◎渡辺努著『世界インフレの謎』(講談社現代新書)
第1章の標題にあるように、最近になって(2021年の春以来)「なぜ世界はインフレになったのか」を考察する本。ただし変態国の日本は除くという但し書きがつく。
著者はまず巷で流布している、ロシアのウクライナ侵攻が原因だという説を退ける。というのも「インフレの進行が始まったのは2021年春ごろ(24頁)」のことだから。ウクライナ侵攻のほぼ1年前にはすでにその兆候が見られたからっということ。そこで著者が取り上げる原因は、そう、コロナの流行なのよね。そのため本書の多くは、コロナの流行が世界インフレを引き起こした理由を検討していくという手順が取られている。
確かにコロナの流行が大きく影響したことには間違いがないんだろうけど、個人的に一つ気になったのは、2021年春頃からインフレが始まったのなら、そのしばらく前に世界的な影響力があったと思しきできごとがもう一つあったにもかかわらず、それには一切触れられていないこと。そのできごととはもちろん、アメリカにおける政権交代のことね。
もちろんバイデン政権は、対中政策などの一部の政策はトランプ政権から引き継いでいるのだろうけど、とりわけエネルギー政策はリベラル民主党的な方向に舵を切って180度転換させている。それによってガソリン価格が高騰したのは周知の事実で、ガソリン価格が高騰すれば流通を含めた他の産業にも大きな負荷がかかるから物価が上がるはずだよね。経済の素人の私めでさえそこまではわかる。
もちろんそれはアメリカ国内の話ではあるけど、でも脱グローバル化の兆しがコロナの流行以前から見られるとはいえ(146頁)、凋落気味ではあっても依然としてアメリカは世界経済の中心を占めているのだろうから、アメリカ国内の影響は世界にも拡大すると考えるべきではないだろうか。そもそも2008年に起こったアメリカ発のサブプライム危機から始まるリーマンショックは、全世界の金融経済に大規模な波及効果を及ぼしたわけだし。
にもかかわらずアメリカにおける政権交代と政策転換にはただの一言も触れられていないのは少し奇異に感じた。それはあまり関係がないから書かなかったということなのかもしれないけど、関係がないならないでその理由を少しでも書いておいてほしかった。一般読者にはその点を疑問に思う人もそれなりに出て来るだろうし。さらに言えば私めのような天邪鬼は、「きっと日本の学者にも政治的に左向きの人が多いんだろうから、著者もそうで、民主党の政策に少しでも疑問を呈するようなことは書けなかったのかな?」と勘繰りたくもなってしまう。
とはいえそれは私めの単なる邪推で、少なくとも著者は世にはびこる日本型自称リベラルなどではないことは次の事実からわかる。188頁には、「日本のノルムの問題点を認識し、これを修復しようと考えた最初の政治家は、安倍元首相ではないかと思います」と書かれている(なお「日本のノルムの問題点」が何かについては長くなるのでここでは説明しない。ぜひ第4章と、なぜ政府と日銀がいわゆる異次元緩和を行なったかについて書かれた第5章の後半を読んでみて下さい)。
もちろん円安が亢進して輸出に有利な状況を作っても企業の賃金据え置き体質は変わらず、結局失敗こいたということらしいけど、自称リベラルなら本人の意図は無視し、失敗したことだけを取り上げて「あほのみくす」とか何とか連呼して叩きまくるだけだろうしね。もちろん現実に照らした批判はされてしかるべきだけど、「あほのみくす」などという言い方はヘイト発言そのものであり、一般人がツイするのならまだしも、公正中立な立場を取るべき学者がわざわざ本を書いて言うことではない(残念ながら、どうも言い出しっぺはわが卒業大学の教授らしい)。それに対して本書の著者は、ほんとうに安部氏に日本のノルムの問題点を改善する意図があったのか本人から聞いたわけではないとつけ加えているので、好意的に、というか学問的に中立的な立場から公正に判断している。
話が変な方向に逸れたので元に戻すと、この本には個人的に興味深く感じた記述が二つほどあった(経済音痴の私めが言うことなので本書の主旨からはややはずれるけど)。一つは、コロナの流行のせいで経済被害が生じた理由の一つとして、「{消費者の/傍点}恐怖心が世界に伝播した(85頁)」ことをあげている点。ケインズさんの美人コンテストのたとえが示すように、まさに経済は予想という主観的観点が大いに関わるがゆえに、恐怖心のような、人間の動機や意欲をそぐ心の状態はもろに経済に影響を与える。
著者は情報通信技術の発達、つまりおもにネットの影響に言及しているだけだけど、連日主要メディアがコロナの流行をめぐって恐怖心を煽るような報道をしたことも、経済の面で甚大なマイナス効果を及ぼしたことは間違いないでしょう。著者は、そのような恐怖心の影響を、スマホデータをもとに客観的に測定している。
ちなみにメディアが恐怖心を煽ることで、メンタルヘルスにも大きな被害が及ぶことは、わが訳書、スザンヌ・オサリバン著『眠りつづける少女たち――脳神経科医は〈謎の病〉を調査する旅に出た』(紀伊國屋書店,2023年)で実例をあげて論じられているのでぜひ読んでみて下さいませ。最近よく言われているように脳は予測する器官であって、だからメディアが恐怖心を煽ると、人間の心が大いに関係する経済にも、メンタルヘルスにも、もろにネガティブな影響が出るというわけ。
もう一つ興味深かったのは、日本の企業の価格据え置き体質に関して、「日本には価格が動かない品目がたくさんあるという、先ほどの話を講演会などで話すと、「日本は昔からそうだった」という意見がかならず返ってきます。日本の企業は顧客を大事にするので原価が多少上がっても耐える、それは国民性に根差すものだというのです。しかしデータを見る限り、昔からそうだった、これは国民性だというのは、正しくありません(176〜7頁)」とあること。
データからはそうなんだろうけど、聴講者の疑問はよくわかる。一つ例をあげてみましょう。1970年初頭のおばちゃんたちが見る人気ドラマに『細うで繁盛記』という番組があった。シリーズの中で一つだけ今でも覚えているエピソードがある。あらすじは次のようなものだったはず。おにぎり屋さんを営んで繁盛していた主人公の店(屋台だったかも)に、一人のインテリがやって来て、「それだけ繁盛しているんだから少しぐらい値上げしても利益は上がるはず」だと言って、主人公を強引に説得して値上げさせる。すると客がまったく来なくなって閑古鳥が鳴き始める。
つまりここには、「顧客を大切にせにゃ、商売は成り立たなくなる」という一つの道徳的教訓が籠められている。このように、まさに個人(家庭)レベルの事業においてさえ、価格の据え置きが生じるメカニズムがこのエピソードには見事に描かれていた。もちろんそれがフィクションであることは言うまでもなく、データでは企業の価格据え置き傾向は昔からあったわけではないんだろうけど、でもその種の規範的な見方が厳然として存在していたことには間違いがないのだろうと思う。その内面化された規範が、何かがきっかけとなって外在化することで現在の傾向に拍車がかかったことは十分に考えられるのではないだろうか(その何かが何なのかはよくわからんけど)。ということで本書は、同著者の『物価とは何か』(講談社メチエ)と合わせて読むことをぜひお薦めする。
※2023年4月28日