V−Story

ザ ウィナー

Round.1

Welcome to The Battle F3!

 〜清水自動車競技場

 空は青くどこまでも青く、空気は凛と張りつめている。
 今日はバトルF3開幕戦、マーリンズカップ予選の日。清水自動車競技場のスタンドは、
六万人の大観衆で埋めつくされた。
 そのほとんどは高校生か中学生とみられる若い女性である。
 彼女たちが着ているのは、緑のジャンパーかもしくは緑のTシャツ(この辺りの気温は、
公式発表の六・三度より、明らかに高くなっている)。かなりの者が、ほほに緑のペイン
ティングをしている。緑の旗も三平方メートルに一本くらいの間隔で打ち振られている。
 ぽつんぽつんと点在する制服姿の中高生を除いては、スタンド全体が緑・緑・緑・緑一
色。
 緑の波のまんなかで、白いセーターを着て、黒いベレー帽を斜めにかぶった男がうろう
ろしていた。
 細身の体の若い男だ。
「まいったなあ、迷っちゃったよ」
 彼の名前は加納陽気という。運転免許を取った昨年五月からバトルFJに参戦。いきな
りチャンピオンになって、今年F3に昇級した。弱冠一八歳である。
「ピットはどこだろう」
 ひとりつぶやきながら、あっちへ行ったり、また戻ったり。
 彼方の風景で起こったウェーブが、ノイズをともなって押し寄せる。
 ノイズは徐々に歓声に、そして嬌声に変化して、陽気の右耳から左耳へ、最大音量で駆
け抜けた。
 ウェーブが遠のくと、陽気は疲れを感じ、階段状になっている通路にしゃがみこむ。
「どうしたぜよ」
 右の席でチリソースバーガーを食べている、ショートヘアの女性が話しかけてきた。
「ピットに行く道がわからなくて、探しているんです」
「そんなら簡単だぜよ。最前列まで行って、フェンスから飛び下りればいいぜよ」
「……もうちょっとマトモな行きかたはないですか?」
「冗談だぜよ」
 そう言って彼女は微笑んだ。
「ピットに行くってことは、どっかのスタッフぜよか?」
「“ダイス・フォーミュラ”のドライバーですが」
「ドライバーぜよか。それじゃ、ほかのドライバーと親交を深めたほうがいいぜよな」
 彼女は、さらに右隣の席でむこう向きに座っている、カーリーヘアの人物に向かって、
にやりと笑いかけた。
 人物がむこうを向いたままうなずくと、ショートヘアの女性はふたたび陽気のほうを
向く。
「そこの出口を出て下に下りると、『パドック』と書かれた矢印があるから、そっちの
方向に進むぜよ。そのうち外に出るぜよから、右へ行くと、テントが整列してるぜよ。
で、屋根が紺色で、壁が黄色いテントでよかったぜよな」
 隣のカーリーヘアがうなずいた。
「紺と黄色のテントを見つけたら、入ってみるぜよ。ダイスのスタッフがいるぜよ」
 陽気は彼女に礼を言って、その場を立ち去った。
「……しかしあんたも、面白いことを考えついたぜよ」
 チリソースバーガーを口に含みながら、ショートヘアの女性が話しかける。
 カーリーヘアは黙って聞いている。
「ま、アイツなら怒らないぜよ、たぶん」
「キャーヒョ」
「あんたもハンバーガー一個どうぜよ?」
「キャーヒョヒョヒョ」
 カーリーヘアは振り向いた。
 その顔は白く塗られており、唇は紅。鼻の頭に赤いボールが乗っている。
 左目の下には、緑色に縁どられた、大きな雫が描かれていた。

 加納陽気はピット裏の、「パドック」とよばれる広場にやってきた。
 さっきの女性が言ってたとおり、建物に平行して、四角いテントが一列に並んでいる。
 いちばん手前の緑のテントからは、ファンや報道陣があふれだしている。だがそこを通
りすぎた先は、人影もまばら、鳥の声が聞こえる閑静な土地である。
 銀。赤。水色。赤屋根の白。色とりどりのテントたちが、午前の光に映えている。
 やがて陽気は、紺色の屋根に黄色い壁の、小さなテントにたどりつく。
 彼は、オーナーと、交渉を担当した日吉という人物以外に、ダイスのスタッフの顔を知
らない。どんな人が出てくるのだろうか。期待に胸をはずませながら、テントの入口をさ
っと開けた。
「失礼しまーす」
 中にいたのは、着替え中の女性だった。
 一対のつぶらな瞳が、陽気の姿をとらえる。
 見つめあったまま、二人して凍りつくこと三秒間。
「ご……ごめんなさい、間違えました、失礼しました−−!」
 陽気はもと来た方向へ、脱兎のごとく駆けだしていた。

 混雑する緑のテント前を走り過ぎた頃、背後から彼を呼ぶ声が聞こえる。
「おおい、これ落としたぞ!」
 男の声だった。立ち止まって振り返ると、水色のレーシングスーツを来た中肉中背の男
性が、何やら黒いものを振りかざして走ってくるのが見えた。
 陽気は自分の頭に手をやる。
 かぶっていたはずのベレー帽がない。
 ほどなく男は追いついて、陽気にそれを手渡した。
「どうしたんだ、血相変えて」
「い、いえ、な、何でもないです。あ、そうだ、ダイス・フォーミュラのピットってどこ
にあるかご存知ですか?」
「ダイスなら……あ、君、もしかして、今年の新人の加納陽気選手?」
「え、あ、はい、そうです」
「『ランダム・レーシング・クラブ』の小室洋二郎といいます。よろしく」
 その名前なら陽気も知っていた。小室洋二郎、三二歳、参戦五年め。バトルF3ドライ
バーたちの“まとめ役”的な存在である。
「ちょうどよかった。僕もダイスに用事があって、これから向かうところなんだ。よかっ
たらピットまで案内しよう」
 陽気は小室の後ろについて歩きだした。
 三たび緑のテントの前を通過する。あいかわらずこのあたりには人が多い。
「今日はもう竜原くん来てるのかな」
 小室がぽつりとつぶやいた。
「竜原さんって、去年のチャンピオンの竜原薫さんですか?」
「うん」
「わあ見にいこ」
「見らんないって。ファンの大群に足でも踏まれるのがオチだよ」
「そんなすごいんですか竜原さんの人気って」
「すごいなんてもんじゃない。今日のお客さんの大部分が緑色の服を着てるだろ」
「はい」
「あれが全部、竜原くんの熱狂的なファン、今ふうにいえばサポーターだ。みんな竜原く
んのマシンカラーの緑を身につけているんだ」
「はあ……」
「だから彼のマシン以外は、緑色にペイントできないんだ。非難が押しよせるからね。ヘ
ルメットのデザインをまねして、抗議を受けたカートドライバーもいるらしい」
 陽気はぽかんと口を開けて、小室の話を聞いている。
「ピットレーンに出たほうが広くていいかな。僕んとこのガレージを抜けていこう」
 テントと平行に走る建物の壁に、各チームのガレージが並んでいた。
 シャッターの開いている所、閉まっている所、さまざまあるが、陽気は小室に従って、
開いてるガレージに入っていく。
 中では水色のブルゾンを着たスタッフが、忙しく立ち働いていた。
 小室は、青く縁どられた白色で“RND”と書かれた、水色のフォーミュラ・マシンの
横を通って、反対側にある舗装道路へと出る。
 陽気もあとについて歩く。
「いい天気だねえ」
 金網越しにコースのホームストレートが走る、ここがピットレーン。スタッフやレポー
ターらしき人々が往来する。
 二人は左に曲がって、各チームのガレージの前を次々と通り過ぎていく。
 小室の隣のガレージでは、ドライバーがスタッフと将棋を指していた。
 その隣では、女の人が何かを描いていた。
 そのまた隣では、競馬新聞を広げて読んでいる人がいた。
 さらに隣では、スーツ姿の男二人が、商談をしているようだった。
 その後しばらく、シャッターが下りたままのガレージが続く。
「まだ遠いんですか?」
「いや、そろそろだと思うけど」
 シャッターの前で西洋人の男性が、きゃしゃな日本人女性となにか話しこんでいた。
「バート!」
「あ、小室ドノ……」
「なんだまた女ひっかけてるのか」
「いえ拙者けっしてそのようなことは……準備があるのでこのへんで失礼つかまつる」
 男は回れ右すると、首までのびた金色の髪を振り乱して、遠くのほうへ走り去った。
 ひとり残された女性は小室のほうを向き、隣にいた陽気に目を留める。
「あれ、小室さん、そのかたは?」
「きみのチームのドライバーだよ。加納君、この人が『ダイス』の……」
「レースクイーンの山崎ユキエです、よろしく!」
 小室の言葉を振り切って、彼女は加納陽気に握手を求めた。
「ピットに行くんでしょ。あたしもこれから戻るから、一緒に行きましょ」
 高音ながらもややかすれた声でそう言って歩き始める。陽気と小室もその後ろからつい
ていった。
 黒い髪はうなじがやっと隠れる程度。
 ハート型したイヤリングが、背後からでもよくめだつ。
 服装は黒のタンクトップに、蛍光イエローのショートパンツ。
 肌色のストッキングに包まれた、細くしなやかな二本の脚。
「着きました。あたしは急ぎの用事があるんで、ちょっと失礼」
 山崎ユキエは二人を残して、とっととガレージに消えていく。
 入れ違いに出てきたのは、色白長身の中年男性。彼には陽気も何度か会っている。『ダ
イス・フォーミュラ』のオーナー、高橋均ダイス新聞社社長である。
「出たな“タワー”」
と小室。
「誰が“タワー”だ誰が」
「加納君、彼は“京都タワー”って呼ばれてるんだ、色白で背が高いから。きみもこれか
らそう呼ぶといいよ」
「ウチのドライバーに変なことを教えないように。さっさと自分のピットに戻れよ」
「いや、監督に用事があって来たんだけど」
「借金か」
「違うって」
「ダイス新聞の見出しになるな。『レーサー小室洋二郎自己破産!』」
「どうせ渋谷区の人しか読まないんだろ」
「馬鹿野郎、ミニコミ誌の情報は根強いんだよ。まして渋谷だ、渋谷発の情報は……」
「あのー」
 陽気が高橋の背中をたたく。
「監督はいつごろお見えになるんですか?」
「ああ心配ない、小室はともかく、陽気君とは顔合わせしとかなきゃならんからな。もう
奥から出てくるころだろ」
「『ともかく』とはなんだ『ともかく』とは」
「はいはいキンさんお呼びだそうで」
 現れたのは黒いブルゾンを着た細身の男。
「うん、陽気君が来たんで、紹介しておこうと思ってね」
「え、じゃこちらのオジサマが?」
「そう加納陽気一八歳、ってそんなわけないだろ! これは小室。知っててボケんなよ。
どこにいるんだ、こんな年くった一八歳」
「『年くった』まで言うことないじゃないか」
 小室の抗議はまたも無視される。
「こっちだよこっち。彼が加納陽気くんだ」
「へえ、けっこうカッコイイじゃないですか」
「いやあそれほどでも」
 小室が照れる。
「あんたじゃない」
 オーナーがツッコむ。
「チーム監督の山崎善之輔です、よろしく」
 細身の男が陽気と握手した。
「“ヤマサキ”っていうことは、さきほどのヤマサキさんとは、ご親戚かなにか?」
「あ、ユキエですか? 妹なんです僕の」
「いもうとォ?」
 小室も高橋も首をかしげる。
「妹なのっ」
 山崎監督が振り返って二人を牽制。
 はずみで彼の耳からなにかが飛んだ。
 陽気がそれを拾いあげて監督に手渡す。
「あ、どうも……あ、いけねっ!」
 それはハート型のイヤリングだった。
「監督、これは……」
「いや、その、あの、……」
「監督う」
 ガレージから女性スタッフが出てきた。
「監督のクレンジング・ジェル、借りていいですか?」
「あっ、ばか!」
「クレンジング・ジェルって、口紅とかメイクとか落とすあれですか?」
「そうそう」
 陽気の問いに女性スタッフが答える。
「“ユキエ”から“善之輔”に戻るときに、メイクを落とさなきゃなんないでしょ」
「わーわーわー!!」
 大声でわめく山崎監督。
「監督……」
 ジト目でにらむ陽気。
「陽気君、しかたないんだよ」
 高橋オーナーが説明する。
「企業宣伝のために、レースクイーンの存在は不可欠だ。山崎君は、緊縮財政の我がチー
ムを救うために、自らレースクイーンとなって頑張っているんだよ」
「本人の趣味って話もあるぞ」
と小室。
「部外者は黙ってろ」
「マシン出まーす」
 奥のほうから声がする。
「ちょうどよかった。陽気君、きみのマシンをお目にかけよう」
 高橋が気を取り直す。
 ガレージから徐々にマシンが押し出され、へさきのほうから陽光に照らしだされる。
 まず姿を現したのはフロントウィング。
 色は鮮やかな黄色で、両サイドに黒い翼端板がついている。
 続いてノーズコーン。円錐形を平たくつぶしたような形をしている。
 闇夜を思わせる漆黒の中、先端部から黄色の細いラインが、左右に分かれてのびている。
 陽気はただじっとマシンを見つめている。
 カーナンバーが見えてきた。
 黒地に黄色で「21」の文字。
 新たな飛翔を願う陽気とダイスに、これほどふさわしい数字はない。
 ノーズからのびる二本のラインは、左右のサイドポンツーンに沿って直角に折れ、すぐ
にまた直角に曲がって、コクピットを両サイドから囲む形で平行に走る。
 陽気が座ることになるシートが姿を見せた。黒い座席に黄色いシートベルト。コクピッ
ト内部も、マシンと配色の統一がとれている。
 横から見てみる。コクピットの位置と、サイドポンツーンの出っ張りとの間に、“Di
ce”のロゴが、タイプライター文字で大きく書かれている。色はもちろん黄色。
 マシン後部。サイドポンツーンは急速に絞りこまれ、それに従って二本のラインも収束
に向かう。
 そしてリアウィング。黄色地に黒で“Dice”の文字。翼端板は黒色で、ここにも黄
色く車番21が記されている。
 最後に、マシンを押してきた四人のスタッフが出てきて、お披露目は終わる。
「どうだ、自分のマシンを見た感想は」
(このマシンでチャンピオンになる)
 陽気は心の中で誓いをたてた。
(そして夢のバトルF1へ、また一歩近づくんだ)
 雲ひとつない青空が、そんな陽気を温かく見守っているかのようであった。
 しかし...。

 決勝当日も、まぶしいほどに晴れあがった。
 気温は六・七度と相変わらず低いが、満員の観客席は、寒さを感じさせない盛り上がり
を見せている。
 コース上では現在、今期バトルF3に参戦する三二名のドライバーが、ヴォルフガング
・ディストナー作曲『Mechanical Parade』のメロディーにのって、オ
ープンカーでパレードしている。
 観客席の盛り上がりを引き起こしているのは、先頭の車に乗った竜原薫の姿であった。
 陽気も彼をひとめ見ようと、車から身を乗り出すが、かなりの距離があったので、小さ
な点にしか見えなかった。
 オープンカーの列は、ホームストレート脇のピットレーンから
コースに出ると、第一コーナー、非常にゆるやかな右カーブに入
る。
 半円形のこのコーナーの後ろには、直角の右コーナーが二つ続
く。さらにやや左にカーブして、インフィールドセクション。右
左右左右と、細かいコーナーが連続してやってくる。
 そして短いバックストレートから、直角の右コーナーを二つ回
って、正面スタンド前、ホームストレートに帰ってきた。
 陽気も他のドライバーと一緒に、スタンドへ向けて穏やかに手
を振る。
 だがその心中はけっして穏やかなものではなかった。理由は昨日の予選の順位。
 三二人中一六位。
 予選の順位で決勝のグリッド(スタート位置)が決まるので、彼は今日、前から一六番
めの位置からスタートということになる。カートでもFJでもつねに上位グリッドにつけ
ていた彼にとって、これは大きな屈辱であった。
 もう一周してドライバーたちはピットに戻った。やがてホームストレート上にマシンが
整列し、臨戦態勢を整える。
 陽気は早めにコースイン。各チームのスタッフでごったがえすなか、周囲のグリッドを
確認すべく、自分のマシンの位置へと赴く。
 コクピット内の温度上昇を防ぐため、山崎監督がパラソルを持って、直射日光をさえぎ
っていた。……タンクトップにショートパンツといういでたちで。
「やっほー!」
「『やっほー』じゃないでしょカント……」
 陽気は山崎の手で口を塞がれた。
「あたしは監督じゃないの。レースクイーンの山崎ユ・キ・エ」
 しばしの沈黙。
「おお、斜め前の一五番手グリッドに止まっている、あのショッキングピンクの派手派手
なマシンはなんだ?」
「説明的セリフで逃げたわね。……あれはピエロルイジ川口選手のマシンよ」
「“ピエロ”? 顔を白く塗って、鼻の頭に赤い玉でもつけてるんですか?」
 我ながらオヤジなギャグだ、と陽気は思う。
「よく知ってたわねえ」
「へ?」
 そのとき。

「キャーヒョー!」

 甲高い叫びとともに、一人の選手が現れた。
 ピンクと白の縦縞のレーススーツ。大きな星形のアップリケが目だつ。
 髪はカーリーヘア。顔は、いま陽気が言ったとおりにメイクされている。
 そして左目の下に雫模様。
「この人がピエロルイジ川口選手よ。本名、年齢、性別不詳。身元を隠すため、裏声で笑
う以外は一切しゃべらないの」
「キャーヒョヒョヒョ」
 ピエロルイジは山崎に一礼すると、ピンクのマシンに飛び乗った。
 陽気も首を左右に振りながら、自分のマシンに乗りこんだ。

“大歓声に迎えられまして、今年もここ、清水自動車競技場で行なわれます、バトルF3
シリーズ開幕戦マーリンズカップ。すでにフォーメーションラップが始まっております。
三二台のマシンが、三・一四一五キロのコースをゆっくり一周して、スターティンググリ
ッドに続々と戻ってまいりました。本選ではこのコースを三二回周回いたします”
 陽気は無線のチャンネルを一一に合わせて、ヘルメットの奥からこの場内アナウンスを
聞いていた。各チームのスタッフはフォーメーションラップ前にピットのほうに戻ってい
るので、現在コースにいる人間は、三二名のドライバーのみ。
“フロントロー向かって左側に、ポールポジションの竜原薫。右側にキム・イッキ。二列
めにはスタートうまいベテランの小室洋二郎と佐藤雄二であります。トップでチェッカー
フラッグを受けるのは、はたしてどのマシン、どのドライバーなのでしょうか? 後方で
グリーンフラッグが振られます。緊張の一瞬です”
 陽気は左足をクラッチに乗せる。
 冬の空気が全身をひきしめる。
“レッドシグナル点灯。……そしてグリーンシグナル! スタートだ! 竜原が好スター
ト! キム・イッキ並びかける! 小室洋二郎割って入るか! 竜原とキム・イッキ! 
竜原とキム・イッキ! まもなく第一コーナー! キム・イッキわずかに前に出た! 竜
原くらいつく! 先頭キム・イッキで一コーナーに突入! しかしインに竜原、すうっと
上がっていく! インにいたぶん竜原が有利! ここで竜原が先頭に立ちました!”
 サーキットじゅうのスタンドというスタンドが、黄色い声に包まれる。ホイッスルの音
もあちこちで響く。

 ピピーピピッピ、「タツハラカオル!」
 ピピーピピッピ、「タツハラカオル!」

 中段では加納陽気が、ピエロルイジを抜いて一つ順位を上げている。不利なアウト側か
らのスタートだったが、前にいたマシンがこぞってインに殺到し、アウト側ががらあきに
なったのが幸いした。
 大きな一コーナーを回る間にインがあいたので、そこへ割りこみ、前車と同じラインを
走行。直角コーナー二つを過ぎて、インフィールドセクションへ。前方は四台ほどが連な
っている。後方には少し離れてピンクのマシン。それより後ろはミラーに映らない。
(どうやって前の四台をかわそうか)
 陽気は考えていた。
(今の時点ではちょっと距離をおいて見ていよう。四台のタイムに差が出たら、一台ずつ
バトルをしかけて……)

「キャーヒョー!」

 無線から来た裏声が、陽気の耳をつんざいた。
「あーびっくりした。何かと思っ……」
 耳元を‘何か’がかすめていき、陽気は再びびっくりする。
 ‘何か’は陽気の前のマシンに当たり、それをコース外に押し出した。
 レースに復帰すべく芝生の上をのろのろ進むマシン。
 その横を通り過ぎる際に、陽気は縁石上に転がる‘何か’の正体を目にした。
 サッカーボールだった。
「えっ? なんでこんなところに……」
「キャーヒョヒョ!」
 ミラー越しに陽気は、ピエロルイジの行動を見た。
 彼(あるいは彼女)はまず、わずかに減速し、同時に車内からサッカーボールを取り出
す。
 次にそれを自らのマシンより幾分前方にほうり投げる。
 そしてアクセルを踏み、ノーズの先端をボールに当てる。
 ボールはノーズに弾かれて、勢いよく前に飛びだし、再度陽気の頭の脇を駆け抜ける。
「なんだこれはいったい!?」
「これが“サッカーボールキック”。ピエロルイジの必殺技なの」
 山崎監督の声が無線を通って陽気の耳朶(じだ)をくすぐる。
「監督」
「なぁに?」
「今は監督の格好をしてるんですから、そのしゃべりかたは、やめてください」
「あ、そうだった。ついいつものくせが出て」
「どんなくせですか」
「コホン。で、ピエロの話。ピエロのマシンはけっして恵まれたスピードを持っているわ
けじゃない。だけどその攪乱戦法と飛び道具には警戒しなくちゃなんない」
「飛び道具って……違反じゃないんですか?」
「そこがFJとF3の大きな違い。まわりのマシンをよく見てみて」
 言われて周囲を見、同時に無線のチャンネルを変える。

           「……拳!」

「……ウェーブ!」 
        「……ファイアー!」   

    「……フラッシュ!」 

「なんなんですかこのレースはぁ!!」
「バトルF3第一戦マーリンズカップだけど」
「そうじゃなくて僕の言いたいのは……」
「キャーヒョー!」
 三度めはよけられなかった。不意打ちでボールをくらった陽気のマシンは、砂場へ向か
って一直線。
 再びコースに復帰したとき、ピエロルイジは二秒ほど先を走っていた。
「くぅー……負けるかあっ」
 マシンの空力性能で勝る陽気はその後、一周に〇・五秒ずつ前車との差を縮め、まもな
くピエロルイジの後ろにぴたりとついた。
「いくらなんでも後ろにはシュートできないだろう」
 追い抜くチャンスをうかがいつつ、しばらくその態勢で走り続ける。
 九周めの最終コーナーでチャンスは訪れた。アウト側にふくらんでしまったピエロルイ
ジを、陽気がインからすんなりかわす。
「行けえっ!」
 目一杯アクセルを踏みこむ陽気。
 ホームストレートで可能な限り引き離して、ボールの届かない所まで逃げる作戦だ。
 二六〇km/時の風が、陽気の体に吹きつける。
 ピエロの車は見る見る小さくなる。
 この周回で桃色のマシンは、陽気の視界から完全に消え去った。
「さてと、前の車に追いつかなくちゃ」
 そうつぶやいて、彼方に見える黄緑色のリアウィングを目標に走る。
 ところが次のホームストレート。
「ヒョヒョヒョヒョヒョ……」
 あの甲高い笑い声が、またもや無線にこだました。
(うわっ、やな予感)
 陽気の予感は見事的中。カーナンバー0、ピエロルイジのピンクのマシンが、ぐんぐん
彼に迫ってきたのだ。
 やがて、ミラー越しにピエロ自身の姿が見えるくらいにまで、両者の距離は縮まった。
 陽気はその姿を見て、我と我が目と我がミラーを疑った。
 なんとピエロルイジは、シートベルトをはずして、自分のシートの背もたれの上で、ジ
ョギングをやっていたのである!
 足元のシートは空気が入れられて、大きな球と化している。
 ピエロはサッカーボールをペダルの上に置いてアクセルを固定した後に、シートを膨ら
ませて球状にした。
 球の下部は、シャシーの下にあけられた穴からはみ出して路面に接する。
 そしてピエロが走ってこの球を回すことにより、通常のスピードに、足で稼いだぶんを
プラスしただけのスピードで、マシンを走らせることができるのだ。
「キャーヒョー!」
 十分接近したピエロルイジが、満を持してサッカーボールを放つ。
「んなアホなあー!!」
 バナナシュートが見事に決まり、陽気はまたもコースの外へと弾き出された。
「キャーヒョキャーヒョキャーヒョヒョ!」
 それでも陽気は、さっきとまったく同じように、ピエロルイジとの差を徐々につめてい
く。そして最終コーナーで、ピンクのマシンのインを突き、三たびピエロの前に出る。
 ピエロを引き離すべく、必死にアクセルを踏む陽気。
 だが今度は、黄緑のリアウィングのマシンが、陽気のすぐ前にいるために、それに行く
手を塞がれて、なかなかピエロを振りきれない。
 ピエロルイジがサッカーボールを用意したのが見えた。
 身構える陽気。
 だがピエロはすぐにシュートを撃とうとはしなかった。その後かなりの時間、ボールを
目の前にちらつかせながら、ただ走行するだけである。
 陽気もいい加減身構えるのに疲れてきた頃。
「キャーヒョー!」
 ピエロが一旦速度を落とすと同時にボールを放り投げ、それをノーズで突き上げる。
 そのとき陽気の脳裏に、ある考えがひらめいた。彼はアクセルを一杯に踏む。
 ボールは猛スピードで陽気のマシンへ一直線。
 そしてまさにそのテールランプをとらえんとした瞬間!
 陽気がブレーキを踏んで、ボールを逆に蹴り返したのだ!
 ボールはもと来た道をそのままの速度で駆け抜けて、ピエロのマシンに直撃した。
「ヒョオゥウウゥウゥァアアァアァァ……」

 ようやくピエロルイジから解放された陽気。
(次はあの黄緑のリアウィングだ)
 前方に目を向け、わずかに先を行く車番40、堀山優のマシンを追いかける。
(ホームストレートで後ろにくっついて、第一コーナーでインをとらえる)
 そうイメージしつつ最終コーナーを立ちあがる。そしてイメージどおり、ホームストレ
ートで堀山の真後ろにつくことができた。
 抜きにかかるべくラインを探る陽気。
その視界に、コントロールタワーの上で旗が打ち振られている様子が映った。
 黒と白の市松模様の旗。
 チェッカーフラッグだった。
 つまりレースはここで終了。
(しまったあ。周回数を数えてなかった)
 嘆いても、後の祭り。コース上はもうウイニングラン。
 優勝した竜原薫が、大観衆の声援に手を振って応えている。
「何位でしたか?」
 ピットに戻った陽気が尋ねる。
「うん、七位」
と山崎監督。
 入賞となるのは六位まで。
「つーことは、堀山さんを抜いてれば、入賞だった……」
 悔しがる陽気。だがやはり後の祭り。すでに表彰台には、上位三人のドライバーが上が
り、シャンパンファイトを満喫していた。
 はしゃぎ回りながら互いにシャンパンをかけあうキムと小室。
 竜原は無表情のまま、足下の群衆に向けてシャンパンをふりまいている。
 それを浴びんがため殺到する人々。
 陽気はこのとき初めて竜原の顔を見た。
 ダークブラウンの細く長くしなやかな髪が、シャンパンに濡れて輝いている。
 色白の肌。
 高く通った鼻すじ。
 薄い唇。
 尖った顎。
 両の眼は狐の如く、鋭さと優雅さを兼ね備えている。
「人気がでるはずよねぇ」
 いつのまにか山崎監督が、タンクトップとショートパンツに着替えて、陽気の隣に立っ
ていた。
「今なんの必然性があってその格好を……」
「いいじゃない、気分よ、気分」
 シャンパンファイトはまだ続いている。そろそろ帰ろうと思い、ガレージの奥へと歩き
だした陽気は、あることに気がついて、もう一度振り返った。
「どしたの?」
と、ユキエの姿をした監督。
「もしかしてキム選手ってあの人ですか?」
「うんそう」
「あの白いレーススーツ着た丸い顔の女の人」
「そうだけど、どうかしたの?」
 すぐには信じ難かった。昨日陽気がピットの場所を尋ねた女性が、三年連続シリーズ二
位、勝利も多いがリタイアも多い‘弾丸娘’キム・イッキだったとは!
「だったらピットのテントの色くらい、覚えておいてほしいなあ」
陽気はキムにだまされたことに、未だ気づいていなかった。


●access
清水自動車競技場
  東海道線清水平駅より
  バス自動車競技場行で15分

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