【新撰組探訪の旅;関東編】


 

 目次



「日野と土方」


7  日野の風景
    新撰組の故郷
   モノレールの車窓から

8   土方歳三の銅像の前で
   凛々しい若武者姿 冷酷な統率力
   行商の姿 情報活動の申し子
   徹底抗戦のバラガキ 天才的な戦闘能力
   


「藤堂、沖田」へ続く


1  幕末と新撰組
2  新撰組の活動、4つの時期
   長い時間的な展望の中で、隊士達の心の陰影を探る
   花が沈んでいく

3  試衛館道場の跡で
   夢の中の試衛館道場
   同じ釜の飯を食った同志達の対立抗争
   同志の藤堂平助、山南敬助の悲劇
   純粋な心のままの沖田総司
   一途な思いの総司の夢と現実
   子供の純粋な心を持ち続ける人生


「近藤、永倉、沖田」へ続く


4  近藤勇、最期の地で
   板橋の追悼碑、はじめての新撰組訪問
   夕闇迫る近藤勇のお墓
   おれは田舎者、意欲と諦念
   死んだ同志への思い、霊的な交わり
   辞世の句、義に殉じる
   大八車のエレジー

5  板橋、新撰組追悼の石碑の前で
   江戸っ子、永倉新八
   江戸気質と「社中の精神」
   永倉新八の美意識
   永倉新八だけが、何故に生き残ったのか
   土方の節を曲げない生き方と、江戸っ子の美意識
   同志それぞれの最期 生き残った者と死んだ者
   都に立つ土方と西郷どん、悲劇のヒーローの銅像
   この時代、誰も幸せになれない

6  沖田総司の死 専称寺のお墓の前で
   故郷が安住の地
   剣にかけた人生 天命を思う
   人生を共に歩んだ同志への遺言
   みつと恋人 肉親の愛情


目次に戻る




7【日野の風景】




”新撰組の故郷”



新撰組の故郷は多摩地方です。
天然理心流の剣法は、遠江の近藤長裕から出ていますが、それから三代にわたって南多摩出身の当主が跡を継いでいます。長裕の養子が近藤方昌、方昌の養子が周助、周助の養子が近藤勇。いずれの当主も跡を継ぐ子供に恵まれなかったために、南多摩地方の出身者が、この剣法の流儀を守ることになりました。天然理心流は、多摩で育った剣法と言われるのです。

土方歳三は、日野の石田村の農家に生まれ育ちました。土方の義兄に当たる佐藤彦五郎や、近藤と義兄弟の契りを交わしている小野路の小島鹿之助は、この地方の有力な名主でしたが、新撰組の後援者として京都の隊士と頻繁に交流していました。
京都で日々激しい決闘を繰り返す隊士達にとって、故郷の自然風景や人々に対する懐かしい思い出が、心の中で大きな慰めになっていたと思います。

私の勤務している中央大学は、新撰組の故郷、多摩の地にあります。
そのため、私はもう20年近くも、この多摩の風景を、日々しみじみとした思いで眺め続けています。
冬になると、丹沢の山波みの向こう、朝日の中に真っ白に輝く富士山の見事な姿、夏の夕暮れには、空一面に拡がる茜色の夕焼けの美しさ、どれも本当に素晴らしい風景です。

馴染みの喫茶店2階の窓の向こうには、随分広く視界が開かれています。
丘陵のように背の低い山々が、視界のぐるりにつながって、多摩の地を取り囲むように見下ろしています。その風景画の真ん中には、高幡不動尊の五重の塔が、樹木に囲まれて美しく静かに立っています。すぐそばには、土方歳三を育てた浅川の流れが、今もゆったりと、多摩の歴史を刻んでいます。

この美しい自然の風景が、京の新撰組の隊士達の心のスクリーンに写されていたかと思うと、130年という時間を超えて、今も新撰組と共に生きているような幻想に落ち込んでいきます。
多摩の自然の美しさ、優しさを、彼たちと同じように心の中に暖かく宿して、私の人生も過ぎていきます。多摩に生きる時間が長くなるとともに、新撰組の人々との心の共鳴がますます強くなっていきます。

多摩の地は、徳川将軍家の直轄地であったこともあり、いざという時には、鍬を剣に代えて将軍のために働きたいという気概が、非常に強いところでした。
そのために、多摩は、昔から武道の非常に盛んな所であり、近藤など試衛館の連中が、常時江戸から多摩へ出稽古を行って、天然理心流の剣法を教えていました。
新撰組の組織理念が、徳川幕府の継続擁護、という非常に堅い信念で成り立っているのは、このような多摩独特の地理的な風土によるものです。
多摩の百姓であった土方歳三は、最後の最後まで官軍に徹底的に抗戦して散っていきますが、この強烈な精神力は、まさに多摩の美しい風土の魂によって鍛えられ、育てられたものです。

長年多摩の風景に慣れ親しんでいると、多摩に住む人々の心の成長に働きかけてくるような、独特の味わいがあるように思います。
それは、日本一の富士山の景色を首都(江戸)の人々と共有することから、人々の心の中に自然に生まれるものです。

富士山は、日本一の高い山です。山姿の優麗な美しさは、仰ぎ見る者すべての心を魅了します。それは、筆舌を超える凄い美しさ、雄々しさです。特に寒い冬の早朝、間近に迫るような白雪の富士山の見事さは、誰もがしばし我を忘れて見とれてしまうものです。
この日本一の素晴らしい山姿は、志を抱く若者達の心を強く刺激します。日本一のものが、絶えず日常的に語りかけてくるとき、若者の心に大きな憧れや野望が生まれてきます。それは、自分のもって生まれた才能を徹底的に磨いて、いつの日にか日本一をかけて真剣勝負をしたいという強い気概です。

当時の多摩地方は、確かに田園ののんびりした田舎です。のんびりした百姓生活では、普通の農村生活のように、狭い土地の生活に満足した一生に終わってしまいそうです。
しかし、多摩の自然風景は、日本一の富士山の景色を中心にして、当時の大都会江戸の自然風景と、広い範囲で重複しています。江戸の人々も、我々と同じ様に、日本一の富士山の風景を日々楽しんでいます。
この思いこそ、多摩に住む若者たちの心の中に、江戸の人々と共有するような、高い志が生まれてくるのです。心の中の風景も、もはや江戸の人々と変わりません。

さらに、江戸から多摩に近くなるほど、富士山の風景は、より澄んで純粋な美しさになります。それだけ多摩の人々の思いは、より純化されていきます。
当時、江戸では、250年という長年の澱みの中で、この日本一の風景がすでに相当くすんできていました。そこから離れるにしたがって、自然風景がより原点に近づいて、より美しくより純粋な光彩を放って輝き、人々の心に強く訴えてきます。

旗本の武士達の間ではすでに色あせてきた、坂東武者の武士道の精神は、新撰組の中には、純化されて力強く生き残っています。多摩の若者たちが、それに再び新たな生命力を与えようとしています。

”近藤、土方の士道の理想像は、坂東の古武士であった。惰弱な江戸時代の武士ではない。”(「燃えよ剣」)


中央大学は、江戸の中心地である神田から、多摩に移転してきました。その後、他の大学も、次々にこの地に移転するようになりました。
大学移転の頃には、どうも片田舎に移ったようで、大学内には、なんとなくのんびりして、意気が上がらないようなところがありました。自然の景色は素晴らしいのですが、無性に都心のあの雑踏と刺激が恋しくなってきました。

しかし、徐々に多摩生活に慣れてくると、大学が、副都心の新宿や渋谷から電車で1時間という近い距離にあるために、大学の多摩校舎は、都心の大学の一角と言う気持ちが強くなってきました。

新撰組の頃は、日本一の富士山の美しい風景の共有を通じて、江戸と多摩との精神的な一体感が育っていきました。
今は、都心との交通が非常に便利になって、多摩地方も大きな首都圏の一部という一体感が生まれています。
私は、常時、市ヶ谷やお茶の水などの都心でも教え、そして新宿、渋谷で遊んでいますので、多摩の田舎に住むという感覚は、いつの間にか完全に消えてなくなりました。


”モノレールの車窓から”


2000年春、立川市より多摩センターまで、高い所を走るモノレールが開通しました。
立川から進むと約10分、「万願寺」駅のプラットフォームに、「新撰組副組長、土方歳三生誕の地」の案内が出ています。

そこから2、3分、浅川の直前には、左に、300m程向こうに土方歳三のお墓のある石田寺のこんもりした樹木、右下すぐに、土方が生まれた実家が見おろせます。

素封家であった土方の実家は、今も立派な家を構えています。おそらくあの庭で、若い土方は1人で、打ち込みなど激しい稽古をしていたのでしょう。
命を懸けた決闘で、相手に身を投げ出してぐんぐん当たっていくあの激しい闘志の剣の使い方は、ここでの素振りの繰り返しの過程で、若い頃から自然と身に付けたのでしょう。

毎日こんな激しい練習に疲れると、遠くの多摩の山波や富士山をはるかに見上げ、額の汗を拭いながら、若い土方は、将来への夢を暖めていたと思います。

自宅の庭は、多くのスポーツマンにとって、青春の激しいスポーツ活動の原点です。
私の青春時代も、農家の広い庭で懸命になって体を鍛えたのを思い出します。
剣に代えて野球のバットを何度も振ったり、壁に球を当てて守備の練習をしたり、さらに、重い鉄棒を振り回し、大八車の大きな車輪を持ち上げて若い筋力を鍛えたり、縄跳びも、2段飛びを常に100回以上も繰り返して、体にバネを付けたり、いつもこの庭で汗を流しながら体を鍛えていました。
自宅の庭には、100年を超える松の大樹が立っていました。その高い枝に何度も繰り返し飛びつくという、ジャンプ力のトレーニングは、毎日学校から帰ってからの楽しいスポーツでした。
スポーツ好きの私にとって、庭の老いた松の大樹が、格好の練習パートナーでした。
土方の実家を見るたびに、自分の青春時代の思い出がだぶって、とても懐かしくなります。

土方の実家の一部は、今は記念館になっており、月に1回公開されています。京都に上がった時から函館まで、土方の腰に従って戦ってきた愛刀、和泉守兼定が保存されています。

前方に目を転じると、土方の生家から100mもない所に、多摩川の支流である浅川が流れています。
この河原で幼い土方が遊んでいたのです。真夏には、素っ裸になってこの川の水と戯れたのでしょう。
バラガキの土方が、成長して京都最強の決闘グループを育て上げた、あの厳しく激しい活動の活力の源泉は、浅川の遊びの中で鍛えられ蓄積されたのです。

新撰組では、隊士の刀傷や打身が絶えなかったために、常備薬として「石田散薬」が利用されました。その原料が、浅川の川原で育った雑草です。

河原の雑草を刈って家伝の散薬にするのが、素封家の実家の毎年の仕事でした。
しかも、土用のうちのたった1日でその作業を完了するそうですから、一連の作業を非常にシステマチックに進めなければなりません。
雑草を河原で刈って運んで、陰干しして、なま乾きの草を庭に据えられた釜に入れてぐつぐつ煮る。次に釜から上げて薬研で磨いて、袋に入れる。
そのために、村から大人数が動員されましたが、それぞれうまく有機的に分担して、これら一連の仕事を進めました。

私も、子供時代に何度か、村人総動員の共同作業をした経験があります。
大人数を組織的にうまく動かすには、リーダー役には、相当の知恵と経験が必要です。仕事にあぶれて遊ぶ人が出ないように、皆をうまく動かさなければなりません。
しかも、多様な仕事の間に無駄なく相互連携を取るように配慮することが、リーダーのもっとも重要な役割になります。

若い土方は、14歳からこのような大人数を組織的に動かすという仕事をやっていました。その実地経験の中で、後の新撰組という大組織を効率よく動かすノウハウを習得していったのです。(司馬遼太郎「手堀り日本史」)
モノレールの車窓から浅川の河原を見下ろしていると、京都における新撰組の組織的活動の原点がここにあったのかと、非常に大きな感動を覚えます。

さらに進むと高幡不動駅です。金剛寺内の境内に立つ五重の塔が、すぐ近くに見えます。
そこには、土方の若く凛々しい銅像(全身)が立っています。
また、新撰組を支えてきた松本良順が、明治9年に建立した「殉難両雄の碑」が、本堂の向こうに静かに控えています。
多摩の人々のせつない無念の思いと追悼の熱い気持ちが、境内に入ると強く感じられます。

モノレールでこの多摩の風景を見ていると、私にとっては、運命的な出会いを感じます。
おそらく一般の人は、モノレールを単なる乗り物として利用しています。私にとっては、この乗車コースは、いつも新撰組への思いに浸る大切な時間です。
車窓の風景は、季節の移り変わりにともなって、次々に美しい装いに変ってきます。
夏には、富士山の肩に美しい夕焼け雲が、刻々色彩を変えながら浮かんでいます。秋が深くなると、多摩の山々や川岸の樹木が色づいて華やかになります。

この地に育った土方、出稽古に来た近藤、沖田、永倉は、このような美しい風景に接してしばしば感動し、激しい剣の練習の疲れも、一時忘れたことでしょう。あまりに綺麗な風景に接すると、言葉もなくしばし見とれるものです。
京都時代には、多摩の季節の移り変わりの模様が、仲間達の故郷の思い出話の中に、しばしば出てきたことでしょう。

そして、戦いに敗れて江戸に帰って来たとき、故郷の懐かしい風景が、新撰組の隊士達の傷ついた心をやさしく包み込んだと思います。傷心の心を心底から和ませ励ますのは、子供の頃から慣れ親しんできた、懐かしい故郷の自然風景しかありません。
”世の中がどんなに変わろうと、この多摩の風景だけは、美しい姿そのまま絶対裏切らずに、今も私を迎えてくれる”、帰ってきた土方は、心の中でしみじみとそう思った筈です。
”故郷の山に向かいて言うことなし、故郷の山は有り難きかな”

丁度、私が新撰組に強い関心を持ち始めた時に、立川からのモノレールが開通しました。
モノレールの車窓からの風景を通じて、新撰組の人々に対する思いが、ますます深くなっていきます。ここを通る度に、多摩の風景と交差して新撰組隊士たちの活動が、私の心のスクリーンに印象的に映し出されてきます。
おそらく新撰組ファンの中では、日常的に土方歳三と語り合う機会に恵まれている、もっともラッキーな人間の1人と自負しています。

目次に戻る




 8【 土方歳三の銅像の前で 】



‘凛々しい若武者姿、冷酷な統率力’



土方歳三の銅像は、高幡不動尊金剛寺の境内の一隅に立っています。
白い鉢巻きをした凛々しい表情の若武者は、長い刀を差してはるか前方をじっと見つめています。その視線の方向は、何処でしょうか。京都の壬生でしょうか、函館の五稜郭でしょうか。

京における新撰組の活動は、副長土方歳三によって徹底的に管理統率されていました。
一時期は200名を超える大組織を動かす為に、土方は非常に厳しい管理方法を導入しました。江戸の道場時代からの同志から見ても納得しかねるような厳しさで、新撰組の組織を引き締め、最強の戦闘集団に育て上げました。土方は、隊士から”鬼”と恐れられる非常に怖い存在でした。

日野に立つ土方歳三の銅像の前でいつも考えることは、土方の育った多摩の土地と新撰組の鬼の厳しさとの関係についてです。この静かなのんびりした田舎で育ちながら、どうしてあのような激しさや冷酷さが、土方の心の中に宿っていったのでしょうか。

土方は、新撰組の発展の中で大きく変化しています。
試衛館時代から兄弟のようにして育った沖田総司は、時々 ”土方さんは変わりましたね”と、本気とも冗談とも分からない程に、しばしば土方をからかっています。

土方自身は、自分の変化をこのように考えています。
”試衛館時代は、おれも随分いい加減なことをしてきた。しかし、今、京の治安を維持するために、こんな大組織を動かそうとすると、厳しい規律を導入せざるをえないのだ。少しでもゆるめると、組織はすぐバラバラになってしまう。”
”局長の近藤さんは、あくまで隊士の皆が慕っていけるようなカリスマ的な存在に止まっていて欲しい。新撰組の活動に関するすべての責任は、近藤さんを支える副長のおれの所に来るようになっている。その辛い仕事をするのが、俺の役割であり、そのためにどのような悪役でも引き受けるつもりだ。”

確かに責任感の強い人間は、置かれた環境によってどのようにでも厳しい役割を担っていきます。
しかし、そこまでやるのかという程のやり方の激しさ厳しさは、単なる責任感の強さだけでは説明できそうにありません。

土方の残酷なやり方は、新撰組の活動の歴史の中に黒々とした傷跡を残しています。
試衛館時代からの同志、インテリの山南をとことん追い込み、ついに隊からの脱走・切腹で葬ってしまいます。
かっての同志伊東甲子太郎を甘言で誘き出して暗殺し、その死体を路上に晒して、伊東一派を呼び出し闇討ちをしまう。
たとえ、抗争する相手であれ、死人の体をそこまで徹底的に痛めるのは、おそらく歴史上あまり例のない残酷な戦術でしょう。

さらに、古高俊太郎の拷問には、凄い残酷なシーンが出てきます。
古高を縛り上げて、土蔵の梁に逆さにつるし上げて、足の裏に五寸釘を打ち込み、その五寸釘に百目蝋燭を立てて火をともす。熱いなまりのように、蝋がとろとろ溶けて、古高の臑のあたりまでたらたら這っていく、目を背けたくなるような残酷さ。最後に気絶寸前にまで追い込んで、古高の口を割らせます。

あの剛毅の永倉新八でさえ、
”見ているだけで気が遠くなりそうな、ものすごいことになってきた”(三好徹「沖田総司」)

多摩のやさしい自然の中に育った土方が、どのようにして”鬼”に変身したのか、いつも考えさせられます。



‘行商の姿 情報活動の申し子’



末っ子の土方は、子供の頃から他人の家に奉公に出され、先々でいろいろなトラブルを起こして苦労の多かった日々を送ってきました。
土方には、生まれつきの気質として物事に素直でなく、なんでも疑ってみるという性癖がありました。疑い深いだけでなく、疑問点をしつこく探求するという、行動パターンが見られます。
こうした土方が、大人の目に非常に憎たらしい悪ガキと映って、周囲の人との感情的な争いが絶えなかったのです。
幼少時からのこうした本能的な気質が、その後の情報への鋭敏な感性を支えることになりました。

青年になった土方は、石田散薬の行商に方々の土地を歩きながら、いろいろな相手と剣の勝負を繰り返しています。背中に剣を結んで、薬箱を背負った若い土方の姿は、銅像の姿と同じく非常に凛々しく、人々にとって印象深いものだったでしょう。

新撰組の組織の中でもっとも重要なものの一つに探索部門がありますが、鬼の土方副長を支えていたのは、山崎などの探索活動です。
大きな組織の管理運営には、できるだけ継続的体系的に様々な情報を収集し、収集した種々の情報を、優れた分析力で整理し直して、有効に活用する手だてを考えることが不可欠です。
探索から上がってきた情報の分析で、土方は、自分で少しでも納得行かない問題点があれば、どんな些細なことでも徹底的に追及し、そのまま無視したり、放置したりすることはありません。山崎などに命じて、偏執的に繰り返し情報収集を続けています。
子供の頃から土方の疑い深い性格が、ここにいたって、その情報行動の大きなバックボーンになっています。

土方が、鬼と恐れられる理由の一つに、隊士がほんのちょっとした出来心からの行動でも、土方の広い情報の網にひっかかってくれば、徹底的に調べられて、切腹という厳しい措置に追い込まれるからです。まるで、警察国家のような情報の使い方です。
そこが土方の情報に対する感性の鋭いところであり、その結果として、残酷な仕打ちに繋がっていきます。詳しく知らなければ、ここまで厳しい処置を取ることもなかったでしょう。

土方は、情報活動の重要性を早くから認識していました。実際、こうした探索活動によって、新撰組の組織としての活動目標が、より効率的に達成されています。
新撰組の活動では、組織としてのフットワークの良さと人脈情報のネットワークが、非常に有効に生かされています。

土方のこうした情報活動の原点は、若い頃に行った石田散薬の行商にあったと思います。
若い土方のフットワークの良さ、方々を歩き回って出来る人脈情報ネットワークの拡がりと、そこから得られる新しい情報への鋭敏なセンス、これは行商の中で自然と身に付けたものでしょう。

フットワークの良さと情報への鋭敏なセンスは、実際の体験の中で始めて鍛えられるものです。どんなにその重要性が分かっていても、実地体験の蓄積なしに、このような鋭い情報活動を行う能力を習得することは難しいです。
方々見知らぬ土地を行商する中で、非常に危険な出来事に直面することもありますが、広い地域を歩き回ることによって、それだけ自分の情報網を拡げることになります。
その結果、新しい情報をより広い範囲で収集し、豊かな情報を的確に分析する能力を高め、さらにすぐ有効な対抗策を取ることに頭を巡らせるという、人生の習慣が形成されていきました。
この習慣が、後の土方副長の特異な活動を支えるもっとも重要な資質になりました。

副長土方歳三による古高俊太郎の拷問の問題を考える時、若い頃の行商の経験は、決して無視できない重要な要因の一つです。
すでに指摘したように、土方は、情報収集に異常なほどの熱意を示していました。情報に対するこの偏執狂的な固執ぶりが、新撰組という大組織の運営では、しばしば残酷な仕打ちという形で出てきます。その典型例が、古高の拷問の場合です。

通常、人を拷問にかけて苦しめるのは、その人に対する激しい憎しみの気持ちが背景にあるからです。
相手へのレベンジとして、徹底的に苦しめてやりたい、という激しい情念にかられて、人間は残酷な行為を平気で行うようになります。相手を苦しめぬいて殺してでも、怨念を振り払い、復讐への思いをとげたいのです。
土方の場合、始めてあった古高に対しては、こうした人間的な感情はほとんどありません。
若い頃からの情報収集の経験から、本能的、感覚的にこれは重要な情報源という認識が、非常に強かったと思います。

土方は、何がなんでも使いたい情報源という認識からのみ、口を割らせる(貴重な情報を取る)ためには、どんなことでも平気でできたのです。
土方には、感情的に特段憎いという復讐心はありませんので、拷問中も自分の感情を冷静にコントロールすることができます。残酷な拷問の行為の中で、目標はただ一つ、情報を取りたいということだけです。

どうしたら貴重な情報を取れるか、という無機質な知的活動だけが、土方の頭の中で動いており、人間的な情念から相手を見ることがありません。
そのために、相手の苦悩の感情に対する気分的同調という心内の変化は、残虐な拷問がどこまでエスカレートしても、土方の心には起こらなかったのです。
相手の苦悶に対する哀れみの念は、情報を取るための知的作業に没頭して、人間的な感情の麻痺している男には無縁のものです。
その結果、感情豊かな永倉新八などが、側で見ていてヘドを吐くような、死の直前の極限状況まで突き進んだのです。

土方は、行商を続ける中で、各地の人脈や情報について非常に敏感になっていきますが、同時に方々で人々と対立し、喧嘩をしています。そんな辛い生活の中で、人間に対する信頼感が徐々に色褪せていき、常に他人を疑うという生来の性癖がより強くなっていきます。
試衛館で兄弟のように育ちながら、その前歴の辛酸をなめた青春時代のために、土方には、近藤と全く異なった人格が育っています。おおらかな近藤は、そういう疑い深い土方をしばしば窘めています。

こんな土方の不幸は、人脈を最大限に利用して、情報を収集しようとしながらも、心から信頼できる相手が、近藤と沖田しかいなことです。
どんな親しい仲間との間でも、つい人を疑うために、人間関係がぎすぎすしたものになり、土方のやり方が理解されずに、かえって恨みを買うこともあります。
それに伴って、土方は、本来活用できる表の人脈ネットワークよりも、スパイ網のような暗い裏の人脈ネットワークに、ますます情報収集のルートを頼るようになります。
その結果、表の親しい人々との間にも、余計な亀裂を深めることになります。まるで裏のスパイ網を張り巡らせた独裁国家の様相になってきます。

芹沢、伊東、山南など、隊内の抗争事件は、ほとんど土方のこうした疑い深い性格がその引き金になっています。
流山における新撰組再興の時でも、結局、試衛館時代の同志は、土方から離れていきます。
単に土方が、近藤に代わってすべての悪役を引き受けた、というだけではすまない問題が、そこにあると思います。

青春時代の活動を通じて形成される人格は、その後の人の活動に大きな影響を与えるのです。



‘徹底抗戦のバラガキ 天才的な戦闘能力’



銅像の若武者が、はるか東北、北海道の方を見続けていると考えるならば、もう一つの生き生きとした土方の姿が浮かんできます。

近藤と離れた土方は、東北を転戦し、函館の五稜郭まで抵抗を続けていきます。戦闘の現場指揮者として、土方はあらゆる戦術を駆使して官軍を悩まします。
現場では、土方の冷静で的確な状況判断力と決断力が厚く信頼されていました。たとえ軍の大勢が後退を強いられていても、常に味方の志気を鼓舞して有利な闘いに導いていきます。

官軍の誇る、最先端の装置をもった軍艦を乗っ取ろうと、北海道から長駆仙台まで遠征し、相手の油断を誘って、直接軍艦に飛び移り、なぐり込みをかけます。このように味方も敵もとうてい思いつかないような非常に大胆な発想で、奇襲攻撃を仕掛けることができます。

松前藩の守備する城の攻防でも、大砲の激しい砲撃に守られて、難攻不落と思われた城を相手にして、戦い上手の土方らしい独創的な戦術で、遂に城内になだれ込むのに成功します。
大砲の弾薬が一斉発射される合間をうまく縫って、じりじり城壁に突進したからです。
置かれた状況を十分把握した、その戦術の斬新さや度胸の良さには、闘いの残酷さを忘れて、土方の高い才能に感服してしまいます。

その背景には、情報の不十分な冒険主義に落ち込むことなく、時間を掻けて徹底的に状況を観察し、必要な重要情報を最大限に集め、それをもとに大胆に自分の頭の中で独創的な戦術を編み上げていく、という、京都の副長時代と基本的に同じ行動パターンが見られます。
ただ、新撰組では、後方での組織の管理者としての役割でしたが、東北・北海道の連戦では、直接的な戦闘現場における指揮官としての役割、という違いがあります。

現場における指揮官としての生き生きとした戦闘ぶりを見ていると、土方の若い頃の餓鬼大将の姿が如実に出ています。
土方の若い頃は、まさに悪餓鬼そのものです。奉公先で年上の女を作って揉めごとを起こしたり、勤め先の年配者を殴りつけて首になったり、方々の若者達と喧嘩したり、自由奔放に遊び歩いています。
その際、仲間と徒党を組むより、自分個人の力を信じて、自由奔放に飛び回っています。それが、若い土方のたまらない魅力になります。

確かに土方は、厳しい規律でもって新撰組という大組織を鍛えあげ、最強の決闘集団に育てました。そこでは、近藤を頭に据え、組織全体の動きを厳しく監視しながら、集団活動を通じて大きな成果を挙げていこうとしました。優れた組織の操縦術は、土方の見事な才能の開花です。

しかし、大きな組織の中で管理者として集団的に動くよりも、戦闘現場で個人の才覚を最大限に働かせて、率先即決して突き進んでいくリーダーとしての行動で、土方の魅力がより際だって輝いているように思われます。
悲劇の指揮官というよりも、多摩のバラガキの意気揚々とした戦勝の喜びのようなものが感じられます。
颯爽とした指揮官として躍動する姿が、滅び行く悲劇の新撰組のイメージに裏打ちされて、後の人々の心に強く迫ってきます

結局、土方歳三は、大きな組織の軍の参謀としても、常に新しい独創的な戦術を絞り出すとともに、戦闘現場の指揮官としても、高い統率能力を持っています。
どのような規模の闘いであれ、土方は、戦いに関する天性的な能力に恵まれていると言えるのでしょう。



目次に戻る





【関東編】下書きの終了

関西編へ