◎山内志朗著『中世哲学入門』(ちくま新書)
しっかし、新書にしては恐ろしくむずかしい本だねえ。もちろん興味深い点があったのでわざわざ取り上げているわけだけど、とても「入門書」とは思えない。「入門しようとした読者を門前払いしようとしているのでは?」とすら思えてくる。アマコメに「いみじくも著者自身が書くように「難しい概念を別の難しい概念に置き換えて盥回しをしているような気持ちになる」(本書278ページ)というのが読後の感想である」と書かれているけど、私めもそれに近い印象持ってしまった。
書かれている内容がむずかしいのに加えて、日本語にも難があるように思われる。ただし内容に関しては、最後に索引があるのが非常に助かる。というのも、むずかしい中世哲学用語が繰り返し出現するので、そのたびに索引を参照して意味の再確認をすることができるから。しかも該当する言葉の定義が記述されている頁は太字になっているのがとても親切でよろしい。ちなみに私めは、索引の一項目に複数の頁が対応する場合、頁数の小さい順ではなく重要度の順番で並べてくれたら嬉しいのにとときどき思うことがある(索引は著者ではなく編集者が作っていることが多いはずなので、重要度の判断は困難という理由もあるのでしょうが)。そこまではいかなくても定義が記述されている頁を太字にしているのは、内容が難解なだけに助かる。この索引がなければ、400頁近くある難解なこの本を途中で放り出していたと思う。
日本語の難に関して言えば、ここで例として明らかに間違いと思われる文章を二つほどあげましょう(文字の消し忘れのようなごく単純なミスも散見されるけど、その手の、気づきさえすればすぐにわかるミスは、私めを含めて誰にもあるのであえて指摘することはしない)。たとえば64頁に「直観的認識の理論が視覚的知覚を基礎としていた音は重要な論点であり」とある。律儀な私めは最初、「直観的認識の理論が視覚的知覚を基礎としていた音」とはいったいどんな「音」なのか一生懸命考えてしまった。そのうち「音」というのは、打ち込むときに頭の「k」をタイプし損なったうえで漢字変換したのではないかということに思い当たった。ほんとうは「こと」と書きたかったのではなかろうか(そもそも「こと」なら漢字変換の必要はないんだけどね)? 実際に「音」を意図していたのだとしても、読者にはその「音」がどんな音なのかさっぱりわからないはずだと簡単に予想できるんだから、説明しなきゃね。
もう一つあげましょう。247頁に「というのは、唯一なる形相規定を現実的にそれだけ多くの規定性を包含することは矛盾しているからである」とある。そもそもこれは文法的に理解不能な文だよね。助詞の「を」が二つあるけど、最初の「を」は文法的に考えて明らかに「に」の間違いだろうと思う。もちろんこれら二つは、文脈的に、もしくは文法的に見て明らかに間違いであろうと判断できるものであって、内容が内容だけに簡単にはわからない間違いがいくつもあるのではないかと思わざるを得ない。内容が難解な本に、この手の日本語の間違いが散在していると、マジで読みにくくなってしまう。著者より編集者が目を光らせなければならないところだけど、難解ゆえにチェックし切れなかったのか、あるいは著者が慶大名誉教授さまなので指摘できなかったのか知らんけど、これはちょっといただけない。
とはいえ、批判するしかない本は取り上げないと読書ツイ書庫概要に書いているように、そのような難点があるにもかかわらずここに取り上げるのは、二点興味深い指摘があったから。一つは一般に考えられているような「実在論」対「唯名論」という二項対立が、中世哲学をとらえる見方として正しくないと指摘されていること。いきなり「第一章 中世哲学の手前で」に、次のようにある。「私が知りたいのは、実在論と唯名論という対比が中世哲学を見る場合に正しい枠組みだったのかということだ。結論だけ言えば、致命的に誤っている。絶望的に間違っている。ウィリアム・オッカム以降に登場する思想の流れを「唯名論」と呼ぶのは、誤りと言ってよい。実在論も唯名論も程度と強度を有していて、二者択一的な対比を持ち込むことは許されない(50頁)」。
また実在論か唯名論かという問いの立て方は「普遍」に関する「普遍論争」のもとで生じたものらしい。それに関して次のようにある。「普遍論争は、普遍は事物か名称かという存在論や論理学の問題であるように見えて、実は認識論の問題であった。一五世紀になって普遍論の起源が忘却され、論理学の場面に限定されて普遍論争、実在論か唯名論かという対立が現れてくる。¶普遍とは第二志向=概念で、これはオッカムも認めることだ。唯名論というのであれば中世の哲学者は全員唯名論者であったということになる(63〜4頁)」。では、「第二志向」とは何か? 70頁にある囲み記事の定義によると、それは「知性認識の対象側面であるが、知性認識された事物は志向それ自体であり、認識された知性認識作用そのもののことである」。要するに「普遍」とは、外的な事物の実在ではなく、「第二志向」、つまり知性によって認識された知性認識作用そのもの(メタ認識?)を指しているように思われる。だから普遍論争とは、本来「認識論の問題」であったことになる。
またかなりあとになるけど、普遍論争に関して次のようにある。「普遍は第二志向であるというのは、ドゥンス・スコトゥスにもオッカムにも共通するところである。ドゥンス・スコトゥスとオッカムはこのように接近した思想を持ちながら、この二人の思想を極端な実在論と唯名論として仲たがいさせた。これは敵対する立場からのプロパガンダだったのだが、この悪意ある整理は普遍論争の迷走のきっかけにもなった(304頁)」。要するに、「実在論か唯名論かという対立」は本来的なものではなく、プロパガンダによって歪められた見方だということらしい。この「実在論か唯名論か」という見立ては現在でも流通しているように思われ、ならばこの迷走は現在まで続いていることになる。
著者はさらに、実在論的傾向と唯名論的傾向が生じた経緯について次のように解説している。「実在論的傾向は普遍論争を認識の媒介の問題として捉え、その媒介を因果論的に説明しようとする場面に現れる。視覚現象の説明や光学の現象において示されるように、アリストテレスの主語述語理論、実体論を踏まえるのではなく、別の直観的認識の枠組みでは媒介なしの説明が有力となり、その場面で唯名論的傾向が表れてくる。十四世紀以降、唯名論的傾向、媒介不要論が主要になってくる。この十三世紀に生じた変動こそ〈認識論的転回〉と呼ぶべき事件なのである(64頁)」。つまり実在論も唯名論も普遍を事物の認識に関する問題として扱っているとしても、その認識を前者は「媒介的」「間接的」な作用として、後者は「無媒介的」「直観的」な作用としてとらえている点で異なるということらしい。
ここでもう一つ興味深い概念として「直観」が登場する。それに関しては「第七章 個体化論の問題」で詳しく取り上げられており、それを読めば上の主張がかなりわかりやすくなるはずなので、そこから引用しましょう。次のようにある。「個体を認識するものが知性である限り、知性の本来的な対象は普遍であるがゆえに知性は個体を間接的に認識し、感覚が個体を直接的に認識することになる。それに対して、知性が個体を直接的に認識するという流れも存在しており、それがアウグスティヌスの流れである。個体を直接的に認識するとは直観(intuitus)によって個体を認識することで(…)。アリストテレス主義においては、人間の知性が適合的対象とするのは普遍であり、感覚の適合的対象が個体、質量的事物となされていた。したがって知性は個体を直接に認識することはできず、間接的に認識するしかないと考えられており、次のような二階建ての認識論の枠組みが支配的であった。「個体――感覚」「普遍――知性」。(271〜2頁)」。
このようなアリストテレス主義の考えによれば、「知性は個体と直接関わることはなく、個体の知性による直接的認識は考えられていない。個体はあくまで間接的に=媒介的に認識されるのである。個体は感覚によって直接的に=無媒介的に捉えられるが、知性によって[は]間接的にしか認識されない。個体から感覚が可感的形象を受容し、それから時間空間規定を除去して(抽象作用)、その上で普遍的なものとしての可知的形象を構成する。この過程が「知性(正確には能動知性)が事物の中に普遍を構成する」こととして捉えられていた(272頁)」とのこと。このアリストテレス主義とは対照的な見方として「個体の直接的認識」という、アウグスティヌスに端を発する系譜が存在するということらしい。とりわけ「[知性が]個体を直接的に認識するとは直観(intuitus)によって個体を認識すること」というくだりは興味深い。というのもこれは、現代の認知科学の成果とも符合する側面があるから。たとえばヒューゴ・メルシエ&ダン・スペルベル著『The Enigma of Reason』では、合理的思考(reasoning)が直観的推論の一形態であるととらえられている。「合理的思考」を「知性」に置き換えれば、この新書本に記述されているアウグスティヌスの考え方とも通底することになるように思える。
ということで、よく理解していないことをグダグダといつまでも続けても仕方ないので、この本の概略をもっともよく表しているのではないかと私めが考える文章をあげておしまいにしましょう。「第九章 中世哲学の結実」の最後に次のようにある。「〈認識論的転回〉以前のスコラ哲学が〈もの〉に真理の根拠を求め、〈もの〉への往還的な因果連鎖の記述の中に、実在性(realitas)を求めた。だが、対象的存在(esse objectivum)の扱いをめぐる移行期の中間段階を経て、スコトゥス以降の唯名論の潮流の中で〈もの〉との間に求められていた因果的連鎖は徐々に影を薄くしていった。¶直観にしても〈理虚的存在〉にしても、それは哲学の起点を〈もの〉の方から主観の方に移行させるパラダイムの変換であった。いずれにしても、十三世紀に〈認識論的転回〉という転換点を認めることは中世と近世という対立図式を捨て、新しく歴史の構図を書き換える必要性があることを示している(373頁)」。これからこの新書本を読む人は、上の文章を念頭に置いておくと少しだけわかりやすくなるかもね。一つだけ用語の説明をしておくと、「理虚的存在」とは著者の造語で、「知性によって構成されたありかた(77頁)」とのこと。つまり知性によって構築された、現代で言うところの「表象」に近いものなのだろうと思う。
〈もの〉に真理の根拠を求めない存在論とはケッタイに思えるかもだけど、それはわれわれが実在論に篭絡されているからであり、その限界を最初に突破するきっかけを作ったのが、中世哲学に生じた〈認識論的転回〉、すなわち「哲学の起点を〈もの〉の方から主観の方に移行させるパラダイムの変換」なのだろうと思う。考えてみれば、カントさんのカテゴリー論にしろ、その後の現象学にしろ、明らかにこの〈認識論的転回〉に基づいているような気がしてくるよね。ということで一度読んだだけで理解できる一般読者はあまりいないように思えるけど、辛抱して最後まで読めばおぼろげながら何かがわかってくるという本だという印象を最終的には持ったとつけ加えておきましょう。
※2023年7月1日