Repeat





第一部『序』





1.再生


「……わたし、寝てた?」

 ここは何処だ。
 わたしはどうなっている。

 頭が割れそうに痛い。わたしは何をしていた。
 夢の中にいるように頭の中が混乱している。現実との境界が上手く掴めない。

 辺りは暗闇に包まれていた。わたしは寝そべるように何かに座っている。わたしが体を起こすと、それに呼応したように、常夜灯のようなランプが仄かに点灯した。
 薄ぼんやりとした暗闇の中、目を凝らして周囲を窺うと、少しずつ周りの状況が見えてきた。わたしは、筒のような物の中にいた。
 ひとつ、わたしと現実が繋がった。それは、わたしの存在意義そのものであるエヴァのエントリープラグだった。中央に据えられたシートに、わたしは座っていた。
 もうひとつ、現実が蘇ってきた。そうだ。わたしはヤマト作戦を遂行中だったはずだ。

 状況はどうなっている。作戦は、第13号機はどうなった。わたしは必死に記憶を辿って、そして気づいた。

 ――何かが違う。

 これは、わたしの改2号機ではない。このエヴァはなんだ? 何故わたしはこれに乗っている?
 わからない。何が起こったのか。何が起こっているのか。
 目の前のモニターはもちろん、コンソール類も全て消灯していた。最低限のインジケーターが弱々しく点滅している。つまりこれは生命維持モードだ。既にLCLは排出されており、わたしの肺は空気で呼吸をしていた。
 ということは、わたしは戦線を離脱しているのか。第13号機は、改2号機はどうなったんだ。

 ようやく、あの作戦と、目の前の現実が繋がった。
 わたしは第13号機と対峙していた。起動前の第13号機に、停止信号プラグを打ち込もうとしたのだ。
 だが、動かない筈の第13号機は起動した。わたしは最後の手段を用いた。

 使徒の力を使った。
 ヒトを捨てた。
 わたしの存在意義は、そこにあった。
 されど――わたしは失敗した。
 わたしのオリジナルと思しき何かに会敵した。
 自爆することさえ叶わず、何かに取り込まれた。

 今のわたしが思い出せたのは、そこまでだった。
 だが、妙な記憶も混じっていた。見知らぬ紅い海の白い砂浜で、誰かと会話をしたような気がする。あれは何処で、誰とだったのか――。

 ふと、わたしの視界が滲んだ。ジワリと、生暖かいものが頬を伝った。わたしは思わず右手で頬を拭う。右手がテラリと水滴に濡れた。

「なに、これ。どうして……」

 これはなんだ。このわたしが涙を流しているのか。何故だ。その記憶のせいか。わたしは暫し、呆然とその手を見つめるだけだった。
 そこでわたしはハッと気づき、左目に手を当てた。眼帯が無い。右目を瞑ってみた。わたしの左目は、暗闇の中で、しっかりその機能を果たしていた。
 わたしは必死に記憶を辿ろうとする。あれは誰だ。わたしは何を聞いた。だがその『誰』も『何』も、ついぞわからなかった。

 わたしは歯をクッと食いしばり、もう一度、頭を大きく振った。
 夢だか何だか分からない物に気を取られている場合ではない。それよりも、何故、わたしが意識を失っていたのかが問題だ。気絶していたのか? それとも、眠ることが出来なかったわたしが眠りに落ちていたのか?

 わたしは改めて、周りを見回した。ひたすらに静かだった。状況はどうなっているのだろうか。ここはいったい何処なのだろうか。
 わたしは計器類を操作してモニターを作動させようとしたが、全く反応はなかった。『EMERGENCY』のランプが赤く点滅している。わたしは暫くの間、エントリープラグの機能を蘇らせようとしたが、どれも反応はなかった。
「埒が明かないわね……仕方ない」
 わたしは手探りでハッチの強制開放レバーを探した。わたしの改2号機と同じ位置に、同じようにそれはあった。それを引くと、炸裂音がボンッと鳴り、火薬の臭いと共に天井が吹き飛んで、眩い光が差し込んできた。

 その眩しさに掌で顔を覆いながら、目を細めて天を見上げた。空が見えた。青い空だ。太陽の光が差し込んできた。暖かな陽の光だ。陽の光で、わたしは初めて気づいた。
 わたしはプラグスーツを着ていない。わたしが身に付けていたのは白い死装束ではなく、ショーツ一枚にモスグリーンのパーカーだった。ケンケンのアジトに居たときの格好だ。
 そして更にわたしは違和感を覚えた。他ならぬ自分の身体にだ。
 この両脚は何だ。これがわたしの脚なのか。それはわたしが憶えている少女の脚ではなく、滑らかな曲線を描く大人の女性のそれだった。
 次にわたしの目に入ったのは胸だ。ファスナーを明けたままで羽織っていたパーカーで隠されていたが、その膨らみは、わたしの記憶にあるものではない。わたしは思わずパーカーの前をガバリと開いた。両手でその膨らみをギュッと掴んだ。これがわたしの胸なのか。どうなっているのだ。
 わたしは両手で頬に触れた。やはり、何かが違う。
 わたしの視覚、触覚が確かならば、わたしの身体はエヴァの呪縛により止められた、十四歳の身体ではない。
 わたしはゆっくりと両手両足を動かす。問題なく身体は動いた。痛みもない。これは夢なのか? 蘇ってきた記憶が更に混乱する。
 思わず自分の頬を叩いてみた。当たり前のように痛みを感じた。馬鹿馬鹿しい。何をやっているのだ。わたしは自分に唾を吐くようにして、もう一度かぶりを振った。理解出来る状況ではないが、状況がわたしの理解を超えているだけのこと。何が起こっても不思議はないのだ。それを受け入れるしかない。

 わたしは身体を起こし、シートから腰を浮かせて、両の足で立ってみた。素足に感じるエントリープラグ内壁が冷たかった。やはり、夢ではないようだ。
 軽い立ち眩みのようなものを感じ、よろけながら右足を後ろに引いたところで、踵に何かが当たった。それはカシューッと擦過音を立てて滑っていった。
 腰を折ってそれを探すと、一メートル半ほど先のシートの下に、目標物は見つかった。ピンク色の布に包まれた、平たい長円形の包みだ。

 ――わたしの心臓が跳ねた。

 それには見覚えがあった。いや、それでは言葉が足りない。それは忘れたくても忘れられなかった、わたしの心に深く刻まれたものだった。
 わたしはふらつく身体を手で支えながら、それを拾い上げた。手にしたそれは、ほんのりと暖かかった。
 どうしてこれがここにある――?
 わたしの思考は掻き乱されて、何も考えられなくなった。それは、わたしの意識を十四年前に飛ばした。

     ◇

 あの頃初めて、同じ年代の仲間と呼べそうな人たちと、わたしは触れ合った。初めは時間の無駄だと思った。わたしにはそんなものは必要がない。わたしの生きる目的にはまったく意味をなさない。そう思っていた。
 気乗りしないままに命令としてあいつらと向かった海洋研究所。はしゃぐ輩を横目に、わたしの関心はそこには全く向かなかった。わたしにとっては目新しくもないことだったし、何よりエヴァに乗るというわたしのレゾンデートルには関わりのないものだったからだ。
 だが、それを変えたのは、あいつの弁当だった。
 退屈な一日になるはずだったその昼、あいつが持ってきた弁当は、わたしの意識を心の底から変えた。皆で食べるその弁当は、それまで知らなかったものだった。わたしは初めて、他人との食事が楽しいと思った。何よりも美味しかった。
 そしてその日から少しずつ、わたしは毎日の生活を楽しむようになっていた。その中心にはあいつと、あいつの弁当があった。
 何故そこまで惹かれるようになったのかは、今でもわからない。だが、あいつの弁当がわたしの人生にひとつのきっかけを与えたこと、それだけは疑いようがない事実だった。

     ◇

 それが今、仄かな温かさと共に、わたしの手の中にある。
 わたしは意を決して、ピンク色の布の結び目を解いた。中からはわたしが憶えている通りに、アルミニウムの弁当箱が出てきた。わたしは息を呑み、そのまま呼吸をするのも忘れて、そろりとその蓋を開けた。
 中にはやはり、わたしの記憶通りに、そして期待通りに、あいつの弁当があった。器用に作られたタコさんウインナーに黄色い玉子焼き。ケチャップが乗ったハンバーグにふりかけが掛かった白いご飯。ブロッコリーが緑の彩りを添えている。白米の甘い香りと、肉汁の香りが仄かに漂う。わたしは思わず、生唾を飲み込んだ。
 それはあの頃、あの僅かな期間、わたしが毎日、何より楽しみにしていたものだった。他人といることもいいと思えるようになった、きっかけだったのだ。

 それが今、目の前にある。どうして――その疑問はわたしの驚きの前で、何処かに吹き飛んでしまっていた。これは間違いなくあいつの弁当だった。その事実だけで、わたしの心は一杯になってしまっていた。
 だが、わたしの中の暗い闇もまた、その存在を主張し始めた。それはわたしの背筋を冷やしていく。
 わたしは待ち望んでいた筈のものをじっと見つめてから、弁当箱をそっと閉じて、ピンク色の包みで包み直した。その包みにさえ、見覚えがあった。あいつが毎日学校に持ってきてくれていたものだ。わたしは毎日の昼休みに教室でそれを受け取ることを、何より楽しみにしていたのだ。夫婦喧嘩と冷やかされたことさえも、大切な思い出となっていた。

 わたしはそれを大切に抱えるようにして、エントリープラグを這い出た。
 目の前には見覚えのあるケンケンのアジトがあった。わたしは素足のまま、辺りを警戒しながら、ゆっくりと足を進めた。ケンケン愛用の四駆はそこにあったが、人気はなく、当人も不在の様だった。わたしは踵を返し、景色を一望する櫓を登った。

 櫓から見る景色は、一変していた。コア化された紅い世界はどこにもなく、緑の大地が広がっていた。宙に浮かぶ鉄塔も列車もない。世界は静かに、そこにあった。
 わたしは呆然と、あいつの弁当を手にしたままに、あたりを眺めるだけだった。

 どれくらいの時間が経ったのだろう。わたしはたった今気づいたかのように、大切に抱えていたピンク色の包みを見た。
 わたしはその場にぺたりと座り込んだ。下着越しのお尻にゴツゴツした木の感触が伝わってきたが、気にする余裕もなかった。改めて包みを解いて、アルミニウムの弁当箱を開けた。やはりそこには、あいつの弁当があった。
 わたしはもう一度、頬をピシャリと叩いてみた。やはり、痛みを覚えた。

「バカね、わたし……」

 わたしは使徒に身体を蝕まれて以来、食事を摂ることが出来なかった。
 わたしの封印が解かれてから、初めての食事の時だ。その時の絶望を、今でも忘れることは出来ない。猛烈な嘔吐感を覚えたわたしは、胃に入れたものを全てを吐き出してしまったのだ。
 何度試しても同じだった。食欲もなく、空腹を感じることもない。水さえあれば、わたしは生きていけた。
 そしてわたしは――ヒトであることを諦めた。

 わたしは、今一度、目の前の弁当を見つめた。それは優しく、わたしの心に、かつてのあいつの味を蘇らせてきた。
 恐怖を感じた。他でもないあいつの弁当さえも、わたしはまた拒絶し、吐き出してしまうかもしれない。わたしはやはり、ヒトではないかもしれない。
 それでも目の前の弁当は、優しく語り掛けてくれているように、わたしには思えた。

 わたしはノロノロと箸箱を開け、見覚えのある箸を取り出した。幸いにして、箸の使い方は覚えていた。
 わたしは震える箸先でタコさんウインナーをつまみ、恐る恐る、それを口に運んだ。
 ゆっくりと、ひと噛みしてみた。ジュッと仄かに温かい肉汁が染みだしてくる。味を感じる。嘔吐感は込み上げてこない。
 わたしは更にひとつ、ふたつと、それを噛みしめる。美味しい。味わいを感じる。わたしはそれを、ゴクリと飲み込んだ。空腹なのか何なのか全く分からないわたしの身体は、それを問題なく受け止めた。
 わたしは次に玉子焼きを、白いご飯を、ハンバーグを、次々に味わい、咀嚼し、そして胃の中へ流し込んだ。弁当箱が空になるまでに、さほど時間は必要としなかった。

「食べられた……」
 空になった弁当箱をじっと見つめて、わたしはぽそりと呟いた。これは間違いなく、あいつの、バカシンジの弁当だった。そして、わたしの身体がヒトに戻ったかもしれない、その希望を貰った瞬間だった。
 わたしは弁当箱を閉じ、箸箱を乗せて、ピンク色の布でそれをしっかりと包んだ。それを手に、ゆっくりと立ち上がる。眼下に見える景色はやはり緑の大地で、空は青かった。

 わたしはわかった。ここに、あいつはいない。
 この弁当を、わたしが一番欲しかったものを残して、あいつは何処かへ消えたのだ。
 わたしはわかった。あいつは二度と、その世界に、そしてわたしの前に、姿を現さない。この弁当は、あいつの餞別だ。

 わたしは渦巻く気持ちを整理しようとしたが、とてもじゃないが、出来るはずがなかった。





2.春よ、来い


「式波、か?」
 櫓を降りたアスカが掛けられた声に振り返ると、そこにはケンスケがいた。
「ケンケン、良かった。無事だったのね」
「式波、その姿は……」

 アスカを見るケンスケの視線は、アスカの顔から足元まで、全身を確かめるように動いた。その表情には驚きが張り付いている。そのケンスケの視線を当たり前に受け取って、アスカは言った。
「ああ、これ? たぶん、エヴァの呪縛が解けたんだと思う。わたしにもわからないけど、あの中で気づいたらこうなってた」
 先に見えるエントリープラグを顎でしゃくって指し示しながら、アスカは何でもないことのようにケンスケに言った。
「エヴァの呪縛が解けたって……もしかすると、コア化が解けたことと関係しているのか?」
「コア化が解けた?」
 その単語に、アスカは一瞬の間も開けずに反応した。アスカはケンスケに向かい直り、その眼鏡の奥の瞳を見抜くようにする。
「ああ、式波はまだ見ていないのか? 大地のコア化は消えたよ。重力異常もなくなって、このあたりはすっかり、ニアサー以前の状態に戻っている。何がなんだか、全くわからない。何が起こったのか、想像することも出来ない」
 ケンスケは困惑したような、かつ何もわからない自分に呆れたような顔で、周囲をぐるっと見渡してから、半ば吐き捨てるように口に出した。アスカはその表情に頷いて、フンと鼻で小さく息を吐く。

「やっぱりそういうことね。わたしも櫓の上から目視では見たけど、すっかり様子が変わってたわね」
 アスカは肩をすくめて一息吐くと、改めてケンスケに問い掛ける。
「わたしは意識が戻ったらこうなっていたからわかんないんだけど、何が起こったの?」

 ケンスケは少しの間、じっと空を睨み付けていた。記憶の中にあるものを整理するように軽く瞳を閉じた彼は、開いた目をアスカに向ける。

「最初は、首なしエヴァの群れが飛んできたんだ。アンチLシステムのお陰でなんとかそれを防げていたんだが、それも時間の問題かと思った。これがフォースインパクトなのかと思ったよ」
「どんどんその数も増えてきて、いよいよ駄目かと思ったら、突然、天から白い光が降ってきて、世界が真っ白になった」
 ケンスケはそこで、一つ息を吐いた。
「憶えているのはそこまでだ。俺たちも意識を失った。第3村の連中にも聞いてきたが、皆同じだった。式波と同じで、目覚めた時には、コア化が消えたこの世界になっていたってわけだ」

 アスカに説明するというよりも、自分自身の混乱を整理するかのように、ケンスケは一言一言を確認するように言った。
「なるほどね。要はケンケンにも、何が起こったのかわからないのね」
「ま、そんなところだ。悪いな、役に立たなくて」
「ううん、状況が分かっただけでも助かる」

 そこでアスカは右手を口に当てて、暫し押し黙る。ケンスケもそのアスカの様子を、何も言わずにじっと見ていた。ややあって、アスカは小さく頷くように頭を振り、独り言つようにボソッと口に出した。

「そっか。やっぱり……」
「やっぱり、なんだ?」
 ケンスケは食い入るように、アスカの顔を覗き込む。小さくため息を吐いたアスカは視線を何処ともなく彷徨わせると、ケンスケに顔を向けないままで、呆れ声で言い放った。

「根拠も何もないんだけど、たぶん、あいつの仕業よ」
「あいつって……碇か?」
 ケンスケの反応に、アスカは自嘲するような口調で応えた。
「そ。きっと、すべてあいつがやらかしたことね。ニアサーを引き起こしたのがあいつなら、世界を戻したのもあいつってことか」
「式波、何を言っているんだ?」
 混乱した声色のケンスケにも構わず、アスカはまた口元を右手で覆い隠して、自分の頭の中を整理するように、ポツリと独り言ちる。
「そのあいつは、今ここにいない……」
「なんだって? 碇はいないのか?」
 ケンスケの問いは聞こえないかのように受け流し、アスカは腰に手をやって空を見上げる。
「まったく、ホントにバカシンジね」

 そのアスカの様子を呆けたように眺めていたケンスケは、アスカが小さく息を吐いたところで、逸る気持ちを抑える様子で問い掛けた。
「式波、どういうことだ? わかるように説明してくれ」
「そうね、ケンケンには知る権利があるわね」
 思い詰めたようなケンスケの顔に、アスカは落ち着いた様子で話し始めた。

「ニアサーが起こったのは、あいつのせいだった」
 沈黙するケンスケをチラリと見て、アスカは続ける。
「ケンケンも知っての通り、ニアサーのトリガーとなったあいつは、エコヒイキと共に初号機に取り込まれて、衛星軌道に飛ばされた。それをヴィレが奪取して、あいつは十四年振りに実体と意識を取り戻した。その後も色々とあって、最終的にケンケンのところに転がり込んだわよね」
 ケンスケは何も言わず、ただ黙ってアスカの言葉を聞いていた。
「そして、あいつはヴンダーに戻った。戻って何が出来るわけでもない。ただ隔離されて、そこにいただけよ」
 アスカはそこで言葉を切り、その情景に想いを巡らせた。アスカの口元は固く引き締められたままだ。

「わたしが知っているのはここまで。ここからは推測ね」
 念押してから、アスカは寸刻、空を見上げた。そしてまた遠くを宛もなく見るようにして、ケンスケに顔を向けないまま、淡々と、アスカは続けた。

「わたしは、最終決戦に向かって、そして敗れた。フォースインパクトが起こり、リリンの世界は終わろうとしていた。そこで、あいつが何かを起こして、世界を元に戻したんだと思う。たぶん、あいつにはそういうことが出来る力があったし、そのためのエヴァだったのね」
 そうしてアスカは、口元をキュッと結んだ。押し黙って、幾多の想いに押し流さないように、アスカは耐える。
 暫しの後、アスカは自分に言い聞かせるように、腹の奥からこみ上げてくるものを抑えながら、淡々と、感情の籠らない声で口にした。

「そして今、あいつはいない。戻ってこないつもりなんだ」

 一筋の風が吹いた。アスカの長い金髪は風に晒されて、その顔を半分ほど、その金色の幕で覆い隠した。彼女は右手で髪を掻き上げて、そして気づいた。彼女の頭にはもう、紅いヘッドセットは無かった。
『ヘッドセットもか……ご丁寧だこと』
 アスカはクッと奥歯を噛みしめる。彼女の仕草、表情をじっと見ていたケンスケは、不意に口を開いた。

「式波は、それでいいのか?」
 その声にアスカは、ピクリと頭を揺らした。ケンスケに顔を向けることなく、そのまま遠くに浮かぶものを見るようにする。
「いいも何も、あのバカにそのつもりがないのなら、どうしようもないじゃない。あいつ、今や神様みたいなもんよ」
 吐き捨てるように、自分に言い聞かせるようにするアスカを見ながら、ケンスケは少しばかり、考える仕草を見せた。そしてまた、アスカの横顔をじっと見る。

「そうかな」
「え?」
 思わず彼を見返したアスカに向かって、ケンスケは続けた。
「確かに碇は、世界を変える力を持っているのかもしれない。式波の言うこともわかる」

 ケンスケは不意に、顔の緊張を解いた。口元を緩めて目尻にしわを寄せたケンスケは、懐かしい級友に再会した時のような顔を、アスカに向けた。
「ガキの頃、加持さんに海洋研究所に連れて行ってもらったこと、憶えてるか?」
 ケンスケに顔を向けたままだったアスカは、ケンスケのその一言に、ピクッと瞼を震わせた。しかしアスカは口籠るようにして、そのままケンスケから顔を逸らす。
「……そんなこと、あったっけ」
 その口からは、その顔つきとは異なる言葉が出た。その様子をケンスケは笑みを湛えつつ受け流して、顔を隠すようにしたアスカに向かって続けた。
「あの頃、俺は碇や式波、綾波に憧れてたよ。なにせ世界を救うエヴァンゲリオンパイロットだ。選ばれた人種だ。俺たちとは違う、そう思っていた」
 黙ったままのアスカに、ケンスケは、少年時代の思いを告げる。
「でもな、あの海洋研究所の見学会の時、俺は思ったんだ。碇や式波、そして綾波だって、俺たちと同じ十四歳なのかもしれないってな」

 ケンスケは一度、アスカから視線を外して山の向こうを宛もなく眺めた。そこには深い緑が広がっている。
「今、改めて思うよ。碇も式波も綾波も、ただ運命を仕組まれていただけの、普通の子供だったんだ。揶揄われて赤面したり、ちょっと何かを頑張ってみたり、普通の十四歳だったんだ」
 アスカの口元がピクリと動いた。

「――わたしは違う」

 そのケンスケの言葉に被せながら、アスカは突き放すような言葉を吐く。
「ああ、確かにそうかもしれない。式波は特別努力してきたからな。碇や綾波とは、確かに違うかもしれない」
 アスカは無言だった。アスカの心の奥に棲むものは、『そう言うことじゃないわよね』と、アスカ自身をせせら笑う。

「でもな、式波。式波だって当たり前の十四歳の女の子だっただろ。ただ、時代が式波たちに仇をなしただけだ」
「何が言いたいのよ」
 たまらずアスカは、その渦巻く感情を吐き捨てた。そのアスカを見守るようにしながら、ケンスケは続ける。

「そうだな。式波はさっき、碇は神様みたいなもんだって言ったけど、本当にそうなのか? って話だ」
「え?」
 再びアスカはピクリと顔を震わせて、ケンスケを見返した。アスカを見つめるケンスケの眼には、穏やかな笑みが浮かんでいる。
「あいつは今でも碇シンジなんじゃないか? 式波の話が本当なら、俺たちが知っている碇のまま、独りでこの世界をどうにかしようとしているんじゃないのか?」

 ケンスケのその言葉にアスカは、何も言うことが出来なかった。ケンスケの言葉には、得も言われぬ力があった。諦めを探すアスカと、そこに希望を見出そうとするケンスケ。一筋の光となったケンスケの言葉。その光にアスカは戸惑う。
「俺は思うよ。碇はきっと、変わらないままだって。だってそうだろ? あの碇が変わるはずがない、いや、変われるはずがないじゃないか。それは式波が一番よく知っているはずだろ」

 ケンスケの言葉にアスカは、少年の姿を幾重にも思い浮かべた。笑ったり、照れたり、情けない顔をしたり、そして怒ったり。そのどれもが碇シンジだった。あの碇が変われるはずがない――そのケンスケの言葉が、アスカの心で繰り返し響いた。
「今、碇がどこで、何をしているのか、俺にはわからない。あいつを救えるのは、恐らく、エヴァパイロットだった式波、お前だけだ」
 そしてケンスケは、アスカの顔を正面から見射るようにする。

「式波、碇を助けてやってくれ」

 真っ直ぐにアスカの瞳を見据えるケンスケ。だがアスカは、その視線に耐えられないかのように、ツイと目を逸らす。足元に視線を彷徨わせるアスカ。

「今のわたしに、そんな力はない」

 やっとのことで、アスカは小さくポソリと口に出した。そのアスカの様子にケンスケは顔を上げ、再び周囲の山々を見渡した。そして青い空を見上げてから、表情を和らげてアスカに顔を向けた。
「ああ、そうかもしれない。でもな、希望は残っているだろ。きっとチャンスは巡ってくるさ。だってこの青い地球が戻ってきたんだからな」
 アスカは暫く、顔を上げることができなかった。心に差し込んできたその光。その強さにアスカは戸惑い、手を伸ばすことが出来なかった。

 シンジを助けてやってくれと言うケンスケの言葉。その言葉はアスカに、あの時の情景を蘇らせた。
『碇、今はそれでいい。こうして再会したのも何かの縁だ。好きなだけ頼ってくれ』
『友達だろ』
 アスカの脳裏に、ケンスケと、そしてシンジと共に、ここで過ごした僅かな日々が蘇ってきた。うずくまり、すべてを拒絶した少年の姿が、昨日のことのように映し出される。
 ケンスケはシンジを助けようとした。されどあの時、自分は何をしてきたのか。

『ガキに必要なのは恋人じゃない。母親よ』

 自分はあいつより先に大人になってしまった。だからせめて、子供のままのあいつの母親であろうと、アスカは心に秘めていたのだ。
 だがアスカは想う。自分がしたことは、自分の心を抑えきれずに、あいつをただ追い詰めただけではなかったか。あいつをそこから救ったのは、ただひたすらにあいつのことを想っていた“初期ロット”だ。

『そう。でもいい。良かったと感じるから』

 儚い少女の言葉が、今でもアスカの耳に残っている。
 その時アスカは、余計なことを少女に言った。ただ苛々した。少女の行動にも、自分の中で渦巻く物にも。
 だが、今、アスカはその理由を解した。アスカは嫉妬していたのだ。不器用に、しかし一途に真っ直ぐに、その好意を少年に向けたその少女に。何も出来なかった自分を軽々と飛び越えて、少女は少年のために命を散らしたのだ――。

 舞台が入れ替わるように、もう一人の少女の姿がアスカの瞼の裏に現れた。
 手を絆創膏だらけにして、少年のために食事会を計画した少女の声が、今また、アスカの心で響く。

『碇指令と仲良くなって、ポカポカして欲しいと……思う』

 その少女がその時、自分の運命を知っていたのかはわからない。だがその少女の無垢な心は、そのすべてが少年のためにあった。それはアスカには出来なかったことだった。だからこそ、あの時アスカは一時とはいえ、その少女にその場を譲ったのだ。
 だが結果として――アスカは血涙を絞る。自分の事故――いや失敗が、あの食事会を取り止めにさせただけではなく、その後の運命をすべて変えてしまった、と。

 ふたりの少女の姿が、アスカの中からスッと消えた。その姿を追うようにしたアスカに、一つの想いが生まれた。
『あの子たちはあいつのために、すべてを投げ出した。でも、わたしは今まで、何をしてきた?』
 アスカはわかった。ふたりの少女の姿、それが、人を好きになることなのだと。

 ――そうだ、わたしはあの子たちに借りがある。

 アスカの眼に、微かな炎がユラリと灯った。
 心に差し込んできた希望の光を、アスカはしっかりと掴んだ。
 顔を上げて、彼女を見つめたままのケンスケを真っ直ぐに見た。
 そこにあった彼の穏やかな笑顔。それは彼女の背中を優しく、力強く後押しした。
 アスカの顔に、ぎこちなくも力の籠った笑みが、確かに現れた。

 ケンスケはアスカの意志を解したように、小さく、しかししっかりと頷いた。そして、たった今思い付いたかのような口調で、アスカに伝える。

「実はな、碇に会えたら、伝言を頼まれて欲しいんだ」
「……いいけど、なんて?」
 急に軽口のような口調になったケンスケに戸惑いながら、アスカは訊き返す。

「碇にな、『式波・アスカ・ラングレー』という人物をよろしくって頼まれたんだが……その人物はちょっと俺の手に余るんだよ。だから碇、それはやっぱりお前の役割だ。そう伝えてくれ」
「なん……っ」
「頼むよ、式波」

 そう言ってケンスケは、男臭い笑みを零した。その表情にアスカはたじろいだ様を見せながらも、そのまま彼女は、彼の笑みをじっと見つめる。

 その笑みにアスカは、ケンスケと再会した時のことを思い出した。
 十年振りに見たその姿は、誰だか全くわからなかった。そもそも“相田ケンスケ”という人物の存在は、アスカの記憶からはすっかり消えていた。だから声を掛けられた時も『アンタ誰よ』と完全に無視をした。
 だがケンスケは、十年の時を経ても変わらぬ姿のアスカに対しても、特別視するわけでもなく、されど腫物を扱うようにするわけでもなく、時が止まったかのように何も起こらない、そんな態度と空間で接してくれた。
 ケンスケはアスカにとって、間違いなく特別な存在だった。

『ケンスケによろしく』

 『誰か』がそう言った。アスカはわかった。そうか、やっぱりそういうつもりなのか。あれはやはりまごうことなく餞別だったのか。

 アスカは気持ちを改めるように、大きく息を吸って、フンと吐いた。そして思う。その言葉の通りに、ケンスケを選ぶことができたなら、どれだけ幸せだっただろうかと。
 アスカは背筋を伸ばして腰に手を当て、空を見上げるようにする。
「ったく、わたしは取扱い注意の危険物かっつーの」
 そして空に告げる。

『もう一度だけ、あのバカの顔を拝んでやるわよ。そして――』





3.君住む街へ


 一年後、アスカはパリにいた。
 自分が何をすべきか――その結論として彼女が選んだのは、ヴィレへの復帰と、旧ユーロネルフ、現ヴィレ本部への赴任だった。それはケンスケとの約束を果たすためでもあった。碇シンジとの接点を考えるとしてもこれが最短距離のはず。アスカはそう考えた。

 世界中の人々が目覚めたとき、エヴァンゲリオンと、それに纏わるテクノロジーは跡形もなく消え失せていた。ヴンダーが失われ、実質的にヴィレの戦闘能力は無くなっていたが、その人的資源は変わらず健在であり、ネルフ壊滅を目的とする組織ではなく、人類を、生命を生かす組織として、赤木リツコをトップとした新しい組織として新たなるスタートを切っていた。
 超国家的なその組織の扱いについては世界でも喧々諤々な議論があったが、最終的には、辛うじてその存在を維持していた国連直下の独立組織として落ち着くことになった。健在だった旧ユーロネルフの施設を本拠地としたのは必然と言える。なお、その裏工作に加持リョウジのかつての仲間が暗躍していたことは、語る必要もないだろう。

 新生ヴィレの当面の目的は、エヴァが消失した原因と、それが失われたことによる自然環境及び人為的影響の調査、及びその対策立案である。
 組織は大別して、技術部と調査部、渉外部、その他人事部などに分かれており、総勢二千人ほどで構成されていた。アスカはそこで調査部部長の任を担い、自ら世界各地を飛び回って主にエヴァに纏わる調査を行っていた。

     ◆

「――以上がカナダ地区の状況。ザックリとしたサマリーだから、詳細は別途報告書でね。必要があったら逐一説明するから。まあ、あまり特筆すべき事柄はなかったけど」
 場所はヴィレ本部内の特別会議室。式波・アスカ・ラングレーは、現地調査隊の責任者として、ヴィレ本部長――つまり総責任者である――の赤木リツコに自ら報告を行っていた。
 部長のアスカ自ら報告を行うのはこの手の組織としてはイレギュラーであるが、効果効率を最優先とする故であった。人材育成を行っている余裕はないのだ。
 加えて言うならば、三十歳に満たないアスカが千人近い調査部を率いるのも通常の組織では考えにくいことではあるが、前身のヴィレにおいて戦時特務少佐だったこと、ネルフ及びヴィレの中核におり、加えてエヴァパイロットとして最前線にいたことを考えると、彼女以上に適任者がいないことは明確だった。本格的に調査が始まったこの半年、アスカはその責務を十分に果たし、周囲もその仕事振りを改めて認めることとなっていた。

「ご苦労様、式波部長。そうね、ここにもエヴァの痕跡はなしってことね」
「そ。綺麗サッパリ。首無しもなけりゃ、赤い大地もない。起こった事象は他と同じね。首無しが大量に飛んできたと思ったら、突然世界が真っ白になって、みんなが意識を失った。目が覚めたら、神様の一撫でで青い海と緑の大地に様変わり、って寸法よ。コア化されていた筈の大地にも、大気にも特に異常はなし。他と同じで、まるで、セカンドインパクトもニアサーもなかったかのような様子ね。気候もセカンドインパクト前に戻ったようで、バンクーバーじゃ桜が咲いていたわ」
 アスカはレーザーポインターを持った手を腰に当てて、大袈裟に肩をすくめるようにする。その表情は呆れるようでもあり、安堵しているようでもあった。

「了解。他に気になったことは?」
「特にないわね。混乱しているのも他と同じ。でも米国よりはましかな。あそこ、いまだに四号機のトラウマがあるみたいね。エヴァは無くなったのか、本当か、どうしてだとあちこちで聞かれたわ」

 ”四号機”という言葉を聞いて、リツコの黒く細い眉がピクリと動いた。瞳だけをチラリと動かしてアスカの様子を窺うリツコだが、その表情がそれ以上変わることはなかった。リツコはテーブルの上で組んでいた両手を解き、背中を椅子に預けて軽く息を吐いた。

「……そう。ご苦労様。二、三日は休んでいいわよ」
「そうさせてもらうわ。さすがにちょっと疲れたしね」
 アスカのその言葉を合図に、部下の一人がプロジェクターの電源を落とす。同時に照明が全点灯し、室内が明るく照らされた。リツコはタブレット端末を手に席を立ち、アスカに目配せをする。その視線に気づいたアスカは、部下数人にご苦労様と言葉を掛けてから、リツコのもとへ歩み寄った。

「なに」
 アスカの問いに、リツコは目尻に細く小さいしわを寄せる。
「疲れたのなら、ちょっといいところに行かない?」
 リツコのその言葉に、アスカはその蒼い瞳をクルリと丸くした。
「いいところ?」
「そう。最近評判のいいところ」
 すっかり柔和になったリツコの表情に、アスカはこの一年の彼女の心境の変化を想い量った。
 アスカはリツコの目元から、その髪にチラリと視線を動かす。短く整えられているその髪型は一年前と変わりはなかったが、それは既に金色に染められてはおらず、その痕跡は毛先数センチだけに残されていた。

     ◆

「いいところって、食堂じゃないの。どこがいいところよ」
 リツコがアスカを連れて行ったのは、ヴィレ本部内の食堂だった。千人は収容出来そうな広い食堂は、まだ昼時には若干早かったこともあり、早飯を決め込んだ若干名の姿と、その場を利用して打ち合わせを行っている数組の姿が見えた。
「ふふふ、まぁまぁ。ちょっと変わったのよ。さて、今日のメニューは」
 リツコはなにやら楽しそうな様子で、電子掲示板サイネージでメニューを確認する。
「ああ、ハンバーグ定食があるじゃない。これにしましょ。アスカもこれがいいんじゃない」
 ディスプレイに映されたメニューを指差しながら、リツコは軽い足取りでカウンターに向かった。アスカはため息を吐き、再び肩をしゃくるようにしてリツコの後を追った。

「ハンバーグ定食二つね。ちょっと早いけど、大丈夫よね?」
 時刻は十一時二十分。確かに昼食には若干早い。
「あ、本部長、お疲れ様です。大丈夫ですよ、今すぐ用意しますね」
 厨房の奥から一人の男性がするっと姿を現して、リツコに応えた。
「あ、帆風君、ちょっと待って。紹介するわ。こっちは式波・アスカ・ラングレー調査部部長。昨日カナダから一ヶ月ぶりに帰ってきたばかり。怒らせると怖いから気を付けてね」
 厨房の男性はぺこりと頭を下げて、眉を八の字にした顔をアスカに向けた。
「でも大丈夫よ。美味しいご飯を出してさえくれればご機嫌だから。そうでしょ、アスカ」
「リツコ、あんたねぇ……」
 妙に気さくなリツコのセリフにアスカは二の句が継げず、呆れ顔を隠さなかった。そうこうしている間にも彼は忙しく動き回り、すぐに二人分の定食をトレイに用意する。

「ハンバーグ定食、二つです。どうぞ」
 彼は先ほどの表情とは変わって、ニコリと軽妙な笑顔を湛えている。それは幹部二人に対する愛想笑いではなく、自分の仕事に対する自負の笑みだった。


「「いただきます」」
 両手を合わせて箸を手に取る二人。アスカは味噌汁に口を付けると、ハッとしたように目を軽く見開いた。続けてハンバーグに手を出す。それを口に運んだ途端、アスカの表情はパッと明るく変わる。
「どう? 美味しいでしょ」
 自分の食事には手を付けず黙ってアスカの様子を見守っていたリツコは、アスカに自慢をするように、口元を緩めた。アスカは思わずリツコの顔をパッと見返す。
「何か変わったの?」
「新しい料理人。さっきの彼よ。味付けが絶妙でね。あっという間に厨房の中心になって、この食堂の評判もうなぎ登り」
「へぇ……」
 軽妙な口調で楽しそうに言うリツコに、感心した様子をアスカは見せた。
「最近一番の収穫ね」
「一番の収穫が料理人、ねぇ」
 胸を張ったリツコに対して、アスカは少し、呆れたように息を吐いた。リツコはフフッと口元に笑みを浮かべる。
「あら、人は食べないと生きていけないわ。食は何より大切よ」
 アスカは、幾多の想いが混じり合ったような複雑な色を表情に現して、それでも静かに頷いた。そのアスカの様子にリツコも、気持ちを笑みに滲ませる。
「アスカ」
「うん?」
 リツコはアスカとの長い付き合いを、その一言に込めた。
「食べられるようになって、良かったわね」
 リツコのその一言は、アスカにジンワリと染みていく。アスカは黙ったままで視線を脇に逸らし、その先に何かを見るようにした。巡る想いをそこに見つけたのか、アスカは小さく頷く。
「……そうね」

 まだ人気もまばらな食堂で、そのまま二人はハンバーグ定食を堪能した。掛け値なしでそれは、特上と言ってよい味わいだった。特にアスカは一時もそこから目を外さない勢いで、米粒一つ残すことなく綺麗にそれを平らげた。そして食後のコーヒーを手にしながら、ゆっくりとした時間を二人は楽しむようにしていた。

 ぽつりと、思いついたようにアスカは口を開いた。
「リツコ、ちょっと相談があるんだけど」
「なに? 改まって」
 だがアスカは、少し考え込むような表情を見せる。
「うん……やっぱりいい。もうちょっと考えてからにする」
「そう。時間なら作るから、いつでも相談してちょうだい」
 そのアスカの様子に、リツコは少し頬を和らげた。アスカもまたフゥと小さく息を吐くようにする。
「ありがと、リツコ」

 コーヒーを二口三口と喉に通した後で、アスカはリツコの髪に目を遣った。
「それはそうと、どうして髪を染めるのを止めたの?」
 組んだ膝の上でコーヒーカップを持っていたリツコは、意外な言葉を聞いたようにその口をポカリと小さく開けた。そして目元を下げて、アスカに応える。
「大した意味はないのよ。なんとなくね、もういいかなって思ったの。それに、髪の痛みも気になってきたのよね」


 それから暫くして、昼休みを告げるチャイムが鳴った。アスカとリツコはどちらともなく席を立ち、トレイを下げつつ、順に厨房に声を掛ける。
「ご馳走様」
「ごちそうさま、シンジ」
 何も言わずに聞き流していたかの様子だったリツコだが、少し歩んだその先で、確認するようにアスカに言う。
「アスカ、シンジ君じゃなくて、帆風君よ。帆風ユゲジ君」
 アスカはその蒼い眼を大きく見開くようにした。
「わたし、シンジって言った?」
「ええ」
 リツコのその返答に、口を小さく開いたままのアスカは、一瞬、視線を厨房の方へ遣った。先ほどの彼の風貌を思い浮かべるアスカ。どう見比べてみても、そこにシンジの面影はなかった。もちろん大人になったシンジの姿は想像する他ないが、どのような成長をしたとしても、厨房の彼の姿になるとは思えなかった。アスカはふと呟く。
「……った」
「え? なに?」
 アスカの言葉を聞き取れなかったリツコは、足を止めたアスカの様子を訝し気に見る。
「なんでもない。彼、帆風君だっけ?」
「そう、帆風ユゲジ君。どうしたの? アスカ。彼がどうかした?」
 頭を振るようにして、アスカは身を返した。
「確かに掘り出しものね、彼。逃げられないようにしておかなくちゃね」





4.君がその気なら


 翌日、一日休暇の予定となったアスカは、久しぶりにゆっくりと寝る……つもりだったのだが、時差ボケの影響もあり、昨晩はウツラウツラとした睡眠しかとれていなかった。朝方になって逆に眠気が襲ってきたが――。
「無理やりにでも起きてないとダメね」

 そのような訳で、アスカは軽く身支度を整えて、十一時過ぎに自宅を出た。まばらに雲が浮かぶ青空を見上げるアスカ。黒いレザージャケットに薄手のストールをグルグルと巻いたアスカは、口元をそこに埋めるようにして、まだ肌寒さが残る四月のパリの空気を味わいながら、ゆっくりと歩いた。特に目的地は決めていなかったが、一つだけ決めていたところに、まずアスカは向かった。

「ここの本の品揃えは流石ね」
 アスカは大量の専門書を目の前にして、感心したように独り言つ。
 アスカはパリ随一の品揃えを誇る、巨大な書店にいた。十階建てのそのビル全てが書店であり、雑誌から小説、化学・医学の専門書まで、ありとあらゆるジャンルの本がそこには揃っていた。
 アスカはたっぷりと一時間ほどを掛けて、三冊の専門書を選び、それを手に会計に向かった。

「あれ?」
 隣から聞こえたその声の方をアスカが向くと、そこには見覚えのある顔があった。軽く顔をかしげるアスカ。
「式波部長ですよね? 僕、帆風です。昨日、厨房の中から挨拶させて頂いた――」
 あ、とアスカの頭の中で、白いコックコートにコック帽姿の彼が浮かんだ。改めて目の前の彼の顔をじっと見るアスカ。
「式波部長も買い物ですか? ここ、品揃えがすごいですよね。初めて来たときは感動しました」
 彼は口元に笑みを浮かべながら、他愛のない挨拶をアスカと交した。
「少しですけど、日本の本もあるのが嬉しいですね。僕、フランス語も英語も片言なので」
 苦笑いを浮かべて、彼は手元の雑誌をアスカに見せた。それは日本語の天文雑誌だった。チラリと目を遣ったアスカは、その雑誌と共に、英会話のテキストブックを認めた。その視線を悟ったのか、彼は後ろ頭を掻きながら、言い訳をするようにアスカに向かった。
「ちょっと縁があってヴィレで料理人をやることになったんですけど、僕、言葉がダメなんです。本部長や式波部長は日本語で話してくれるからいいんですけど、厨房の皆さんは殆ど英語かフランス語なので、もっと勉強しなくちゃって思って」
 アスカは何も言わず、頷きもせずに、彼の話を聞いていた。彼の話が止まったところで、アスカはようやく口を開く。
「言葉は大切よね。でも、本当に大切なのは何とかしようとする意志じゃない? リツコに聞く限り、あなたはよくやっているみたいだけど」
「そう言って頂けると嬉しいです。無我夢中でやっているだけですけど、喜んで頂けているのならば、何より励みになります」
 そこで、アスカは止まっている手にハタと気付く。スマートレジのバーコードリーダーに購入する本をかざして、指紋認証で決済を済ませ、購入した三冊の本を手に取った。
「あなた、ちょっと時間ある?」
「え?」
 小さくため息を吐くようにして、アスカは続けた。
「もしよければなんだけど……昼食をご一緒出来ない? 一人で食べてると、声を掛けられたりして面倒なのよね」
 そうしてアスカは、僅かに口元を緩める。
「悪いんだけど、頼まれてくれると嬉しい」

     ◆

 十五分後、二人は書店近くのオープンカフェにいた。
 テーブルの上にはアスカの前にサンドイッチとカフェオレ。彼の前にはオムレットとエスプレッソが置かれている。彼は、眉毛を八の字にしてソワソワと落ち着かない様子を見せていた。
「式波部長と対面で食事なんて、ちょっと緊張しちゃいますね」
「そう?」
 アスカはその彼の様子を気にも留めない様子で、カフェオレを一口、口に運んだ。
 彼はその様子をじっと見て、所在無げなその手をエスプレッソに伸ばす。黄金色の泡とともに濃厚な深煎りの味わいが、口の中でとろりと広がった。彼は一つ息を吐くようにして、アスカの手元のカフェオレのカップを見つめる。
「式波部長、有名人ですし、それに……」
「それに?」
 聞き返したアスカに、しまったというような顔を、彼は見せた。
「あ、えっと……」
「何よ、言ってみなさいよ」
「そうですね、あの……」
「ほら」
「あ、はい。あの、式波部長は怖いから気を付けろって、みんなが言うので……本部長も昨日そう言ってましたし」
「あー、やっぱりね。そうかと思ったわよ」
 アスカは乱暴に髪を掻き上げ、後ろ頭をポリポリと掻いた。
「ま、自覚はあるから仕方ないけどね」

 そのアスカの様子を彼は、何かを思うように、目を細めて見ていた。少し落ち着いた頃合いを見計らったように、彼は口を開く。
「ええ、でも」
「ん?」
 アスカは顔を上げ、彼が言う言葉に興味を向ける。
「イメージと違うな、って思いました」
「そう?」
 アスカはその碧眼をパチリと瞬かせた。
「ええ。噂はアテにならないなって、少なくとも、むやみやたらに怖い人じゃないなって――ごめんなさい。僕の勝手なイメージです」
 そう言った彼は、自分の言葉に戸惑うかのような、ぎこちない笑みを見せた。その彼の笑みに、アスカは瞳の動きを止めて、その顔をまじまじと見る。
 細面のつくりは悪くないが、取り立てて特徴があるわけではなく、十人並みと言える。眉や耳に掛からない程に短く整えられた黒髪も、鉛筆でササっと描けそうなシンプルな形をしていた。だがその似顔絵を描こうとすると、その特徴のなさが仇をなしてなかなかに難しい――そんな顔をした彼に、アスカは表情を崩さずに感心したように言う。
「あなた、実は女の扱いに慣れてない?」
「あ、いえ、その、そんなことは……」
 ドギマギと言葉に詰まる彼に、アスカは小さく笑みを見せた。
「なんてね。ちょっと揶揄っちゃった。ごめんなさいね」
 クククとくぐもった笑いを漏らすアスカを、彼は遠いものを見るような目で眺めていた。

 アスカの笑いがひとしきり収まった頃。彼は落ち着きなくソワソワとさせていた手でフォークを取り、オムレットを口に運んだ。アスカもまた彼に合わせたように、サンドイッチを手に取って一口頬張る。
 彼の仕草を何の気なしに眺めるようにしていたアスカは、その品の良い食べ方に、かつて同居していた少年を思い浮かべた。あの少年もまた、綺麗な食べ方をしていたなと、アスカは回想する。

 ぼうっとしていた自分に、アスカはふと気づいた。慌てたわけではないが、少しばかり急くような気持ちになった彼女は、テーブルの上に置かれた、彼の持つ本に目を留める。
「星が好きなの?」
 アスカは彼の手元にある雑誌を、じっと見ながら訊いた。
「ええ、大した知識はないですけど、星を観るのは好きです。ボケっと見るだけでも楽しいんですけど、ちょっとでも知識があると、色々なことを考えることが出来るので、時々こうやって雑誌とかも買ってるんです」
 年の頃に似合わないはにかみ顔を見せて、彼はアスカに答えた。
「式波部長は流石ですね。やっぱりそういう勉強もしなくちゃいけないんですね」
 彼もまた、アスカの手元にある分厚い三冊の本に目を遣って、感心したような笑みをアスカに向ける。
「ああ、これ? まぁこれは仕事とは直接は関係ないんだけど、ちょっと個人的にね」
 彼の言葉を受けて、アスカも手元のそれに目を遣った。そしてまた彼に顔を向けて、少しばかり軽い調子で言う。
「あなたの言葉と一緒よ。知らないことは勉強しなくちゃね」
「でも、凄いです。僕なんか、医学なんて想像も出来ないですから」
「そんなことないわよ。わたしだって、あなたみたいな料理なんて出来ないもの。昨日食べたハンバーグ定食、すごくおいしかったわよ。改めて、ごちそうさま」
 アスカは彼に向けて、口元をすっと緩めた。一瞬、彼は目をパチパチと瞬かせたが、すぐに目元を下げてそこに気持ちを覗かせる。
「わざわざありがとうございます。何より嬉しいです」
 その彼の表情に、アスカもまた、目元を緩めた。そして、手にしていた食べ掛けのサンドイッチを口に放り込むと、モグモグと咀嚼してから、彼にもう一度視線を送る。

「あのさ、ちょっと聞いてもいい?」
「なんでしょう?」
 驚いた様子もなく、彼は、よそ向きにも見える仄かに湛えた笑みをアスカに向けた。
「料理って、どうやったら上手くなるの?」

 その言葉に、今度は彼も少し表情を変えて、その瞼をピクリと持ち上げた。一瞬の迷いのような沈黙ののち、彼は言葉を選ぶようする。
「式波部長、料理、やるんですか?」
 彼のその問いにアスカは、若さ故の失敗を思い出したかのような、苦い笑いを口元に浮かべた。
「うーん、正直、ほとんどやったことがない……。子供の頃にちょっとだけやろうと思ったことはあったんだけど、ね。いろいろあってやらなくなっちゃって、結局そのまま。今のヴィレに来たら来たで、あちこち出張でばってばかりで、家にほとんどいなかったしね」
 最初はポソポソと、そして次第に滑らかに、アスカは彼に答えた。彼はまた、すっきりとした隙のない笑顔を目元口元に浮かべる。
「そうですか。子供の頃にちょっとやろうと思ったのは……どうしてですか?」

 アスカは、顎に掛けようとしていた左手をピクリと止めて、その蒼い目で彼を見た。そして彼の向こうにあるものを見つめるようにする。
「そうね。どうしてかと言うと……」
 アスカはそこで、視線を彼の上空、久しぶりの青空に浮かぶ雲に遣る。

「あの頃ね、気になる男の子がいてね。その子の為に作ってあげたくなったのよ。その子も料理が上手で、わたしはその子の料理が大好きだった。だからかしらね」
 アスカは遠い記憶を愛でるように、柔和な笑みを目元に浮かべた。その表情に彼は瞳の揺らぎを止めて、空を軽く見上げている、そのアスカの目元をじっと見つめる。しかしすぐに彼は仄かな笑みを取り戻すと、アスカにその笑みを向けた。
「式波部長のその気持ちだと思います。料理って、やっぱり誰かの為に作ることが大切なんだと思うんです。その人のことを想って、喜んでくれることをイメージして作る。僕はいつも、それを心掛けています」
 彼はそして、ふわっと顔を崩す。アスカは左手を中途半端に持ち上げたままで、彼の話をじっと聞いていた。
「自分の為にだって、いいんだと思います」
 彼は途切れることなく、続けた。
「頑張っている自分を褒めてあげたいというか……でも難しいですよね。僕だって自分の為だけには、なかなか作る気になりませんから」
 それは、自分の失敗を思い出したかのような口調だった。
「だから、作りたいな、と思った時に、作りたいものを、作りたいようにすればいいんだと思います。無理せずに」
 そうして彼はアスカに、先ほどの隙のなさとは違う、人懐っこい笑顔を見せた。
「あ、でも、栄養バランスにだけは気を付けてくださいね。美容にも関わりますから」
 彼のその言葉に、アスカは固まり掛けていた頬を緩める。
「そうね。わたしもそろそろいい歳だからね」
「あ、いえ、そういう意味では……」
 途端に狼狽える彼。その彼の様に、アスカはプッと軽く吹き出しそうになる。
「どうしたんですか?」
「ううん、ちょっと思い出してね。何でもない、気にしないで」
 そう言いつつも、アスカの目元からは、笑みが消えることはなかった。不思議そうな目でアスカを見つめる彼。


 それからは他愛もない話を十分程重ねて、二人は席を立った。
「今日はありがと。お陰で楽しかったわ」
「ぼ、僕の方こそ……式波部長とこんな風に話が出来るなんて、嬉しかったです」
 彼は赤面したかのように俯いて、後ろ頭を照れ臭そうに掻く。その姿にアスカは頬を緩めて、その言葉を思わず口に出した。

「ね、良かったら、また今度、ご飯に誘ってもいい?」
「え?」
 彼をじっと見つめるアスカの視線を、その言葉にピクリと反応した彼の顔が受け止めた。彼もまた、アスカを見つめ返す。
「ほら、色々と吐き出したいこともあるのよ、わたしも。仕事のこととかね。あなたなら、ヴィレでの軋轢もないし、口も堅そうだし」
「僕は構いませんが……僕でいいんですか?」
「あなただからいいのよ」
 自分に言い聞かせるように、独り言つように言ったアスカのその言葉に、彼の顔はジンワリとほころぶ。彼のその表情に、アスカの顔もまた、ふんわりと和らいだ。

「じゃ、今度連絡するから。連絡先はヴィレのメールでいいわね?」
「あ、あの……」
 立ち去ろうとするアスカに、彼は少し慌てたような顔を向けた。
「なに?」
「出来れば、その、個人携帯の方で……いえ、あの、ヴィレのメールだと、万が一ってこともありますし」
 アスカは少し考えた様子を見せ、真顔を彼に向ける。
「そうね、あなたの言うとおりだわ。じゃ、あなたの連絡先を聞いてもいい?」
「あ、はい、式波部長さえ宜しければ……」
「わたしが言い出したんだから、わたしはEverything is okay」
 そう言いながら、アスカはスマートフォンを取り出して、自分のQRコードを表示させる。
「これでよろしく」
 あたふたしながらも彼は自分のスマートフォンを取り出して、それを読み取った。彼の顔にやや締まりのない笑みが浮かぶ。
「あ、ありがとうございます。あとでこの連絡先にメールします」
「うん、よろしく」
 納得したかのような顔を、アスカは彼に向けた。彼もまた、ふわふわしたような落ち着きのない笑みをアスカに返す。

「じゃ、またね」
「はい、ありがとうございました」
 アスカは彼に背中を向けて、ひらひらと右手を振りながら、振り返らずに歩み去っていった。その背中を笑顔で見送った彼は、その姿が人ごみに消えてから、スッと表情を強張らせて独り静かに呟いた。
「式波部長、か……」

     ◆

 軽い足取りで、アスカはパリの街を闊歩していた。時差ボケの眠気もすっかり消え、久し振りにすっきりした気分で足を進める。ふと、トートバッグの中のスマートフォンがブーンと振動音を奏でた。アスカは道端に寄り、バッグの中からそれを取り出す。そこには一通のメールの着信。開くとそれは、アスカの期待通りに、彼――帆風ユゲジからのものであった。

―――――――――――――――――――――――――

 式波部長
 先ほどはありがとうございました。早速ですが、僕の連絡先となります。
 今後とも宜しくお願い致します。
            帆風ユゲジ

―――――――――――――――――――――――――

 その文面とともに、彼のメールアドレスと電話番号が記されていた。フッと口元を緩めるアスカ。
「今後とも、ね」
 そこでアスカは、ふっと何かに気づいたように、その表情を白く変えた。

「わたし……」

 その表情に応える者は、もちろんいない。それでもアスカは噛み締めるように僅かに頷くと、その連絡先を登録してからスマートフォンをトートバッグに仕舞い、分厚い三冊の専門書のお陰で重量の増したそれを肩に掛けて歩き始めた。その重さも、今のアスカには、全く苦にならなかった。





 第二部『破』

 


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