第1部:資本の生産過程
第4篇:相対的剰余価値の生産
この「協業」という概念については、原書ページ344のさいごにつぎのように述べてある。
同じ生産過程において、あるいは、異なっているが連関している生産諸過程において、肩をならべ一緒になって計画的に労働する多くの人々の労働の形態が、協業と呼ばれる。[344]
マルクスは、この協業形態をめぐる考察を順序をおってすすめていて、その形態の初期のあり様とその特徴、そこに含まれている、それまでの生産様式から資本主義的生産様式への発展の萌芽を、歴史的発展過程に重ね合わせて分析している。
より多数の労働者が、同時に、同じ場所で(同じ作業場でと言ってもよい)、同じ種類の商品を生産するために、同じ資本家の指揮のもとで働くということが、歴史的にも概念的にも資本主義的生産の出発点をなしている。[341]
マルクスは、第3篇第5章のなかで、労働過程が資本のもとに従属することと、そのことで労働過程において生産の仕方に変化がおこるまでの間には、一定の時間差があることを指摘し、つぎのように述べていた。
労働過程の一般的本性は、労働者が労働過程を自分自身のためではなく資本家のために行なうということによっては、もちろん変化しはしない。しかし、長靴をつくったり、糸を紡いだりする一定の仕方もまた、資本家の介入によっては、さしあたり、変化しえない。資本家は、さしあたり、市場で見いだすままの労働力を、したがってまた資本家がまだ一人もいなかった時代に発生したままのその労働を、受け入れなくてはならない。労働が資本のもとに従属することによって生じる生産様式そのものの転化は、もっとのちになってからはじめて生じうるのであり、それゆえもっとあとになってはじめて考察されるべきである。[199]
この章でも、はじめに指摘されている「資本主義的生産の出発点」にあらわれる協業形態について、つぎのように分析している。
生産方法そのものについて言うと、たとえば初期におけるマニュファクチュアは、同じ資本によって同時に就業させられる労働者の数がより多いこと以外には、同職組合的な手工業的工業と区別されるものはほとんどない。……したがって、区別はさしあたり単に量的である。すでに述べたように、ある与えられた資本が生産する剰余価値の総量は、個々の労働者が提供する剰余価値に、同じときに就業している労働者の総数を掛けたものに等しい。この労働者の数は、それ自体としては、剰余価値率または労働力の搾取度をなんら変えるものではない。[341]
それにもかかわらず、ある限界内では、変化が生じる。価値に対象化されている労働は、社会的平均的な質の労働であり、したがって、平均的労働力の発揮である。しかし、一つの平均的大きさは、つねに、同じ種類の多数の異なる個別的大きさの平均としてしか実存しない。どの産業部門においても、個々の労働者……は、多かれ少なかれ平均的労働者から背離している。この個別的な背離は数学では「誤差」と呼ばれるが、比較的多数の労働者が集められると、たちまち相殺され、消滅する。[342]
この、多数の労働力の集中によって生じる「誤差」の相殺が、やはり、人間労働の対象化という「価値の本性」によるものであることが、つぎに述べられている。
各人の1労働日をたとえば12時間であるとしよう。そうすると、同時に就業している労働者12人の労働日は、144時間の総労働日を形成する。そして、12人のそれぞれの労働は、社会的平均労働から多かれ少なかれ背離しているかもしれず、それゆえ一人一人をとってみると、同じ作業に必要な時間がいくらか多かったり少なかったりするかもしれない。にもかかわらず、各個人の労働日は、144時間の総労働日の12分の1として、社会的平均的な質をもつ。[342]
12人の労働者が、資本家の工場で同時に1労働日を働くのと、12人の労働者が2人ずつ、それぞれ同業組合の親方のもとで1労働日を働くのとでは、上記でのべている「誤差」の相殺――労働の平均化という点で、ちがいが生じるとマルクスは指摘している。
もし12人の労働者のうち2人ずつが一人の小親方によって就業させられるとすれば、個々の親方がいずれも同一の価値総量を生産するかどうか、それゆえまた一般的剰余価値率を実現するかどうかは、偶然的なこととなる。そこでは個別的な背離が生じるであろう。ある労働者……にとって個別的に必要な労働時間が、社会的に必要な労働時間または平均労働時間からいちじるしく背離しているとすれば、彼の労働は平均労働として通用せず、彼の労働力は平均的労働力として通用しないであろう。……それゆえ、6人の小親方のうち、ある者は一般的剰余価値率よりも多くのものを、他の者は一般的剰余価値率よりも少ないものを、しぼり出すであろう。これらの不等性は、社会にあっては相殺されるであろうが、個々の親方にあっては相殺されないであろう。[343]
つぎの指摘はたいへん重要だ。
したがって、個々の生産者が資本家として生産し、多くの労働者を同時に使用し、こうしてはじめから社会的平均労働を動かすようになるときに、はじめて価値増殖の法則が、一般に、個々の生産者にたいし、完全に実現されるのである。[343]
数人の労働者が個別に分散して労働する場合にくらべ、より多くの労働者が同じ場所で同時に労働する場合には、労働様式にまだ変化が起こらない段階でも、生産手段の使用形態にある変化が生じる。
多くの人々が働く建物、原料などのための倉庫、多くの人々に同時にまたは交互に役立つ容器、用具、装置など、要するに生産諸手段の一部分は、いまや労働過程で共同で消費される。[343]
この「生産手段の共同使用」は「生産手段の節約」をもたらすとマルクスは述べている。
たしかに、共同使用され、生産手段がより効率的に消費されるようになっても、そのこと自体は、それらの生産手段の交換価値を高めるものではない。と同時に、共同使用される生産手段は、個別分散型労働にくらべてその規模がより大きいものとなるのではあるが、
大規模に集中された共同の生産諸手段の価値は、一般に、それらの規模および有用効果に比例して増大するものではない。[344]
マルクスは具体例として、作業場の確保のためにかかる労働量をあげている。
20人の織布工が20台の織機で労働する部屋は、2人の職人を使う1人の独立した織布業者の部屋よりも、広くなければならない。しかし、20人用の仕事場を1つつくるほうが、2人ずつで使う仕事場を10つくるよりも、かかる労働は少ない。[343-4]
なぜこのような事情が生まれるのかということについて、マルクスは2つの点から分析している。
一つには、それらの生産諸手段が引き渡す総価値は、より多量の生産物に同時に配分されるからであり、また一つには、それらの生産諸手段は、個々別々に使用される生産諸手段に比べれば、確かに絶対的にはより大きな価値をもって生産過程にはいるのであるが、しかし、それらの作用範囲を考えれば、相対的にはより小さい価値をもって生産過程にはいるからである。[343-4]
マルクスがつぎに指摘しているように、この生産手段総価値の「多量同時配分」と「作用範囲の拡大による配分の相対的縮小」ということは、まさに、「多数の労働者の同時就業」による「生産手段の共同消費」からしか生じない。
そしてこれらの生産諸手段は、社会的労働の諸条件または労働の社会的諸条件としての性格において、個々別々の自立した労働者または小親方たちの分散した相対的に高価な生産諸手段とは区別される。多くの人々が同じ場所に集合して労働するだけで、協力して労働するのでない場合でも、上のような性格を受け取る。[344]
さて、生産手段の節約をめぐる考察の、ひとまとまりの段落のとりあえずのさいごの部分は、いまはよく理解できない。
生産諸手段の節約は、一般に、二重の観点から考察されなければならない。一方では、その節約が、諸商品を安くし、そのことによって労働力の価値を低下させる限りにおいて。他方では、その節約が、前貸総資本にたいする――すなわち総資本の不変的構成部分および可変的構成部分の価値総額にたいする――剰余価値の比重を変化させる限りにおいて。このあとのほうの点は、この著作の第三部の最初の部分においてはじめて論及されるのであり、これまでのことに関係のある幾多の論点も、関連上、そこに譲ることにする。分析の進行上、対象のこの分断が必要になるのであるが、それは同時に、資本主義的生産の精神に対応する。すなわち、資本主義的生産において、労働諸条件は労働者にたいして自立的に相対するのであるから、その労働諸条件の節約もまた、労働者にはなんのかかわりもない、それゆえ労働者個人の生産性を高める諸方法から切り離されている、特殊な操作として現れるのである。[344]
個々別々の労働者の力の機械的な合計は、多数の働き手が、分割されていない同じ作業で同時に働く場合……に展開される社会的力能とは、本質的に違っている。……ここで問題なのは、協業による個別的生産力の増大だけではなくて、それ自体として集団力であるべき生産力の創造である。[345]
このことは、本文中で指摘されているように、人間が社会的動物であるということから生じる特質である。たとえば、アリは社会的生物であるとよく言われるけれども、物質的外的刺戟による単純な行動も、それが多数の個体によって継続的集団的に行われると、いかに大きな仕事をなしとげることができるかは、アリの生態からよくたとえられることだ。しかし、なお、ここでは、人間の生産活動という、刺戟にたいする反射運動にとどまらない、外界にたいする意識的働きかけについて述べられている。個体の行為の積み重ねによる集団力とは質的にことなる、「独自な興奮と競争心」についての考察がそうである。
たいていの生産的諸労働の場合には、単なる社会的接触によって、生気……の独自な興奮と競争心とが生み出され、それらが個々人の個別的作業能力を高める[345]
集団力としての生産力について、さらに考察されているのが、つぎの点である。
各人の個別的労働が、総労働の一部分として、労働過程そのものの異なる諸局面を表わすこともありうる[346]
このことは、異なる種類の労働が複合的融合的に結合している労働過程ではなくとも生じうる。ここでマルクスが例にあげているのは、レンガ積み工の集団作業において、レンガを左から右へ(あるいは右から左へ)と運搬する作業の並列的連続によって、
たとえば労働者全体の24本の手は、足場を昇ったり降りたりする個々の労働者それぞれの2本の手よりも、早く煉瓦を運ぶ。労働対象は、同じ空間をより短い時間で通過する[346]
ということであり、また、作業の立体的結合によって集団の労働が遍在性をもつことによって、
144時間の結合された労働日は、多方面の空間から労働対象をとらえ、自分たちの仕事により一面的に取りかからなければならない多かれ少なかれ個々別々な労働者の12時間の12労働日よりも、より速く総生産物を仕上げる。生産物のさまざまな空間的諸部分が同じときにでき上がる[346]
という点である。
そして、まさに、マルクスがつぎに指摘している点は、「協業」という労働形態が、この第4篇で考察される「相対的剰余価値の生産」方法の具体例であり、歴史的に発展しつつある労働形態であることの指摘である。
われわれは、互いに補い合う多くの人々が、同じことまたは同種のことをするということを強調したが、それは、共同労働のこのもっとも単純な形態が、協業のもっとも発達した姿態においても大きな役割を果たすからである。労働過程が複雑であれば、一緒に労働する人々が多数であるというだけで、さまざまな作業を異なった人手のあいだに配分することができ、それゆえ諸作業を同時に行ない、これで総生産物の生産に必要な労働時間を短縮することができる。[346-7]
たしかに、身近な例でも、水稲農業労働においては、田植えの季節、稲刈りの季節など
決定的な瞬間、すなわち労働過程そのものの本性によって規定された時期[347]
の労働の集中は、それができるだけ一度に、大量に、短期間に行なわれることがのぞましい。
個々人が1日から切り取ることのできるのは、たとえば12時間からなる1労働日にすぎないのであるが、たとえば100人の協業は、12時間の1日を1200時間の1労働日に拡大する。労働期間の短さが、決定的な瞬間において生産場面に投入される労働総量の大きさによって埋め合わされる。この場合、効果が適時のものとなるかどうかは、多くの結合労働日が同時に使用されるかどうかにかかっており、その有用効果の大きさは労働者総数にかかっている――とはいえこの労働者総数は、同じ期間に同じ作業範囲を個々別々にやりとげる労働者の総数よりも、つねに小さい。[347]
このように限定された作業期間をもっている労働というのは、自然環境などに制約されている農業や漁業、林業などの第一次産業に多いと思われる。
一方で、協業は、労働の空間的部面の拡大を可能にする。それゆえ、ある種の労働過程にとっては、労働対象の空間的連関からいって、すでに協業が必要とされる――たとえば、土地の干拓、築堤、灌漑、運河・道路・鉄道の建設などの場合がそうである。他方、協業は、生産の規模に比べて、生産の場を空間的に縮小することができる。このように、労働の作用部面を拡大しながら同時に労働の空間部面を縮小することによって多額の空費が節約されるのであるが、この縮小は、労働者の結集、さまざまな労働過程の集結、および生産諸手段の集中から生じる。[348]
共同労働がもたらす効用のうち、「作用範囲の拡大」については、かなり古くから知られていたのであろう。ここで例示されている、「土地の干拓、築堤、灌漑、運河・道路……の建設」における共同労働の痕跡は、数千年前の文明社会にさかのぼることができる。
結合労働日は、それと同じ大きさの、個々別々の個別的労働日の総和と比較すると、より大量の使用価値を生産し、それゆえ一定の有用効果を生産するのに必要な労働時間を減少させる。……結合労働日の独特な生産力は、労働の社会的生産力または社会的労働の生産力である。それは、協業そのものから生じる。労働者は、他の労働者たちとの計画的協力のなかで、彼の個人的諸制限を脱して、彼の類的能力を発展させる。[348-9]
第一に、労働力の購入に支出する資本の大きさに依存する。
同じ資本、同じ資本家が賃労働者たちを同時に使用することができなければ、すなわち彼らの労働力を同時に買うことができなければ、賃労働者たちは協業することができない。それゆえ、これらの労働力そのものが生産過程において統合される以前に、これらの労働力の総価値、すなわち労働者たちの1日分、1週間分などの賃銀総額が、資本家のポケットのなかに統合されていなければならない。[349]
第二に、労働手段や労働対象などの生産手段の購入に支出する資本の大きさに依存する。
共同で使用される労働諸手段の価値の大きさと素材総量とは、確かに、雇用される労働者総数と同じ程度には増加しないが、しかしいちじるしく増加する。したがって、かなり多量の生産手段が個々の資本家の手に集中することは、賃労働者たちの協業の物質的条件であり、協業の範囲または生産の規模は、この集中の範囲に依存する。[349]
労働にたいする資本の指揮は、はじめは労働者が自分のためにではなく、資本家のために、それゆえ資本家のもとで労働することの形式的結果として現われたにすぎなかった。〔しかし〕多数の賃労働者の協業とともに、資本の指揮は、労働過程そのものを遂行するための必要事項に、現実的生産条件に、発展する。生産場面における資本家の命令は、いまや、戦場における将軍の命令と同じように不可欠なものとなる。
比較的大規模の直接に社会的または共同的な労働は、すべて多かれ少なかれ一つの指揮を必要とするのであるが、この指揮は、個別的諸活動の調和をもたらし、生産体総体の運動――その自立した諸器官の運動とは違う――から生じる一般的諸機能を遂行する。……指揮、監督、および調整というこの機能は、資本に従属する労働が協業的なものになるやいなや、資本の機能となる。[350]
協業という共同労働において労働過程がおのずから社会的性格をもち、それゆえに生産に直接たずさわる者とは別に、労働過程全体を指揮、監督、調整する機能を担当する者がもとめられるのは、その本性上の必然であった。資本のもとに統合された労働過程の指揮機能が、資本に帰属するのは、その労働過程そのものの社会的性格からいって必然であった。
一方で、資本のもとに統合される労働過程において、その生産過程を推進する動機、目的は、できるだけ大きな剰余価値を生みだすことである。したがって、指揮する資本と、指揮され、直接生産にたずさわる労働者たちとのあいだに敵対関係が生じる。この敵対関係の内容については、第8章労働日の章で詳細に考察された。
資本主義的生産過程を推進する動機とそれを規定する目的とは、できるだけ大きな資本の自己増殖、すなわちできるだけ大きな剰余価値の生産、したがって資本家による労働力のできるだけ大きな搾取である。同時に就業している労働者の総数が増えるとともに、彼らの抵抗が増大し、それとともに、この抵抗を抑えつけるための資本の圧力が必然的に増大する。資本家の指揮は、社会的労働過程の本性から発生し、この過程につきものの一つの特殊な機能であるだけではなく、同時に、社会的労働過程の搾取の機能であり、それゆえ搾取者とその搾取原料〔労働者〕とのあいだの不可避的敵対によって条件づけられている。[350]
他人の所有物として賃労働者に対立する生産諸手段の範囲が増大するとともに、生産諸手段の適切な使用を管理する必要も増大する。[350]
この「生産手段の管理」をめぐっては、注(21)で「資本家と労働者たちとの一種の組合制度〔共同で業務を執行する制度〕」について言及されていることから、マルクスがけっして資本のもとにおける「生産手段の管理の必要性」のみに言及しているわけではないことがわかる。一般的にも、協業形態は、「生産手段の管理の必要性の増大」という傾向をもつということだ。ここでは直接生産にたずさわる労働者が生産手段の管理や運営に関与している。
一方、この節での考察対象は資本が所有権をもつ生産手段の「対立と管理の必要性」、とくに生産手段と生産者との「対立」である。その場合にもっぱら現われてくる特性が以下に考察されている。
賃労働者たちの協業は、資本が彼らを同時に使用することの単なる結果である。賃労働者たちの諸機能の連関と生産体総体としての彼らの統一とは、彼らのそとに、彼らを集め結びつけている資本のなかに、ある。それゆえ、彼らの労働の連関は、観念的には資本家の計画として、実際的には資本家の権威として、彼らの行為を自己の目的に従わせる他人の意志の力として、彼らに対立する。
それゆえ、資本家の指揮は、内容から見れば二面的である――それは、指揮される生産過程そのものが、一面では生産物の生産のための社会的労働過程であり、他面では資本の価値増殖過程であるという二面性をそなえているためである――とすれば、形式から見れば専制的である。[351]
協業がいっそう大規模に発展するにつれて、この専制は、それ独自な諸形態を発展させる。資本家は、彼の資本が本来の資本主義的生産をはじめて開始するための最小限の大きさに達したときに、さしあたり、手の労働から解放されるのであるが、いまや彼は、個々の労働者および労働者群そのものを直接にかつ間断なく監督する機能を、ふたたび特殊な種類の賃労働者に譲り渡す。軍隊と同様に、同じ資本の指揮のもとでともに働く労働者大衆は、労働過程のあいだに資本の名において指揮する産業将校(支配人、マネージャー)および産業下士官(職長、“監督”)を必要とする。監督の労働が、彼ら専有の機能に固定される。
マルクスはこの段落のさいごで、資本のもとにある協業において労働過程の指揮系統のもつ性格の二面性を再度強調している。それは古典派経済学が、指揮系統の専制的性格のみに目を奪われているために、そもそも社会的労働過程の本性上、指揮系統の発展が必然であり、資本主義的生産過程の成立のうえで、協業という労働形態が資本のもとに形成されることが必然であり、だからこそ、個々の資本家が、労働過程の指揮系統を掌握し管理する社会的位置にあることを分析できずにいたからであった。
資本主義的生産様式を考察するにあたっては、経済学者は、共同の労働過程の本性から生じる限りでの指揮の機能を、この過程の資本主義的な、それゆえ敵対的な性格によって条件づけられる限りでの指揮の機能と、同一視する。資本家は、彼が産業上の指揮官であるがゆえに資本家であるのではなく、彼が資本家であるがゆえに産業上の指揮官になるのである。[352]
資本家は、100個の自立した労働力の価値を支払うが、100個という結合労働力に支払うわけではない。独立の人間としては、労働者たちは個々別々の人間であり、それら個々別々の人間は、同じ資本と関係を結ぶのであるが、お互いどうしで関係を結ぶのではない。彼らの協業は労働過程ではじめて始まるが、労働過程では、彼らはすでに自分自身のものであることをやめてしまっている。労働過程にはいるとともに、彼らは資本に合体される。……労働者が社会的労働者として展開する生産力は、資本の生産力である。労働の社会的生産力は、労働者たちが一定の諸条件のもとにおかれるやいなや無償で展開されるのであり、そして資本は、労働者たちをこのような諸条件のもとにおくのである。労働の社会的生産力は資本にとってなんの費用も要しないのであるから、また他方、労働者の労働そのものが資本のものとなる以前には労働者によっては展開されないのであるから、この労働の社会的生産力は、資本が生まれながらにしてもっている生産力として、資本の内在的な生産力として、現われる。[354-5]
共同労働という意味での協業は、資本主義に特有のものではないし、むしろ人類社会の初期、氏族共同体においては、その社会の労働形態として支配的なものであった。しかし、氏族社会における協業は
一方では、生産諸条件の共同所有にもとづいており、他方では、……各個人が部族または共同体の臍帯から切り離されていないことにもとづいている。[354]
また、
古代世界、中世、および近代的植民地で大規模な協業があちこちに散在して行なわれているが、これらは、直接的な支配隷属関係に、多くの場合は奴隷制に、もとづいている。[354]
つまり、資本主義のもとに行なわれる協業と、氏族社会における協業や、「古代世界、中世、および近代的植民地」において行なわれる協業とを区別する、もっとも本質的なことは、
〔協業の〕資本主義的形態は、最初から、自分の労働力を資本に売る自由な賃労働者を前提している[354]
ということである。
歴史的には、この形態は、農民経営に対立して、また独立手工業経営――それが同職組合的形態をもつかどうかにかかわりなく――に対立して、発展する。これらと向かい合って、資本主義的協業が協業の一つの特殊な歴史的形態として現われるのではなく、協業そのものが、資本主義的生産過程に固有な、かつこの過程を独特なものとして区別する歴史的形態として現われる。[354]
労働力と生産手段の集中、そして同じ場所で同じ時間に同じ労働を行なうということ。このことは、資本そのものの発生とともに生じ、発展する。そして、協業によって展開される労働の社会的生産力という、巨大な“たまもの”が資本の生産力として現われる。ここでマルクスは、資本主義的生産様式の人類史的意義をつぎのように指摘している。
一方では、資本主義的生産様式が、労働過程を社会的過程へと転化させる歴史的必然性として現われるとすれば、他方では、労働過程のこの社会的形態は、資本が労働過程の生産力を増大させ、それによってこの過程をより有利に利用するために使う一方法として現われる。
資本主義的協業は、全体としてその形態を発展させるとともに、その単純な形態、中間的形態などが、資本主義的生産が支配的社会のなかでも、社会内分業に応じて、それぞれの労働過程に応じて、共存しうる。これ以降の章で、協業のさまざまな形態についての詳細な考察が行なわれる。