◎矢島新著『日本美術の核心』(ちくま新書)

 

 

一つどうしても馴染めなかったのが、著者の「ファインアート」という用語の定義。それについて本書の冒頭に次のようにある。「ファインアートの定義には様々なものがあるだろうが、本書では従来の定義にとらわれずに、見る者を威圧する立派な造形についてこの言葉を使うことにしよう(8頁)」。もちろん著者自身従来の定義とは異なると明言しているわけだけど、個人的には「ファインアート」は「技巧を凝らした繊細で優美なアート」くらいの意味でとらえていたから最後まで違和感が消えなかった。

 

今オンライン辞書で「fine」を調べてみると、著者の言う意味では「素晴らしい、立派な、最高級の」あたりがもっとも近そうだけど、個人的には「ファインアート」という場合の「ファイン」は、「洗練された、センスの良い、微細な、繊細な」の意味でとらえていた。用語の定義の問題だから本書を通じて一貫していればそれでいいわけだけど、とはいえ率直なところ違和感は最後まで拭えなかった。

 

もっとも興味深かったのは、「教養を前提とする表現が日本美術の重要な要素であることは疑いないが」で始まる第4章「教養があってこそ味わえる」だった。「教養」という言い回しは、私めなら、わが訳書、エリック・R・カンデル著『なぜ脳はアートがわかるのか――現代美術史から学ぶ脳科学入門』(青土社,2019年)で、ノーベル賞受賞者のカンデルさんが用いている「脳のトップダウン処理」という言い方に置き換えるけど。要するに、一定の脳の配線があらかじめ確立されていてこそ、よさが味わえるのが日本美術の一つの特徴だと矢島氏は主張していることになる。

 

たとえば写実的な風景画などでは脳のトップダウン処理よりもボトムアップ処理が重要になるのに対し、極端な例をあげれば現代の抽象絵画は圧倒的に脳のトップダウン処理に依存している。その意味では日本美術は抽象画そのものではないにせよ、矢島氏のこの主張から、それに近い要素が加わっていると推測することができるのかもしれない。

 

同じことは音楽にも言えて、現代の抽象的な音楽は、脳のトップダウン処理に依拠している部分が大きいはずであり、だからそれを具現化する脳回路が確立していない私めのようなと〜しろ〜が現代音楽を聴くと雑音のように聞こえてしまうわけ。

 

それで思い出した。ある現代音楽の動画を視聴したとき、「こんな曲が気に入るヤツなどいるのか?」というコメがあって、それに対して投稿者は「いやいや。二〇回くらい聴けば、この曲は他のどんな曲より素晴らしく聞こえてくるのよね」と答えていた。二〇回という数はテキトーでしょうが、この回答は、脳のトップダウン処理に依拠する音楽の本質をついているとも言える。つまり何回も聴いて脳の神経回路が相応に配線し直されない限り、個々の音を統合することができないから、と〜しろ〜には雑音のように聞こえてしまうってことね。

 

 

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※2023年4月28日