鈴鹿市の歴史資源
みえ歴史街道構想鈴鹿・亀山地域推進計画策定委員会現地調査(2000.12.10)

 みえ歴史街道構想の地域別計画策定の現地調査第2弾として鈴鹿市を訪れた。

 鈴鹿市といえば鈴鹿サーキットぐらいで歴史的な見どころがあるとは思っていなかったが、今回じっくり見てまわって、いろいろなものがあるのに驚いた。しかし、もっと驚いたのは、そのことを熱心に調べている地元の人々である。次から次から話題がでてきて、とぎれることがない。町を愛する気持ちが伝わってきそうだ。

 今回の視察は神戸城からスタートした。神戸高校に隣接するこの城は、現在公園としてきれいに整備されているが、昔は鬱蒼とした森だったそうで、神戸高校の卒業生である参加者は、よくここで早弁をしたと当時のエピソードを話してくれた。織田信長の三男信孝によって天守閣が築かれたところである。無造作に積まれたような石積みが特徴だ。
 そこから伊勢街道を車で北上する。途中に神戸の見附がある。ここは、参宮の旅人等を監視する番所が置かれ、夜間には木戸が閉じられたという。その木戸の跡が両側の石垣に残っている。道幅が三間あったということで、思ったより広いのに驚く。ここの石垣の石積みは神部城ものとは異なり、きれに積まれており、年代の違いを思わせる。


神戸城の石垣


神戸の見附の石垣

 さらに伊勢街道を北上し、東海道との分岐である日永追分を見てから東海道の杖突坂へ。麓から歩く。ここは東海道でも急坂で知られるところで、芭蕉が「歩行(かち)ならば杖つき坂を落馬かな」の句を残している。季語のない不思議な句だが、馬の乗って坂をあがったために落馬してしまった、歩いて登れば落馬しないですんだのに、という意味らしい。ここでも蘊蓄(うんちく)が語られた。
 東海道から少しそれて、伊勢国分寺跡の近くにある鈴鹿市考古博物館へ。鈴鹿市は畿内から東国への入口として交通の要衝にあり、奈良時代の「国府」「国分寺」がまとまってある全国にも稀なところだという。伊勢の国分寺は近江の国分寺とそっくりで、非常に重要なものだったという。


 杖突坂の芭蕉の石碑の前で


芭蕉の句碑

 次いで、東海道の宿場町である石薬師宿へ。東海道の宿駅制定が1601年であるが、それから遅れて1616年に作られた。このあと訪れた庄野宿は1624年にできたものである。四日市宿と亀山宿の 距離が長かったから制定されたということのようだが、伊勢参りの人々は東から来た人は日永追分から伊勢街道へ、西から来た人は関の東の追分から伊勢別街道を通ったということで、旅人は少なく、また、七里の渡しや鈴鹿の峠越えの日程の関係で、この両宿に宿泊する人はほとんどいなかったという。
 庄野宿資料館では高札が保管されていたが、その大きさと文字が浮き出ているのに驚く。彫ったものかと思ったら、長い年月の中で墨書きされた部分だけが腐食せずに残ったためだという。自然の造形美といえよう。

 見ただけではわからずにすぎてしまうところも、話しを聞きながら見るとまた違った趣がある。加佐登(かさど)神社が瘡(かさ)に由来している話しや白鳥塚古墳を巡るヤマトタケルの話しも興味深い。いろいろなエピソードがつまっている。
 さて、そこで課題となるのが、これらの資源をいかにまちづくりにつなげていくかである。鈴鹿市では、貴重な資源が十分に生かされていないようだ。まずは、もっとPRしていくことが重要だろう。


 石薬師寺にて。地域の篤志家から贈られたもの

(2000.12.11)

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