第1部:資本の生産過程

第3篇:絶対的剰余価値の生産

第5章
労働過程と価値増殖過程

第2節
価値増殖過程



資本家にとっての生産物は、それが売り物になるかどうかが問題である。市場において、彼が所有する商品が売り物として通用する品質をそなえているかどうかということは、資本家にとって大問題であるけれども、それはあくまで、売れるかどうか、購買者の目にとまるかどうかを心配しているからであって、その商品が社会に役立つかどうかということは、彼にとってはむしろどうでもいいことなのである。

そして、なにより、資本家が期待し、そのために彼の大事な貨幣を投資したのは、その投資によって彼のもとで生産された商品を販売することで、彼が投資した貨幣の価値量よりも、大きな価値量の貨幣を手に入れるためである。

この場合、使用価値は、一般に、それらがただ交換価値の物質的基体、その担い手であるがゆえに、またその限りでのみ、生産されるのである。そしてわが資本家には二つのことが問題である。第一に、彼は、交換価値をもつ使用価値、販売予定の物品、商品を、生産しようとする。そして第二に、かれは、その生産のために必要な諸商品の価値総額よりも、すなわち彼が商品市場において彼の貴重な貨幣を前貸しして得た生産諸手段と労働力との価値総額よりも、大きい価値をもつ商品を生産しようとする。彼は、使用価値だけでなく商品を、使用価値だけでなく価値を、しかも価値だけでなく剰余価値をも、生産しようとする[201]

私たちが第1節で見てきた一般的労働過程から、こんどは新たな価値を生み出す独特の労働過程に踏み込んで考察がはじまるわけだが、はじめにマルクスは、この考察の前提を次のように提起している。

ここでは商品生産が問題なのであるから、事実上、われわれはこれまでのところ明らかに過程の一側面を考察したにすぎない。商品そのものが使用価値と価値との統一であるのと同様に、商品の生産過程は労働過程と価値形成過程との統一でなければならない……こんどはわれわれは、生産過程を価値形成過程として考察することにしよう[201]

ここからマルクスが例示しているさまざまな原料や貨幣の単位は、われわれにはなじみのないもので、少々わかりにくいものだが、私も数字に強いほうではないので、単位を私たちになじみのものに換算するときにまちがって、よけいに混乱しないとも限らないので、そのまま、マルクスの例示をもとに、考察をつづけようと思う。

商品の価値は、その生産のために社会的に必要な労働時間によって規定される。このことは、資本家のもとで生産される商品についても、もちろん適用される。

わが資本家が生産する商品は「糸」である。「糸」を生産するために必要な生産手段――労働対象と労働手段はそれぞれ、「綿花」と「紡錘(とその他)」である。わが資本家は市場で、10ポンドの綿花を10シリングで購入した。また、10ポンドの綿花を加工するのに消耗され、摩滅した労働諸手段――紡錘その他は、2シリングに相当した。

いま、40ポンドの糸を生産するために、40ポンドの綿花とまるまる1錘分の紡錘(とその他)が必要であれば、

40ポンドの糸の価値=40ポンドの綿花の価値+まる1錘分の紡錘の価値[202]

となる。なお、マルクスは、綿花を糸に加工するのに必要なさまざまな労働手段の代表として紡錘をあげており、使用されたほかのすべての労働手段の価値も「紡錘の価値」に含まれるものとする。これ以降の例示もこれにならう。

この等式の両辺を生産するために同じ労働時間が必要であるとすれば、一般的価値法則に従って、たとえば10ポンドの糸は10ポンドの綿花および1/4錘の紡錘との等価物である……綿花の生産に必要な労働時間は、綿花を原料としている糸の生産に必要な労働時間の一部分であり、それゆえに糸のうちに含まれている。紡錘量の生産に必要な労働時間についても、事情は同じである。この紡錘量の摩滅または消費なしには綿花は紡がれえないからである[202]

マルクスは、「綿花という原料と、紡錘に代表される労働手段の価値――生産手段の価値が、生産物である糸の価値の“構成部分”である」ということをめぐって厳密な考察を行なっている。

綿花が栽培され畑から摘み取られたときと、それが原料として糸の生産過程に入ったときとの時間的空間的な差、あるいは、紡錘や綿花加工に必要な工場その他の労働手段が製造され設置されたときと、それが、実際に綿花の加工過程に入ったときとの時間的空間的な差は、糸の生産に必要な労働時間、糸の価値を考察する限りにおいては、まったく影響をおよぼさない。

むしろ、満たされなければならない条件は

第一に、綿花と紡錘とは現実に、ある使用価値の生産に役立っていなければならない……価値にとっては、どのような使用価値が価値を担うかはどうでもよいが、しかしどうしてもなんらかの使用価値が価値を担っていなければならない。第二に、与えられた社会的生産諸条件のもとで必要な労働時間だけが費やされたということが前提となる……もし資本家が気まぐれに、鉄の紡錘の代わりに金の紡錘を用いるとしても、糸価値においては、社会的に必要な労働時間だけが、すなわち鉄の紡錘の生産に必要な労働時間だけが計算にはいる[203]

さて、10ポンドの糸の価値のうち、10ポンドの綿花とそれを綿花に加工するのに消費された労働諸手段とが形成している生産諸手段の価値部分は、10シリング+2シリングで、12シリングという価格で表わされる。なお、ここでは、12シリングの金の生産に24時間の労働量が社会的平均時間として必要とされる。生産手段でもって10ポンドの糸を生産するのは、紡績工である。だから、こんどは、10ポンドの糸の価値のうち、この紡績工の労働の表わす価値部分が考察対象となる。

ここで、私たちは、改めて第1章の第2節で考察された「商品に表わされる労働の二重性」を思い出してみよう。すなわち、使用価値に表れる「具体的有用的労働」と価値に表れる「抽象的人間的労働」とを。

労働過程中においては、綿花を糸に転化させるという目的にそった活動が問題であった。他のすべての事情が変わらないものと前提すれば、労働が目的にそったものであればあるほど、それだけ糸の出来はよい。紡績工の労働は、他の生産的諸労働とは独特に相違するものであった。そして、この相違は、紡績の特殊な目的、その特殊な作業様式、その生産諸手段の特殊な本性、その生産物の特殊な使用価値において、主体的にも客体的にも現われていた。綿花と紡錘とは紡績労働の必需手段として役立ちはするが、それらをもって腔綫砲をつくることはできない。これとは反対に、紡績工の労働が価値形成的すなわち価値源泉である限りでは、それは鑽開工の労働、または――ここでわれわれの身近にある例では――糸の生産諸手段に実現されている綿花栽培者および紡錘製造工の労働とまったく相違しない。ただこの同一性によってのみ、綿花栽培、紡錘製造、および紡績は、糸価値という同じ総価値の、単に量的にのみ相違する諸部分を形成しうるのである。ここでは、もはや、労働の質、性状、および内容が問題ではなく、いまやその量が問題となるだけである。これはただ単に計算されればよい[203-4]

ここでマルクスは、第1章第2節で考察した「商品における労働の二重性」について、より具体的な例示でもって示している。私たちが考察対象としている生産過程、労働過程においては、糸を紡ぐ労働、紡績工の労働力の支出は、その具体的有用的労働としての「紡績」という労働の質においてではなく、労働力を支出する継続時間量という限りにおいてのみ意義をもっている。

いまや、決定的に重要なのは、この過程の継続中に、すなわち綿花の糸への転化の継続中に、社会的に必要な労働時間だけが消費されるということである[204]

ここまでくれば、私たちは、事の本質の一端を垣間みていることを自覚する。資本家のもとでの労働過程、言い換えれば、「売るために生産される生産物」について考察してゆけば、とどのつまり、そこで問題になるのは、その生産物が「いくらで売れるか」ということだけであって、そこでは、使用価値ではなく、価値に現われる一般的人間的労働の一定量を量りうる基準のみがすべてである。それは、時間である。労働力が消費された継続時間量、その労働の対象となるすでに購入されている原料商品に対象化されている労働時間、その原料商品を加工するのに必要なさまざまな労働諸手段に対象化されている労働時間。だから、それらの労働が、質的な相違をもっているとしても、社会的にそれらの質の異なるさまざまな労働力の支出を量る唯一の基準は、その社会において、その商品を生産するに必要な平均的労働時間のみである。

労働力の販売のところでは、労働力の日価値は3シリングであり、この3シリングには6労働時間が体化されており、したがってそれだけの労働分量が労働者の日々の生活諸手段の平均額を生産するために必要であると想定された……わが精紡工が……6時間では10ポンドの綿花を10ポンドの糸に転化する……紡績過程の継続中に綿花は6労働時間を吸収する。この労働時間は3シリングの金分量に表わされる。したがって、綿花は紡績そのものによって3シリングの価値をつけ加えられる[205]

10ポンドの糸の総価値を調べてみよう。綿花と紡錘量とに含まれる労働時間が24時間、紡績工の労働過程の継続時間は6時間、したがって10ポンドの糸に対象化されている労働時間の総計は30時間である。同じ労働時間は15シリングの金量で表わされるから10ポンドの糸の価値に相当する価格は15シリングとなる。

かりに、わが資本家が、10ポンドの綿花とその紡錘に必要な労働諸手段のみに投資し、また、かりに、契約をむすんだ紡績工に6時間だけ働いてもらったとすれば、わが資本家の手にある生産物「糸」の総価値は、投資された貨幣の価値(10ポンドの綿花に10シリング、その紡錘に必要な労働諸手段に2シリング、紡績工を雇用するのに日当3シリング、合わせて15シリング)と等価であって、これを販売しても、これでは、剰余価値は生じないし、投資された貨幣は、けっきょく「資本」には転化しない。

しかし、心配するには及ばないのである。そもそも、わが資本家は、もうけようと思って、生産手段と労働者の雇用とに、大事な貨幣を投資しているのである。わが資本家が雇用した紡績工の労働力の消費についての全権が、資本家の手にあるのであって、なにも6時間だけで満足しなくてもよいのであって、ここではわが資本家は彼が雇用した紡績工に12時間、労働力を支出してもらう権利を有するから、そうする。資本家のあとについていった労働者をまっているものは、10ポンドの綿花とそれを10ポンドの糸に加工するに足るだけの労働手段ではなく、12時間の労働過程にふさわしい量の生産手段である。すなわち、20ポンドの綿花と、それを20ポンドの糸に加工するに足るだけの労働手段である。

労働力の日々の維持費と労働力の日々の支出とは、二つのまったく異なる大きさである。前者は労働力の交換価値を規定し、後者は労働力の使用価値を形成する……労働力の価値と、労働過程における労働力の価値増殖とは、二つの異なる大きさである……労働力の有用的属性は、価値を形成するには労働が有用的形態で支出されなければならないという理由からいって一つの“不可欠な条件”であったにすぎない。しかし、決定的なものは、価値の源泉であり、しかもそれ自身がもっているよりも多くの価値の源泉であるという、この商品の独特な使用価値であった。これこそは、資本家がこの商品から期待する独特な役立ち方なのである。そして、その場合、彼は商品交換の永遠の諸法則に従って行動する。事実、労働力の売り手は、他のどの商品の売り手とも同様に、それの交換価値を実現してそれの使用価値を譲渡する。彼は、後者を手放すことなしには、前者を受け取ることはできない。労働力の使用価値すなわち労働そのものがその売り手に属さないのは、売られた油の使用価値が油商人に属さないのとまったく同様である……それゆえ、労働力の一日のあいだの使用が創造する価値がそれ自身の日価値の二倍の大きさであるという事情は、買い手にとっての特殊な幸運ではあるが、決して売り手にたいする不当行為ではないのである[207-8]

こんどは、20ポンドの糸の総価値を調べてみよう。綿花と紡錘量とに含まれる労働時間は、こんどは、10ポンドの綿花とその紡錘量とに含まれる労働時間の2倍になるから48時間、紡績工の労働過程の継続時間は12時間、したがって20ポンドの糸に対象化されている労働時間の総計は60時間である。同じ労働時間は30シリングの金量で表わされるから20ポンドの糸の価値に相当する価格は30シリングである。

10ポンドの糸を生産するために、わが資本家が投資した総額は15シリングであった。20ポンドの糸を生産するために、わが資本家が投資したのはいくらだったろうか。まず、20ポンドの綿花とそれをすべて糸に加工するに足る労働手段が購入される。これらの生産手段の価値に相当する価格は、20シリング+4シリング=24シリングであって、10ポンドの糸の生産のために必要な生産手段の2倍の価格である。しかし、紡績工の雇用にかかる経費、人件費は、紡績工の労働力の日価値が変わらなければ、10ポンドの糸の生産過程のときと同様の価格で購入できるから、3シリングである。したがって、わが資本家が、20ポンドの糸の生産のために投資した貨幣の総額は24シリング+3シリング=27シリング。わが資本家は、27シリングを投資して、30シリングの価値をもつ生産物を手に入れた。もちろん、これは販売され、彼は30シリングの貨幣を27シリングを出したのと同じポケットに還流するのである。3シリングの剰余価値が生じたわけである。

手品はついに成功した。貨幣は資本に転化した。

問題のすべての条件が解決されており、商品交換の法則は少しもそこなわれてはいない。等価物どうしが交換された。資本家は買い手として、それぞれの商品、すなわち綿花、紡錘量、労働力にその価値どおりに支払った。それから、彼は、商品の他の買い手がだれでも行なうことを、行なった。彼はそれらの商品の使用価値を消費したのである。労働力の消費過程は、同時に商品の生産過程であって、30シリングの価値をもつ20ポンドの糸という生産物を生み出した。資本家は市場に立ちもどってきて、まえには商品を買ったのであるが、こんどは商品を売る。彼は1ポンドの糸をその価値よりびた一文も高くも低くもない1シリング6ペンスで売る。それでも、彼は、彼がはじめに流通に投げ入れたよりも、3シリングだけ多くを流通から引き出す。この全経過すなわち彼の貨幣の資本への転化は、流通部面において行なわれるのであり、しかも流通部面において行なわれるのではない。流通の媒介によって行なわれる。なぜなら、商品市場における労働力の購買によって条件づけられているからである。流通において行なわれるのではない。なぜなら、流通は生産部面において起こる価値増殖過程を準備するだけだからである[209]

わが資本家が追い求めるものは、「交換価値」であって「使用価値」ではない。彼が生産する商品は、彼にとっては、その社会の必要段階に応じて販売に値するかどうかということのみが、大切なのである。しかし、この資本家の行動そのものは、彼が自覚するかしないかにかかわらず、その社会にとって積極的な意義を持ち合わせている、と同時に、その社会の生産様式の枠組みそのものの崩壊要因ですらある、という矛盾を、ここで、マルクスは、簡潔に述べている。その詳細な考察は、のちの章で行なわれることになるはずだ。

資本家は、新たな一生産物の素材形成者として、または労働過程の諸要因として、役立つ諸商品に貨幣を転化することによって、すなわち諸商品の死んだ対象性に生きた労働力を合体することによって、価値を、対象化された過去の死んだ労働を、資本に、自己を増殖する価値に、恋にもだえる身のように「働き」始める、命を吹き込まれた怪物に、転化させる[209]

さて、わが資本家は、27シリングに3シリングの「もうけ」を加えた30シリングを前に、ただホクホクとよろこんでいるだけではない。このまま30シリングを流通から引き上げてしまえば、四苦八苦して、土地を買い(あるいは借用し)、工場を建設し、機械を購入したあげくに、たったの3シリングしかもうからないことになる。こんな馬鹿げたことは、わが資本家は考えていない。“苦労”の代償を受けとるために、わが資本家はただちに再投資にかかる。

価値形成過程と価値増殖過程とを比較してみると、価値増殖過程はある一定の点を超えて延長された価値形成過程にほかならない。もし後者が、資本によって支払われた労働力の価値が新たな等価物によって補填される点まで継続されるだけなら、それは単純な価値形成過程である。もしも価値形成過程がこの点を超えて継続されるならば、それは価値増殖過程となる[209]

上記のように書いたあとで、よく読み返してみると、「価値形成過程から価値増殖過程への転化」を叙述したこの部分の理解が不正確だったことに気がついた。この引用部分でマルクスが述べようとしていたのは、「投資の継続」ではなかった。

上記の引用部分のなかで、「資本によって支払われた労働力の価値が新たな等価物によって補填される点まで継続されるだけ」の場合というのは、マルクスのこれまでの例示で言えば、糸の生産が10ポンドだけである場合であって、剰余価値が生じるためには、それ以上の生産過程が継続されなければならない。すなわち、10ポンドをこえる糸の生産過程の継続が、価値形成過程から価値増殖過程への転化となる。

「使用価値」を目的とする生産過程と、「交換価値」を目的とする生産過程との区別を、マルクスは次のように簡潔に表現する。

労働過程と価値形成過程との統一としては、生産過程は商品の生産過程である。労働過程と価値増殖過程との統一としては、それは資本主義的生産過程、商品生産の資本主義的形態である[211]

商品生産そのものは、かなり太古の昔から人類社会において営まれてきた。しかし、それが、「交換価値」を目的とする商品生産、すなわち「資本主義的生産過程」、商品生産の資本主義的形態にいたるには、それ相応の歴史的発展と社会的世界的情勢の発展が不可欠であった。

ここでは、マルクスは、その転換点のポイントを叙述している。それは、社会的平均労働時間が自覚され、認識されるにいたる段階、ということをめぐる叙述である。たとえば、単純労働と複雑労働とについて。あるいは、その労働時間の分割の仕方について。

資本家にとって取得される労働が単純な社会的平均労働であるか、それとも、より複雑な労働、より高い特殊な比重をもつ労働であるかは、価値増殖過程にとってはまったくどうでもよいことである。社会的平均労働に比べてより高度な、より複雑な労働として意義をもつ労働は、単純な労働力と比べて、より高い養成費がかかり、その生産により多くの労働時間を要し、それゆえより高い価値をもつ労働力の発揮である。もし労働力の価値がより高いならば、それゆえにこそこの労働力はより高度な労働においてみずからを発揮し、それゆえに同じ時間内で比較的高い価値に対象化される。とはいえ、紡績労働と宝石細工労働とのあいだの等級上の区別がどうであろうとも、宝石細工労働者が彼自身の労働力の価値を補填するにすぎない労働部分は、彼が剰余価値を創造する追加的労働部分と質的には決して区別されない。前者の場合も後者の場合も、剰余価値は、労働の量的な超過によってのみ、同じ労働過程の、すなわち一方の場合には糸生産の過程の、他方の場合には宝石生産の過程の、時間的延長によってのみ生じてくるのである。

他方では、どの価値形成過程においても、より高度な労働は、つねに、社会的平均労働に還元されなければならない。たとえば、一日のより高度な労働はx日の単純労働に還元されなければならない。したがって、資本によって使用される労働者は単純な社会的平均労働を行なうと仮定することによって、余計な操作がはぶかれ、分析が簡単化される[211-3]

上記のノートについても、かなり「大言壮語」的なことを言っていたものだと反省している。もちろん価値形成過程や価値増殖過程において、労働の継続量、すなわち、その「時間」がもつ意義が語られているにはちがいないが、むしろここでは、価値増殖過程への「転換点」について、というよりも、やはり、第1章第2節のなかでマルクスがのべていた、「単純な労働力の支出」一般として人間的労働が認識されることについて、これまでの考察をふまえて、より厳密に叙述している箇所だと思う。マルクスは、当該箇所で、つぎのようにのべていた。

確かに、人間的労働力そのものは、それがあれこれの形態で支出されるためには、多少とも発達していなければならない。しかし、商品の価値は、人間的労働自体を、人間的労働一般の支出を、表わしている。ところで、ブルジョア社会では、将軍なり銀行家なりは大きな役割を演じ、これにたいして人間自体はごくみすぼらしい役割を演じているが、この場合の人間的労働もそのとおりである。それは、平均的に、普通の人間ならだれでも、特殊な発達なしに、その肉体のうちにもっている単純な労働力の支出である。確かに、単純な平均労働そのものは、国を異にし文化史上の時代を異にすれば、その性格を変えるが、現に存在する一つの社会では、与えられている。より複雑な労働は、単純労働の何乗かされたもの、またはむしろ何倍かされたものとしてのみ通用し、そのために、より小さい分量の複雑労働がより大きい分量の単純労働に等しいことになる。この還元が絶えず行なわれていることは、経験が示している。ある商品はもっとも複雑な労働の生産物であるかもしれないが、その価値は、その商品を単純労働の生産物に等置するのであり、したがって、それ自身、一定分量の単純労働を表わすにすぎない[59]



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