【新撰組探訪の旅;関東編】


 

 目次



    「近藤、永倉、沖田」



4  近藤勇、最期の地で
   新撰組の追悼碑;新撰組初訪問の1日
   夕闇迫る近藤勇のお墓
   おれは田舎者、意欲と諦念
   死んだ同志への思い、霊的な交わり
   辞世の句、義に殉じる
   大八車のエレジー

5  板橋、新撰組追悼の石碑の前で
   江戸っ子、永倉新八
   江戸気質と「社中の精神」
   永倉新八の美意識
   永倉新八だけが、何故に生き残ったのか
   土方の節を曲げない生き方と、江戸っ子の美意識
   同志それぞれの最期 生き残った者と死んだ者
   都に立つ土方と西郷どん、悲劇のヒーローの銅像
   この時代、誰も幸せになれない

6  沖田総司の死 専称寺のお墓の前で
   敗者には、故郷が安住の地
   剣にかけた人生 天命を思う
   人生を共に歩んだ同志への遺言
   みつと恋人 肉親の愛情


「藤堂、沖田」へ続く


1  幕末と新撰組(未記入)
2  新撰組の活動、4つの時期
   長い時間的な展望の中で、隊士達の心の陰影を探る
   花が沈んでいく

3  試衛館道場の跡で
   夢の中の試衛館道場
   同じ釜の飯を食った同志達の対立抗争
   同志の藤堂平助、山南敬助の悲劇
   純粋な心のままの沖田総司
   一途な思いの総司の夢と現実
   子供の純粋な心を持ち続ける人生



   「日野と土方」へ続く


7  日野の風景
    新撰組の故郷
   モノレールの車窓から

8   土方歳三の銅像の前で
   凛々しい若武者姿 冷酷さと統率力
   行商の姿 情報活動の申し子
   徹底抗戦のバラガキ 天才的な戦闘能力
  「局中御法度」 ドジと切腹
   
目次に戻る








 4 《 近藤勇、最後の地で 》



”新撰組の追悼碑 ;新撰組初訪問の1日”




新撰組の局長、近藤勇は、流山で官軍に捕らえられ、慶応4年4月板橋ので斬首されました。

首は京都の四条河原に晒されましたが、胴体は、板橋の寂しい刑場から深夜運び出され、三鷹の大沢にある龍源寺に埋葬されました。
板橋の処刑跡には、明治まで生き残った副長助勤永倉新八(のちの杉村義衛)によって新撰組追悼の石碑が建立されています。

私の新撰組探訪の旅は、板橋駅前(新宿から埼京線で右側の出口)にある石碑へのお参りから始まりました。

石碑は非常に高く大きく、正面には、大きな字で「近藤勇宜昌」と「土方歳三」の墓と書かれており、裏面には、建立者の杉村義衛(永倉新八)および、彫刻者平田四郎右衛門、両側には、井上源三郎、原田左之助など、新撰組の隊士40名に加え、芹沢鴨、山南敬助、藤堂平助、伊東甲子太郎などを含む、病死者、切腹、変死、法令違反で死刑になった者、64名の名前が刻まれています。
近藤の名前は、実は「宜昌」でなく、「昌宜」の間違いですが、墓前に冥福を祈りました。
その時には、近藤や土方以外は、どれも初めて聞く名前ばかりで、なんとなく異常な雰囲気に包まれた一団、という初印象が残されました。あとでこれほどまでに心の世界に入ってくる人々とは、まったく予想も出来ませんでした。

その後、日野にある土方歳三のお墓にお参りしました。墓前には大きな箱が置かれ、その内に多数のノートが積まれていて、土方ファンのメッセージがびっしり書き込められていました。(お墓の改修に伴って、現在は別の所に置かれています)
墓前に佇むお嬢さんに、何故こんなにも土方さんに憧れるのか、と伺ってみると、土方歳三の節を曲げない確かな生き方が本当に素晴らしいと、その男らしさに心酔している様子でした。

そこからすぐ近くに高幡不動尊の金剛寺がありますが、その構内に立っている新撰組追悼碑「殉節両雄之碑」にもお参りしました。京都などに比べて、近辺にはかっての桑畑などがまだかなり残り、山に囲まれた多摩ののどかな風景に、土方が遊んだ当時の面影が偲ばれます。



”夕闇迫る近藤勇のお墓



1日の終わりには、大沢の龍源寺にある近藤勇のお墓に急ぎました。
夕暮れ時のお墓はなんとも不気味で、やがて強風に揺れる竹薮から, 12月の満月近い明るい月が出てきました。なんだか不穏な雰囲気を醸し出してるようで、すこし怖くなりました。

お参りしながら、そぐ左側の碑に刻まれた近藤の辞世の句に思わず胸が締め付けられました。

近藤の死に臨む深い思いが、私の緊張した心に強く響いてきました。人間には、このような自分の生命を捧げ尽くす人生と死もあるのか、と深い感動に引き込まれていくようでした。
そして、そこまで捧げ尽くした君がどのような人だったのか、という疑問がすぐに湧いてきました。
徳川慶喜は、弁舌爽やかに説き回り、時勢の動きに応じて身の処し方が巧みな殿様、 近藤は、この殿様の支配する徳川体制の崩壊を防ぐために、ただ一途な思いで自分の命を捧げてしまったのです。

近藤勇断罪の処分書には、こう書かれています。

「  或いは、徳川の内命を承り候等と偽り唱え、・・・上は朝廷、下は徳川之名を偽り候次第・・・、その罪数ふるに暇あらず、よって死刑を行い晒首せしむる者なり。」

一命を免ぜられた将軍の慶喜と、責任を問われて一命を奪われた忠臣の近藤、歴史の矛盾、厳しさを痛感します。
純粋に一途な気持ちですべての愛を捧げても、決して相手に振り向いてくれないことは、人の世の中の常とは言え、これではあまりにも悲しいではありませんか。

3月の中旬で、境内にはまだ寒さが残っていましたが、偶然お寺の大奥さんとお会いして、立ち話をする機会を得ました。

”板橋の刑場から龍源寺まで、身内のものが、夜影に紛れて見つからないように首のない死体を運んできて埋葬しました”、

迫り来る夕闇の中で、まるで幕末悲劇の実況中継を聞くような気持ちになり、私は背筋が寒くなってきました。

1人帰り道の途上で、もう体が凍り付いて動くことが出来なくなりました。
もともと霊的なものへ恐れの強い人間ですが、夕闇迫るお墓のあのシーンと近藤の死体が運ばれる緊急事態の話に、あまりにも強い衝撃を受けて、身も心も凍りついてきたようです。

朝、意気揚々と新撰組探訪の旅に出かけたのに、夕べにはまるで魂を吸い取られたように、椅子にすわりこんで動けなくなりました。
そういう自分の内面の世界の虚弱さ、繊細さ、霊的なものへの過敏さに、われながら呆れながらも、立ち直るまでの2時間近く、不思議な1日の探訪経路を再び辿っていました。



”おれは田舎もの 意欲と諦念”



近藤は、多摩の百姓の生まれです。

勇の父、宮川久次郎は、武州調布町字石原の窪村の百姓で、自宅の庭に道場をこしらえ、月3回近藤周助(のちに近藤の義父)を出張稽古に招いて若い者を鍛えていました。
もともと、多摩の地は、豆州韮山の代官江川太郎左衛門の支配地(幕府の直轄地)で、一朝事があれば、将軍家の御馬前に馳せ参じようという気風が強い土地でした。
勝太(のちの勇)は、久次郎の三男で、こうした尚武の雰囲気の中で剣道の稽古に熱中し、めきめき腕を上げました。

勇の非凡な太刀筋に目をつけた周助は、17歳の勇を養嗣子に迎えたいと、父久次郎に申し出て、縁組みが成立しました。
近藤の試衛館道場は、市ヶ谷柳町にあり、流儀は天然理心流、武州三多摩に育った剣法で、月の半分以上は多摩地方への出稽古に行っていました。

当時、江戸の道場では、北辰一刀流千葉周作の玄武館、神道無念流斎藤弥九郎の練兵館、鏡新明智流桃井春蔵の志学館の三大道場が繁盛しており、これに比べ試衛館道場は、常時50名から60名の門弟が通ってくる、小さな町道場の域をでないものでした。
江戸では、近藤は、しょせん町道場師範に過ぎない人間でした。

近藤は、幕府の講武所の教授方になることを望んでいろいろ工面したようです。採用されれば、幕臣ということになるが、小さな町道場の主には、遥かに高いポストでした。

こうした背景をもつ近藤には、田舎者として二重の人格的な特徴があり、それが近藤の生涯にわたる行動を規定していました。

自分の過去の姿を隠してでも幕臣になり、自分の才覚を発揮してより高い地位に昇ろうという強い立身出世意欲、他方では、田舎者としてどこかで自分の運命に妥協する諦念の気持ち、この激しい意欲と諦念の心が、近藤の性格の中に織り込まれて、人生の激しい活動を支えています。

芹沢鴨を暗殺して、名実ともに新撰組のリーダーになった近藤は、会津藩と緊密な連絡を取りながら、京都の警護に全力を尽くします。
池田屋事変における討ち入りでは、近藤は、沖田と二人だけで二階に跳び上がり、暗闇の中で30人の過激な志士を相手に奮戦するという、驚くべき剛毅・剛胆さを示しましたが、近藤の子供の頃からの激しい闘志がよくこめられています。この大きな成果で、新撰組の存在は、一躍京都市内や幕府内でも十分認められるようになりました。

その後徐々に、近藤は、局長として政務の仕事に忙殺されるようになる。

政治的な情報を集めるために京都政治の中心地の二条城へ入り浸ります。その過程で剣士として現場の闘争よりも、一介の浪士から幕臣へ立身のための政治的な工夫に腐心するようになります。
彼の強い意欲は、田舎の百姓から出世して、幕府政治内で重きをおけるような武士になることに向けられます。

京都では、近藤は最終的に幕府の直参に取り立てられ、大番組頭取、元高三百表、役料月五十両にまで出世します。土方は大番頭組頭、元高七十表。

京都時代、いろいろな局面で近藤は、土方が驚くほど楽観的な姿勢を示していますが、なせばなんとかできる、という強い意欲に支配されていたようです。

過激派による京都の大混乱、という幕末の激しい時勢の流れの中で、血で血を洗う武装集団の新撰組の力は、異常なまでに高く認められてきており、それに乗って近藤が、自分へのイメージを大きく膨らませましたが、こうしたことも、近藤の強い意欲の背景にあります。
また、副長土方は、新撰組という大きな闘争集団を組織運営するために、近藤のどこかお人好しの性格をうまく利用して、リーダーとしてのカリスマ性を作り上げていったことも、近藤の強い意欲を支えていました。
そうした事が重なり、成り上がりものの近藤の行動は、常に上昇志向の楽観的な意欲に支配されていたのです。

その結果、永蔵新八や原田左之助などかっての同志に対しても、強い自己顕示のポーズをとり続けるようになります。

廊下で出会って、同志が「やあ局長」と挨拶しても、
「ふむ・・・」
と、軽くうなづきながらも、ぐいと反り返ってしまう。おれは偉くなったのだと、江戸時代の仲間にも見せたくなる。
こんな近藤に、成り上がりの田舎者と、周囲から嘲笑が聞こえてくるようです。

近藤の栄達への意欲が、もっとも強く、かつ滑稽にも見えるのは、鳥羽伏見の戦争に破れて江戸に舞い戻った後、甲陽鎮撫隊を引き連れて大名行列をする時です。
その直後、流山での逮捕、板橋での斬首、という人生の終末の悲劇と比べて、あまりにも際だったコントラストが描かれています。

江戸では、陸軍総裁の勝海舟によって、近藤は若年寄格、土方は寄合席格に任命されました。遂に、多摩の田舎もの、そして町道場の剣劇師匠が、大名格の地位にまで登り詰めたのです。
若年寄は、数万石の譜代大名が勤める役職ですから、近藤の得意満面は目に見えるようです。近藤の長年にわたる立身出世への意欲が、最大限に熱く燃え上がった瞬間です。


近藤は、若年寄格として長棒引戸の大名駕篭を用いるようになり、幕府の直轄地甲府へ戦に行く途上、大名駕篭にのって新宿、府中、日野とゆっくり進んでいきます。

駕篭の使用を止めようとする土方に対し、近藤は、

”おれは故郷に錦を飾りたいのだ”

故郷に錦を飾る大名行列、この時、故郷の英雄を迎える人々の喝采の中で、近藤は、人生最高の幸せな数日を過ごしたのでしょう。前に迫り来る大きな危険にも関せずに、故郷で大らかに飲み語る近藤に、楽観主義の権化のようなイメージが出てきます。

やがて、多摩の故郷の人々も巻き込んでふくれあがった新撰組は目的地の甲府城に向けて出発するが、東上してきた官軍に先を越されてしまいます。ついに甲州戦争に敗れて江戸に舞い戻りますが、ここで新撰組の隊士はちりじりばらばらに離散してしまいます。

直前の近藤のあの華々しい姿は、一体何と見るべきでしょうか。
田舎ものから出発して、幕府の重臣への立身出世を求め続けた、長年にわたる強い意欲は、最高れべるに昇華し切った時に、急激な没落の悲劇が待っていたのです。

近藤は、新撰組の再起を図りますが、流山で取り囲む官軍と対峙したとき、土方の懸命な説得にもかかわらず、驚くほど素直に相手陣営に赴き逮捕されます。

自分の人生の行き先にすっかり悲観的になった近藤は、

「歳さん、もう良いよ、おれは疲れたよ」
「どっちみち、もう勝てないよ、もう逃げるのにあきあきしたよ」
「歳三、おれはおれの好きなようにする。お前も好きにしてくれ」
池波正太郎の文章(「近藤勇白書」)がよくこの情景を活写しています。

厳しい状況に直面すると、人間はしばし弱気になりますが、近藤のこの場合は、次のような気持ちが強く働いていたのです。

”俺は田舎もの、何もなければもともと田舎の百姓か、せいぜいちっぽけな町道場の師範として人生を送っていたはずであった。それが時勢の流れに乗ってしまって、思いがけずも京都で思う存分の活躍をする機会に恵まれた。
その上、おれは、最後には大名格までにしてもらった。
それもこれも、緻密な計画をする副長土方のお陰。いつも土方のいうままに俺は動いて、土方の指示に沿った役割を果たしてきた。その結果、土方が指し示した地位にまでおれは登り詰めてきた。それは確かに、俺自身強い意欲をもって求めてきたものでもある。 ”
しかし、俺はもともと田舎者だ。
京都でどんなに偉くなろうが、田舎者のおれには、本来関係ないことだったのかもしれない。あれは、土方の筋書きで動いていたもう1人の俺だ。”< BR>
”今は、長年世話になった土方と別れたい。
土方と別れて初めて、おれは、もともとの自分らしく生きている姿を取り戻せるように思う。
おれはおれとして、自分の考えで思う存分に、この自由な空気を吸うことができる。
おれはもうおれのもの、これからはおれが好きなように決めてきていく、その道が、世間でいう立身出世などと無縁のものであっても、俺の生き方を俺が決めているのだから、そんなことはもうどうでも良いことだ。”

”人生の結果よりも、人生を自分の頭と意思で生きることの方が、はるかにおれにとって真実が感じられる。
そうだ、おれの心の真実をしっかり掴んで、その充実感のなかで生きて死んでいこう。
滅んでいく田舎者の繰り言なんて、いいたければ人に言わせて置けばよい。これでせいせいしたよ。”

近藤は、最後にこんなセリフをつぶやいていたように思います。成り上がり者と笑われながらも、大らかな近藤の心の中の奥深くには、このような自分自身の生き方への願いがあったのです。そこが近藤の最大の魅力であり、私が近藤の人生に強く共鳴するところです。

私は、和歌山の田舎から東京に出てきてもう45年、近藤の人生を振り返るときに、本当にその心模様がよく分かるような気持ちになります。

はじめての東京は、都会人が多く集まるという慶応大学。紀州の片田舎からただ1人出てきて、都会の社会に入るのに、大変な心理的抵抗がありました。
長い休みになると、日本の各地を旅行し、多くの山々を歩き回りながら、田舎の子供時代に堪能した自然の美しさや喜びに浸りました。自分にとって大切な田舎の良さを満喫していました。

でも、日常生活では、回りの人と協調して、都会人として生きていかなければなりません。人に互して頑張り、自分なりにより大きな成果をあげることが、上京の目的です。心の中の強い上昇意欲が、厳しい研究生活の活動を支えていました。 どんなに辛くても、都会で生きて成果をあげるのだ、という強い思いがそこにありました。
俺は田舎者、という意識を常に心深く秘めながら、一流の人々が交流する都会生活の華やかな活動の中に入っていきました。

今還暦を迎え、長い研究教育生活の最後の局面で、意欲よりも諦念のような気持ちが、より強く心を支配するようになっています。

”自分としては、長い人生で精一杯の活動をしてきた、こういう自分への慰めと同時に、しょせん俺は田舎者、大学教授として一応の活動をして来ただけで、十分満足すべき人生であった”。
”自分の純粋な思いを隠してまで、周囲に絶えず配慮しながら、他人と激しく競争するのに、もう疲れてしまった。本来の自分にたち返って、自分の心に本当に大切なもの、真実なものをもう一度しっかり掴みなおしてみたい。
それが、自分の研究教育の活動の成果にとって、たとえマイナスになっても、今の自分にはもうどうでもいい。自分の人生の充実感をしっかり確かめて、死んでいきたい。”
”自分の良心に従って、自分だけの意思で何をすべきか決めていきたい。自分の欲するところが、世の中の人々の幸せの増進に、少しでも沿うようなものであれば、もちろん、それは自分の大きな生き甲斐になることであり、自分の幸せに繋がってくること。”

< 敬愛するシュヴァイツアー博士は、人の生き方として”諦念”と”意欲”の大切さを強調しています。

絶えず目を反らさずに厳しい悲しい現実に直面すると、どうもやりきれなくて人は、人間が生きる世の中に対して非常に悲観的になり、諦念の心に身を任せます。
しかし、この悲惨な現状を乗り越えようという強い意欲が、心の内面から出てくると、これからの夢の実現に向けて、人はより楽観的な気持ちになり、元気が出てきます。

現実の生活では、ただ夢を追うばかりでなく、厳しい現実を直視して、そこから新しい方向を見つける努力が不可欠です。
しかし、現実の厳しい状況にとらわれるあまりに、将来への夢や希望まですり減らしてしまうと、もはや何の進歩も期待できません。ここでは、厳しい現実を乗り超えようとする希望や夢を頼りにして、楽観的に行動する気力が求まれれています。

流山で人生の岐路に立ったとき、近藤と土方では、それぞれの心模様が大きく分かれていきます。
土方の心は、まだ夢を捨てずに官軍との戦いに強い意欲を感じて、次の戦いの行動を考えています。同志の思いを受けて、新撰組の再興になお楽観的な気持ちが出てくると、さらに前に進もうとします。
他方、近藤の心は、すでに現実の厳しい動きをしっかり捕らえています。京都の二条城を去って以来、自分の周囲に起こった様々な厳しい出来事が、心の中深く刻まれています。
真剣にこれまでの事態の推移を見つめると、もはや諦念の心に身を任せるしかありません。これまでのやりとりの中で、現実の政治闘争の厳しさを熟知し、今、徳川将軍が上野に蟄居謹慎している以上、京都の治安維持を任せられていた最高責任者として、もはや新撰組としての戦争を終わらせなければなりません。参謀の土方とは、置かれている立場が異なります。

”歳さん、もうおれは疲れたよ”
いわば覚悟の上の官軍陣地へ出頭する。

しかし、こん時点における近藤の諦念は、すでにやるだけのことはやったという、自分の人生の強い意欲によって、確かに裏打ちされています。生きてきた意欲の大きな塊が、この諦念の中に深く込められているのです。
だから、後の人は、近藤の敗北、新撰組の崩壊を、いわば”人生の美学”として、いつまでも心の中に暖かく留め、賞賛の気持ちを持ち続けるのです。
美しく生きて死ぬことほど、人間(武士)にとって最高の栄誉はありません。人は誰でも、生まれてからずっと、澄んで清らかな心を一隅に宿しているからです。

結局、近藤の官軍への出頭は、単なる敗軍の将としての投降ではなく、これまで生きる意欲を極限まで燃やし続けて立派に闘ってきたという、人生の勝利者だけに許される覚悟の投降でした。たとえ、最後に時流の勢いによって処刑されようと、近藤は自分の人生の勝利者になったのです。

その見事な武士の姿は、相手の薩摩の人々も圧倒され高く賞賛されています。

流山で近藤を捕らえて薩摩の有馬藤太は、近藤の風格にすっかり魅せられて、

”近藤は敵であるが、徳川氏にとって非常な忠臣じゃ。彼は断じて皇室に鉾を向けるものではない。”
”中村半次郎や野津兄弟なども、「おれらがいたら、決して殺させるんじゃなかった。立派な人物を惜しいことをした」といって、非常に惜しんだ。近藤と言う人物は一種の英傑で・・”

と語っている(子母澤寛『新撰組始末記』)



”死んだ同志への思い 霊的な交わり”



人生最後の数日に、近藤の胸の中に去来したものは、どんな気持ちであったのでしょうかか。

おれは、多摩の田舎者に生まれ、よくぞここまでやった、

という男の感慨をもらすと一方で、その間の戦いで死んで行った、かっての同志達、1人1人に対するの痛切な哀悼の思いが、強く胸を締め付けたと思います。
同じ志に燃えて上京して来たのに、その思い半ばで倒れて行った多くの同志達、特に試衛館時代からの同志への語りかけは、近藤の心にとって非常に辛いことでありますが、時には、懐かしい思い出に沈む心を和ませてくれたことでしょう。霊界の親しい仲間達と話す中で、近藤の心は、死への旅立ちの準備ができていったのです。

新撰組の局長として、崩壊する組織に所属した多くの亡き仲間達へ、近藤は語りかけます。

崩壊する組織のリーダーとしては、その活動の過程で、はからずも犠牲になって死んでいったものへの思いは、痛切なものになるでしょう。一人一人の顔が浮かんできては、崩壊していく組織の悲しさをともに共有することになります。

”このようなことになって相済まぬ、隊長として心より詫びたい
お前達のいる霊界へ、おれも間もなく行くことになる、
この死が、おれに精一杯尽くしてくれた諸君へのせめてもの贖罪になると思うと、この運命を、おれは喜んで受入れたいのだ”

組織のリーダーの厳しい命令にしたがって、自分の命を捧げてしまった仲間達は、組織の崩壊をどれだけ悔しく思うことでしょうか。

”組織に捧げたこの一命が、犬死になってしまうのか、近藤局長よ。”

この悔しい思いを、一体誰が受けとめるのか。
組織のリーダーしかいないではないか、
全ての責任は、局長近藤がとる。すべての死んでいった人々の辛い辛い思いを背負って運んでいくのが、リーダーとして近藤のせめてもの贖罪である。相済まぬと、頭をたれて墓前に額づくとともに、おれもすぐにそちらに行こう。

他方、副長土方は、最後まで戦い抜くことが、組織運営の責任者として勤めと考えています。

”多くの仲間の志を受け継いで、最後まで徳川幕府の存続のために戦い抜くのだ。戦いの中でしか、途中で去っていった者への申し訳が立たないからだ。病に倒れた沖田、鳥羽伏見の戦いで死んでいった井上源さん、おれがみなの思いをどこまでも消さずに運び続けるよ。”


近藤と霊界のかっての同志との話は、次のように聞こえてきます。ただし、まだ新撰組に未熟な私には、声が小さくて十分聞き取れません。



芹沢鴨との会話;

殺したのは俺達だよ。あまりにも乱暴なお前に、会津藩が納得しなかったんだよ。
会津藩にコネを持つ芹沢の力がなければ、新撰組がなかったことはよーく分かっている、本当にお前が作った新鮮組だよ。
このお前の志を生かして、後を継いだ俺達も、精一杯京都の治安維持に奔走したよ、池田屋でも、俺達は戦った。それで新撰組の名を高めてきたが、今は無念である。

お前の力なら、今日の組織崩壊を防げたかね。すべてこの近藤局長の責任だよ、相済まぬ。

伊東甲子太郎との会話;

江戸で会ったときからお前の心はよく分かっていたよ。お前の抱く勤王の気持ちは、このおれも大切にしていたものだ。おれも、尊王ではお前に劣らないよ。
それだのに、お前だけが先先に行ってしまって、おれの気持ちを分かろうとしてくれなかった。
新撰組は、徳川幕府を支える支柱の会津藩お抱えの組織であると、あれだけ説明してきたのに、よりによってあの薩摩藩に近づくなんて、黙っておれないよ。

かつての同志のよしみで、わざわざ拙宅に会いに来てくれたのに、お前を騙すような結果になって・・・、このことは相済まぬ。
もちろん、同志として正面から堂々と決着を付けたかったよ、おれだって。
今日板橋で、お前の弟子の加納道之助が、俺に話しかけてきたよ、首実験ということで。
これもお前との深い縁だ。お前との出会いが、最後の最後まで、お互いの命のやりとりに終わってしまったよな。
おれは、まったく悔いていないよ。出会った時からおれたちの生涯が、こういう因縁につきまとわれる運命だったのかもしれんもの。

山南敬助との会話;

敬助、おれを助けてくれよ。やはり土方だけでは、土方の言うままでは、局長としての俺の良さ、昔からの俺らしさが消えてしまうよ。
試衛館時代から、お前がおれを慕って、最後まで黙ってついてきてくれたのは、本当にありがたかった。感謝するよ。
それで、おれという人間の良いところが、人間らしさが、お前によって生かされていたと思う。お前と話していると、おれは昔のあの大らかさが出て、生き生きとなっていたよ。

でも、お前は俺に似て、少し人に甘いところがあったな。おれも局長として、ただいたずらに血を流すような、無益な殺生なんかしたくなかったよ。尊王の心も、お前と同じ気持ちだ。山南よ、俺に何も言わずに、何故脱走なんかしたんだ。脱走するなら、そう簡単に捕まるな。お前の長年の同志の辛く悲しむ顔を見たかったのか、この馬鹿たれ。

だがな。隊を懸命に管理する土方の手前、お前を最後までかばいきれなかった。許してくれ、山南よ。人生でこんな悲劇に遭うなんて、おれもよくよくついていないな。

今となってはやはりおれは、そんなお前ともっと長く一緒にいたかったな、お前と一緒なら、新撰組の崩壊への方向を少しは修正できたかもしれないな。お前を失ったのは、俺の人生の最大の痛手だよ、重ねて相済まぬ
今度はそちらでゆっくり話そうよ。試衛館の頃に帰ってな。

藤堂平助との会話;

すまぬ、おれの力不足で、あの時お前の命を助けられなかった。
江戸以来、なかなか将来のある奴と思って、お前の力と度胸を高くかっていたのに、無念じゃ。

思い出すよな、一緒に江戸に帰って、お互いに新しい隊士募集に懸命に働いたよな。その時、お前は伊東を説得して入隊させ、殊勲甲の働きだったよ。
その成功が、かえっておれとお前との間にこんな悲劇の種になるなんて、運命の皮肉、なんと不条理。

それにしても、一体おれの何処に不服があっておれを捨てたのか、この馬鹿たれ。
伊東とおれとは、勤王の気持ちを江戸でも十分確かめあった仲であることぐらい、お前は良く知っているくせに、隊を割って出ていく伊東についていくなんて。
これもお前と俺との運命か。

この世のことはもうすんだこと、おれもそちらにすぐ行くから、試衛館道場の頃を思い出してゆっくり語ろうや。



”辞世の句 義に殉じる”



近藤のお墓に立っている辞世の句

他に靡く今の日復(また)何をか言わん
義を取り生を捨つるは吾の尊ぶ所
快く受けん電光三尺の剣
只将に一死をもって君恩に報いん
(三好徹「土方歳三」より)

龍源寺のお墓に参る度に、辞世の句を読みながら近藤の一途な思いに強く心を打たれます。

近藤は、死を前にして、新撰組の局長としての威厳を強く自覚し、新撰組の最高責任者として、組の存在意義を明確にして世の中に残そうという強い決意が、この辞世の句に迸っています。
最後の日々に、人間として弱気にもなり、懐旧の思いに沈むことがあっても、自分の人生の死という今際の時に立つと、強い自尊心が自分の姿勢をしゃきっとさせるのです。
新撰組局長近藤勇の激しい叫びが聞こえてきます。

”幕末の最強武闘集団である新撰組を、ここまで育てあげ、戦乱の京都の町にその名を高めてきた指導者は俺である。俺は、江戸の試衛館以来、道場師範として多くの同志を結集し、仲間の強い志を一つにまとめあげて上京し、世間の人々を堂目させるような強い武闘集団に仕上げてきた。”

”新撰組は、俺の人生の命であり、その活動こそ、おれの人生そのものである。”

”強い剣で京都の町に名を上げてきたのが、おれの新撰組である。この最強の武闘集団のリーダーである俺は、今潔く”快く受けん電光三尺の剣”。
強い剣に生きた者は、強い剣のもとに死んでいくのだ。それが本来の武士の誉れである。
軟弱な集団と化した武士階級のやつらに、本当の武士の心意気を示して、おれの人生の役割を終えたい。”

”「他に靡く」軟弱な世の者どもに、俺の新撰組を支えてきた堅忍不抜の強い姿勢を見せてやりたい。
< 俺達の志は、長年修業してきたこの強い剣で、徳川幕府の御代の安寧のために一身を捧げることにあった。
京都の警護を任せられて以来、この強い一念こそ、我々の決闘を支えるエネルギーであり、命の源泉であった。そして、我々は争いに勝ち抜いてきたのだ。”

”今死に行く剣士の心に溢れ来るものは、「君恩に報いん」、この熱い思いである。
おれが新撰組をここまで育て上げてきたのも、また、新撰組の総力をあげて京の騒乱を勝ち抜いてきたのも、君への恩に報いんという、誠の一途な報恩の思いからである。
同志すべての命を捧げる君がおればこそ、あらゆる困難を乗り越えて、ここまで戦い続けてきたのだ。その戦いの中で、おれは死を迎える。君に仕える武士としての最高の誉れの中で、今死に場所につこうとしている。”


近藤の墓前に立って、辞世の句を読んでいると、どうしても抑えきれない共鳴の涙が心の中に溢れてきます。
そこまで深く、近藤達は、君の恩を心に宿して活動していたのか、そして、その君は、近藤の、これ程までに強い思いをかけるような至高の存在であったのだろうか。

”いや、君は君であり、君がどのような存在であろうと、どのような行動を取ろうと、それを論じることは、近藤にとって決して許されるものではない。
まさに、一点の疑問の余地もない、そのことを考えるだけでも、自分の心の中の純粋な志を汚すものになる。自殺行為に繋がっていくのだ。”

近藤の痛烈な叱責の言葉が返ってきます。

私が、この辛い思いに沈んで、夕闇迫る墓の前に佇んでいると、同行の友人が、徳川慶喜は、あまりにも頭の回転が速く、弁舌が爽やかで、しばしば二心殿と陰口をたたかれる、と話しかけてくれる。

”君”の話を聞けば聞くほど、句碑の”将に一死をもって君恩に報いん”という、近藤の最後の最後の言葉が、せつなく辛くこの胸に迫ってきます。

やはり、近藤の生き様としては、この報恩の一念を貫き通すしかありえない。近藤の人生は、まさに誠の一念で貫き通した、最高に充実した幸せの人生だったのだ。そこまで思いが至ると、私の心もほっとして再び近藤の墓前に手を合わせています。


ふと最近の企業倒産による関係者の自殺の話を思い出しました。
長い生涯勤め上げてきた名門企業が、幹部の不祥事を契機として倒産し、この世から消えていく。時には会社のために汚い仕事までして、懸命にその発展・継続を支えてきたのに、その会社がなくなっていく、なんともせつなく辛い気持ちになります。
丁度、徳川幕府の発展・継続を強く願って(佐幕)、懸命に汚い役割まで担ってきた近藤や土方達が、幕府の崩壊に伴って死に追いやられる、そのせつない気持ちとだぶってきます。おそらく両者に共通する思いは、次のようなものだったと思います。

”たとえ幹部の不祥事で会社が倒産しようと、長年勤め上げてきた会社へ帰属意識と忠誠心を心の中に大切に留めていまた。もしそれを失えば、自分の人生で築き上げてきた大切なもの全てを自分で抹殺するに等しくなる。長い時期にわたって会社のために全力で勤めてきたことが、この世に生まれ存在した自分の証であるからです。

命を捧げる存在が、たとえこの世から、自分の目の前から完全に消えていっても、自分の会社に捧げてきた日々の強い思いは、他の誰にも汚されることなく、大切に心の中にしまっておきたい。
今際の時、この真剣な思いこそ、生きたことの満足感、充実感として、生への感謝の気持ちになるからです。
私は、この世に生まれてここまで生きて、こんなに充実感を得て幸せになりました、神様に感謝します。
他人から見て、それが一時の充実感と言われようと、精一杯に心の全てを捧げて、誠実に生き抜いた時間の重みは、永遠に神様のもとに記録されています。”


近藤のように、命をかけて大切に守ってきたものを一挙に失い、自分もこの世に別れを告げなければならないことは、本当に人生最大の悲劇かもしれません。
一般の人は、そこまで究極の悲劇でなくても、満たされた心で生きている上で本当に必要不可欠と信じていた友情や愛情を、突然に無くして、深い悲しみにくれることがあると思います。その時は、どのような思いで、傷ついた心の再生をはかっていくのでしょうか。どのような内容の”別れ(辞世)の詩”を残すのでしょうか。

私も、今まで生きている間に、いろいろな辛い別れを経験してきました。
今まで誠心誠意を込めて捧げてきた愛情が、突然に悲しい別れになって無惨に踏み消される、という残酷な経験もあります。
目の前から突然に消えて行った大切な人を恨むこともできない、アンビバレンス(愛と憎しみ)の感情の中で、深く傷ついた心が、いつまでものたうち回ることがあります。やるせない未練の日々、別れの悲しみに、心が深く深く沈んでしまいました。

そんな厳しい時には、いつまでも嘆き後悔するのではなく、辛くても前向きな気持ちになって、今までの自分の生き様を柔らかな心で包み、懐かしく思い返したいものです。
どんなに辛い別れがその後に続こうと、あの時には生きて幸せだった、こういう心の中にある確かな思いは、別れの悲しさによっても、決して消えて流されるものではありません。

その悲しみの深さを知れば知るほど、あの時の充実感や確かな喜びが、心の中に繰り返し蘇り、豊かに溢れ出てくるのです。汲めども汲めども生涯にわたって尽きることのない、命の泉の流れとして、確かな幸せの思いが、心を満たしていきます。再び去っていった人への信頼感が生まれてきます。
そして、いつのまにか悲しみに沈む隣人へ暖かい共鳴の心が育ってきます。人間の悲しみの痛みを深く知る人だけに許された連帯の喜びです。
人は、生きているからこそ、このような充実した時を持てたのです。悲しみにある仲間と一緒に、心から感謝の気持ちを捧げ続けたくなります。

近藤の墓前に佇みながら、自分の長い人生の光りと影を振り返っていました。



”大八車のエレジー”



深夜、首のない近藤の遺体を載せた大八車を急いで引きながら、身内の人々の胸に去来したものは、何だったのでしょうか。

宮川家の3人が、誰もいない夜の刑場で、死後3日もたっている首のない死体を棺桶へ納めて、三鷹の上石原まで運び込もうという訳です。
何とも言えない不気味な雨の刑場での作業は、3時間もかかりましたが、それは、身内の者にとっては本当に辛くて辛くて胸を締め付けるようなものだったでしょう。
そして、暗い夜道を誰にも分からないように隠して、板橋の刑場から上石原まで運ばなければなりません。


私は若い頃に、深夜の都心から多摩地方を過ぎて藤沢まで、暗い夜道を走り抜いたことがあります。途中丹沢山を経由して80キロ程の道のりを23時間走り続けました。

深夜の山道は、樹木に覆われてとても暗く、心の中で何とも言えない恐怖心と闘いながら、無我夢中で走り続けました。真っ暗な闇の中で、犬の遠吠えが聞こえてきます。
もっと大変だったのは、田舎の犬達が、不審な者と勘違いして追っかけてくるのです。けたたましい叫び声を上げる犬に、走りぬける後姿を追われると、もう生きた心地はしませんでした。その時の恐怖心は、今も心の中で感じられます。


当時は、新撰組への討伐が厳しく、しかも、刑死した人間の死体を、こっそり刑場から掘り出して盗み出してくるいう、とんでもないことをしている訳です。この一団にとって、後を追われる恐怖心は、心を締め付けるものだったでしょう。深い闇夜の不気味な暗さが、この恐怖心をますます得体の知れない不安感で包み込むようになります。
見つからないように早く大沢までと、はやる心にせかされて、大八車を引く足が、自然と早くなります。感傷に浸っている暇がなかったかもしれません。

一時期激しく降っていた雨は、途中でやんで星も見えるようになってきました。この地方は、後に東京天文台が設置されたように空気の非常に良く澄んだ地域です。
ようやく三鷹の上石原が近づいてくると、夜も白々明けてきました。大八車を引く人々には、安堵の気持ちと共に、近藤へのやるせない気持ちが一度に吹き上げてきます。

”近藤さん、何でこんなになってしまったの。
昨日までは、大名駕篭で多摩の故郷を凱旋していたのに、みんなをあんなに喜ばしてくれたのに
こんなことになるのなら、道場の師匠でいて欲しかったよ、出世などしなくてよかったんだ。”

”近藤さん無念だよ。皆が辛い辛い思いで待っているよ。”

”もう後少しで、近藤さんあなたの生まれた家につくよ、あなたの育った家だよ。そのすぐ側の龍源寺の竹林の中で、しばらく眠って下さいよ、官軍がまだ見張っているからね。
涙が流れてきて仕方ないよ、近藤さん、悔し涙だよ、何でこんなことになったの”


目次に戻る



 

5 《 板橋、新撰組追悼の石碑の前で 》



”江戸っ子、長倉新八”




新撰組助監、永倉新八は、江戸下谷三味線堀にあった松前伊豆守の江戸屋敷で生まれました。代々にわたって代々福藩の定府取次役を勤める家柄の生まれで、父親は永倉勘次。

新八は、長じるにしたがって剣の道を志して藩を出奔し、神道無念流の岡田十松の門人になりました。
武者修業などを通じて、新八の剣の腕はすばらしく上達しましたが、近藤勇の道場に入り浸るうちに、近藤の盟友として、試衛館グループと一心同体の活動をするようになりました。近藤への私淑ぶりは異常なくらいであったと、伝えられています。

永倉新八は、試衛館以来の新撰組の仲間の中で唯一人、明治の時代まで生き残り、大正4年に小樽で長寿を全うしています。
その間、「新撰組顛末記」や「隊中日記」などによって、新撰組の日常的な活動に関する現場の記録を我々に残してくれています。
また、晩年には、新撰組の旧同志の追善に当たりましたが、明治9年に板橋駅前に近藤勇・土方歳三など新撰組隊士追悼の石碑を建立しました。

永倉新八の心意気は、江戸の水を産湯に使い、江戸で育った江戸っ子として、”江戸気風のいき、ダンディズム”によって支えられていました。
京都の激しい決闘の際にも、官軍に破れて背走する陣地でも、新八は、この江戸気質の美意識を強烈に堅持しながら、多摩の田舎育ちの近藤や土方と離れた、独自のポジションを占めていました。
江戸気風に裏打ちされた新八の爽やかな活動は、江戸育ちの作家、池波正太郎の小説「幕末新撰組」「近藤勇白書」などの中で見事に描かれています。



”江戸気質と「社中の精神」”



江戸気質とは、どのようなものでしょう。 田舎者の私などには、その本当の味わい深さについて、なかなか理解しがたい面があります。

「幕末新撰組」の解説で、駒井氏は、江戸の人間の美風として次のように述べています。

” 威張らない、気どらない、かざらない、ムキにならない、成り上がりを排する、率直で淡泊、思いやりがある、自分の流儀や価値観を押しつけない、そして、時としていたずらっ気をもつ”

ここで”気どらない”など、巷間言われるダンディズムとは、少し違う面があるようですが、この美風を心底から理解できるのは、まさに江戸っ子なのでしょう。

日本がまだ貧しく、多くの人が田舎者であった30年代の始めに、私は和歌山から東京に進学してきました。しかも、当時東京出身者の圧倒的に多い慶応大学で、9年間も過ごすことになりました。江戸っ子の美しい気質に囲まれて、それに染められずに(ある面では馴染めずに)自分の田舎者の色を守り通した青春の日々でした。

大学院の頃には、いつも通い詰めた赤煉瓦の図書館(慶応大学の三田校舎)を出てくると、都電ですぐに銀座の明るいネオンが待っています。私の遊びの場は、もっぱら日本の中心の都会である銀座の街でした。
歌舞伎座、シャンソン喫茶の草分けである「銀パリ」、クラシック喫茶、「日動画廊」など通りにならぶ画廊群、自由な時間に恵まれて、私は、いつもどこかによって暇な時間を過ごしました。
当時から街歩きの大好きな私は、夜の銀座の裏町、小さな路地まで入り込んでよく歩き回りました。


銀座から少し行けば、彰義隊の上野の森です。クラシックの東京文化会館や西洋美術館など種々の美術館・博物館があり、年中多彩なプログラムで芸術ファンを楽しませてくれます。
江戸のど真ん中、西欧の成熟した文化が薫る空気の中で、私は、楽しい青春の日々を送りました。


ちなみに、この街歩きの性癖は、今も変わらず残っています。歩きながら街路の色々な発見に嬉しくなって、街に親しみを持つようになります。

1998年には、ウイーンの美しい街並みを、リンクの中だけでしたが、連日歩き回りました。夏のすごい暑い日、シュテファン大聖堂の前、終日あまりの歩き疲れで、立ち眩みを起こして失神し、そのまま顔が路上の堅い石に激突して酷い目に遭いました。
路上に倒れた無意識の私を、”ドクター、ドクター”叫びながら、親切な人々が助けてくれました。辛い怪我でしたが、人々の暖かい心に感激しました。
懐かしいロンドンも、パリも、ベルリンも、ブラッセルも、アムステルダムも、どれも適当にバスや地下鉄を乗り継いで、町中を自由に歩き回るのが、ヨーロッパ滞在中の大きな楽しみの一つでした。
特にロンドンの街は、1989年の1年間に、連日のように歩き回り、お気に入りの数々の景色を見つけていました。
今度の旅では、街の空気がかなり汚れていて、なんとなく悲しい気持ちになりましたが、その汚れがまた私にとって凄い魅力になりました。
パリもそうですが、大都会の何とも言えないあの臭いが好きなんですね。


慶応の学生時代には、多くのセンス溢れるダンディな都会人、すばらしい教授や学生たちとお会いし、さらに親しく交流する機会に恵まれました。恩師の山本登先生は、その典型的な人物と思っています。どこから見ても格好良く、明るく大らかで、”まあいいや”の口癖で、やんちゃな私を見守ってくれました

9年間にわたる慶応大学の学生生活の様々な経験から判断すると、江戸の美風は、どうも外見だけから見てダンディということではなさそうです。慶応大学の創立者、福沢諭吉先生の「社中の精神」が、江戸の美風に近いのではないかと思います。

「社中の精神」とは、志を同じくする仲間同士が、上下の区別なしにお互いに尊敬し協力する心です。福沢先生は、”身分制度は親の敵”と呼んで排しています。

慶応大学では、先生とよばれるのは福沢諭吉先生だけです。どんな教授でも、講師でも、学生でも、皆学問の道ではまだ修業途上の弟子であり、半ば教えながら、半ば学んでいく「半学半教」の勉強仲間と考えられています。教授も、何々君、と呼ばれています。

したがって、儒教的な年功や地位による権力に対しても、決して卑屈にならず、対等な気持ちで自分の独自の立場を主張し(”単なる成り上がり者を野暮として排し”)、また、まず自分のことが大切ですから、他の誰に対しても、率直で、特段威張ることも、飾ることも、気どることもなく、その必要性もないのです。

仲間と徒党を組んで、何かにムキになって運動する人々も少ないようです。
絶えず冷静になって、物事や人に一定の距離をおくために、外からは一見醒めて冷徹なように見えます。しかし、内にはいると、仲間の立場や価値観を大切に受け入れ、自分の位置をちゃんと堅持して、仲間同士がお互いに尊敬し、相互の思いやりの心を大切にする、という美意識を強く保持しています。
ここに集まった仲間は、誰もが、世の中でなにか大きなこと、まともなことをやりたい、という高い志をもって集まっているのだ、仲間へのそういう思いが、みんなの心の中で共鳴しているのです。
こうした「社中の精神」こそ、まさに江戸の美風を生かす生き方です。

私は、江戸っ子の気風はあまりよく分かりませんが、「社中の精神」なら、長年学び憧れてきたものです。永倉の活動を「社中の精神」という側面から少し考えてみましょう。


”永倉新八の美意識”



永倉新八の生き方には、随所に「社中の精神」が貫かれています。それが、ある場合には、規律の厳しい新撰組の中で浮き上がる要因にもなり、また、最終的には、近藤・土方グループとの離反になります。
それにもかかわらず、生涯をかけて近藤土方を追慕します。その心は、まさに「社中の精神」から生まれてきたものです。

近藤勇が、二条城の政務に忙しくなると、徐々に新撰組の中で権威を振りかざし、成り上がり者になっていきます。
しかし、近藤の出世欲が強くなるにしたがって、着飾った近藤に対する辟易とした気持ちが、永倉の心の中で、ますます大きくなってきます。
廊下であっても、昔のような親しみの挨拶もろくにしなくなった近藤局長。新八は、気どった成り上がり者として、近藤の存在がますます疎ましくなり、その結果、古い幹部連中で文書に認めて、会津藩に近藤の非を直訴します。
私達が、二人のこの態度を比較すると、田舎者の近藤よりも、しばしば新八のさわやかな態度に心惹かれます。

「軍中法度」など、厳しい隊の規律を決め、リーダーとしての近藤の権威がますます強くなります。その場合にも、

”おれは、近藤さんの昔からの同志であり、同志として新撰組の旗の下に集まっている。決して近藤さんの家来になった覚えはない、それを忘れてもらっては困る。”

と激しく抵抗します。

同志の間で、成り上がりの権威や一方的な押しつけは、決して受け入れられないものであす。そこに新八の美意識があります。無理に隠し伏せてまでして、目の前の権威について行こう、という気持ちにはなれないのです。
それだけ都会人の永倉は、自分の心に素直でもあり、淡泊でもあります。

他方で、油小路の戦いでは、試衛館以来の同志藤道兵助を、激しい闘争の最中になんとか逃そうと、意図的に逃げ道を明けます。
今の立場が違っても、同じ釜の飯を喰った同志はあくまで同志、決闘の時にいたっても、仲間の運命に対する思いやりの心を決してすてることができないのです。

また、山南の切腹の際にも、二人に永の別れをさせるために、恋人の明里を呼びにやり、最後の最後まで二人の面会に力を尽くします。後は何とかするからと、山南に再び脱走を勧めます。
自分の今の立場も忘れて、同志の悲しみをわがものとし、ひやひやしながらも、最後まで懸命に二人のために尽力する姿に、永倉の人間としてのすがすがしさがよく出ています。これは、都会人の永倉の美学です。

芹沢鴨の暗殺の場合もそうです。
”おれにはとてもあんな冷酷なマネができない”

近藤や土方の田舎者の行うむごい仕打ちに、新八は江戸っ子の美意識から強い反発を持つようになります。もちろん、芹沢に生前非常に可愛がられていたこともあります。

江戸風の美意識では、とてもここまで人を追いつめることはできないです。
同志はあくまで同志であり、お互いの考えの過程で少々進むテンポが違っていても、お互いに教え合い、学び合う仲間として、最後まで厳しい運命を共有していくのです。
永倉の都会的な気風は、ここでも、田舎育ちの土方らのムキになった一徹な姿勢と、非常に対照的です。

最後に新撰組は、甲州でさんざん破れて離散してしまいます。江戸で再び残ったものが集まったとき、新たな組の結集を話し合います。
そして、近藤に再び仲間のリーダーとして一緒にやろうと、呼びかけますが、

近藤は最後まで言い張って、
”自分の家来としてついてくるなら、一緒にやろう”

新八達は、
”近藤さんの家来になるつもりはない”
遂に話し合いが決裂して、新撰組は分裂します。

最後の最後まで、近藤の成り上がり者の権勢欲と、新八の江戸っ子の美意識は、お互いに折り合うことがありませんでした。江戸で生まれ、江戸で育った新八は、骨の髄まで江戸っ子であり、多摩の田舎育ちの近藤・土方とは、どうしてもぴったりと肌を合わせられなかったのです。
それでも、永倉新八は、江戸っ子の美意識から近藤や土方の考えを、それなりに尊重してついていきます。伊東のように仲間割れしてまで、徹底的に対立し、闘うことはありませんでした。この生温さは、まさに都会人の美意識の限界です。


しかし、最後の最後になって、もはやどうにもなりません。
京都では、江戸っ子の洒落の心で、近藤にたびたびずけずけ言いながら、同志として連帯意識を繋いていましたが、ここまでくると、もはや美意識や冗談が通じる時期ではなくなっています。 この段階で遂に、永倉新八は、同志の原田とともに、近藤と永の別れを告げることになります。

他方、土方は、最後まで近藤を説得し、近藤の思いを、戦いの最中でも心中に大切に抱いて戦い続けようとしてきます。
局長近藤に対して、土方の懸命な一途な姿と、さっさと別れて行く新八の態度とでは、大きな違いがでています。
都会人の美意識と田舎者の一途な頑固さ、私には両方の良さが分かるような気がします。



”永倉新八だけが、何故に生き残ったのか”



何故に永倉新八だけが生き残ったのか、これは私の最大の疑問でした。

新撰組の同志の1人として、滅び行く徳川のために最後まで身を捧げようと決心したときには、もはや圧倒的に有利な軍事力を持つ官軍の攻勢で、生き延びるのが非常に難しかった、と考えられます。
吉村貫太郎のように、故郷に残してきた妻子のために生き残ろうと、懸命に努力した者でも、結局激しい戦乱のなかでは傷つき自刃するしか仕方なかったのです。

新八が、どのような経緯で官軍の攻撃から逃れることができたのか、この疑問は、永倉の「新撰組顛末記」に詳しくその経緯が書かれています。
新八は、土方とは別のコースで宇都宮から日光へ転戦し、官軍による会津大攻撃の時には、たまたま米沢に行っており、生き残ることになります。

さらに、永倉は、新撰組が闘いながら北上していくときには、もはや単身で戦いの機会もなく、江戸に舞い戻って、町人姿に身をやつして身を隠します。
明治3年に、松前藩の藩医を勤めた杉村松柏の養子となり、明治8年には家督を継ぐことになります。

東北の転戦の途上では、かっての同志である近藤や土方に対するの思慕の念が、非常に強く働いていたと言われますが、都会人として、田舎出身の土方と基本的に違う行動様式を取っています。

新八の命は、まるで後の新撰組追悼の役割を任されたように、一つ一つの戦闘の中では、生き残っていきます。たまたまの幸運が幾度も重なって、新八が死なないですむようになっているのです。
まるで新八の人生での役割が、この時からすでに宿命として決められていたかのように見えてきます。





”土方の節を曲げない生き方と、江戸っ子の美意識”



田舎出身の一途な土方は、戊辰戦争の間には、あらゆる攻勢の機会を利用して官軍との争いに全力を投入して戦い続け、最後まで自分の存在感を歴史に残そうとしました。
それに対し、都会人の新八は、そこまでムキになって、徳川の命運に殉じようという思いは薄かったと思われます。もっとも重大な人生の岐路における、この淡泊な身の処し方は、江戸っ子の美意識から出てくるのでしょう。

最後まで身を投げ出して意味のない抵抗するのは、決してダンディな江戸っ子の格好良さにならないと思うと、新しい時代の流れに乗ろうと、淡々と生きる方向を切り変えます。もちろん、単純に過去の思いを捨て去って、同志に別離するというのではなく、同志と同じ思いを十分深く心の中に抱きながらも。

こうした江戸っ子の美意識こそ、最後の最後になって、永倉の江戸への生還を導いたのでしょう。五稜郭の最終局面まで突き進んで自刃する土方と比較して、人生の美学がまるで違います。
その結果、新八は、残りの人生をかけて、亡くなった新撰組の同志の追善という、非常に重たい役割を果たすことになります。

若い女性の中には、最後の最後まで節を曲げず、ただ一徹に義のために戦い抜いた土方の誠実な美意識に魅力を感じる方も多いと思います。官軍の長州の志士たちも、まさに一徹な戦闘意欲を保持していました。戦いにおいても、必死の覚悟で相手に向かっていきました。
それぞれ立場は異なりますが、幕末の志士達には共通した一途な思い詰めた気持ちが、その激しい抵抗心を支えています。幕末の京都の騒乱では、もっとも先鋭化した両者の思いが激しい行動となっって直接ぶっつかり、爆竹のように荒々しく火花が散ったのです。

江戸っ子の美意識では、倒れるまでに突き進むような、ムキになった姿を野暮として排除し、自分の心に余裕をもって環境の変化を観察し、新しい転身の道をはかっていきます。
新しい時代を開くために同じように激しい闘志を秘めながらも、この武力騒乱から一定の距離を置いて、時代の推移を冷静に知的に見つめて、次の準備をしていった福沢諭吉も、典型的な都会人の生き方だと思います。
このような心に余裕のある生き方を美しい、と見る方も多いと思います。


最後の将軍徳川慶喜は、天下の形勢が悪くなると、途端に部下を捨てて大阪から逃げ帰り、蟄居隠遁してしまいます。
土方などが、まだ徳川のために一身を賭して最後の戦いをしようとしているまさにその時に、慶喜のこうした軽挙・身軽さには、江戸の人間でさえ驚くばかりです。

この時、慶喜は、徳川家の存続のために、自分の生き残りだけを考えていたのでしょう。一般庶民の苦しみに配慮できるような人物ではなかったと思います。

ただ、慶喜流の判断感動が、結果的に見て、江戸の人々に対し、いたずらな多大の犠牲を避けることになりました。。時代の変化に敏感に適応したことは、指導者として、ある意味では評価されます。

おそらく、大局的に時代の流れを深く読んでいた勝海舟がすべてを差配したのでしょう。
今の言葉で言えば、先を読んで迅速に時勢に適応していく生き方になります。それによって、リスクをできるだけ少なくするのです。

ここでは、もはや都会人と田舎者と単純に分けることは無理でしょう。
私は、田舎者としては、都会人の要領の良さ、身軽さにやはりついていけない面があります。
馬鹿と言われても良い、やはり自分の長年の思いを最後まで貫きたいという、一途な所が残されています。
しかし、長年学んできた「社中の精神」を思うと、世の中は自分一人だけの世界ではなく、自分の気持ちだけに忠実に生きるということに、もはや限界を感じます。親しく協力できる同志との交流の中で初めて、自分の初めの志も生きてくるからです。

自分の人生の中で、何度も何度も繰り返しこのように呟いていました。

”自分のおかれた集団の中で、自分の役割、自分の天命により素直に耳を傾けて、気どらず、背伸びせず、淡々と自分の力の及ぶ範囲で生きていきたい。
自分の力で精一杯やれることをやれるだけで、私の人生は十分幸せである
自分の生き方に余裕を持って、仲間の思いを大切にしていきたい。”



”同志それぞれの最期 生き残った者と死んだ者”



新撰組の話が、複雑で豊かで、非常に興味深いのは、同志8人の最後の姿に多様性が見られることです。試衛館以来の同志に襲った運命は、人それぞれに非常に異なっています。
一人一人の死に至るプロセスを調べていくと、皆が一つの緊密に纏まった組織に所属しながらも、それぞれ独立した物語を展開しているようです。この物語を比較すると、ますます人間の生き方の面白さが分かってきます。


同じ志を持って上京した仲間、8人が、まったく違った形で最後の時を迎えます。
新撰組が一つの緊密に結ばれた戦いの組織であり、戦いの中で一斉に戦死していく可能性が非常に高かったのに、8人の同志がばらばらと、その人らしい人生の終わり方をしています。


藤堂は内ゲバによる闘死、山南は脱走で切腹、沖田は、女から移された病気で永い闘病の後に病死
長い戊辰戦争の中で死んでいったのは、井上、近藤、土方、原田です。
一番最初の鳥羽伏見の闘いで井上が戦死、新撰組の離散後、いわば自首のような形で捕まって近藤が斬首、最後の最後まで闘った土方は自らの意思で死地へ突撃、そして、原田は会津への転戦から女にあうために1人で引き返し、上野の彰義隊の戦で戦死(と伝えられている)、永倉は生き延びて天寿を全うしまう。
当初から新撰組に参加した斎藤一は、明治にも生き残っています。それぞれの同志が、まったく異なった形で人生を閉じています。 同志8人のこうした運命の分かれ目を見ると、単に時の流れの中で偶然に人生を閉じたというよりも、神の意志がそこに働いていたように思われます。
同じ志をもって命をかけた激しい闘いをするときに、人それぞれの運命がそこに働いています。

長い争いの中で、闘いに命を捧げるもの、責任をとって首を差し出す者、皆の闘いの思いを受け継いで、最後の最後まで新撰組の闘いを世の中に残す者、そして、生き残ってこうした命を捧げた者の追悼を行い、闘いの記録を残す者、それぞれが自分に課せられた役割を果たしてこそ、同志による優れた歴史的な組織として完結していくのです。
藤堂や山南でさえ、初めの同志組織が抱えていた曖昧さ・内部矛盾を厳しくつくことによって、結果的に、新撰組をより厳しい戦闘組織に鍛えていくことになります。

その中で、沖田総司の病死は、激しく毒々しい決闘の物語の中でさわやかな中和剤になります。後の世のファンにとって、沖田の病気とその死は、血みどろの話のなかで麻痺してきた心を救い出し、暖かい人間性を回復させる力の源になってくれます。

生き延びた永倉の役割は、さらに大きなものになります。まるで神の意志によって、その命が後のためにとっておかれたように思われます。


ただ1人生き残って、悪名を被せられた新撰組の活動について、本当の物語を後生に伝えるという役割です。
この物語は、長い闘いの中で新撰組の同志達が味わった辛い思いを書き留め、死んだ魂を慰めるものです。
特に、官軍に破れた維新後、新撰組の悪名汚名が広く世間に伝わり、それに繋がる者も、一時期世間に隠れてひっそりと生きていかなければならない厳しい時期がありましたが、そのためにも、生きて同志の思いを伝える役割がますます大切になります。


私の長兄は、第二次世界大戦の末期、昭和19年秋に戦死しました。
台湾か沖縄からの帰りに、大分県の山中に操縦していた飛行機が激突し、兄を隊長とする一団が全員戦死し、山中の遺骨収集のために次兄が山に登りました。
私はまだ小学校に上がる前でしたが、両親や姉達、さらに一族の叔父、伯母達の嘆き悲しみは大変辛く厳しいものでした。

戦死した長兄は、自分で志願して海軍予備兵学校(13期)に入り、両親の止めるのも振り切って自分の志に殉じたそうです。2階の部屋で、母親の説得の言葉に耳を傾けながらも、意を決したように立って窓越しに裏山の風景をじっと見入っていた兄の姿が、姉たちの悲しい思い出として言い伝えられています。
これだけ家族や一族の者が悲しむのは、長兄が、小さいときから、人柄でも学力でも、ずば抜けて素晴らしかったからだそうです。周囲の人に生涯忘れられないような暖かい追慕の思いを残して、突然に去っていったのです。

戦後、両親は、生きている兄弟よりも深いような愛惜の情を注いで、長兄の死を悼み、絶えずその霊を慰めていました。毎年にように同期の遺族会の催しに熱心に参加しましたが、京都の東寺参拝時の父の写真は、今も私の部屋に飾っています。
私は、父の代理で靖国神社の合同慰霊祭に参拝したことがあります。

死んでいった者と残された者、共にその深い悲しみは、いつまでも尽きることはありません。生死を超えた霊的な世界で、深く愛する者同志が、お互いの悲しみを慰め合うことができるのでしょう。
さらに、戦う側の双方で同じように、残された者が深く悲しみ、愛する者の慰霊をいつまでも熱心に行っています。自分の身内のことだけでなく、アジアやアメリカでも、理不尽な殺し合いという悲惨な状況に追いやられたことに、強い憤りと悲嘆に苦しんでいるのです。
そのことを思うと、亡くなった多くの戦死者への追善とこの戦争を引き起こした責任者への厳しい追及は当然行われるべきでしょう。こうした戦争責任は、これからも厳しく糾弾されるべきでしょう。

歴史的に見て、非常に間違った戦争の中で犠牲になった兵士達に、どのような追善の言葉を送るべきでしょうか。
あの厳しいときに、祖国防衛のためにという強い志に燃えて、出征して行った多くの若者に、それは無駄な行為だったと、簡単に言えるでしょうか。兄の事を思うといつも心が痛んできます。

勝者の官軍の立場から見れば、新撰組の活動は、倒幕から維新へという、歴史の流れを一時的に押し止める、無駄な行為に過ぎなかったもの、と記録されるかもしれません。
鋭敏な土方も、ある面ではそのことを良く理解しながらも、徳川の体制擁護という初志貫徹のために最後まで戦い抜いています。それはすべて無駄な活動として、歴史に記録されるだけでよいのでしょうか。

確かに時勢の流れに新撰組は取り残されて、多くの有為な人材を殺してしまうという結果に終わったかもしれない。しかし、あの当時において、新しい歴史の展開は、決して官軍の軍事力による倒幕、というシナリオだけでなかったのです。

時勢が激しき動いているという点では、官軍も徳川方も認めていました。しかし、新しい歴史展開の可能性は、ただ官軍のシナリオだけでなかったのです。将軍徳川慶喜は、大政奉還に伴って、すでに新しい時代における日本の政治行政システムを描いていました。それは、徳川家を頂点として、多数の雄藩で国会と行政府を構成し、日本全体で新しい形の行政を行おうとするものでした。

こういう歴史的な混乱状況の中では、志の高い若者は、自分の強い信念にしたがって、新しい時代を開くために一身をかけて活動すると考えられます。
薩長の若者であれ、新撰組の若者であれ、原点における高い志は、その純度においてまったく同質のものです。ただ、それぞれの置かれた環境だけが違うのです。

こうした時代的な背景を考えると、新撰組の隊士の死は決して無為のものではなかったのです。
まして、若者達の一途な思いが、時勢の大きな歯車に押しつぶされていくという、破れ散った敗者の心情を思うと、新撰組の隊士たちを追善し、霊を慰めたいという気持ちがますます強くなってきます。

永倉は、維新後に新撰組の隊士の追善行事を行い、板橋に土方行動の追悼の石碑を建立して、新撰組の霊を慰めています。これこそ生き残った永倉の担ぐべき大切な役割だったのです。
石碑の前に立つとき、新撰組という組織の歴史的な重みが、ひしひしと伝わってきます。


”都に立つ土方と西郷どん、悲劇のヒーローの銅像”



板橋駅から電車で十数分、上野駅に着きます。上野の森には、巨体の西郷どんが、愛犬を連れて立っています。

西郷吉之助は、戊辰戦争における官軍の最高指導者、会津藩に抱えられている新撰組にとっては、厳しく敵対する相手です。敵対する同志が、130年を過ぎても、すぐ近くの板橋と上野に立っているのです。

両者に共通するのは、世間を湧かせるような華々しい活動をしながらも、最終的に激しい武力闘争に破れて、悲劇的な人生の幕を閉じた、悲劇のヒーロー像です。同じように高い志を持ちながらも、徹底抗戦の末に遂に圧倒的な武力を誇る官軍の前に破れていく、悲しい運命の主人公たちです。

土方は、同志近藤と別れて北の方へ逃亡します。東北・北海道の新しい戦場を求めて連戦連敗、さまよい続け、最後には、榎本武揚らと新政府の樹立を目指して、北の最端、函館の地まで落ち延びていきます。

西郷は、同志大久保と別れて西の方へ逃亡します。征韓論を巡る政府内の主導権争いで大久保に破れ、西の最端、故郷鹿児島に帰っていきます。
深夜、深い編み笠をかぶって誰にも知られずひっそりと、東京を離れていきます。その姿には、もはや江戸進駐軍司令官としてのかっての輝かしい面影はまったくなく、歴史の敗者の逃亡者として惨めな姿が浮かんできます。(司馬遼太郎「翔ぶが如く」)
やがて同志に担がれて九州での再興の戦争に立ち上がります。

最後には、土方も西郷も、新しい独立王国の樹立に夢を懸けながら、悲劇的な敗北の結末に終わります。

土方は、官軍の強い武力的な圧力の中で榎本たちとも分けれて、函館五稜郭で1人戦場に進んでいき、銃弾を受けて死にます。土方の死体がどこに埋葬されたのか、確実な証拠も残していません。
西郷は、官軍の猛攻を受けて、もはやここまでと城山で切腹して果ててしまい、首のない死体が官軍の陣地に晒されます。


追われるように慌ただしく、東京を落ち延びていった二人は、今や東京の地に生前の輝かしい活躍を記念する物を残しているのです。これは歴史の皮肉でしょうか。首都の残された人々には、破れ去った者への追慕の思いがより強くなるのでしょう。

土方も西郷も、戦場におけるリーダーとして、当代一流の人物です。
戦闘能力に優れたものが、最後には、相手の強い力に負けて落ち延びて行きます。丁度、天才的な現場の戦闘指揮官である義経が、華々しい戦勝の後に、頼朝に追われて北へ落ち延びていくシーンとだぶってきます。

現場の優れた戦闘能力を発揮する指導者は、歴史上の大局的な戦略の争いに最後には、何故に敗北するのでしょうか。非常に興味のある問題です。

土方の場合には、徳川政権を擁護して最後まで戦おうという、強い信念を変えることは困難でした。そのため新撰組を幕末最強の武装集団に鍛え上げます。たとえ、徳川幕府の内部が、すでに芯から腐敗しきっており、やがて崩壊していくことが、自分の目でみて明白になっても、それに代わる新しい政体を描くことは、まったく考えられませんでした。この辺が、脱藩した自由人の坂本龍馬と、基本的に違った立場にあります。

西郷の場合には、軍事的な力による倒幕と新政府の樹立に成功しますが、大久保のように、その後の日本の近代化に関する青写真がありませんでした。
維新の中で没落していく武士階級の不満の噴出を受けて、征韓論などで古い体質のグループの利害を代表するようになります。
西洋諸国の近代化した現実を目の当たりに視察して、新しい日本の行くべき姿を懸命に描こうとする大久保とは、この辺で思考方法が基本的に異なります。

土方も西郷も、いずれも時代の激しい流れの中で、ある大きな目標に向かって、周囲の人々を引っ張っていくのに、異常なまでの巨大な才知とエネルギーを投入してきました。そのエネルギーの継続的な投入があって始めて、歴史的な目的が達成されるからです。
その結果、歴史上の時勢の流れを、次にさらに一歩前へ動かすだけのパワーは、もはや彼らには残されていません。

歴史上に設定される目標そのものは、時代の流れの変化とともに絶えず変質を始めており、新しい目標達成のためには、その枠組みも新しいものに作り替えられなければなりません。しかし、前の時代の成功者には、もはやその新しい目標やシステムに適応するだけのエネルギーが残されていないのです。
加速化する新しい時代の動きに、もはやついて行けなくなったがために、前の時代のヒーローは、時勢の奔流によって、今度は外へはねとばされます。
そこに革命家の悲劇が見られます。古い政体を破壊しながら、その後の建設作業でも成功した革命家は、世界史に誰もいませんが、たった1人の例外は、中国の毛沢東と言われています。

神様は、人間の歴史を前に前に動かすために、次々に人物を選んで、それぞれに相応しい大きな役割を与えているように思われます。
その役割を果たし終えると、彼らには、歴史の舞台から静かに消えていくべき運命が待っています。
しかし、前の時代のヒーロー達は、すでに出来上がった強力なリーダーとしてのイメージを引きずっているために、周囲の期待が非常に強く、まだ歴史の舞台に残っていようとする。
彼らが演じられるのは、もはやエネルギーを放出してしまった悲劇のヒーローの役しか残されていません。
歴史における成功と敗北、その大きなギャップの儚なさを、多くのファンは、せつない気持ちで見つめ続けるだけです。そこに歴史上の悲劇のヒーローをいつまでも追慕する記念碑が建てられるのです。




‘この時代、誰も幸せになれない’


幕末の動乱の中では、新撰組だけでなく、勝者の側の人々もその多くが、志半ばにして次々に倒れていきます。

若くして死んでいった人々を悼む身内や親族の大きな嘆き悲しみの姿は、戦の勝敗を超えて、この時代の日本の風景になっています。
たまたまこの時代に生命を受けた者がみな、その熱き夢や志のゆえに、かくも短く儚い人生を終えなければならない。この時代、誰もが幸せになれないのです。

アンネ フランク著の「アンネの日記」を読んでいると、同じような種類の悲しみが、心の中に強く沸き上がってきます。
何ゆえに、この可愛い少女が、小さな穴蔵のような部屋に閉じ込められて、一生懸命に生きなければならないのか。やがて、少女にも死という厳しい運命が襲いかかる。

この時代に生まれたばかりに、人々はみな厳しい運命の重荷に押しつぶされていきます。ユダヤの人々に、自分や仲間の個人的な意志や希望を超えたところで、あまりにも不条理な鉄の命令が、生命の火を次々に無惨にも消していくのです。
ユダヤ人と反対側に立つ人々にも、大戦の惨禍の広がりの中で悲惨な運命が待ち構えています。

この時代、誰も幸せになれない。


神様は、なんと厳しい乱暴なやり方で、人間それぞれに担うべき重荷・運命を割り当てているように思えててきます。それしか考えられない。そうとでも考えなければ、新撰組の人々もアンネも、あまりにも無意味な悲惨な姿に見えてきます。

”神様は、人間の愚かさを教えるために、無垢のアンネを召して、危険な悪魔の前に投げ捨てたのだ。
どんなにアンネが罪無き少女であっても、それを無慈悲に使うことによって、人間にその救いようのない愚かさを気づかせようとされている。
アンネは、そんな無慈悲な運命を生きるためにこの世に生まれてきたのだ。
だが、この悲劇は、決して犬死におわるもののではない。
神様のこの苦しい意向を謙虚に知ろうとする人がいる限り、また、どうしようもない人間の悲しい業・罪を乗り越えようという強い意志の人々が協力する限り、アンネの魂は本当に生かされている。”

ここで大切なことは、アンネの不幸な死を悼み悲しむことだけに留まるのでなく、愚かな人間の覚睡のために、神様がどれだけ苦しんでかくも痛ましいことをされたのか、その深い心にふれて、新しい時代へ向けて人々が手を繋いでいくことです。

幕末の人々の限りない悲惨な死にも、それぞれに時代的な意味があるのではないでしょうか。この時代の、この悲しみがあってこそ、ようやく新しい時代の日本が生まれてきます。
時代の流れに抵抗する人々であっても、また、時代の幕を開けようとする人々であっても、それぞれに厳しい運命の重荷を背負って、悲しく切ない人生を生き、死んでいくのです。

新撰組の人々も、まさにその大きな時代の渦の流れの中で、生きて死んでいったです。だからこそ、第三者にはまるで無駄なこと、無意味なこととも見えるような彼等の激しい決闘やその死も、勝者側の人々のそれとまったく同じに、時代的な色彩に彩られて、後の人々の強い哀悼の念を呼び覚ますのです。









目次に戻る







 

6【 沖田総司の死 専称寺のお墓の前で】





”敗者には、故郷が安住の地”



沖田総司は、新撰組随一の人気者で、その死の床の様子は、多くの人々によって描かれています。
私も、後に詳しく取り上げる予定ですが、麻布の専称寺にあるお墓の前に立った時の感想をまとめておきます。

百姓出身の近藤や土方のお墓が、多摩地方にあるのに対し、新撰組同志の中でただ1人武士階級出身の総司のお墓は、東京の繁華街のど真ん中、麻生にあります。そこに何かの因縁を感じます。

歴史的な争いで負け組の人間は、生前にどんなに目立った活動をしようと、最後には自分の生まれ出てきた場所に帰っていきます。新撰組の隊士たちは、忠義の活動も認められずに賊軍として、それぞれの故郷にしか休む場所がなかったのです。

鹿児島では、西南戦争で非業な死におい込まれた西郷隆盛の銅像が、最期の地、城山に立っています。
他方、勝ち組の大久保利通は、故郷、鹿児島では、長い間受け入れられませんでした。
大久保は、明治維新後も日本の近代化に尽力し、幕末志士の中でもっとも成功した人物です。そのような大きな功績にも拘わらず、いな、勝ち組としての功績があるがために、故郷では素直に受け入れられないのです。
日本社会の近代化にとって最大の功労者が故郷に帰るのは、相当後のことになりました。

日本人のメンタリティーとして、天下分け目の争いに破れた者へのせつない気持ちが強く、特に生まれ育った故郷の人々は、敗者を暖かく迎え入れ、手厚くその霊を慰めています。

沖田総司は、京都で死の病である労咳にかかり、病気の体で新撰組の江戸引上げに随行して帰ってきました。
浅草今戸八幡境内の松本良順の自宅の一室で、しばらく療養生活を送っています(松本良順に診察してもらっただけという話もあります)

その後、千駄ヶ谷の植木屋の一室に移りましたが、実姉のみつが非常に心配して、総司の身のまわりを世話していました。
みつは弟思いの優しい姉で、植木屋ではほとんどつききりで総司の看病をしており、義理の兄の林太郎も、毎日のように総司を見舞いにきました。

みつが、主人の沖田林太郎とともに庄内へ行った留守中、総司は、付き添いの老婆と二人で寂しい最後の時間を送ります。その日は天気の良い日で、総司は、午前中は庭を散歩していましたが、午後になって容態が急変し、26歳の短い生涯を終えました。

総司にとっては、京都の華々しい活躍と対比して、あまりにも孤独で寂しい晩年(と言っても26歳)の日々です。京都で知り合った恋人の話をしばしばしていたそうですが、死の床の総司のことを思うと、あまりにもせつなくて、心が締め付けられるようです。



”剣にかけた人生 天命を思う”





死の床の総司は、時に中庭に出て、筑山の岩に座っている黒猫を斬ろうと、剣を構えます。間合いを詰めていくと、猫が逃げて行って、どうしても切れません。何度繰り返して、自慢の剣が猫の動きに負けてしまいます。

見舞いに来た近藤にその話をすると、近藤は窘めるように

”総司、お前は今までさんざん人を斬ってきたのだ、その剣で斬るのはもういいだろう。”

総司は、日頃明るく軽口ばかり言っている剽軽な性格であっても、孤独な死の床では、真剣に自分の人生を考え続けたと思います。
>剣で猫を斬ろうとする、ほとんど無意識の行動にも、その悔しい気持ちがよくでております。
”剣で立つ”という天命に、総司の心が強く支配されていたからです。

沖田総司の生きている過程で、ますます心の中深くに定着してきたのは、”剣で立つ”、剣の達人として生きる、という強い信念です。天下無双の剣の達人になることが、人生最大の目標であり、その目標に少しでも近づくために、あらゆる精力と努力を惜しまないという、強い気概に満ちていました。

試衛館時代には、総司は道場で猛訓練し、さらに外の世界に出て、より高いレベルで剣の道を極めたい、と常に夢想していました。
弟子に剣を教える時でさえ、常に全力投球で剣を振るって相手に向かっていきます。 これでは新弟子の練習相手には不向きですが、若々しい総司のエネルギーが、あらゆる立ち会いで迸っていました。

京都においても、外回りを控えて屯所内の剣の稽古に多くの時間を割きました。すでに総司の剣は、新撰組随一の実力として定評がありましたが、なおその修練に集中していました。

ここまで猛烈に修練するのも、広く天下の剣の実力者に対し、堂々と正面から戦って勝ち抜く、という強い剣の道を目指していたからです。
新撰組一番隊の組長としての集団的な殺人剣法は、総司にとっては本来邪道な剣の道であり、常々心ならずも行っているものでした。

総司は、土方の指令にしたがって、大剛の芹沢鴨の寝込みを襲って暗殺することになります。しかし、正当な剣道を志している総司にとっては、日常的には、剛腕芹沢との一対一の真剣勝負を制する実力が、今の自分にすでにあるのかが、心の中の重要な問題でした。
自分が納得するような、本当の剣の実力を試す機会が与えられないために、ますます剣の道の修練に集中するようになりました。

やがて、総司の不治の病、労咳が悪化してきました。
徐々に体力がなくなっていく日々、痩せていく腕を見ながら、自分の天命に対し、迷いの心が出てきます。

”剣で天下を制するという天命を受けながら、いま何故その機会もないままに、肝心の体力が衰弱していくのだろうか。”
”自分は、近藤さん、土方さんよりもはるかに若い。若い自分には、天命を果たす時間が十分与えれれる筈である。何故に、こんなにも慌ただしく若い活力の時代が、急速に削り取られていくのであろうか。”
”まだ天命を果たすことない自分に、何故に天はそれを邪魔するのか。あまりにも天の配剤は非合理である。一体天は、私の人生に何をせよと命じているのであろうか。”

現実に痩せ衰えていく自分の体をみると、総司は迷いながら呟きます。
”天は、もはや天命の実現を諦めよと、自分に言っているのであろうか。
若い頃から、こんなに素直に天の命令に耳を傾け、こんなに懸命になって、あらゆる楽しみと引き換えに、自分の全精力を費やしてきたのに。”

夢を絶たれた悔しさと虚しさが、死の床の総司の心を包んでいきます。
”虚しい、悔しい、でも、なお生きている限り、天命を諦めたくない、それがあったからこそ、自分の人生に生きる喜びがあったのだから。”

”最後の最後までその夢を奪わないで欲しい。実現できないと分かっていても、生きている限り、自分は剣で天下を制する、という大きな夢をかけて、心の充実した時を送りたいのだ。それが沖田総司の人生だ。”



”人生を共に歩んだ同志への遺言”




もう猫を切れなくなったと嘆きながら、1人で死んでいった総司
死の床で胸に迫る万感の思いは、何だったのでしょう。おそらく試衛館時代の同志に向けられた懐旧の念だったと思います。一緒に人生を生きた人々への懐かしさと感謝の念が、総司の心の中に渦巻いていました。
辛いこと、嬉しいこと、悲しいことなど、いろいろなことがあっても、新撰組の懐かしい人々と、この世に一緒に生きて、同じ志を持って、同じ時間を共有したことが、総司にとってもっとも確かな生きた証拠に感じられるからです。

この時代、志を持つ若者には、常に死が背中合わせという厳しさがありました。多くの志士は、辞世の句を作って懐に入れていました。土方なども、戦場では辞世の句を考えていたと言われています。実際には、句の基本形だけ書いて、後で残りを埋めるものもあります。
総司は、別に遺書や辞世の句を残していません。実際に書いていなくても、多くの志士達と同じように、死の床で繰り返し繰り返し、かっての同志達に話しかけていたでしょう。試衛館時代、そして京都時代、皆で一緒に働いた共通の思い出を辿りながら。総司の心の世界の動きを、ここでまとめてみましょう。

「近藤勇へ」

(一時、一緒に病に伏せていた頃が、最後の幸せな交流)

「土方歳三へ」

(この体から抜け出た魂を土方さんのもとに、絶対に諦めずにさらに北に逃げよう)

「山南敬介へ」

(一番自分の心を理解してくれたこと、側に埋葬した縁者の女性をよろしく)



”みつと恋人 肉親の愛情”



みつさんは総司の実姉で、新撰組隊士、井上源三郎の一族の林太郎さんを養子に迎えました。
総司とは10歳ほど年の開きがあり、母親代わりになって若い総司の面倒を見ていました。
ご主人の林太郎さんも、総司のことをとても気にかけていました。特に、病に倒れて千駄ヶ谷で療養生活を送るときには、姉夫婦がとても心配して手あつい看病をしました。

新撰組の話題の中には、女性がしばしば登場しますが、それは京都の愛人(後に夫人になる場合もあります)や妾です。死が日常的な出来事のような生活の中では、京女の柔らかな情愛が、新撰組隊士たちの荒んだ心に大きな慰めになっていたのでしょう。
試衛館グループの上京に当たって、土方は渋っていましたが、”京女を抱ける” という単純な動機で上京を決意したと言われています。京都の女性の存在は、一般にそのようなものでした。

また、日常的に死を考えるような日々では、血の繋がった者の間でも、突然の死による永遠の別れは、戦場の武士として仕方ないものとして受け入れられていました。
こういう時に本来もっとも悲痛なものである肉親の悲しみは、事件の背景に押しやられて取り上げられません。

しかし、人間の別れに際して、肉親の情愛の深さは、やはり我々の心をもっとも強く打つものです。みつと総司との関係のような、血の繋がった肉親の間の情愛は、心暖まるものです。


総司が江戸を出立する際、みつさんは、弟のために衣装の準備に細やかな心配りをしています。上京した総司も、心配する姉に京の生活をしばしば報告しています。
土方歳三が、弟のような総司に注意するときには必ず、

”みつさんに頼まれているから”
”そうなったら、みつさんに会わせる顔がないよ”

京都における激しい決闘の繰り返しの日々に、総司の純粋な気持ちを支えていたのは、みつさんの弟思いの細やかな愛情だったのではないでしょうか。
時には土方から、”女は幾らでもいる、遊郭の女性と遊んで気を晴らしてこい”と言われても、他の隊士のように刹那的な女遊びにわが身を駆り立てることをしませんでした。
姉の優しい気持ちを、いつも自分の心に中に強く感じ、大切に抱いていると、決して精神的に荒れくれた生活にのめり込んでいくことはなかったのです。
そこには、シスターコンプレックスとも言えるような、総司の姉への思いが強く働いていたからです。

この総司が、重い病を得て、姉の待つ江戸に帰っていく、その時の心は、どれだけせつなく苦しかったことでしょう。
一方では、愛する肉親のもとで安らかに休める、というなんともいえない心の救いや安心感を感じています。
他方では、姉にどうしてもこんな惨めな姿を見せたくない、余計な心配をかけたくない、あれだけ姉たちの大きな期待を一身に浴びて自信満々に京都の活動をしてきたのに、こんな痩せた姿を晒して姉たちの夢を壊したくない、という心の中の躊躇が出てきます。
帰路の船が江戸に近づくにしたがって、ますますこの矛盾した迷いが、総司の心を強く支配したのでしょう。

実際に千駄ヶ谷の療養生活を始めると、姉のみつさんが、毎日のように身の回りの面倒を見に来てくれます。
総司の心には、姉への強い感謝とともに、天下の剣の達人として再生への希望が強く燃えがってきます。
たとえこの世で叶えられなくて、次の世に生きて永遠にその名前を残したい、という強い思いが心を支配し、枕元の剣を手にしながら、姉の暖かい愛情と期待を強く感じていたのです。

総司が、ときどき弱気になって”もうおれはすぐにダメになる”と漏らすと、気丈なみつは、励ますように
”近藤さんや土方さんが、もうすぐ元気になったお前を呼びにくるよ。”

総司が一番元気になるのは、試衛館時代から兄弟のように育った二人にあえるときです。(近藤の死は総司には伝えられていません)

弟への深い愛情の中でみつは、総司の心の微妙な動きを絶えず一緒に感じることが出来たのです。
総司の死が近づくにしたがって、二人の心はますます、まるで一つの共有の世界に生きるているように融合し一体化していきます。総司の深い悲しみが、みつの暖かい優しい心の中に吸収されて、いつの間にか姉弟の深い愛の喜びと慰めに転じていきます。

最後の息を引き取る瞬間に、みつが弟と離れてしまったことは、みつにとって生涯の寂しさだったのでしょう。
明治に入って、みつ夫婦は、弟の悲しみを背負って、近藤の未亡人の常さんを慰めに通ったそうです。

私が、死の床の総司について、このようなことを想像するのは、若い頃に非常に似た体験があるからです。
私の長姉は、やはり10歳ほど年上ですが、母親に代わって随分といろいろな面倒を見てもらいながら、私は育ちました。
姉は、非常に勝ち気なしっかりした性格だったので、姉の言うことには、私はどうしても逆らえないようになり、まったく頭の上がらない、一種のシスターコンプレックスが心の中に出来てしまいました。

中学生の頃には、夏休みに入るとすぐに、大阪の姉の家に行き、大好きな野球観戦、ホークスやタイガースの試合の応援のために、野球場に通い詰めました。
義兄は、この世にこんな善人がいるのかと周囲の誰もが思うような、心の暖かい無私の人でした。

私がまだ大学の教員になりたての若い頃、大学紛争の激しい騒乱に巻き込まれて頭部を打たれて、ひどい負傷をしました。
東京の下宿に1人で寂しく寝込んでいると、非常に心配した姉が、大阪からすぐ上京してきました。その時の嬉しさ、ありがたさと面目のなさ、恥ずかしさは、今もよく覚えています。血気にはやって、激しい争いの現場でやり合っての負傷でした。

大学の先生になったと、非常に喜んでくれていた姉に対して、こんなにひどい頭部の重傷を負うなんて、あわせる顔がありませんでした。
すぐに大阪の義兄の病院に移されて、入院治療をしました。
その時、兄弟みなの暖かい看護を受けて、久しぶりで家族の愛情の元に帰ってきたような、心の安らぎ・喜びを感じました。頭部の傷が治れば、東京での研究生活に精一杯頑張ろうと、強く心に誓いました。

その後、姉が肺ガンに冒され、長期の療養生活にはいりました。薬の丸山ワクチンを、東京の大学病院で朝早くから行列して入手し、新幹線に乗って姉の見舞いに通い詰めました。
数年間も自宅で、姉の療養生活が続きましたが、少し少し体力がなくなって痩せていきました。
姉は、自分の育った田舎の風景をしばしば語るようになりました。病の床に臥せる姉を見舞うのがだんだん辛くなります。

ここでは、みつさんと総司との関係とは逆ですが、死に至る病の中で、肉親だけが共有する重い気持ちは、まったく同じだと思います。
総司は、死の床で京都時代の恋人との楽しい思い出をしばしば話したのでしょう。


総司の恋人のことですが、小説などにいろいろな話が登場します。光縁寺に「沖田総司の縁者」として葬られている女性かもしれません。和尚さんに伺うと、実際は誰か恋人だったのか分からないそうです。

私ならば、こんな京都の女性が総司の心を魅了したのだと思います。私の勝手な想像を許して頂けるならば、恋人のイメージを描いてみましょう。

姉みつの面影を心に宿していた総司は、やはり京女の気品ある優しさに惹かれたでしょう。みつさんは、とても綺麗な女性と言われていますが、恋人も、京都の柔らかさを宿した、やや細身のすらっとした美しい女性だったと思います。

しかも、いつも変わらぬ優しさの中に、どことなく勝ち気の気質が見られ、しっかりした自分の気持ちを、総司に伝えることができる強さがあります。
総司は、一面では、強いしっかりした強い女性に魅力を感じたのです。
相変わらず明るく冗談を言って彼女の心を和ませようとすると、恋人は、美しい笑顔を見せながら、非常に暖かく総司の心を柔らかに包み込んでくれます。日常的に常に優しく心を込めて、総司の身の回りに細々と配慮してくれたのでしょう。
しかし、ある時には、きりりと引き締まった厳しい表情で、素直な総司を窘めることもあります。彼女のどこにそんな厳しさがあったのかと思うほど、総司の心に厳しく当たります。

姉みつさんの深い愛情に支えられながら、同じようなタイプの恋人への憧れが、総司の心を強く支配しています。
恋人は、そう簡単には、思うように口説けない憧れの存在として(もしかしたら家柄の確かな筋の女性)、しばらくは総司の手から遠い所にありました。
二人だけの親しい時間があっても、総司は自分の気持ちそのままを不躾に相手にぶっつけることはしません。
そのことでますます恋人への愛の思いが、総司の心深く燃え上がっていったのです。
もはや遊女との戯れの恋が生まれる余地はありません。

純粋に思い詰める傾向の強い総司は、彼女への愛情が一途に深まってくると、日常的にも、できるだけ長い時間をとって、彼女と一緒にいる時間を非常に大切にしています。一緒にいる時間が、総司にとって地球よりも重たい、人生の貴重な宝になっていきます。


総司の幸せの絶頂期に、悲しいかな、労咳という死の病気が、二人の愛情の深まる交差の中に浮かんできました。
彼女への愛情に夢中になって、総司はひたすらに思い詰めていきますが、他方で、死の病気にとりつかれた自分は、もはや相手の長い人生を幸せに出来ないという、自責の気持ちが徐々に生まれてきます。

”このような体では、たとえ結婚しても、末永く彼女を幸せにして上げることは難しい。いや、この死病を彼女にうつすと、彼女の人生もすべて破滅させてしまうかもしれない。
本当に彼女を愛しているのならば、彼女の幸せな人生をもっとも大切にして上げるべきである。
愛に名を借りた利己的なわがままは、もはや許されないのではないか。”

時間の経過とともに、総司の心は、自分はこの人をもう諦めて身をひくべきか、いや、このまま愛情を深めていくしかないのか、ますます迷いの淵に入っていきます。
彼女のことが、好きで好きでたまないという、強い気持ちをしっかり確認しながらも、どこかで総司の恋人に対するやさしい思いやりの心が働いて、自分がここで身を引かなければ、彼女の人生は幸せになれない、という理性的な判断が働き、自分を責め続けるのです。
この分裂した心の迷いを抱えながらも、ますます忙しくなった隊務をこなしていかなければなりません。


総司にとって始めての真剣な恋でした。でも、今や全てを諦めて江戸に帰って来たのです。
総司の心の中には、死ぬまで変わらずに、京女との眩しいような愛情の思い出が、純粋なままに息づいています。

”たとえ、短く儚い幸せであっても、人生のある時間に、自分には愛する人がすぐ側におり、二人の心が信頼で強く結ばれていました。その幸せな思い出は、もはや誰も消し去る事は出来ないものです。
何度も何度も、その楽しい時間を心の中で反芻することによって、二人の愛は確かに永遠に生き続けるのです。その大きな喜びの中に満たされて、彼女とともに自分は死んでいきたい。

目次に戻る














【関東編】下書きの終了

関西編へ