V−Story

ザ ウィナー

Round.2

レーシングクイーン

 〜神戸レーススタジアム

“カオル、カオル、ポールポジション
 カオル、カオル、ポールポジション
 カットバセー、カ・オ・ル!”

 トランペットの響きにのった黄色い合唱が、スタンドの外でもはっきり聞きとれる。
「すごいですね」
 加納陽気が話しかける。
「竜原薫のファンはみんな熱狂的だけど、ここのファンは特にそうだね」
 陽気の所属するチーム『ダイス・フォーミュラ』の監督である山崎善之輔が、高くかす
れた声でこたえる。
 二人は、バトルF3第二戦「ふたばスーパーカップStage1」に参戦するため、会
場となる‘神戸レーススタジアム’に来ていた。だがあまりの人の多さで建物に寄りつけ
ず、立ち往生しているところなのだ。
「余った券買うよ、余った券買うよ」
 茶色のジャンパーを着た中年男性が、ダミ声で無差別に呼びかけている。
 バスや電車が次々到着し、ひっきりなしに人が降りてくる。
「余った券買うよ、余った……うわぁ」
 人の波をまともに被って、男はいずこかへ押し流された。
「どうやって中に入ります?」
「誰か大きい人を探して、その後についていく」
「あ、それいいですね。えと、大きい人、大きい人……」
 陽気は、人波に潜りこもうとしている大男の姿を見つけた。
 自動車学校の教官のような服を着ている。
 体格的に申しぶんない。
 山崎に合図して、二人して彼の後ろにくっつく。
 教官は波をかきわけてずんずん進む。
 山崎の作戦は見事的中。二人はさほど苦労をせずに、サーキットへ入場することができ
た。
 二人の横では、楯にされた教官が、ハァハァ言って座りこんでいた。

 ピットから、ホームストレートをはさんで向かい側にある、メインスタンドを望む。
「すごいですね」
 ここでもまた加納陽気は、その熱気に圧倒された。
 旗が幾本も打ち振られている。
 旗竿はどれも物干し竿くらいの長さがあり、その先に、絵画用パレットの絵(竜原の所
属するタイタン・レーシング・チームのマーク)が描かれた、緑色の旗がゆれている。
 カーナンバー「1」を記した旗もたなびく。
 「1 竜原薫」と大きく書かれたノボリも掲げられている。
 この人数の陰に隠れて部分部分しか見えないが、横断幕も何本か掛かっているようだ。
「関西竜原会」の文字がなんとか読み取れる。
 スタンドを埋め尽くす人々は、ほとんどが女子高生・女子中学生とみられる。みな緑色
の小さなメガホンを手にしている。入口の隅で一個四〇〇円で売ってたやつだ。
 熱心な人はそれ以外にも、数々の応援グッズを身につけている。
 レーススーツのデザインを真似たTシャツ一五〇〇円。
 タイタンのロゴ入りハッピ三〇〇〇円。
 頭にはハチマキ六〇〇円、あるいはキャップ二〇〇〇円。
「でもって竜原テレカ二枚一組二五〇〇円」
 と言ってカバンからテレカを出し、周囲に見せる山崎監督。
「……持ってたんですか」
「あ、何、その目。勘違いしないでよ、もらったんだってばタイタンから」
「値札ついてますよ」
「うっ……」
 メインスタンドのほうでは、観客全員での大合唱が再開されている。
“浪速の空に燃えあがる……”
「これが関西の竜原ファンクラブ会員なら知らない人はいないという、竜原選手の応援歌
『すすめドラゴン』だ」
 監督が解説する。
“竜原薫 フレーフレーフレーフレー!”
 合唱が終わったのを見計らって、場内のスピーカーから音楽が流れてきた。
 人気アイドル春山麗子の『夢色Milky☆Way』という曲である。
“星空見上げると ブルーな気持ちになるの……”
 BGMとして聞き流すには、あまりにも音がハズれていた。曲自体も、詞の抑揚がメロ
ディーと合っておらず、いい曲とはいいがたい。聞くにたえなくなった陽気は、スピーカ
ーからできるだけ離れようと、ピットレーンに飛びだして、早足で右へ移動する。
 一人の女性が、ピットの壁にもたれかかっていた。
 身長は陽気と同じくらい。
 大きくて丸い瞳。
 腰までのびた黒い髪。
 雨でもないのに傘を持ち、冬だというのにレオタード。
「やっぱりカヨちゃんてカッコいいなあ」
 突然背後で声がして、陽気は驚き振り返る。
「監督……」
 黒のタンクトップに黄色いショートパンツ姿の山崎監督がそこにいた。
「だからあたしは監督じゃなくてユキエだってば」
 山崎はチームの宣伝費削減のため(?)、ユキエと名乗って、自らレースクイーン役を
かってでているのだ。
「バトルF3キャンギャル人気投票でトップだったんだから」
「ま、綺麗なのは認めますけどね」
「ありがとお」
「あの人にはさすがに勝てないでしょう」
「あ、カヨちゃん? 大丈夫よ彼女はレースクイーンじゃないから」
「へ?」
 その女性はどこからどうみても、正真正銘のレースクイーンだった。
 肩ひものない、ハイ・レグのレオタード。
 横から後ろにかけて上下セパレートになっている。
 上半分が黄色で下半分が紺。腰の付近でV字形に、二つの色が分けられている。
 胸のあたりでは‘Marge(マルジュ)’のロゴが、はちきれそうになっていた。
 彼女の胸を二秒八三くらい見つめていた陽気は、あるできごとを思いだして「あっ!」
と叫んでしまう。
 その「あっ!」で、彼女も陽気に気づく。
「お? もしかしてこないだの……」
「わーごめんなさい!」
 山崎ユキエは何のことかわからず、首を傾げている。前のレースの予選の日、陽気は誤
って、着替え中のこの女性と“ご対面”してしまったのである。
「話はキムから聞いたで。あいつもほんまこーゆーイタズラ好っきゃな」
「はあ……?」
 陽気はキム・イッキにハメられたことに、まだ気がついていない。
「あれは子供には刺激がきっついわ」
「‘子供’って……」
 陽気は自分を指さす。
「せや」
「‘子供’はないでしょういくらなんでも。一八歳九か月のF3レーサーですよ一応」
「あれ? カートのレーサーちゃうの?」
「違います!」
「運転免許持ってる?」
「持ってますよ!」
「……ほんまにF3?」
「F3です!!」
「そない顔まっ赤にせんでもええやん。……しかし変な気分やな、こんな少年とレースす
るいうのも」
「だから‘少年’じゃないって……『レースする』って……レースクイーンじゃないんで
すか?」
「彼女がチーム・マルジュのドライバー、上村家代ちゃんなの」
 ユキエが解説する。
 陽気は目の前の女性のコスチュームを今一度確認した。
「ドライバーなんですか?」
「ドライバーや」
「その格好で走るんですか?」
「ンなあほな。レーススーツくらいきちんと着るわ。ちょっと持ってきてー」
 ガレージのほうから、黄色と紺のブルゾンを着た男性が現れ、布のかたまりを家代に渡
すと、またガレージに引っこんでいった。
 家代はそれを広げて、陽気たちに見せた。
「それがレーススーツ!?」
 陽気が驚くのも無理はない。それは無色透明の服だったのだ!
「そうや。マルジュ紡績の技術の粋を集めて作られた……」
 家代はその場でレーススーツを着用した。
 着用後も、起伏に富んだ彼女のボディラインがよくわかる。レオタードの黄色と紺、
‘Marge’の文字、ストッキングの質感までも、外からはっきりうかがい知ることが
できる。
「これが“シースルースーツ”や!」
 家代は腰に手をあててポーズをとった。
「……わかりましたスゴイです。でも、」
 陽気はいったん言葉を切った。
「それが何の役に立つんですか?」
「目立つやん、これ」
「……それだけですか?」
「『それだけ』て、それがこの世界じゃ大切なことやんか。目立てばスポンサーがつく、
金ごっつ出す、車が良うなる、勝つ、上に行く、そんでレイちゃんがいるF1に……」
「レイちゃんって誰ですか?」
「え? あ、なんでもないなんでもない。さあ予選や予選」
 頬をわずかに赤らめながら、家代はガレージに引き揚げていった。
「アタシたちも予選の準備しなきゃ。ガンバってね、陽気クン」
 ウインクするユキエ。
「はいはい」

 神戸レーススタジアムは、全国でも屈指の難コースとして知ら
れる。
 ホームストレート三分の二辺りからコース両側に設けられたサ
ンドトラップが曲者。颪し風で砂が舞いあがり、コース上を埋め
つくしてしまうのだ。このためここからしばらくの区間、路面は
ほとんどオフロードと化す。
 第一コーナーは鈍角の左コーナー。すぐに鋭角な第二コーナー
へ続く。少し行って、直角に折れる第三コーナー。ここまで三つ
連続で左コーナー。その後は左へ大きく曲がり、このときにホー
ムストレートの真下を通過する。やがて、第三コーナーと対にな
る直角の右コーナーが出現。その先には短い直線。この途中でコース脇が芝に変わるため、
車はようやくオフロードゾーンから脱出できる。
 直線の先には直角の右コーナーがあり、右への大きなカーブへとつながる。最後に直角
の右コーナーを過ぎて、ホームストレートに帰ってくる。
 陽気は予選のタイムアタック中、砂に乗って何度もスピンした。予選終了ぎりぎりにな
って、ようやくまともに一周走ることができたが、満足のいくタイムは出せず。結局今回
も、前回の一六位から一つ順位を上げただけの、一五位という成績にとどまった。

 予選終了後、明日の決勝での戦略を練る、陽気と山崎とダイスのスタッフたち。
 妙案が出ず、ガレージの雰囲気は停滞気味。
 ピットレーンを通りかかった色白の女性が、ふらりとガレージに入ってきた。
「あ、これはこれは」
 山崎監督が立ち上がって迎える。
「山崎さん、お久しぶりですこと」
 その女性は赤いボディ・コンシャスの服を着ていた。髪はソバージュ。左手の中指に、
大きなルビーの指輪が輝く。
「予選三位だってね。すごいじゃない」
 監督は彼女に笑いかける。
(え、じゃあこの人もドライバー?)
 陽気の疑問を読みとったかのようなタイミングで、監督がこの女性を紹介する。
「彼女がチーム・フジワラの藤原舞ちゃんだ。舞ちゃん、彼がウチの加納陽気くん」
「こちらが陽気さん? あたくし、前のレースから注目してましたの」
「ありがとうございます」
「それで、今の予選での走りを見ていて思いましたが、セッティングにいささか問題があ
るのではございませんこと?」
「たしかに、満足いくセッティングではないですね」
「あたくし、ここでのベストセッティングを発見しましたの。お教えいたしますわ」
 舞は、かたわらに置いてあった、ダイスの黒いマシンに近づいて観察した。
「どこ製のマシンですの? ローンウルフ? でしたら、フロントウィングを二五度、リ
アウィングを六〇度にして、ダウンフォースを稼ぐことをお勧めしますわ。路面が荒れて
ますから車高は高め、タイヤはレインタイヤがよろしいかと思いますわ」
 舞はその後もセッティングについて、微に入り細にわたって説明する。
「ではあたくしはこれで。ごめんあそばせ」
 そして風のようにガレージを去った。
「ふーん」
 入れ違いにやってきたベテランドライバー、小室洋二郎が感心する。
「珍しいな。あんなに親切な舞ちゃん、初めて見たぞ」

“本日のスターティンググリッドをお知らせします”
 ウグイス嬢の澄みきった声が、サーキット内に響きわたる。
“一番、タイタン、竜原。車番号、一”
 五万六千人、超満員のスタンドが、明るい歓声に包まれる。
 トランペットが、喜び勇んでファンファーレを演奏する。
「コーラいかがですかあ」
 売り子の声がかき消される。
“二番、カシン、キム・イッキ。車番号、九十、九。三番、チー
ム・フジワラ、藤原舞。車番号、二十、四。四番、ランダム、……”

 選手の名前が次々読みあげられる。
“オフィシャルは、コントロールタワー、新藤。一コーナー、大
内。二コーナー、浜崎。最終コーナー、諸角。以上四氏でございます”

 すでに加納陽気はマシンに乗りこみ、グリッドについていた。
 無線のチャンネルを回していたとき、目の前を人の手が横切った。
「がんばりや、少年」
 陽気が顔を上げると、シースルーのレーススーツを着た上村家代が、束ねた長髪をまる
めながら黒いヘルメットをかぶり、斜め前にある自らのマシンに向かうところだった。
(‘少年’じゃないって言ってるのに)

“ただいまから始周式を行ないます。”
(『始周式』? フォーメーションラップか?)
“先導は元バトルF1ドライバー、ヤン・ダルマス氏でございます”
 黄色い警告灯をつけた乗用車がピットから出てくる。
 三二台のF3カーが、その後に続いてコースをゆっくり一周する。
 陽気の無線用ヘッドホンから、ラジオの実況中継が聞こえてきた。
“さあ全車グリッドに戻ってまいりました。本日の『F3デイライトゲーム』。全長四二
八五メーター、両翼九六〇メーター、センター方向一二〇〇メーターの、ここ神戸レース
スタジアムで繰り広げられる、二四回の攻防戦。解説は元バトルF1ドライバー斎藤健二
さん、実況は私、小山で、試合終了まで、完全生中継でお送りいたします”
 オフィシャルがグリーンフラッグを振る。
 陽気はクラッチとアクセルを踏む。
“レッドシグナル! そしてグリーン! 試合開始です。サイレンが鳴ります。キム・イ
ッキ好調な滑り出し。キム・イッキがリード。竜原粘る。竜原粘る。竜原が、キム・イッ
キの、左! 抜けた抜けました、一コーナー前クリーンヒット! 竜原、今ゆうゆうと、
一コーナーに達します”
 後方で接触事故発生!
 マシンのカウルの小さな破片が舞い上がり、そしてゆっくりとスタンドへ落ちた。
 ウグイス嬢の声が流れる。
“カウルボードに、ご注意ください”

 加納陽気は、マシンが予選のときとは明らかに違うと感じ始めていた。
 コーナーが断然回り易いのだ。
 ダウンフォース(マシンを路面に押しつける力)を強くしたので、直線での伸びにはや
や欠ける。だがそこで後ろの車をブロックすれば、コーナーで、大きく減速する前の車を
捕らえることができる。
 陽気は二コーナーで上村家代を刺して、ひとつ順位を上げた。
(藤原さんっていったっけ。あの人には感謝しなくちゃな)
 さて、陽気にこのセッティングを教えた当人はどうなったかというと……

“二周め、ラップリーダーは、一番、タイタン、竜原。タイタン、竜原。車番号、一”
 場内アナウンスに続き、電子オルガンの演奏が入る。ラヴェルの『ボレロ』である。
 しかしそれが終わる前に、早くも二番手の選手がコントロールラインを通過していた。
 車番二四の真紅のマシン。
 藤原舞が、竜原のスリップストリームにくっついている。
 二台ともエンジンはフィールドV6。シャシーはグラメス。タイヤはオフセア。しかも
両者揃ってコーナリング重視のセッティングで、最高速はほぼ同じ。
 つまり、空気抵抗の少ない場所にいる、舞のほうがここでは有利。
 舞がスリップを抜け、一コーナーでインに入るべく、竜原の左に並びかける。
 だが竜原は、芸術的なアウト・イン・アウトのライン取りで、舞の進路を塞ぐ。
 行き場を失った舞は強引に竜原の左に潜りこもうとするが、バランスを崩してスピン!
コースを突っ切り、アウト側のサンドトラップにはまってしまう。
 砂を掻きながら空しく回転する後輪が、オーロラビジョンに映しだされた。
 スタンドの竜原ファンは、ライバルが一人消えたと大喜び。トランペットに合わせて叫
ぶ。

 パッパラパッパ、“アウトー!”
 パパッパパッパ、“アウトー!”

 ホームストレートに戻ってきた加納陽気。
 プラットホーム(本コースとピットレーンの間にあるスペース)のほうを見て、山崎監
督の出すサインを確認する。
「えっと、右手で左ひじをさわったから‘現状維持’……と、鼻をつまんだから‘取り消
し’、肩、胸、頭、‘ペースを上げろ’、とこれも取り消し、胸、首、頭、‘後ろを警戒
せよ’、両手を叩いて‘決定’って、ええ?」
 ミラーを見る。
 黄色と紺のツートンカラーが、はるか遠くに見えるだけ。
「後ろにはエキストラがいるだけですよ」
「誰がエキストラや誰が!」
 無線に怒鳴り声が飛びこんでくる。
「あ、聞こえてたんですか」
「関西人をナメたらあかんよぉ。必殺技持っとるさかいな」
「必殺技?」
「せや。関西で必殺技ゆうたら……」
「大阪名物パチパチパンチ!」
 家代は右てのひらで左肩を打ち、左てのひらで右肩を打ち、を素早く交互に行なった。
 大きな胸がユサユサ揺れる。
「どや! こわいやろ……て、ちゃーう!! アホなことやらすなー!!」
「けっこう楽しんでやってたじゃないすか」
「けどまあ、お笑いに目えつけたんはエエ勘しとる。正解はこれや」
 家代が取り出したのは、白い紙を蛇腹に折って、一方の端を留めたもの。
「もしかしてそれ、‘ハリセン’ですか?」
「せや。ハリセンや。関西の若い女性がみな痴漢撃退用に持ち歩くいう……」
「持たへん持たへん」
 つられて関西弁になる陽気。
「ハリセンいうたら普通は上から下へ振り下ろすもんや。けどこれやったら近くのモンし
か攻撃でけへん。せやからアタシは、下から上に振り上げることにした」
「……たいして違わないんじゃないですか?」
「違うんやなこれが。メッチャ違うんや。まあいっぺん見てみい」
 家代はハリセンを振り上げ、そして叫んだ。

「‘ハリセンアッパー’!」

 次の瞬間、信じられないことが起こった。
 ハリセンの先から竜巻が発生したのだ!
 ハリセンの通過した個所の空気が薄くなる。そこに周りから空気が流れこんで渦を作り、
上昇して竜巻になる。これに、ハリセンを振り上げたときに起こった前向きの力が加わる
ことで、前方へ飛んでいくのである。
 砂を巻き上げながら進む竜巻。
 陽気がなんとかかわすと、そのまままっすぐ進んだ後、急に勢いを弱め、そして消滅し
た。
「ちぃ、よけおったか。ならもう一発、ハリセンアッパー!
 再び竜巻が起こり、陽気めがけて突進する。そのとき。

「キャーヒョキャーヒョキャーヒョー!」

 前方の陽気ばかりに気をとられていた家代のマシンを、後ろにいたピエロルイジが追い
抜きにかかったのだ。
 ピエロルイジは、シートを膨らませて作った球の上に立ち、自らの足でそれを回転させ
て、スピードを稼ぐ。
 ピエロが家代の前に出た。
 ……のも束の間、さっきの竜巻がピエロのマシンを直撃!
「キヤーウキャーウキャーゥ……」
 ピエロは、しぼんだシートの上にドサッと落ちた。
「ジャマせんといてや、マサミ」
「……‘マサミ’?」

“他コースの途中経過ならびに結果をお知らせします。バトルイギリスF3は、二位との
差三秒一で、グレース・ヤンガー。バトルフランスF3は五秒二でレモン・コヴァチ。バ
トルイタリアF3は一秒〇でパトリオ・ランパンテ。バトルドイツF3は一四秒三でアリ
ーナ・オマリー……”

「クイットのレースクイーンは、アタシと‘マサミ’……小早川真実と、あと武晴美いう
んと三人いてるねや」
 家代が、遠い目をして語り始めた。
「忘れもせん、六年前の日本GP、アタシら三人がピットを歩いとったら、メチャかっこ
ええ男が来おってな、それがレイちゃん……今オールウィンにいるレイモンド・インディ
選手やったんやけどな、そのレイちゃんがすれ違いざま、アタシらにウインクすねん。三
人ともポーッとなって、んでその場で決めたんや。来年から三人揃ってドライバー
になるんや。ほんで一番最初にF1に上がったモンが、レイちゃんにアタックできること
にしようてな」
“バトルCカー選手権は、現在七周め途中、二秒〇で、武晴美がリードしております”
「アタシはF3。ハルミは耐久レース。でもマサミの消息だけがわからへん。アタシはマ
サミの行方を追った。……捜したでホンマ。こない身近におるなんてなあ」
 家代は人さし指を後ろに向けた。
「このピエロルイジが、‘マサミ’や」
「本当ですか!?」
 陽気にはまず、ピエロルイジが女性だというのが信じられない。
「間違いない。顔も隠しとるし声も裏声やけど、アタシにはわかる。輪郭もそうやし体型
もそうや。絶対こいつが小早川真実や!」
 後ろで当人が、首を横にブルンブルン振っている。
「見とれやマサミ。ここでいいとこ見して、アタシが先に上に行くんや! ハリ……
 そのとき陽気の頭に、ある考えが浮かんだ。
「……セーンアッパー!」
(ピエロの飛び道具‘サッカーボール’は、ブレーキをかけて蹴り返すことができた。こ
の竜巻もブレーキを使えば、跳ね返すまではいかないにせよ、乱気流を起こして勢いを弱
められるかもしれない)
 竜巻が黄色いリアウィングを捕らえる瞬間!
 ブレーキ音がこだました。
 陽気の読みが的中。
 竜巻は跡形もなく消えてしまった。
「うっ。少年、なかなかやるやん」
「だからその‘少年’というのは……」
「そんなら接近戦や!」
 家代はコクピットの中から、黄色と紺に塗り分けられた、大きなパラソルを取り出した。
「いくで、‘パラソルラジエータ’!
 言うが早いかパラソルを開き、把手をロールバーに引っかける。
 マシンが傘をさしたような格好に、陽気は思わず吹きだしてしまった。
「なに遊んで……」
 言いかけた口が開いたままになる。
 傘をさした車番一五が速度を増して、陽気との差をあっというまに縮めたのだ。
「エンジンの負担を減らせば、スピードが出るねや。これは傘で日陰を作って温度を下げ
て、エンジンの負担を減らす技やねん」
 立体交差をくぐった所で、陽気をかわしにかかる家代。
 しかしこの肝心なときに、傘のフックがバーから外れ、颪し風に乗って飛んでいってし
まった。
 次の直角コーナーで、セッティングに勝る陽気に結局先行される。
「残念でした。お先に失礼します」
「これで終わり思うたらあかんよ、少年。ちょっとミラー見てみい」
 陽気は言われた通り、横目でミラーを見やる。
 真っ黒いヘルメットから、家代の大きな目がのぞく。
「このメットも、マルジュ紡績の技術をつこうた特殊機能を備えとるんや」
 家代があごの辺りを人さし指で触る。
 すると、ヘルメットの黒が一瞬にして消滅し、その下に隠れていた彼女の素顔があらわ
になった。
 このヘルメット、外殻部分は透明プラスチック、インナー部分はシリコンと、ともに透
明な素材が使われている。黒く見えたのは、表面に敷きつめられた液晶のせいである。あ
ごのスイッチを切ることで、液晶の色が消え、本来の透明色に戻るのである。
 突然現れた魅力的な顔だちに、陽気の心臓が一瞬揺らぐ。
 家代は両手をグーにして、あごの下に置き、陽気に向けて微笑みを送った。

「陽気クン

 陽気は思わずミラーにみとれてハンドル操作が留守になり、外の芝へと一直線。
「ヒューヒュー!」
 家代は右腕を突き上げた。

“一七周め、ラッキー・セブンティーンでございます”
 トップの竜原がホームストレートを駆け抜けたのを合図に、おびただしい数の風船が、
スタンドから一斉に飛び出した。
「毎年のことやけど、かなわんなホンマ」
 コース上に落ちた風船をよけようと、右に左にハンドルを切る上村家代。
 だが路面がダートでグリップがないため、マシンコントロールがうまくいかない。
 これでは前を行く堀山優の青いリアウィングとの差を縮められず、逆に後ろの加納陽気
を気にする必要がでてきた。
 陽気はダウンフォースにものをいわせ、自在に風船をかわしながら進んでくる。
「しゃあない、もう一遍アレやって、じゃまな少年を追い払っとこ」
 家代はヘルメットの液晶を切り、素顔を白日のもとにさらけだす。
「たぶん追いつかれるのは、ダート区間最後のコーナー。少年がアタシを追い越そうとし
たら、そっち向いてスマイルや。少年は砂に突っこんで、今度こそリタイアするやろ」
 陽気はダート区間内のゆるやかな左カーブで家代の後ろにくっつく。
 次の直角コーナー、家代はわざとイン側をあけて曲がる。
 陽気は計略に乗っかって、その内側に飛びこんだ。
「少年!」
 家代が大声で叫ぶ。
 陽気が家代のほうを振り返る。
 待ってましたとばかりに、家代は笑顔を作り、陽気にウインクして見せた。

「陽気クン

 ところが、この後が家代の計画と違った。
 陽気は表情一つ変えず、そのまま追い越しを完了してしまったのである。
「二度と同じ手は食いませんよ」
 舗装区間へと走り去る陽気。
 一人取り残される家代。
「えぇっ? なんでやねん。オッカシイなあ」
 首を傾げつつ、ミラーで自分の顔を確認する。
「ええやん」
 笑みを浮かべてみる。
「カワエエやん、こんなに……」
 自らの顔にみとれた家代は、ハンドル操作が遅れてコーナーを曲がりきれず、コース外
のフェンスまでかっ飛んでいった。
 じつは陽気は、家代の顔を見るとき、同時にブレーキを踏んでいた。急な減速によって
乱気流を発生させ、空気の濃度を不均一にして、光を屈折させるためである。
 陽気は屈折した顔を見ていたために、魅了させられずにすんだのだった。

 観客がぞろぞろ帰りはじめている。
 二〇周めに竜原が、追い上げてきたキム・イッキに逆転され、そのまま大差をつけられ
てしまったのだ。
 コーラの売り子もいつしか姿を消し、修学旅行生しかいなくなったスタンドの前を走る
キム・イッキ。
 このサーキット恒例の“あと一周”コールも聞かれない。
 盛り上がりを欠いたまま、コントロールラインを通過。チェッカーフラッグが振られる。
“試合終了でございます”
 ウグイス嬢の声が空しくこだまする。
 四二秒後、加納陽気もチェッカーを受けた。
“完走おめでとお”
 山崎監督から無線が入る。
「何位ですか?」
“七位”
 陽気は朽ちた。
 開幕戦と同じ、入賞圏内に紙一重届かない七位。
 しかもまたしても目の前に堀山優。
(これだけやって入賞すらできないってことは、僕はここまでのドライバーなのかなあ)
 ピットでマシンを止めて、ため息をつく陽気。
 本コースに置かれた‘お立ち台’の上で、インタビューを受けるキム・イッキ。
 群がる報道陣に目もくれず、足早にピットへひっこむ竜原薫。
 幾人かのオフィシャルが、コース上の砂をならしている。
「どしたの? 元気ないみたいだけど」
 ヘルメットと防災マスクを外して、ガレージの隅でうなだれる陽気に、山崎監督が声を
かける。
「今回も入賞できなかった……」
「なあに、まだこのクラスに慣れてないだけだよ。慣れてしまえば、入賞だろうが優勝だ
ろうが、もう思いのままに」
「そんなもんなんですか」
「ああ、そんなもん、そんなもん。それよりさぁ、カラオケ行かない、みんなで。陽気く
ん好きだったよね」
「……そうですね、行きましょう」
 陽気の顔に笑みが戻った。

「小室のオッチャン」
「誰がオッチャンだ、僕はまだ三十二……」
 いきなり目の前に現れた可憐な微笑に、小室の動きが一瞬止まる。
「なんだ、家代ちゃんじゃない。どうしたの」
「オッチャン今ちょっとドキッとしたやろ?」
「あ、ああ」
 ばつが悪そうに答える小室。
「せやろ。普通の男、いや普通の女も、アタシの笑顔には勝てへんのや。勝てへんかった
んや! それをあの少年は、眉根も動かさんと、たーだ見とった。これって、アタシの美
しさが、衰えてきたいうことやろか? なあ、オッチャン!」
「そ、そんなことないよ」
 家代の気迫に小室がたじろぐ。
「いいや、アタシの美貌が崩れつつあるんや! こんなことやったらF1行っても、レイ
ちゃんに合わせる顔がないやんか。このままではあかん。おーい、電話帳や! 電話帳持
ってこーい!!」
 ガレージの奥からスタッフが、黄色い電話帳を持ってきて彼女に手渡す。
「えーと、エ、エ、エ……」
 早速電話帳を開き、エステティックサロンの項を探す家代。
「あった!」
 すぐにガレージ奥へ走り、受話器を取って番号を押す。呼び出し音が鳴る間、家代は大
声でひとこと叫んだ。

「覚えとれよ、少年! 上村家代は負けへんぞォ!!」


●access
神戸レーススタジアム
  東海道線武庫川公園駅からバス「神戸レーススタジアム前」行で20分
  阪神本線レーススタジアム駅から徒歩2分

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