早に去っていった。座ったままでそこに残されたユゲジは、その後姿を、眩しいもののように見つめていた。

     ◆

 その晩、アスカはまた夢を見た。夢の中では碇シンジが、帆風ユゲジに代わって七夕の話をしていた。パチリと目覚めるアスカ。不意にアスカは、パズルのピースが嵌ったかのような、奇妙な感覚に囚われた。
『……あり得ない。そんなことが起こるはずがない』
 そう自分に言い聞かせるアスカだが、そこに浮かんだその『あり得ない仮説』を消すことは出来ず、それはアスカの片隅にこびりつくことになった。

     ◆

 数日後、とある会議の後で、アスカはリツコを捕まえて訊いた。
「ねぇ、リツコ。ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「なに? アスカ」
 アスカはチラリと周囲を見回して、小声でリツコに問う。
「あの……帆風ユゲジの生体データって、ある?」
「ええ、セキュリティ上必要だから、最低限のデータは取ってあるけど、それが何か?」
 アスカの様子を窺いながら、リツコは動じることなく、それでも声色を抑えてアスカに答えた。
「……そう。特に異常はなかったのよね?」
「そうね。特に何も聞いていないけれど」
「そう、そうよね……」
「アスカ」
「……なに」
 黙り込み、そのまま思考の深海に沈んで行きそうなアスカに、リツコは問いただすようにする。
「何を考えているの?」
「……別に。大したことじゃないわよ」
 リツコはそのアスカの横顔に、小さく息を吐いた。

     ◆

「マヤ、ちょっといい?」
 とある日の昼休み。アスカは食堂でトレイを手にして、独り窓際のカウンター席で昼食を摂っていた伊吹マヤに声を掛けた。
「あら、アスカ。久し振りね。どうぞ」
 彼女は変わらぬ童顔にパッと笑顔を咲かせるようにして、アスカを見上げて応えた。

 伊吹マヤ、技術部部長。
 彼女もまた当然のようにヴィレに残り、リツコと共に諸々の問題、課題に取り組んでいた。鬼軍曹と呼ばれるように、仕事中は厳めしい顔を崩さない彼女であったが、ここ一年程は、少なくともアスカに対しては、柔和な笑みを見せるようになっていた。アスカはトレイをテーブルに置き、マヤの隣に腰を下ろす。

「アスカはカレーうどん? 美味しいわよね、それ」
 アスカのトレイをチラリと見たマヤは、少しばかり声を弾ませるようにして言った。
「それ、北上課長にも言われた。ホントに評判がいいのね」
「北上課長?」
 マヤはその黒目をクルリと丸くする。彼女の頭の中では、その二人の接点は思い浮かばなかったのだ。
「そ。初めて話をしたけど、あの子、いい子ね。励まされちゃった」
 アスカのその言葉に、マヤはクスリと笑みを浮かべた。
「へぇ、あの北上さんがね」
 その言葉を合図にしたかのように、アスカは箸を手に、うどんを一口すすった。
「うん、確かにこれは美味しいわね」
「でしょ? 帆風くん、流石ね」
 マヤはアスカを横目でチラリとみて、目の前の生姜焼き定食に箸を伸ばした。
「この生姜焼き定食も相当にいけるわよ。今度食べてみなさいな」
 微笑みかけるマヤに、アスカは無言で頷いた。
 一口二口とうどんをすすった後で、アスカは周りを見渡すようにしてから、丼を見つめたままで、小声で呟くように言った。

「第13号機のエントリープラグ、なにかわかった?」
 マヤはピタリと箸を止めて、目の動きだけでアスカを見る。ケンスケのアジトにあった第13号機のエントリープラグは、その後、調査の為にヴィレ本部に輸送されていた。
「いえ、まだなにも。完全なるブラックボックスね」
「そう。どうしてあれだけが残されたのかしらね」
 アスカは自らを護るようにそこに残されていた、第13号機のエントリープラグを思い浮かべる。その状況証拠から一つだけわかっていることは、それは最終決戦のあった南極から飛来した訳ではなく、そこに『出現』したであろうということだけだった。
「それもわからないのよ。世界中、どこを探しても、エヴァの痕跡は全く無いわけでしょ。でも何故か、アスカがその中にいた第13号機のエントリープラグだけは、この世界に残された。何かしらの意味があると思うんだけど、残念ながら、まだ全然」
「プラグスーツや、ヘッドセットさえも綺麗サッパリ消え失せたのに、あれだけが何故か残された……」
「そうね。シンジ君の意図かはわからないけど、何かしらの理由がそこにあるのかと思うんだけど、ね」

 マヤもまたアスカやリツコと同じように、シンジがこの世界を再生したであろうことを、疑っていなかった。箸を止めていた自分に気付いたかのようにして、マヤはまた、豚肉の生姜焼きに箸を伸ばす。
「ごめんなさいね、役に立たなくて。シンジ君の消息を探る、大きなヒントのはずなんだけど……」
 マヤもまた、アスカへの気配りをそこに覗かせた。マヤのその口惜しそうな顔に、アスカは苦笑いを浮かべる。
『マヤにも心配されちゃったか』

     ◆

 二十二時過ぎ、アスカは少々難しい顔をしたままに、自宅アパルトマンのドアを開けた。
 その時刻はいつも通りの帰宅時間であり、特別遅いわけではない。だがその顔つきは、平素とは少々異なっていた。
 仕事を切り上げたアスカの頭に浮かんだのは、『あり得ない仮説』だった。否定する材料を探そうとするも、完全にそれを打ち消すことは出来ない。かと言って、仮説を裏打ちする証拠もない。なんとも落ち着かない、座りの悪い状態が続いていた。
 彼女はいつものように、夕食もヴィレの食堂で済ませていた。配膳の際には、帆風ユゲジの顔がちらりと見えた。彼は忙しく立ち回り、よい働きをしているようだった。部屋に入ってその様子を思い浮かべたアスカは、ふうとため息を吐く。
「あり得ないでしょ、やっぱり」


 それから数日後。帰宅途中のバスの中で、アスカのスマートフォンに、一通のメールが届いた。少々面倒臭そうにそれを確認したアスカの眼は、ピクリとその色を変えた。差出人は、帆風ユゲジだった。

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こんばんは。帆風です。
突然のメールで申し訳ありません。式波部長のスケジュールを確認したく、ご連絡致しました。
今週末の土日のいずれかで、半日ほどお時間を頂けないでしょうか。
お忙しいことはよく存じておりますので、無理は申しません。もし万が一、空いている時間がありましたら、とのお願いになります。
ご検討頂けましたら幸いです。
                   帆風ユゲジ

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 アスカはすぐに、週末のスケジュールを思い浮かべた。土日ともヴィレへ出向くつもりはなかったが、やるべき予定はそれなりに詰まっていた。だが、半日くらいは空けられないわけでもなかった。
『何の用かしら』
 彼からのこのような申し出は初めてであり、当然の疑問を、アスカは持った。だが彼の文面を見る限り、敢えて、その内容は伏せられているようだ。アスカは口元をフッと緩めると、すぐに返信を打ち始めた。

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土日のどちらでもOKだけど、土曜日の方がいいかな。
その方が、万が一の時にも融通が利くから。どう?
                    式波

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7.幸せは罪の匂い


 その週の土曜日の昼下がり、アスカとユゲジは凱旋門から程近い、つまりヴィレ本部からも目と鼻の先の、セーヌ川沿いの重厚な建物の前にいた。
「黙ってあなたに付いてきたけど、ここ?」
「ええ。ここでちょっと面白い企画がやってるんですよ」
 ユゲジが見上げた先は、パリの科学技術博物館だった。アスカも倣うようにしてその建物を見上げる。
 そのアスカの横顔を見ながら、ユゲジは楽しそうに言った。
「たぶん、楽しんで頂けるんじゃないかな、と思います」

 それから約一時間半の後、ふたりは博物館を後にして、その足をセーヌ川方面に向けていた。
「どうでした? 珍しい企画だったので、思わずお誘いしちゃいましたけど……」
「うん、良かった。プラネタリウムって初めて観たけど、なかなかいいものね。あなたが星が好きだっていうの、少しわかった気がする」
 少しばかりの不安を声に滲ませてアスカをチラリと見たユゲジに、アスカは確かな満足をその顔に浮かべて、ウンと自分に頷いた。
「良かったです。僕もパリのプラネタリウムで、まさか七夕の企画プログラムが観られるとは思いませんでした」
 満面の笑みを見せるユゲジに、アスカは頬を和らげた。
「そうよね。あなたの話を聞いたばかりだったから頭にスッと入ってきたし、ちょっと感動しちゃった」
「そうですか、お誘いした甲斐がありました」
 ユゲジの嬉しそうな顔を見て、アスカもまた、身体がスッと軽くなったような気分になる。
「どうしますか? カフェでお茶でもします?」
「うーん、それよりもちょっと歩かない? 天気もいいしね」
 アスカが見上げた空は、初夏に向かう明るい青空が広がっていた。

 セーヌ川沿いの通りを、ふたりはゆっくりと歩いていた。川面には何隻もの遊覧船が浮かび、左手奥にはエッフェル塔が見える。アスカはそれを見て、ふと思う。
『エッフェル塔も元通り。あのバカ、意外と隙がないのよね』
 そのアスカの様子を横目で見たユゲジは、アスカと同じように遠くを見るようにする。
 ふたりはそのまま、肩を並べて、静かな川の音を耳にしながら歩みを進めていた。

 不意に、ユゲジが口を開いた。
「でも、織姫と彦星はまだ幸せですよね。一年に一回でも、ちゃんと逢えることが約束されているんですから」
 ユゲジの唐突なその台詞にアスカは、一瞬だけ戸惑ったように、口をポカンとさせた。だがすぐに気を取り直した様子で、いつもの口調になる。
「まあ、そうとも言えるわね。一年に一回は、やっぱり可哀想だけど」
 何の気ないアスカの言葉に、ユゲジは暫く、口をつぐんだ。視線を落として、そこに何かを求めるようにする。
 アスカは何かを感じたのだろう、そのユゲジの様子に、小首を傾げて視線を向けた。そのユゲジの顔は先程とは違って、強い想いを秘めたような、固く噛み締められたものとなっていた。
 その視線に気づいたのだろうか。ユゲジは、真剣な眼差しを変えぬままに、小さな、しかししっかりとした声で、その決意を口にした。

「でも、いつ逢えるかもわからないよりは……ずっといいと思います」
「え?」
 アスカの声も聞こえないかのように、彼はそのまま、暫く無言だった。
 先ほどまでのにこやかな雰囲気は消え去り、その横顔には、思い詰めたような緊張が浮かぶ。彼の様子の急変にアスカの心は、冷や水を浴びせられたかのように静まり返った。
 彼は、心の奥底に沈んでいるものをやっとのことで汲み上げてきたような顔で、訥々とつとつと話し始める。
「支えてくれる人って、やっぱり大切ですよね」
「へ?」
 その台詞に、アスカは間が抜けたような反応しか出来なかった。思わずアスカは、ユゲジの顔を覗き込むようにする。
「式波部長は、恋人とか……」
 その一言はアスカから、一瞬で表情を奪い去った。それに気づかないはずもないユゲジだったが、彼の固い意志は、彼に言葉を続けさせた。
「もし良かったら……」
「あなた、なにを……」
 ふたりの足は、知れず歩みを止めていた。セーヌ川沿いの小路で傍目には寄り添うようにしたまま、ふたりは身動き出来なくなった。ユゲジは視線を足元に落としたままだ。アスカはそのユゲジの横顔から、眼が離せなくなった。
 アスカの胸には、小さな灯火のようなものが生まれた。だがしかし彼の言葉は、アスカが予想だにしない方向へ向かう。
「……僕に、紹介させてもらえませんか?」
「は?」
 アスカは正しく、耳を疑った。彼の言葉が理解出来なかった。
 目をまん丸に見開いたアスカは、次にはユゲジにその蒼く鋭い眼光を向けた。そのアスカの様子にも怯まぬ強い意思を示すかのように、ユゲジは顔を伏せたままに続ける。
「式波部長のお眼鏡にかなう人はなかなかいないと思いますけど、頑張って探します」
「こ……」
「いつ帰ってくるかわからない人を待つなんて、辛すぎ――」

 パンッ!

 平手打ちのような音がした。彼の言葉を遮るように、アスカは自分の太腿を自らの平手でピシャリと叩いて大きな音を立てた。

「――もういい」

 静かに、しかし心が冷える声色で、アスカは言い放った。そのままアスカは、ギリッと奥歯を噛み締める。
 その眼に蒼い炎を燃やしてユゲジを睨み付け、決して声を荒げることなく押し殺した口調で、アスカはユゲジに告げる。

「あなたにわたしの何がわかるっていうの? 誰に吹き込まれたのか知らないけど、大きなお世話。わたしがあのバカを何時まで待とうと、あなたにあれこれ言われる筋合いはない」

 眉一つ動かすことが出来ないユゲジに向かって、一言一言をハッキリと宣言するようにぶつけてから、アスカは鼻で笑った。
「挙句の果てには紹介させてください? ハン、笑わせてくれるわね。『僕じゃだめですか』とでも言い出すのかと思ったわたしがバカだったわよ。どこの馬の骨ともわからない男をあてがわれて、それで喜ぶような女だと思ってるの?」
 そしてアスカは、冷たい笑いを見せる。だがその笑いは、自らを嘲笑うようでもあった。

「お生憎様ね。わたしは理想が高いのよ。わたしが傍にいて欲しいのは、古今東西、全宇宙を探しても、あのバカ一人だけ」

 更に一瞥するように冷酷で鋭い視線をユゲジへ浴びせ掛けると、アスカはクルリと踵を返して、ユゲジに背を向けた。
「悪いけど、帰るわね」
「ちょ、ちょっと待ってください」
 足早に立ち去ろうとするアスカに向かって、ユゲジはとっさに動いた。その声と共にアスカの右手は、力強い手で掴まれた。
「離して」
「嫌です。今離したら、式波部長はもう二度と、僕と逢ってくれません。誤解されたままなのは嫌です」
「誤解ってなによ。わたしが間違っているっていうの?」
「そうじゃありません。でも、ちょっと聞いてください」

 ユゲジの右手は強く、温かかった。久し振りの他人のぬくもりに、アスカの瞳には狼狽の色が浮かぶ。暫しアスカは黙り込み、そして顔を逸らせたままで、細い声でユゲジに応えた。
「……わかったわよ。わかったから、離して」
 彼の躊躇いを窺わせる少しの間の後、アスカの右手首から、するりと力強さと温かさが消えた。

「まず、謝ります。ごめんなさい。式波部長のお気持ちに対して、思慮が足りませんでした。言い訳になっちゃいますけど、本当に悪気はなかったんです。とある人に、式波部長のことをよろしくって頼まれてしまって、どうしようかと悩んだ結果……本当にごめんなさい」
 深々と、ユゲジはこうべを垂れた。その言葉と態度には、彼の誠実な気持ちが現れていた。アスカはわかった。今日のユゲジの誘いは、このことを伝えるためだったのだ。アスカの中ではいくつもの感情の声が響き合い、収拾がつかない状態となっている。
「式波部長は、僕にとっても、とても魅力的な女性です。こうして一緒にいてくれるのが信じられないくらいです。高嶺の花です。でも、僕は、ダメなんです」
「何が、ダメなの」
 アスカはその一言を、ようやくの思いで絞り出した。ユゲジは顔を逸らせたままのアスカを真っ直ぐに見る。

「僕、帰らなくちゃいけないんです」

 アスカはピクリと、その頭を震わせた。顔を背けたままで、彼に問い掛ける。
「……帰る?」
「ええ、今すぐじゃないですけど、それほど長くは、ここにはいられないんです。帰ったら、僕を待っている人がいます」
 そこでアスカは、小さく息を吐いた。沸騰していた血液がスッと冷え、荒れ狂っていた血流が静かな脈動を刻み始めた。
「だからせめてと考えたんですが、やっぱり僕はバカですね。本当にバカだ。何と言ってお詫びしたらいいのか、わかりません」
 ユゲジはギュッと両手を握り締め、口元をきつく結んだ。自分への嫌悪をその眼に浮かべる。その眼は既に、アスカを見ることは出来ない。

 アスカは、ハァと大きくため息を吐いた。背けていた顔を上げて、顔を伏せたユゲジに、その面を向けた。ユゲジのその横顔には、悔悟かいごの情が張り付いていた。
 その表情にアスカは、一人の少年を思い浮かべる。打ちひしがれ、彼女に背中を向け、膝を抱えていたその少年の姿。すべてが裏目となり、世界を拒絶した少年の姿。だがその少年は、今――。
 世界は救われた。それはその少年のおかげだ。その想いをアスカは振り返る。
 アスカの肩から力が抜けた。そしてもう一度アスカは、目の前の青年の姿をじっと見つめた。フゥと、アスカは小さく息を吐く。

「……ホント、わたしが気に掛ける男はみんなバカね」

 その声はとても小さくて、ユゲジの耳には届かなかったかもしれない。それでもユゲジは、その手の震えをピタリと止めた。
 そうしてアスカは、今度ははっきりと、ユゲジに伝えるようにする。
「いいわよ、もう。悪気がないことはわかったし、あなたが単におバカさんだっただけでしょ。もういいわよ。怒ってない」
 その言葉に、ユゲジはノロノロと顔を上げた。だが、まだアスカの顔を見ることは出来ない。
「でも……」
「本当に怒ってないわよ。もう気は済んだ。バカに付ける薬はないって、わかってるから」
 そこでようやく、それでも恐る恐るといった様子で、ユゲジはアスカに顔を向ける。
「申し訳、ありませんでした」
 もう一度、ユゲジは深々と頭を下げた。その姿はアスカの口元を、僅かに緩めさせる。
「わかったわよ。もういいから」
 アスカは何かを吹っ切るように、空を見上げた。
「この天気に免じて、すべてを水に流すわよ」
「式波部長……」
「ちょうど目の前に、セーヌ川も流れていることだしね」
 アスカは眼の前をゆったりと流れるセーヌ川を眺めて、僅かばかり口元を緩めた。
「帆風ユゲジ。バカはバカらしく、さっさと忘れる! ほら、もう行くわよ」
 アスカはユゲジの背中をポンと叩き、胸を張って歩き始める。慌てるようにしてユゲジは、アスカの背中を半歩前に見ながら、アスカに倣って歩みを始めた。

 そのまま数分の間、ふたりは言葉もなく歩き続けた。アスカはテクテクと軽い足取りで歩を進め、ユゲジはそのアスカの半歩後ろを、背中を丸めるようにして付いていく。
 不意にアスカは、前を見たままで口を開いた。
「ね、あなたを待っている人って、どんな人?」
 ユゲジは目を丸くした。一呼吸また一呼吸と気持ちを整えるようにした彼は、その気持ちを言葉に変える。
「そうですね……僕を、護ってくれるような人です。男なのに護ってもらうっていうのも何だか恥ずかしい気もしますけど、もちろん腕力とかそういう意味じゃなくて、温かく見守ってくれるというか……そんな人です」
「へぇ、素敵な人なんでしょうね」
 ユゲジのその言葉に、アスカはユゲジを振り返り、どこか嬉しそうな声で応えた。そして次には、悪戯を思いついた子供のような笑みを、そこに浮かべる。
「でもあなた……ちょっとマザコン入ってない?」
 揶揄うようなアスカの眼だったが、されどそれは、ユゲジの表情を崩すことは出来なかった。
「そうかもしれませんね。なにせ僕、小さい頃に母と死別しているので」
 アスカの顔から、笑みと共に悪戯心が消えた。代わって強張りがアスカの表情を支配する。
「……ごめんなさい。悪いことを聞いたわね。ごめんなさい」
 アスカのその表情に、ようやくユゲジは、笑みを取り戻した。
「いえいえ、子供の頃の話ですし、気にしないでください」
 そうしてユゲジは半歩前に出て、アスカの隣を歩き始めた。

 そのままふたりは、最初からやり直すように、川沿いの小路をのんびりと歩いた。アスカはポッと口を開く。
「でも、そういうことなら、ふたりで逢うのはこれで最後にする。あなたを待っている人に申し訳ないからね」
 だがユゲジは、いつもの彼の笑みを取り戻して、アスカに応える。
「いえ、こうやってお話しするだけなら、彼女は何も言いません。それに、ちゃんと報告してますから」
「え?」
「式波部長のこと」
 ユゲジの言葉に、文字通りに目を白黒とさせたアスカは、脱力したように笑い出した。
「それはそれは。すべてわかった上なのね。お見それしました。参っちゃったわね」
 そうしてアスカは、楽しそうに、少しだけ悔しそうに、前を見たままに呟くように言った。
「それじゃ、まぁ、たまには話し相手になってもらおうかな」
 スッキリした頭で、改めてアスカは思う。
『やっぱり彼は違う。あり得ないことはあり得ない。当たり前よね』

     ◆

 アスカとユゲジが衝突した日から、ちょうど一週間後。ふたりはノートルダム大聖堂を臨む公園のベンチで、並んで座っていた。

「すみません、無理を言って」
「嫌だったら断ってるから。気にしないで」
 恐縮するようなユゲジの顔に向かって、アスカはにこやかに応えた。
「そういって頂けると、気が楽になります。この前のお詫びにお弁当でランチっていうもの何だかあれですけど、僕が出来ることで喜んで頂けることって、これくらいかなって……」
「うん、楽しみにしてた」
 アスカはユゲジに小さく笑みを零した。臆するような相変わらずの彼の様子を好ましく思ったわけではないが、それでも彼が彼たる所以として、アスカはそれを受け止めていた。
「ありがとうございます」
 ユゲジは更に身をすくめるようにしつつも、素直な気持ちをそこに表した。その表情に、アスカはもう少しだけ、表情を崩して言う。
「でも、なんだか彼女に申し訳ないな」
「いえ、彼女に逆に怒られちゃいましたから。君は女の子の気持ちが全然わかってないって。ちゃんとお詫びしなさいって言われました」
 ユゲジはアスカのその表情に、はっきりとした口調で応えた。それにはアスカも舌を巻くしかない。
「はぁ、凄い彼女ねぇ」
「ありがとうございます」
 今度はユゲジも、少しばかり胸を張るようにして応えた。

「どんなメニューにしようか、悩んだのですが……よくある日本風のお弁当にしてみました」
 ユゲジに手渡されたピンク色の包みを、アスカは両手で受け取った。それにはまだ、温かさが残っていた。
「開けていい?」
 コクリと頷いた彼の顔を横目で見て、アスカは包みを解いた。中からは箸箱と、アルミニウムの弁当箱が姿を現した。箸箱を手前によけて、銀色の蓋を、アスカはゆっくりと開ける。

 アスカは、強い既視感デジャビュに襲われた。
 そこにあったものは、アスカが少年への気持ちに気づいたきっかけだった。
 そこにあったものは、アスカが十四年の間、求めてやまなかったものだった。
 そこにあったものは、アスカが彼からの餞別だと思ったものだった。

 どれがどうというわけではない。目の前にあるひとつひとつが醸し出す、その雰囲気。それらがアスカにその存在を、強く訴え掛けてきた。目を奪われたようにアスカは、そのまま動きを止めた。

「式波部長、どうしました? 何か、嫌いなものでも……」
 不安げなユゲジの声に、アスカはハッと我に返る。
「あ、ごめんね、なんでもない。うん、すごく美味しそうね」
 慌てて取り繕ったアスカの姿に僅かばかり眉をひそめたユゲジだが、アスカはそれに気づかないような顔で箸箱を開けた。膝の上に置いた弁当箱を前に、アスカは両手を合わせる。そしてそのまま左隣のユゲジに顔を向けて、ニッと口元を緩める。
「あなたも一緒に食べるのよね?」
 そのアスカの声に、今度はユゲジが慌ててパタパタと包みを開き、弁当箱を取り出した。蓋を開けて、アスカと同じように膝の上にそれを置く。アスカはニコリと笑い掛けた。
「「いただきます」」
 ふたり揃って両手を合わせ、箸を弁当に伸ばした。

 そのまま暫しの間、ふたりは言葉もなく、箸を運ぶことに没頭していた。だがアスカの眼は複雑に揺れ動き、その色彩をふらりふらりと変えていた。
 アスカはふと箸を止め、弁当を見つめたままで、ユゲジに訊いた。
「あの、さ。どうして、このお弁当にしようと思ったの?」
 ユゲジはアスカの横顔をチラリと見た。そこには、どこか思いつめたような、強張りが現れていた。
 その横顔を暫く見つめていたユゲジは、向こうに見える大聖堂に視線を遣り、その時の想いを振り返った。
「そうですね、どんなお弁当にしようか、結構悩みました。どんなものなら式波部長が喜んでくれるのか、色々考えました」
 ユゲジは、向こうに見える二つの塔を眺めながら、それに至った彼の想いを話し始めた。

「式波部長のお話を、思い返してみたんです。そうしたら、式波部長の子供の頃のお話を思い出しました」
「言ってましたよね、気になる男の子がいたって。その子の料理が大好きだったって。なら、もしかして、お弁当を一緒に食べたことがあったのかな、と思いました」
 アスカはピクリと瞼を瞬かせた。表情は変えぬままに、瞳の動きだけで彼の様子を窺う。
「その時のお弁当を想像してみよう、それには至らないけど、自分なりに考えてみよう。そう思って作ったのが、このお弁当です」
 ユゲジは、ごく小さく、自分に頷くような素振りを見せた。アスカはそのユゲジの表情を、視線を動かさずにそのまま見つめる。
「大切な想い出だと思います。気に障ったら申し訳ないです。でも、僕なりに、式波部長のためにと思って……作りました」
 そうして、ユゲジは面を伏せた。ユゲジのその横顔には、思いつめたものが浮かんでいるように見えた。
 視線だけでユゲジを見つめていたアスカは、その顔をユゲジに向けた。アスカの肩の強張りが、スッと解けた。胸のあたりで滞っていた白い霧が、ユゲジの言葉に乗って吹き消えていった。ユゲジの真心がジンワリと伝わってきた。アスカの心の奥に、暖かな火が灯った。

『お弁当って、人の想いが込められているのかしらね。それなら……』

 アスカはふぅっと顔を上げた。上空の天気のように晴々しい気持ちになったアスカは、吹っ切れたような声でユゲジに言う。
「あなたの彼女が羨ましいわね」
「え?」
「だって、こんなに美味しいお弁当が、いつでも食べられるんでしょ? ちょっと嫉妬しちゃうわよ」
「式波部長……」
 アスカは、すっきりとした笑顔を、そこに浮かべた。
「そうね、わたしも、頑張らないとね」
 ユゲジは眩しそうに、アスカの横顔を見つめる。アスカはユゲジの視線を受け止めつつ、その顔を空に向けた。

『――これで吹っ切れた。わたしは、自分の為すべきことをやるだけよ』










 第三部『Q』

 


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