第1部:資本の生産過程
第7篇:資本の蓄積過程
第22章:剰余価値の資本への転化
どのように資本から剰余価値が生じるかはさきに考察したが、いまや、どのように剰余価値から資本が生じるかを考察することになる。[605]
いよいよ、本格的に、資本の「蓄積」が、考察対象となる。
私たちの一般的な語感からは、「蓄積」というと、「たくわえためること」という意味合いを、まず受け取る。しかし、ここでは、経済学的な用語として使用されている。『広辞苑』によれば、
ちく - せき【蓄積】(1)たくわえためること。たくわえてたまったもの。(2)資本家が利潤(剰余価値)の一部分のみを個人的消費につかい、残余を資本に転化して拡大再生産をはかること。資本の蓄積は集積と集中との二つの形態をとる。「本源的――」
とあり、(2)でしめされている意味で使用されているのが、この篇での「蓄積」だ(「残余を」という言い方が適切かどうかは別にして)。だから、第22章の見出しはそのまま「資本の拡大再生産」(=「資本の蓄積」)と同義語だ。このことは、第7篇の「序章」ともいうべき叙述部分で、定義されていた。第21章では、資本の「単純再生産」さえも、それまでの再生産とは質的に異なる性格が現われることが、分析された。さらに、第22章のこの節では、とくに、「商品生産の所有法則」が、その法則を貫徹する過程で、なぜ「資本主義的取得法則」へと転換するのかが、考察される。
これまで、資本家によってそのすべてが消費されると仮定されていた剰余価値は、その一定部分が、「資本に転化される」。剰余価値は、一定の貨幣額として、資本家の手元に還流しているわけだが、
ある価値がもっている剰余価値としての性格は、それがどのようにしてその所有者の手にはいったかを示しはするが、価値や貨幣の本性を少しも変えるものではない。[605]
資本家が、彼の手元に、貨幣を還流させるためには、彼の所有する生産物を、市場にもち込まなければならない。紡績業者が、彼の所有する生産物をもち込む市場(流通過程)には、当然、ほかのすべての生産業者個々人の所有する生産物も、もち込まれる。
たとえば、年あたりの、すべての生産業者の所有する生産物の総量、年総生産物をみてみると、つぎのことがいえる。
これらの商品は、市場に来るまえにすでに年々の生産元本のうちに……、存在していたのである。市場における経過は年生産の個々の構成部分を売買させるだけで、それらを一方の手から他方の手に移しはしても、年総生産を大きくしたり、生産された物の本性を変えたりすることはできない。[606]
その社会が再生産を行なうためには、
年生産は、さしあたりまず、その年のうちに消費される資本の物的構成部分を補填すべきあらゆる物(使用価値)を提供しなければならない。[606]
この「補填」部分を差し引けば、剰余生産物が残る。拡大再生産を行なうためには、この一部分を資本に転化しなければならない。
しかし、奇跡でも行なわない限り、資本に転化できる物は、労働過程で使用されうる物すなわち生産手段と、ほかには労働者が自分の生活を維持しうる物すなわち生活手段だけである。……年々の剰余労働は、前貸資本の補填に必要な分量を超える追加的生産手段および追加的生活手段の製造に充てられていなければならない。……剰余価値が資本に転化できるのは、剰余生産物……がすでに新しい資本の物的諸構成部分を含んでいるからにほかならない。[606-7]
年々の総生産物がどのように使われるかは、総生産物自身の構成に依存するのであり、決して流通に依存するのではない。[606]
拡大再生産されるためには、新たな追加資本は、「他の事情がすべて同じままなら」、さきに投資されたのと同じ割合で、新たな生産手段と労働力に投資されることになる。剰余価値率がまえと変わらなければ、追加された可変資本(賃金への投資額)と同額の剰余価値が生み出されることになる。
この節でマルクスが想定している例で言えば、最初に投資される総額10000ポンド・スターリングのうち、可変資本として前貸しされる20%は、剰余価値率が100%と想定されているので、2000ポンド・スターリングの剰余価値を生み出す。新たに生み出された2000ポンド・スターリングが、同様の条件のもとで、さらに追加投資されれば、このうちの20%が労賃として前貸しされることになり、400ポンド・スターリングの剰余価値を生み出す。さらに、この400ポンド・スターリングが、追加資本として前貸しされれば、80ポンド・スターリングの新たな剰余価値を生み出す。
ここでは、資本家によって消費される剰余価値部分は度外視する。同様に、追加資本が最初の資本に加えられるのか、それとも別にされて独立に価値増殖を行なうのか――あるいはまた、追加資本を蓄積した同じ資本家がそれを利用するのか、それとも彼が他の資本家にそれを譲渡するのかということは、さしあたりわれわれの関心事ではない。ただ忘れてならないのは、新たに形成された諸資本とならんで、最初の資本が引き続き自分を再生産し、剰余価値を生産するということ、そして、同じことは蓄積されたどの資本についても、それによって生み出された追加資本との関連ではつねにあてはまるということである。[607-8]
最初に投資された10000ポンド・スターリングは、さしあたり、「彼自身の労働と彼の先祖の労働とに」よって、彼が取得していたもの、と規定することができるかもしれない。それにたいして、この投資によって生み出され、追加投資される、2000ポンド・スターリングは、「最初から、他人の不払労働に由来しない価値を一原子も含んでいない」。
労働者階級は、彼らの今年の剰余労働によって、次の年に追加労働を使用するであろう資本をつくり出した。これがすなわち、資本によって資本を生み出すということなのである。[608]
第一の追加資本2000ポンド・スターリングの蓄積の前提は、資本家が前貸しし、彼の「最初の労働」によって自分のものになっている1万ポンド・スターリングという価値額であった。これに反して、第二の追加資本400ポンド・スターリングの前提は、第一の追加資本2000ポンド・スターリングの蓄積が先に行なわれているということにほかならないのであって、第二の追加資本は第一の追加し本の剰余価値が資本化したのものである。いまや、過去の不払労働を所有することが、生きた不払労働を絶えず増大する規模で現在取得するための唯一の条件として現われる。[609]
最初の操作として現われた等価物どうしの交換は、一転して、外観的にのみ交換が行なわれるようになる。というのは、労働力と交換される資本部分そのものが、第一には、等価なしに取得された他人の労働生産物の一部分にすぎず、第二には、その生産者である労働者によって補填されなければならないだけでなく、新しい剰余をともなって補填されなければならないからである。したがって、資本家と労働者のあいだの交換関係は、流通過程に属する外観にすぎないものとなり、内容そのものとは無縁な、内容を神秘化するにすぎない単なる形式になる。[609]
所有は、いまや、資本家の側では他人の不払労働またはその生産物を取得する権利として現われ、労働者の側では自分自身の生産物を取得することの不可能性として現われる。所有と労働との分離は、外見上は両者の同一性から生じた一法則の必然的帰結となる。[610]
第1部の第4章および第5章で解明されたように、貨幣の資本への転化、生産過程の価値増殖過程への転化は、等価交換という、商品生産・商品流通の一般的法則から生じた。
資本主義的取得様式は、商品生産の本来の諸法則とどんなに矛盾するように見えるにしても、それは決してこれらの法則の侵害から生じるのではなく、むしろ反対にその適用から生じるのである。[610]
ところが、労働力という商品の等価交換を含んでいるがゆえに、資本主義的生産様式のもとでの取得様式は、生産と所有との関係に、根本的転換を生じる。労働力の購買者は資本家であり、それを消費させるのも資本家であるが、直接生産にたずさわり直接労働力を行使しているのは労働者である。生産手段と労働力の購買者であり、生産過程に投入するのが、資本家であるから、この生産過程で生産された商品の取得権は、資本家にある。直接の生産者である労働者は、彼らが生産した商品にたいして、一片の取得権ももっていない。
- 生産物は資本家のものであって、労働者のものではない。
- この生産物の価値は前貸資本の価値のほかに剰余価値を含むが、この剰余価値は労働者にとっては労働を費やさせたが資本家にとってはなにも費やさせなかったにもかかわらず、それは資本家の合法的所有物になる。
- 労働者は引き続き自分の労働力を保有し、買い手がみつかればまた新たにそれを売ることができる。
端初においては、生産物は生産者のものであり、生産者は等価物どうしを交換しながら、自分の労働だけで富を得ることができるのであり、資本主義時代においては、社会の富が、絶えず増大する程度において、他人の不払労働を絶えず新たに取得する立場にある人々の所有となるのである。
こうした結果は、労働力が労働者自身により商品として自由に売られるのと同時に、不可避となる。しかしまた、そのときからはじめて、商品生産は一般化されて典型的な生産形態となる。そのときからはじめて、各生産物も最初から販売のために生産され、生産された富はすべて流通を通過するようになる。商品生産は、賃労働がその基盤となるときはじめて、全社会に自分を押しつける。さらにまた、そのときはじめて、商品生産は隠されたすべての力能を現わす。賃労働の介入は商品生産を不純にするなどと語ることは、商品生産が不純にされたくなければ発展してはならないと語るに等しい。商品生産がそれ自身の内的諸法則に従って資本主義的生産に成長していくのと同じ程度で、商品生産の所有諸法則は資本主義的取得の諸法則に転換する。[613]