◎兼本浩祐著『普通という異常』(講談社現代新書)

 

 

精神科医の兼本氏の本で、氏の本はこれまで講談社選書メチエの『なぜ私は一続きの私であるのか』『発達障害の内側から見た世界』を読んで気に入ったこともあり買った。でも実はそれ以上に大きな理由があって、それは『普通という異常――健常発達という病』というタイトルが、もろにわが訳書、ロイ・リチャード・グリンカー著誰も正常ではない――スティグマは作られ, 作り変えられる』(みすず書房,2022年)を思い出させるから。

 

ただこの本にグリンカー本に対する言及は一切なかったし、グリンカー本の中心主題は「スティグマ」であるのに対し、兼本氏の本は、やたらにSNSの「いいね」に言及されていることからもわかるように、全体的に『誰も異常ではない』にはほとんど見られない現代文化批評的な側面もかなりあるように思えた。

 

もちろん類似点もかなりあって、たとえば冒頭の記述はグリンカー本とも共通する。次のようにある。「(…)ADHDとかASDとして特定の脳を総括する場合、それは、家電の仕様書に書いてあるように、その性質を持っているか否か二者択一式に○×をつけることができる{類/たぐい}の特性ではないことです。誰もがいくぶんかはADHD性なりASD性なりを持ち、それがある程度極端だと場合によって生きづらくなる、そういったものなのだと理解しておく必要があります(4頁)」。言わばデジタルではなくアナログということ。実際、DSM5から取り入れられるようになったらしい「スペクトル」の概念がまさにこれに当たるのでしょう。

 

「第2章 ニューロティピカル症候群の生き難さ」の冒頭では、「アメリカ自閉症協会有志が健常発達の人について作成した興味深い定義」があげられていて、これがなかなかおもしろい。「ニューロティピカル」とは健常発達者のことなので、普通はポジティヴにとらえられるものなのに、その問題がパロディー風にとらえられていて実におもしろいのですね。

 

ここでそれをあげておきましょう(なお(8)は意味がようわからないので省略する)。「(1)ニューロティピカル症候群は遺伝的に発生すると考えられています。(2)非常に奇妙な方法で世界を見ます。時として自分の都合によって真実をゆがめて嘘をつきます。(3)社会的地位と認知のために生涯争ったり、自分の欲のために他者を罠にかけたりします。(4)テレビやコマーシャルなどを称賛し、流行を模倣します。(5)特徴的なコミュニケーションスタイルを持ち、はっきり伝え合うより暗黙の了解でモノを言う傾向があります。しかし、それはしばしば伝達不良に終わります。(6)ニューロティピカル症候群は社会的関心にのめり込み、自分のほうが優れていると妄想し、周りの人間と強迫的に同じになろうとすることに特徴付けられる、神経性生物学上の障害です。(7)悲劇的にも、発生率は非常に高く、一万人に対して九六二四人と言われます(60〜1頁)」。

 

そういう人よくいるよね。というか、ニューロティピカルだから、よくいるのは当然なんだけど。ちなみに(6)の「自分のほうが優れていると妄想し」と「周りの人間と強迫的に同じようになろうとする」というのは完全に矛盾するけど、まさにそういう矛盾が平然として両立する、一種のダブスタ的存在こそがニューロティピカルなのでしょうね。

 

余談になるけど最近のメディアでは何やらLGBT、つまりセクシャルダイバーシティーに関する議論が花盛りだけど、ニューロティピカルは当然としてもニューロダイバーシティーに言及されることはあまりない。だから結局、LGBTというのは、ニューロティピカルにとってはトレンドにすぎず、悪くするとビジネスのネタなんじゃないのって思えてしまう。そうでないのなら、なぜADHDとかASDとかニューロダイバーシティーにはほとんど言及しないのだろうか?

 

新書本の話に戻ると、第2章の最後の部分で紹介されている「マルチ時間スケール解釈」という概念が、なかなか興味深かった。次のようにある。「マルチ時間スケール解釈とは、ひじょうに粗くまとめてしまうと、たとえば、生き物は複数の時間窓を持っていて、その時間窓に特有の“凝縮”(ベルクソン用語で縮約と訳される場合もあり)をおこなってその時間枠内の要素を統合していて、そこから私たちの世界がそれぞれ別の階層において立ち上がってくるという学説です。平井先生[ベルクソンの専門家平井靖史氏]の学説は、たとえば知覚の最小の要素である感覚クォリアは、二−二〇ミリ秒くらいの時間窓で起こる多様な(あるいは無数のといってもよいほど多数の)物理的出来事の凝縮として想定されているのに対して、我々の「今」を成立させる凝縮は、それよりもはるかに長い〇・五秒〜三秒の時間窓において、今度はこの感覚クォリアを構成素としてさらなる凝縮が行われ、階層が一つ上の現象クォリアが成立するといった建付けになっています(87頁)」。

 

なぜ興味深いかというと、現在鋭意翻訳中のゲオルフ・ノルトフ著『Neurowaves』にも、まったく同じではないにしろ類似のことが書かれているから。ノルトフ氏はこの時間窓のことをタイムスケールと呼んでいて、それは脳波の周波数の違いによって反映されている。そして各タイムスケールは、スケーフリー構造によって入れ子状に組織化されている(とはわかりにくい言い方だけど、たとえばこの記事を参照すれば少しはわかるはず)。またノルトフ氏は、粗っぽく言えば、世界の内的時間と脳の内的時間(ならびにそれによって媒介される心の内的時間)の存在を想定して、脳が世界の内的時間に調整するような形態で脳独自の内的時間を構築すると論じている。そしてそれが不首尾だとうつや躁病などの気分障害が生じるとしている。

 

ノルトフ氏は「感覚クォリア」や「現象クォリア」という用語こそ使っていないけど、それと同様なモードの区分は「ユニモーダル」領域(視覚皮質や聴覚皮質など)や「トランスモーダル」領域(デフォルト・モード・ネットワークなど)という用語で行なっている。ちなみに「ユニモーダル」領域における処理はより速い周波数帯域でなされ、視覚や聴覚などの個別の感覚モードに特化しており、これは「知覚の最小の要素である感覚クォリアは、二−二〇ミリ秒くらいの時間窓で起こる多様な(あるいは無数のといってもよいほど多数の)物理的出来事の凝縮として想定されている」という新書本の記述にほぼ合致する。また「トランスモーダル」領域における処理はより遅い周波数帯域でなされ、ユニモーダル領域でなされた処理の結果が統合される。これは「それよりもはるかに長い〇・五秒〜三秒の時間窓において、今度はこの感覚クォリアを構成素としてさらなる凝縮が行われ、階層が一つ上の現象クォリアが成立する」という新書本の記述にほぼ合致する。

 

それから一点ちょっとした違和感が第四章の記述にあった。そこでは『エヴァンゲリオン』に言及して次のように書かれている。「「ぼく−きみ」という個人的な世界から、いきなり世界の終末へと飛躍する、ひりつくような自意識過剰さはまさに中二病的です。学校・地域・職場といった身近な社会を捨象して、自分の自意識の傷つきの問題をいきなり世界の終末と結びつけるストーリー展開の特徴はセカイ系とも呼ばれているそうです(153頁)」。

 

これこそまさに、私めが何度も取り上げてきた日野啓三氏の「中景の欠如」、個人的な言い回しでは「中間粒度の欠如」という概念に該当し、『エヴァンゲリオン』なるものをまったく見たことのない私めも、そこまでは激しく同意する。ちなみに、確か日野氏は『エヴァンゲリオン』ではなく『AKIRA』をあげていた。

 

でも、その後の展開で、著者はリオタール流の「大きな物語」を引っ張り出してきて、次のように述べている。「(…)門の向こうの大きな物語と一体化するという、もう一つの生き残り戦略が昭和的健常発達症者には残されています。アメリカン・ドリームのような個人の立身出世が国家の発展と蜜月状態にあるのだという物語や、革命に身をささげることで理想の社会ができるのだという大きな物語を門の向こう側に見立てることがそれです(173頁)」「そして、世間一般の「いいね」と過不足なくピッタリと自分たちの「いいね」が重ね合わさった感が会場で共有される時、おそらくはこの「いいね」感は、昭和の大きな物語による自己像の承認と同じような治療効果を、健常発達の一次病理に対してもたらすのです(175頁)」。

 

ということは、昭和時代の「大きな物語」が終焉を迎えたので、その代わりとしてSNSの「いいね」が「ニューロティピカル症候群の生き難さ」の治療薬になったと著者は主張しているように思われる。個人的には、これは飛躍に思える。そもそも「大きな物語」はほんとうに昭和の時代で終焉を迎えたのかという疑問がある。アメリカン・ドリームを信じる人にしろ、「革命に身をささげることで理想の社会ができる」と考える人にしろ、確かにその実現はむずかしくなったのかもしれないとしても、今でも一定数いるのでは?

 

ちなみに『アメリカン・マインドの終焉』という有名な本があるのではと言う人もいるだろうから、一言つけ加えておきましょう。私めがこのアラン・ブルームの著書を読んだのは数十年前だから内容の詳細は覚えていない。でもそこには教養主義的な見解が開陳されていたはずで(ちょっとググってみたけどそのはず)、共和主義的、あるいは貴族主義的な色合いが濃厚だった気がする。だからブルーム氏の言う「アメリカン・マインド」とは、一般庶民が持つ「アメリカン・ドリーム」とはまったく違うような気がする。「アメリカン・ドリーム」の何たるかを考えるには、むしろたとえば私めが読み直している、アメリカ史のルネ・ジラールとも言うべきリチャード・スラットキンの大著三部作なんかのほうが適切だろうと思う。

 

話が逸れたのでもとに戻ると、むしろ消えてしまったのは、「大きな物語」ではなく日野氏の言葉では「中景」、私めの言葉では「中間粒度」、兼本氏自身の言葉では「学校・地域・職場といった身近な社会」なのですね。つまり中間粒度に属する生活事象が消えてしまったというのがほんとうのところなんだと思う。だからその代償として、『エヴァンゲリオン』のような生活実感が捨象された、それこそ「大きな物語」にしがみつくか、逆に「いいね」のようなきわめて粒度の細かな事象にこだわるしかなくなったというわけなのですね。とはいえ、「いいね」が「ニューロティピカル症候群の生き難さ」の治療薬になっているという見立て自体は、納得できる部分がある。

 

もう一点、違和感を覚えた部分をあげると、100頁あたりで「良いおっぱいちゃん」「悪いおっぱいちゃん」というメラニー・クラインの概念が飛び出したあたりから、「去勢」だのなんだのと、精神分析的な色合いがかなり濃くなってきたこと。著者自身「「去勢」という言葉は、精神分析というイデオロギーを信ずるかどうかの踏み絵的な響きがありますから、もちろん、受け入れが困難な方もいらっしゃるのは当然だと思います(198頁)」と述べていて、精神分析が信じるか信じないかの対象になるイデオロギーであることを認めている。私めは、その「受け入れが困難な方」の範疇に入ってしまうので、違和感を覚えたというわけ。

 

総括すると、前述の「マルチ時間スケール解釈」など、細かい部分では興味深い箇所もあったけど、全体としては前著である二冊のメチエ本のほうがおもしろかった。それからわが訳書『誰も正常ではない』とは、置かれている焦点がかなり異なるという印象を受けた。

 

 

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※2023年4月28日