◎木曽明子著『弁論の世紀』(京大出版会学術選書)
「序章」と最後の二章を除いて、記述のほとんどが具体的な弁論の事例とその歴史的な背景の説明に費やされていて(ただし弁論の具体的な展開に沿っての会話的な記述はあまりない)、もう少し抽象的なレベルの記述が多いと思って買った私めはやや肩透かしを食らった気になった。よってコメントすることがあまりないんだけど、アテナイの民主制に関する記述は、先日読んだ『古代ギリシアの民主政』(岩波新書)に書かれていた記述とほぼ同じで、その内容を再確認できてよかった。そちらと重なるけど、もう一度簡単に指摘しておきましょう。
言うまでもなく古代ギリシアの民主制は現代の間接民主制とは異なり、市民の全員参加が前提の直接民主制だったわけだけど、そもそも現在大雑把にイメージされている直接民主制と古代ギリシアの直接民主制はかなり異なる。たとえば直接民主制と言うと、その対象はなんとなく立法府に限られているように思えるけど、古代ギリシアでは立法府のみならず行政府、司法府にも直接民主制が採用されていたらしい。だから選挙で選ばれた将軍などの一部の特殊な職を除けば(さすがに無能な将軍では具合が悪い)、行政府のお役人がたも、司法府の裁判員も、一般市民からクジで選ばれていたらしい。しかも任期が1年などと短く、一度に選ばれる人数も多いので、市民が何らかの職を一生のうちに一度は経験する可能性は非常に高かったとのこと。
しかも裁判員などは、裁判当日にクジで選ばれるから、市民はつねにその可能性に臨みつつ生活しなければならない。現代なら、国や地方自治体はおろか町内会ですら、その日に参加者をクジで決めることなど不可能で、何日も前から通知しておかねばならないよね。つまり古代ギリシアにおいては、直接民主制が生活の一部そのものであったことになる。だから市民全員に政治や裁判に参加する可能性が与えられていることだけが直接民主制の肝なのではなく、それが庶民の生活のなかにも浸透し切っていることが古代ギリシアの直接民主制の大きな特徴だったと言える。
さてそのような民主制に関して、著者は次のように述べてこの本を締めくくっている。「(…)しかしながらアテナイの民主制は、マケドニアに対する最後の抵抗(前三二二年、ラミア戦争)をもって終止符を打たれた。ギリシアの自由は、ここに完全にその歴史を閉じたのである。¶さあれ、民主主義は生き返った。無慮二千年を経ての甦りである。幾多の国民がその価値観を共有し、自分たちの体制の民主化に命を懸けた。わが国でも第二次世界大戦以後、再生日本の目標として追及されてきた。¶けれども道は平坦ではない。昨今世界的に多極化が進み、多様性が唱えられ、民主主義は相対化されつつある。至上至高の価値と信じられてきた民主制の理念は、ゆらいでいるだろうか? もとより民主制の基本理念である自由・平等および独立は、ともすれば鋭い緊張関係に陥る。自由がもたらす競争社会は弱肉強食を生みかねず、平等を重んじれば機会の自由が危うくなる。独立は前二者をおびやかす恐れがある。われわれはその現実から目を逸らしてはならないのではないか? 古代ギリシア弁論の世界にしばし遊んだ筆者に、そうした思いは消えない(270〜1頁)」。
まあおおむね同意できる内容だけど、何点かコメしてきましょう。「民主主義は生き返った」とあるけど、その民主主義とは「国民」という言葉が示すようにポリスではなく国民国家をバックとする間接民主制のことになる。この点において甦った民主主義とは、古代ギリシアの民主主義とは言えないように思える。むしろ古代ローマの共和制が甦ったというほうが実情に近いように思える。いずれにせよ直接民主制にせよ間接民主制にせよ二千年間民主主義が途絶えていて、国民国家の成立とともにそれが甦ったと専門家も見ていることがそれによってわかる。ただし著者は国民国家の成立を機にとは言っていないけど、前三〇〇年から二千年と言えば、ちょうどウエストファリア条約からしばらく経って国民国家が形成され始めた頃になるよね?
それから「民主制の基本理念である自由・平等および独立は、ともすれば鋭い緊張関係に陥る」という指摘はまさにその通りで、この点を閑却して自分にとって都合のいいときだけ「XXの自由」と言ったり、「平等」と言ったりすれば、その人は民主制の本質を理解していないことになる。この二者間のバランスを取るのはきわめてむずかしく、時代が課すさまざまな条件のバランスを取り最適解を導くのが民主政治だということになる。
だから昨日の状況において最適解であったものが、今日では最適解ではなくなることが往々にしてある。専制政治(や共産主義)がときに安定的で効率的になる理由の一つは、絶えざる状況変化のもとでそれらのあいだのバランスを考慮する必要がまったくない点にある。どんな民主政権であれ、それを対象に国民が批判することは簡単にできる。なぜなら、民主政治とはまさにその都度のさまざまな状況の最適解を求め、それを実施することでなされるがゆえに、特定の観点だけに着目すれば政権批判者は必ずや、いとも簡単にそこに何らかの問題を見つけられるから。そこを理解しないで批判にあけくれるようなら、現実の民主政治を破壊するだけだと思う。
※2023年4月28日