◎クラーク・エリオット著『脳はすごい』
本書は『The Ghost in My Brain』(Viking, 2015)の全訳である。原タイトル中の「The Ghost」とは、冒頭の「著者のノート」で説明されているように、一方ではデカルトの二元論を批判する哲学者ギルバート・ライルの言葉「機械の中の幽霊(The Ghost in the Machine)」を意識してつけられているが(「ホロン」の概念で知られるハンガリー出身の作家・哲学者アーサー・ケストラーに同名の著書があるが、これもライルへの言及である)、本書の全体的な流れからすれば「真の自己、すなわち事故の瞬間に流浪を強いられるようになった〈私〉に対する感覚」というもう一つの意味のほうがはるかに強い。したがって本文中では、「the Ghost」を「幽霊」と訳すのは不適切だと判断し「影」とした(英語の「ghost」は日本語の「幽霊」より意味範囲が広い)。
著者クラーク・エリオットは、人工知能を研究するデポール大学教授である。一九九九年に運転していた車が追突され、以後脳震盪症を抱えるようになった。本書は、それに起因する苦難と、脳の神経可塑性を利用する治療によってその状況から回復する過程を描く。ある意味で本書は一種の闘病記であると言えないこともないが、一般によく見かけるエモーショナルな側面が強調される闘病記とは異なる。そもそも脳震盪症は外傷性の脳損傷に起因する障害であり、アルツハイマー、パーキンソン、ハンチントンなどの進行性の神経変性疾患ではなく、ゆえに生命に対する直接的な危険はない(ただしてんかんなどと同様、本書のさまざまなエピソードにあるように、雪原のなか、あるいは道路を横断中に身動きが取れなくなるなど、間接的な危険が及ぶことは十分にあり得る)。第一部、第二部では脳震盪症によって生じた認知の劣化の様態が、そして第三部、第四部ではその状態からの回復の様子が、微に入り細を穿って克明に描かれ、さらにいずれの部においても人工知能および認知の専門家としての独自の分析が加えられる。
それに関して重要なポイントを指摘しておかねばならない。それは、著者クラーク・エリオットがもともと一般の人々とは異なる特異な能力を備えていることである。まずあげられるのは、一一歳のときにカリフォルニア大学バークレー校に行き、数学と物理学の講義を聴いていた(もちろん正式に入学していたわけではない)というエピソードからもわかるように、彼のIQが非常に高いことで、このIQの高さを背景とする認知、論理思考能力の独自性、特異性は、彼において普通は不可能な次のような離れ業を可能にしている。「一方では、通常は一瞬のうちに生じるがゆえに互いに区別し得ない個々の処理ステップが観察可能になるほど、私の認知のスピードは遅くなる。他方では、これらの処理ステップの記録は、強力な知性のもと、フルスピードで行なわれる。かくして私は、恐ろしく複雑な人間の認知の働きを、{生/なま}かつスローモーションで観察し、それと同時に計算システムに関する十全な知識を身につけた熟練観察者として通常のスピードで記録するという、普通は得られない機会を得ることができた」
もう一つあげられるのは、著者の思考が極端に視覚依存的なことで、その程度は「音を見ている」などの表現からもわかるように共感覚に近いレベルに達する(ただし「共感覚」という用語は数回言及されているものの、自分が共感覚者であると明示的には述べられていない)。これに関連して指摘しておくと、著者は「see」という動詞を多用している。これは、単に「わかる」「理解する」という派生的な意味だけではなく、まさしく「視覚的に見る」という文字通りの意味を持ち、むしろこちらの側面が強調される(「see」の出現箇所の多くは、原文ではイタリック体で強調されている)。よって「see」は、一般的に考えれば派生的な意味の「わかる」「理解する」のほうがフィットするケースも含め、一律に「見る」と訳した。訳者自身は、思考における視覚依存度はきわめて低く著者とは対極の位置を占めるので(したがって言葉だけで何らかの視覚的メカニズムについて説明されるとすぐにわからなくなる)、本書の記述には非常に興味深いものがあった。いずれにせよ著者の持つこれらのような特異な才能は、『脳はすごい』を単なる闘病体験記に終わらせず、健常者を含めた人間の認知の様態を、本書に賛辞を寄せているノーマン・ドイジ(彼については後述する)の表現を借りれば、マルセル・プルースト流の精緻さで克明に描き出すことを可能にしているのである。
とはいえこのような著者の特異性には、裏を返せば「この著者の言っていることは本当なの?」という印象を読者に与えるマイナス面もある。一例をあげよう。著者はAIの研究者らしく、独立した複数のデーモン(コンピューターサイエンスでは、「デーモン」とは、バックグラウンドで動作する自立的なプロセスを意味する)が、意識などの心の資源を求めて競い合う場として脳や心をとらえているが、たいていの読者は自分の認知の様態を著者のレベルの緻密さで観察する能力を持たないはずなので、このような説明は「なぜなぜ物語」のように聞こえるかもしれない。
しかし現代の脳科学や認知心理学の知見を動員すれば、著者が無根拠な言辞を弄しているわけではないことはたちどころにわかるはずだ。訳者は先般ロバート・クルツバン著『だれもが偽善者になる本当の理由』(柏書房、二〇一四年)という心のモジュール理論を{敷衍/ふえん}する本を訳した。ここでその詳細を述べることはできないが、この本の「モジュール」と記述されている箇所を「デーモン」と置き換えれば、すんなりと本書(『脳はすごい』)の主張を理解できるはずだ。クルツバンは専門の神経科学者ではないので、もう一冊拙訳のなかから神経科学者の著書をあげておこう。それはスタニスラス・ドゥアンヌ著『意識と脳――思考はいかにコード化されるか』(紀伊國屋書店、二〇一五年)である。この本は意識が生じるときには脳でいかなる現象が生じているかを解明する書であり、本書の著者クラーク・エリオットの抱えていた問題が、認知機能の壊乱という意識(および無意識)の様態に関わる障害であることからしても、『意識と脳』が本書を理解する上で格好の参考書になることがわかるはずだ。ここではモジュール性に言及する箇所を一つだけ引用しておく。
(……)モジュール性が有用なのは、知識のドメインのそれぞれに対して、皮質に独自の調整が求められるからだ。たとえば空間認識のための神経回路は、風景を認識したり、過去のできごとを記憶したりする神経回路とは異なる機能を実行しなければならない。しかし意思決定は、複数の知識の源泉に基づいてなされるケースが多々ある。水を求めてただ一頭でサバンナをさまようゾウを想像してみよう。このゾウの生存は、近くに水場を見つけられるか否かにかかっている。目の届かない遠方の場所に移動するという決定は、心の空間マップなどの利用可能な情報を効率的に活用する能力や、目印や経路を見分ける視覚的な認識能力、あるいは過去に水場の発見に成功したときのことや、失敗したときのことを思い出す能力に依拠して下されねばならない。(……)かくして意識は、現状が要求する必要性に見合ったすべての知識の源を柔軟に活用するための手段として、太古の昔に進化したのかもしれない。
この記述からも、エリオットは、視覚皮質にダメージを負ったために「知識のドメインのそれぞれに対して、皮質の独自の調整」をすることができなくなり、「心の空間マップなどの利用可能な情報を効率的に活用する能力」や「視覚的な認識能力」、さらには過去の経験を「思い出し」それらの一切合財を統合する能力を失ってしまったのだということがよくわかる。
さて本書の最大のテーマは、著者が陥ったこのような苦況に対して、神経可塑性を有効活用する治療が非常にうまく作用し、完全にとは言えないまでも、ほぼ事故前の状態まで認知機能を回復できたという点にある。ところで、著者の抱えていた障害は脳震盪症という外傷性の障害であり、よって進行性のものではなく、前述したとおりそれによって直接生命が危険にさらされるわけではない。しかし神経可塑性に基づく治療は、完全に逆転できるか否かは別として、進行性の神経変性疾患にも有効であることが最近になって判明しつつある。ここで関連図書として、神経変性疾患の治癒もしくは改善に関する種々の例をあげ、その理論的な基盤を解説する格好の類書を紹介しておこう。それは本書にも賛辞を寄せている精神科医ノーマン・ドイジの著書『脳はいかに治癒をもたらすか――神経可塑性研究の最前線』(紀伊國屋書店、二〇一六年)である(また前著も『脳は奇跡を起こす』(竹迫仁子訳、講談社インターナショナル、二〇〇八年)として邦訳されているが、訳者は未読なのでコメントは控える)。この新刊では、パーキンソン病やアルツハイマー病などの神経変性疾患を持つ患者に対して神経可塑性に基づく治療を適用し、成果をあげた例がいくつか紹介されている。一例をあげると、本書にもある動作を開始することができなくなるという症状はパーキンソン病などにも見られ、その原因や改善の実例をドイジの著書で知ることができる。『脳はすごい』を読んで神経可塑性を有効活用する治療に興味を持った読者は、ドイジの邦訳が刊行された暁にはぜひとも参照されたい。
訳者あとがきをここまで読んで、『脳はすごい』は、邦題が示すところとは違って実は難解な本なのではないかという印象を持たれた読者がいるかもしれないので、最後にひとことつけ加えておこう。一部にややむずかしい表現が見られるのは確かだが、著者の体験があまりにも突拍子もないものなので、文字通り読んでおもしろい本であることにも間違いはない。訳者は最初にこの本を読んだとき、著者および著者と同様な障害を持つ人に失礼であるとは思いつつも、笑いをこらえきれなくなった箇所がかなりあった。
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