【新撰組探訪の旅;関東編】目次「藤堂、沖田」 1 幕末と新撰組 2 新撰組の活動、4つの時期 長い時間的な展望の中で、隊士達の心の陰影を探る 花が沈んでいく 3 試衛館道場の跡で 夢の中の試衛館道場 同じ釜の飯を食った同志達の対立抗争 同志の藤堂平助、山南敬助の悲劇 純粋な心のままの沖田総司 一途な思いの総司の夢と現実 子供の純粋な心を持ち続ける人生 「近藤、永倉、沖田」へ続く 4 近藤勇、最期の地で 板橋の追悼碑、はじめての新撰組訪問 夕闇迫る近藤勇のお墓 おれは田舎者、意欲と諦念 死んだ同志への思い、霊的な交わり 辞世の句、義に殉じる 大八車のエレジー 5 板橋、新撰組追悼の石碑の前で 江戸っ子、永倉新八 江戸気質と「社中の精神」 永倉新八の美意識 永倉新八だけが、何故に生き残ったのか 土方の節を曲げない生き方と、江戸っ子の美意識 同志それぞれの最期 生き残った者と死んだ者 都に立つ土方と西郷どん、悲劇の銅像 この時代、誰も幸せになれない 6 沖田総司の死 専称寺のお墓の前で 故郷が安住の地 剣にかけた人生 天命を思う 人生を共に歩んだ同志への遺言 みつと恋人 肉親の愛情 「日野と土方」へ続く 7 日野の風景 新撰組の故郷 モノレールの車窓から 8 土方歳三の銅像の前で 凛々しい若武者姿 冷酷さと統率力 行商の姿 情報活動の申し子 徹底抗戦のバラガキ 天才的な戦闘能力 「局中御法度」 ドジと切腹 目次に戻る 1 《 幕末と新撰組 》目次に戻る2 《 新撰組の活動 4つの時期 》”長い時間的な展望の中で、隊士の心の陰影を探る”新撰組は、多摩地方出身の近藤勇や土方歳三を中心に組織された剣客集団で、会津藩のおかかえのもとに、動乱の京都の治安維持を担当していました。今で言えば、特別機動隊のような存在です。 一般に新撰組の活動は、文久三年(1863年)から慶応四年(1868年)までの6年間というごく限られた時期に焦点が当てられています。 京都の秩序維持と警護のために、新撰組の隊員が集団で市内をパトロールして回っていましたが、その中で、池田屋騒動など有名な事件が起こっています。また、隊内における数々の厳しい粛正事件や、分派した伊東一派との血生臭い争いなどが、新撰組のイメージを非常に重たく暗いものにしています。 私が新撰組探訪の旅の途上でいつも気になったのは、もっと長い時間的なスパンで見て、新撰組の隊士たちがそれぞれ、どのような人生を送ることになったのか、ということです。故郷江戸の時期から始まって、明治の新撰組への追悼の時期までの、いわば、大河小説の中で新撰組の活動を考えてみたくなりました。 人間のあり方や、歴史の流れにおける人間の生き方などが、新撰組探訪の旅で私がもっとも重く考えた主題ですが、そのために新撰組の隊士達の活動も、華々しい京都時代だけでなく、江戸の試衛館時代や、戊辰戦争の時代にも強い焦点が当てられています。隊員一人一人の心の世界では、これら前後の時代が相互に内面的に繋がっていると思われるからです 新撰組が京都で華やかに活動していくなかで、隊員にいろいろな事件が起こっていきます。それらを江戸時代からの長い展望の中でみると、社会における人の生き様について、深く考えなければならない問題が出てきます。 新撰組の長期にわたる活動は、次の4つの時期に分けられます。 ・ 江戸の試衛館道場の時代、 ・ 文久三年からほぼ5年間の京都時代、 ・ 戊辰戦争の時代 慶応4年4月の隊長近藤勇の処刑で新撰組は瓦解するが、 土方を中心にした東北・北海道での新撰組の最後の戦い() ・ 明治時代、生き残った隊員による追悼活動が行われる、 以上の4つの時期です。 単に京都時代の活動に焦点を当てるのではなく、それと密接に関係している、前後の時期の活動をオーバーラップさせると、新撰組の隊員の人生模様が、より明らかに見えてきます。 ”花が沈んで行く”新撰組がいつ崩壊したのか、非常に興味のある問題です。 下総流山で局長の近藤勇が捕まり、処刑された時期をもって、新撰組は確かに崩壊期を迎えたと考えられます。 甲州の戦で敗れ敗走した新撰組は、いったんばらばらに離散してしまいます。 永倉新八や原田左之助などの主要幹部は、離散した隊士を再度結集して新撰組の建て直しをはかり、会津行きを決議します。 しかし、ここで局長の近藤と意見が合わず、彼らはついに近藤や土方と別行動をとる。この時点で、京都以来の新撰組は、実質的に分裂したと言えます。 他方、逮捕された近藤と別れた副隊長の土方は、永倉などと別のルートで会津に向かいます。土方は、仙台など東北各地を転戦し、さらに函館まで新撰組を率いて戦い続け、榎本武陽ら幕臣の残党とともに、北海道の独立政府の樹立に加わります。 この戊辰戦争の過程で北国に敗走をくり返しながら、新撰組の隊士の数と戦力は、ますます衰退していきます。 流れる川に花束が投げ入れられると、徐々に水面から水の中に沈んでいきますが、いつ花が沈んだか、そのときがしかと分からないまま、いつの間にか花が川の水中から消えています。 新撰組は、丁度このように、何時消えたのかはっきり分からないまま、徐々に追いつめられて崩壊しつづけ、何時の間にか姿を消していきます。このような形での新撰組の崩壊にますます悲しく、せつない気持ちになってきます。 しかし、函館で土方が戦死した後も、新撰組は永遠に生き続けています。 生き残った主要幹部の永倉や斎藤は、明治になっても、新撰組の活動を精神的に引きついで新たな戦いをつづけています。 また、松本良順など、新撰組に密着して支援してきた人々も、新撰組の活動を永遠に書きとどめる作業を進めています。 確かに新撰組として現実の活動は、完全に停止しています。しかし、新撰組の隊士の志や思いは、なお生き生きと後の人々に受け継がれているのです。今も、これからも、多くのファンの心の中に確かに生き続けており、現実に人々の心の支えになっています。 新撰組は、確かにまだ生き続けている、このように思っている新撰組ファンは非常に多いのです。 目次に戻る 3 《 試衛館道場の跡で 》” 夢の中の試衛館道場 ”新撰組の跡を訪ねていくと、しばしば過去の思い出がすべて時の経過の中で消却されたように、何も残っていない場合があります。 新撰組を有名にした池田屋の跡も、今は賑やかな町中で碑が残っているだけで、相当豊かな想像力を働かせなければ、当時の面影を忍ぶことは難しくなっています。 近藤の天然理心流の道場「試衛館」についても、その所在地が議論になる位に、今となっては歴史の流れの中に埋もれています。 菊池明氏は、「小石川でも小日向でもない、市ヶ谷柳町の坂上にある甲良屋敷」としています(永倉新八「新撰組顛末記」の解説)。私はまだその場に立っていませんが、早いうちに探してみようと思っています。 以下、この道場跡に立った気分で、京都の新撰組のいろいろな活動を、天然理心流の故郷から考えて見ることにします。 ”同じ釜の飯を食った同志たちの対立抗争”江戸時代の同志8名は、天然理心流の試衛館道場を中心に、近藤勇の人柄に惹かれて集まった人々です。近藤勇という人物は、不思議と周囲の人を引きつける魅力に富んでいました。 師範役の近藤勇、先代周助の代からの門人土方歳三、門下で免許皆伝者の沖田総司、門人の井上源一郎、後に門人になった山南敬介などの他に、北辰一刀流の藤堂平助、新道無念流の永倉新八、宝蔵院流の槍の使い手の原田左之助などが、試衛館に入り浸っていました。 新撰組という組織を考えるときにもっとも重要な視点は、やはり江戸時代の同志の結束が組織結成の原点になっていることです。 青春の多感な時期に心から親しく交流し剣の修練をしてきた、生涯の同志とも言うべき人々ですが、彼らが、京都でも、新撰組の主要幹部として、新たに拡大した大きな組織を運営するようになります。そこに成長していく大人として、人それぞれ別の思いが生まれてきています。 江戸の道場時代の様々なことを、京都の新撰組の活動に投影していくと、いろいろ複雑な思いが浮かんできます。 やがて激しい争闘の中で袂を分かっていく者があれば、また、心ならずも自分の初志と違って、別の世界に引き込まれていくこともあります。そこで見られる人間の心の葛藤が、新撰組の話題を超えて、人々の共感を呼んでいるのだと思います。 長い時間をかけてお互いに深く尊敬し、心から共鳴してきた同志たちが、ある時期から徐々に別の道に別れて行かざるをえなくなる、ある場合には、相争う敵対関係に落ち込んでいく、これは人の人生でもっと不幸な出来事です。 単に一時の感情的な軋轢でなく、人間個人の生き方や思想としてお互いにカバーし許容しあうことが、もはや不可能になっていることを、相互に冷静に認識し合うようになると、対立した人間関係の修復は困難になります。 対立や別れが一時的感情的なものならば、時間の経緯と共に敵対意識よりも過去の親しみの念が、両者の心の中でより強くなってきて、やがて自然と元の鞘に治まっていくことができます。両者がともに、今までの親密な思いを心に深く留めている限りにおいて。 かつて相互に緊密な同志として、お互いへの信頼感が強ければ強いほど、さらに、愛情が深ければ深いほど、別れた相手の心の動きがより鋭敏にビビッドに理解できます。 他方では、敵として相手を倒さなければならないが、他方では、生涯の同志として一緒に生きることを心の心底で願っています。それ故に、両者の戦いにより深刻な様相が出てきて、対立の悲劇性がますます強く感じられます。 私は、新撰組への関心が深まるにつれて、隊員一人一人の愛着が強くなっていきますが、こうした同志の対立決闘が、本当に心を痛める痛恨事になっています。単に歴史の波のうねりの中で一つの悲劇というには、あまりにもせつなく痛ましい事件です。 ”同志の藤堂平助、山南敬助の悲劇”新撰組の京都の活動中に、新撰組を動かす中心人物の土方と激しく対立するようになったのは、藤堂平助と山南敬介です。 藤堂平助は、近藤と一緒に新たな隊員募集のために江戸に帰り、自分と同じ北辰一刀流の伊東甲子太郎とその支持者を、新撰組にスカウトするのに成功します。藤堂は、後にこの伊東一派とともに新撰組と別れ、高台寺に移るが、両派の激しい対立抗争の中で、有名な油小路の戦いが行われ、新撰組の隊士の手によって斬られてしまいます。 その際、近藤勇も 「あれだけは助けておきたいのだ」 と隊員に命じております。 池田屋の争闘では、藤堂は近藤と一緒に先頭をきって切り込み、眉間から小鬢の辺に一太刀をあびて深傷をおっています。負傷の藤堂を同志が懸命に案じ介抱したいたのです。 池田屋争闘で同じように傷をおった永倉新八も、油小路の戦いの中では、わざと道を開いて逃そうとしました。しかし、背後から別の隊士(藤堂に日頃から随分世話になっていた江戸出身の三浦常次郎)の一撃を受け、藤堂は振り返って猛然と立ち向かって戦い、闘死します。 江戸では、別の流派ながら他流試合を通じて道場主近藤の人間的魅力に心酔し、生涯の行動を共にしようと京都に登ってきたかっての同志は、月明かりの路上で、局長近藤配下の敵に四方を囲まれ、無惨にも道端の溝の中で果ててしまう。 新撰組の幹部になった同志は、血生臭い争いの日々に、江戸の道場時代のことをしばしば思い出しながら、粟立つ心の悩みを忘れようとしたことでしょう。また、近藤勇もしばしば江戸に便りを書いており、多忙な活動の中でも、故郷の懐かしい日々が脳裏をかすめることがしばしばあったことでしょう。 そうした思い出の風景の中に、藤堂平助の姿が必ず登場して、親しく仲間に話しかけています。お人好しの近藤のことですから、道場に度々現れる若い藤堂に絶えずやさしい声をかけ、また、江戸を離れる時にも、これからの日々への期待や心配を藤堂と何度も親しく語り合った筈です。 心を結び合う同志というのは、思い出の中でも、常に側にいて語り合う関係にあります。 ここまで書いてくると、同志藤堂を亡くした油小路の悲劇が、どれだけ深く痛ましく近藤の心底深く投影されていたことか、せつなくて、もはや語る言葉もありません。 後年になって、永倉新八は次のように語ったと言われています(池波正太郎「近藤勇白書」) ”・・いや、その藤堂の死顔を見ていますとね。こう、何と申しましょうか、実にさびしいこころもちになってしまいましてね。それまでに何度も斬合をしてまいった私ですが、このときはもう、何も彼もが空しくて・・いったい、おれたちは、こんなことをして何になるのだろうか、という・・・。屯所に帰って、すべてを報告すると、近藤さんも喜ぶどころか、実にもう厭な顔つきになって、さっさと自分の部屋へひきこもってしまいましたよ。近藤さんは藤堂平助が好きだったのです。” 藤堂を斬った三浦常次郎も、恩人を斬ったことを悔いて、気がおかしくなり、やがて悶死したと伝えられています。誰もがこの悲劇の犠牲になっているのです。 藤堂の遺体が、新撰組の多くの隊士が眠る光縁寺に埋葬されたのは、せめてもの慰めです。 明治元年になって、新撰組と一緒ではまずいと、生き残りの伊東一派の隊士たちが、藤堂の墓地を東山の泉涌寺に移しました。 このために供卒200名が、威風堂々壮大な行列を組んで行進し、京都の寺はいずれも鐘をついて弔意を表したと言われていますが、そこには、明治維新の勝ち組の奢りのみが空しく響いてきます。 やはり試衛館時代の仲間との心の繋がりこそ、藤堂の霊を慰めるのに相応しいものと思います。今でも、光縁寺には、山南さんの墓標の側に藤堂さんが並んで眠っています。 土方と鋭く対立して意見が合わず、最後に屯所内で切腹した山南敬助の悲劇は、新撰組の話の中で、もっとも私の心を痛めるものです。 敬介切腹の翌日、近藤は、終日自室に引きこもり、仏壇の前で落ち込んでいた、と言われているのも、江戸以来の同志間で繰り広げられる闘争の悲劇性を、より厳しく鮮やかに浮き上がらせています。 山南敬助は、道場時代には、千葉周作の免許皆伝者でありながら、近藤から剣の手直しを受けたと言われるほど、人間近藤に心酔し、強い絆で結ばれていました。また、若い沖田との間にも、日頃から非常に親密な関係を続けており、時勢の動きに関していろいろな情報を与えてきました。 隊の活動でも、所司代などへの文章作文で近藤の代役を果たしており、まさに近藤の右腕として、二人は同志的な一体感を維持してきた。 その同志山南が、土方との対立が深まるとともに、新撰組を脱走し、局中御法度の規律違反で切腹に追い込まれたのです。山南さんのことは、関西編で詳しく話します。 生涯を通じて一身を捧げようと、同じ志に燃えて上京して来た人々が、時代の流れにもてあそばされて互いに相争い、そのあげく、命の消えゆく中で初志を捨て去らなければならない。 同志達の親しかった時期を思い出すと、ますますたまらなくせつない気持ちが胸を締め付けてきます。あれだけ親しく心を通わした友達が、いまや遥か遠くに去っていく、とても悲しい出来事です。 ”純粋な心のままの沖田総司”沖田総司は、2歳のときに白河藩士の父沖田勝次郎がなくなったために、近藤(周助)の試衛館道場に預けられて、家族の一員として養育されてました。この頃には、土方も近藤家に居候していましたので、10歳程の年の離れた兄弟のようにして成長しました。 新撰組の中で沖田総司の存在は、ちょうど「カラマーゾフの兄弟」の中のミーチャのように、血なまぐさい闘争の日々を浄化させる神聖なもののように感じます。 沖田ファンの中で女性が特に多いのは、新撰組の殺伐とした決闘シーンの連続の中で、純粋無垢なものへの共鳴・祈りの気持ちが強くなるからです。 沖田総司のことを考えていると、私の気持ちも本当に純化されていくようです。新撰組の日々の激しい決闘も忘れ、時勢の動きの厳しさも忘れて、ただ悠久の時の流れの中に安らかに憩うように。 沖田総司は、江戸の若い修業時代も、1番隊隊長として、きらびやかな活動の京都時代も、また病に倒れてひとり寂しく江戸で療養する時期も、その心の中の純粋なものがまったく変わっていないように思われます。 どんなに時間が経過しても、取り巻く環境がどんなに変わっていっても、また、どのような人々と接しても、若い頃の一途な無垢の心が、そのまま彼の行動の支えになっているように見られます。生涯にわたって子供の頃の天真爛漫な心のままに生きていたのでしょう。 沖田の心のこのような純粋な性癖を、小さいときから身近にいてよく知る土方は、新撰組の日々の決闘の中で、沖田の優れた剣の力を一番に頼りにしながらも、 ”沖田は、無垢な姿のまま江戸の道場の師範剣士として残るべきだった、沖田の純粋な思いと矛盾する、こんな醜い争いに引き込んで、なんとも可哀相なことをしてしまった” 沖田を託した実姉のおみつさんに対して、つらい心の呵責を感じています。 土方のこうした心配をよそに、沖田は、まるで”じゃれつく”ように兄貴分の土方に、腹蔵なく絶えず減らず口をたたいています。他の隊士が、鬼の土方として、数歩をおいて警戒しながらつきあっているのに、同志の親しみを超えた肉身の愛情のようなもので、すぐ側に密着しながら、のびのびと交流しています。 沖田総司の明るくやさしい心には、新撰組ファンが共鳴を感じるものが沢山あります。 壬生寺の境内で子供たちと遊ぶ総司の姿は、まさに江戸の子供時代の心そのままのとても素直で無邪気なものです。 この時代の京都では、生きるか死ぬか(殺すか殺されるか)の問題は、志を持つすべての若者が、日常的な活動の中で絶えず直面する、きわめて深刻な問題です。総司は、 ”殺意のない相手まで、切り捨てる気持ちになれない。ただ殺すだけの無益な殺生に、何の意味があるのだろう。自分の剣は、このような殺生のために使われるのでない。” 血生臭い日常生活の中で、剣の道に思い悩む若い、純粋な心の総司は、私達の心に一番近い存在になっています。そう、いたずらに人を殺してはいけないのだ。 心やさしい総司にとって、本当に生きずらい厳しい時代なのです。 ”一途な思いの総司の夢と現実”沖田総司は、若い頃から一途な性格でした。それは、剣の修業においても良く出ています。 近藤に代わる師範代として、剣道の指導に多摩などに出張することがよくありましたが、教練の姿勢が近藤とあまりにもちがっていました。 近藤は、まだ未熟な相手の力をよく読んで、すきを見せては相手に打ち込みなどをさせるのに、沖田は、どんな初心者にも真剣に立ち向かい、相手を徹底的に叩きのめしたといわれています。そのために剣道の練習にならず、沖田との立ち会いを避ける弟子も多くなりました。 沖田にすれば、どんな小さな相手にでも、誠心誠意全力をもって当たることが、剣道の極意と考えているために、相手によって手抜きをするなど、とても考えられないことです。 こうした一途な思いが、生涯のすべての行動の原点にあります。 池田家の決闘で喀血しながらも、土方や山南のたびたびの勧めにも関わらず、日々道場で懸命に練習をくり返しています。体力を消耗しないことがもっとも重要、と医者から命じられながらも、すべての活動に全力投球をくり返すのです。 もちろん、新撰組にとっては、政務で忙しくなった近藤の他に、日々の激しい決闘にあたって、本当に信頼できる一番の腕は沖田、という事情もあったのでしょう。 しかし、江戸と京都の活動をオーバーラップさせると、そこに非常に悲しい思いが出てきます。 江戸の道場時代、若き剣士沖田の一途な思いは、自分の剣道の腕前をあげることでした。強くなりたい、という一心で日々の厳しい修業に取り組んできました。試衛館では、土方も永倉も、さらに近藤さえも、正面からまともに戦えば、沖田の剣に破れたとも言われるほどの強さでした。 自分の剣の腕前をさらに上げるためには、試衛館を出て諸国を漫遊して武者修業をすることを絶えず夢見ていました。 京都の新撰組は、個人の剣の力を鍛えることを目標としたものではありません。 あくまでも王城の警護が目的であり、不逞のやからを力でもってねじ伏せなければなりません。怪しい人物を取り逃がすことは、絶対許されないのです。 そのために土方が編み出した戦法は、複数の隊員が一斉に相手を取り囲み、争闘のなかでの退路を断つことです。 個人の剣の強さは、一体一の真剣勝負で決着をつけるのが、武士として当然の心構えです。天下の剣士として、自分の腕前を鍛え上げることに一途な思いを燃やしてきた沖田にとって、このような犯人取り囲みのための集団剣法は、自分の本来の剣法とまったく違った異質なものになります。 芹沢鴨の暗殺においても、世間に名だたる剣士として沖田は、大剛芹沢鴨と堂々と正面から戦い、最終決着をつけることを強く願った筈です。 相手の寝込みを襲うと言う闇討ちは、まっとうな武士にとっては、生涯に残る心の中の汚点です。せめて殺す瞬間に、相手にも剣を取らせること、そのために芹沢をたたき起すことが、暗殺者沖田の最低限の心の償いになりました。 しかし、土方にとっては、新撰組の体面が最も重要であり、万一にも失敗は許されません。沖田個人の心や思いよりも、王城を守る会津藩の活動を支える新撰組の方が遥かに大切です。(暗殺は会津藩の指令によるからです) 沖田が、天下の達人として剣法の道を純粋に追求すればするほど、日々の活動で自分が使っている剣法の邪道さに、ますます自負心が締め付けられる思いになります。 天下に有名な剣士として剣法の秘術を極めることが、沖田の生涯の目的なのか、そこで鍛えられた強い剣の力を使って、滅びかけた幕藩体制を最後まで擁護するのが最終目的なのか、純粋な心の中でしばしば辛い動揺があった筈です。 さらに、新撰組としての集団戦法を重視する土方と、こうした個人で剣の道の奥義を目指す沖田との間には、常に緊張した心の葛藤対立が出てきます。 土方は、反抗する沖田に ”まず俺を切ってから切腹せよ” と迫ります。 沖田は、そういう土方の心の切羽詰まった辛さを、江戸時代からの長い交友を通じてすぐに感じ取ります。そして、心優しい総司は、土方のやり方に協力することになります。 ここに、どうしても別れられない二人の悲劇性が強く現れてきます。どんなに決定的に対立しても、土方と沖田は、お互いに敵対して争う訳にはいかないのです。 その意味で、同志山南などのような敵対から切腹というような劇的な悲劇性が、そこには見られませんが、もう一つの隠れた悲劇があります。沖田の心の純粋さ故に、ますます悲しくなってきます。 ”子供の純粋な心を持ちつづける人生”沖田は、何ゆえにあのような厳しい状況の中で争いながらも、純粋な心を保ちつづけたのでしょうか。 私の尊敬するシュヴァイツアー博士は、「幼年時代;コルマルの思い出」の中で、 人々が、子供の頃に描いた夢や理想を、大人になっても忘れなければ、世の中がどんなにすばらしくかわるであろうか と書いています。 多くの一般の人にとって、小さい頃から心の中に育んできた将来への純粋な希望や夢は、成長して大人になるにしたがって、現実社会の中で少しずつすり減っていきます。 生きるための知恵が備わってくるにしたがって、現実を肯定し、その中でうまく立ち回ることに、人生の主な関心が移っていきます。生きていく上で自分にとって損になるようなことは絶対やらないという、現実的な判断が、日常的な行動規範になります。 そうした判断と行動をできるのが、大人の知恵と言われます。 シュヴァイツアーは、そうした自己中心の大人の知恵が、どれだけ現実の社会で悲惨な事態をひき起こしているかを指摘しており、その厳しい反省にたって、子供の頃の理想主義を保持することの大切さを我々に教えてくれます。 他方で、どれでけ年をとっても、どれだけ社会的な知恵を吸収しても、どこか心の奥の一角で、常に子供時代とまったく同じ感性や思考が生き生きと働いている人がおります。 沖田総司も、まさにそのタイプの人間です。壬生寺の構内で子供と遊ぶのがとても好きだった総司には、その意味で一見幼稚な性格と思われますが、子供の世界にすぐ取り込める純粋さがそこに見られます。子供が大好きなのは、子供の世界に自分の心の中の感性と共鳴するものがあるからです。 このような純粋さは、現実の世界の知恵に汚染されすぎた人には、なかなか理解できないもです。こうした人々からは、いつでも幼稚で子供じみている、という人物批判の言葉がすぐに出てきます。 悩み悲しみにある人々や動物に向けられた暖かい愛情、周囲の人々への親切な思いやり、人々の争いを和解させ、皆で仲良くなりたいという平和の心、人々の美しい行動や自然の景色のすばらしさに素直に感動する明るく柔らかな心、思い掛けない失敗や過ちに対して素直に反省し謝る心、神様の恩恵や嬉しい贈り物に対する日々の感謝の心、そして、世の中の深い悲しみや悲惨な出来ごとに自然と涙する共振共鳴の心、これらはすべて子供の頃に人々が自然と身につける感情です。 子供の頃にこうした感動と共鳴の体験を持たない人は、大人になって、他人の心の動きを思いやるような柔らかさや社会性が、非常に欠如しています。 多くの人々が、日々の生活の中で、このような純粋な感情に素直に立ち返ることができるならば、世の中には無益な暴力がなくなり、永続的な平和が得られます。本当に心豊かで幸せな日々の暮らしが、実現されるようになるでしょう。 大人に成長して、心の世界がすべて損得感情に支配されてくると、子供の頃の自然な気持ちが、大きく後退してしまいます。自己中心の激しい思い込みの中で、人に対する柔らかな気持ちがひどく傷付くことになります。 その結果、世の中の争いが頻発し、人間関係のぎすぎすした厳しい環境ができてしまいまます。どうしてこんな大人の人々が、純粋な子供の心を非難できるのでしょう。 純粋な心に対する冷たい批判は、その人たちに投げかえしてしまい、子供の頃の理想に立ち返る人々だけでも、世の中の一隅に純粋な人間味の豊かな世界を作り上げたいものです。 沖田総司のファンは、まさにその世界の重要な住民です。あの純粋さに心をうたれたときに、周りの人々との共鳴が高まります。 私自身も、いまだに童謡を唄っていると、いつも田舎の子供時代、さらに大学生の時代の心にすぐにかえることができます。私の好きな童謡は、「里の秋」「月の砂漠」「鎌倉」「荒城の月」などです。 子供の時には、田舎の家の前に出て、山の上にさえ渡るきれいな月を見ながら、いつも唄っていました。若い頃の単独登山でも、山小屋の前に出て澄み切った秋の月を見上げながら口にしたものです。 最近では、ウイーンやロンドンの町中を散歩しながらふと寂しくなると、子供の頃に歌った童謡が心の慰めになり、親しい友でした。還暦を過ぎても、子供頃の歌や思いが、こんなにも生き生きと自分の体の中にしみ込んできます。 子供の純粋な心を感じられるのは、年令と全く関係なく、心の底の一角にその感性を残しているかどうかだと思います。 沖田の生涯を考える時、剣士として沖田の心の世界に生き続ける純粋な夢や理想が、沖田の生きる力や活動の大きなエネルギーになっていたと、しみじみ感じています。 目次に戻る 【関東編】下書きの終了 関西編へ |