第1部:資本の生産過程

第3篇:絶対的剰余価値の生産

第5章
労働過程と価値増殖過程

第1節
労働過程



たしかに

労働力の消費過程は、同時に、商品の生産過程であり剰余価値の生産過程である[189]

が、より一般的にいえば、

労働力の使用は労働そのものである[192]

自分の労働を商品に表わすためには、彼はなによりもまず、その労働を使用価値に、なんらかの種類の欲求の充足に役立つ物に表わさなくてはならない。したがって、資本家が労働者につくらせるものは、ある特殊な使用価値、ある特定の商品である[192]

ある財貨の生産そのものの過程は、それが資本家のためであろうとなかろうと、その一般的本質――労働力の消費を、なんらかの種類の欲求を満たす物に表わすという性質――が変わることはない。マルクスは、まず、このことを確認し、労働過程そのものの一般的考察からはじめている。

労働過程は、さしあたり、どのような特定の社会的形態にもかかわりなく考察されなければならない[192]

「人間の一実存条件」としての労働と「苦役」としての労働

第1篇第1章第2節のなかで、マルクスはつぎのようにのべていた。

労働は、使用価値の形成者としては、有用的労働としては、あらゆる社会形態から独立した、人間の一実存条件であり、人間と自然との物質代謝を、それゆえ人間的生活を、媒介する永遠の自然必然性である[57]

労働とは“苦役”である前に、「人間の一実存条件」なのだと。その内容が、第5章のこの節では、より厳密に考察される。

労働は、まず第一に、人間と自然とのあいだの一過程、すなわち人間が自然とのその物質代謝を彼自身の行為によって媒介し、規制し、管理する一過程である[192]

この叙述部分を読むときまずはじめに頭に思い浮かぶのは、遠い昔、ヒトがようやくサル目の系統のなかで、独自の属種として歩みだしたころのことだが、考えてみれば、いまも、人間は、自然のなかから生まれでた存在として、この天体上の環境に規制されたある一定の自然力として、自然素材に相対しているのであった。

このなかで、マルクスはたいへん印象的な考察をしている。

人間は、この運動によって、自分の外部の自然に働きかけて、それを変化させることにより、同時に自分自身の自然を変化させる[192]

マルクスの親友であり、まさしく人生をかけて『資本論』刊行にあたったエンゲルスは、『猿が人間になるにあたっての労働の役割』という本を書いたが、“労働が人間を人間たらしめた”という見地の一端が、このマルクスの叙述のなかにもある。そして、この、そもそも労働が人間を発達させる上で持っている重要な役割と、一方で、“苦役”と感じられる労働との関連が、つぎに考察されている。

彼は自然的なものの形態変化を生じさせるだけではない。同時に、彼は自然的なもののうちに、彼の目的――彼が知っており、彼の行動の仕方を法則として規定し、彼が自分の意志をそれに従属させなければならない彼の目的――を実現する。そして、この従属は決して一時的な行為ではない。労働の全期間にわたって、労働する諸器官の緊張のほかに、注意力として現われる合目的的な意志が必要とされる。しかも、この意志は、労働がそれ自身の内容と遂行の仕方とによって労働者を魅了することが少なければ少ないほど、それゆえ労働者が労働を自分自身の肉体的および精神的諸力の働きとして楽しむことが少なければ少ないほど、ますます多く必要となる[193]

一定のストレスは、それを克服し解消するための一定の肉体的精神的作用をもたらすから、その限りでは、新たな発達をうながす契機となりうる。しかし、文字通りの意味で、死ぬほど働いている人びとが、現代日本にはいる。それがけっして楽しみある労働の結果でないことを私たちは知っている。現代日本では、いっけん肉体的にはそこなわれてはいなくても、その労働の過密さゆえに、相当の神経細胞の損傷をこうむる環境が広がっているのではないだろうか。

生産手段

労働過程の単純な諸契機は、合目的的な活動または労働そのもの、労働の対象、および労働の手段である[193]

さて、ここからマルクスは、労働過程が成立するうえでなくてはならない要因として、労働対象と労働手段をあげて考察する。

労働対象

まず、労働対象について。なかでも「土地」と「水」(経済学的には水は土地に含まれるそうである)は、もっとも主要な労働対象である。それは

人間の関与なしに、人間の労働の一般的対象として存在する[193]

マルクスは、人間と自然との関連を労働過程においてたいへん厳密に考察して、つぎのようにのべている。

労働が大地との直接的連関から引き離すにすぎないいっさいの物は、天然に存在する労働諸対象である……これとは反対に、労働対象がそれ自身すでにそれ以前の労働によっていわば濾過されているならば、われわれはそれを原料と名づける……原料はすべて労働対象であるが、どの労働対象も原料であるとは限らない。労働対象は、それがすでに労働によって媒介された変化をこうむっているときにのみ原料である[193]

原料の実例としてマルクスがあげているのは、あとは選鉱をまつだけの、人の手によって大地から「割り採られた鉱石」である。

ここで「洗鉱」という語彙について。専門用語なのかはわからないが、原訳文にはこの語彙が使用されている。が、辞典では見つけることができなかった。むしろ、この文意から適当だと思われ、辞典に典拠をしめすことのできる語彙が「選鉱」だった。この語彙の意味は

せん-こう 【選鉱】 採掘した鉱石を、有価鉱物に富んだ部分(精鉱)と無価値の部分とにえりわけること[広辞苑・第三版]

上記の「洗鉱」について指摘を受けた。この言葉、ドイツ語テキストでは“auswaschen”と記述されているそうだ。これは「(汚れなどを)洗い流す」という意味なので、わざわざ、「選鉱」ではなく「洗鉱」と訳してあるのだろう。

選鉱の方法はさまざまに発達しているけれども、鉱石を「洗う」という方法は、一番はじめに人類が考えだした手法にちがいない。たとえば、金鉱石などは、その採取方法としてもっとも初期に行なわれていたのが、河床などで発見される砂金などを軽い川砂を洗い流すことで回収する方法だった。

金の歴史は少なくとも6,000年遡る。年代の明らかな最も古い発見は、エジプトやメソポタミアに於ける紀元前4,000年前のものである。紀元前3,000年頃から、支払いの方法として金環が用いられるようになったが、大部分は装飾用であった。エジプトが金生産の中心で、この時代金は全て漂砂鉱床から採掘された。軽い川砂を洗い流し、残った金を溶解して純度を上げた。紀元前2,000年頃には、塩を使って塩化銀として銀を取り除く金精製法が開発された。10世紀になって、水銀アマルガム法が開発され金の回収が改善された。……

大部分の金は鉱石中に自然金の形で含有される。

漂砂金は河床や氾濫源で発見されるものである。通常、非常に細かい自然金の粒の形で、砂金として産する。漂砂鉱床は風や雨或いは温度変化が金を含有する岩石に作用して二次的に形作られる。古代に於ける金はすべて漂砂金である。鉱体の中では他の金属や硫化物は次第に溶けて除かれ、金や不活性の酸化物が富鉱化される。一般に山金に比べて純度が高い。

【参照:Webサイト「史跡 佐渡金山」

だからここで鉱石から不純物を「洗い流す」ことで選鉱するというふうにマルクスが述べているのであれば、原料の定義も、人の手が少しでも入っているものは原料と呼ぶことができる、ということの厳密さをしめしているのではないだろうか。

労働手段

つぎにマルクスは労働手段について考察する。

労働手段とは、労働者が自分と労働対象とのあいだにもち込んで、この対象にたいする彼の能動活動の導体として彼のために役立つ、一つの物または諸物の複合体である[194]

このなかで、新約聖書の引用がなされており、訳注では、日本聖書協会新共同訳には「寿命をわずかでも延ばすことができようか」となっており、ルター訳聖書からの引用だと、記してある。しかし、1997年に刊行されている日本聖書協会文語訳の『舊新約聖書』では、マルクスが引用した訳を主にとりあげて、異訳として、「その生命を寸陰も延べ得んや」との訳を紹介している。

この故に我なんぢらに告ぐ、何を食ひ、何を飲まんと生命のことを思ひ煩ひ、何を著んと體のことを思ひ煩ふな。生命は糧にまさり、體は衣に勝るならずや。

空の鳥を見よ、播かず、刈らず、倉に収めず、然るに汝らの天の父は、これを養ひたまふ。汝らは之よりも遥かに優るる者ならずや。

汝らの中たれか思ひ煩ひて身の長一尺を加へ得んや。

又なにゆゑ衣のことを思ひ煩ふや。野の百合は如何にして育つかを思へ、労せず、紡がざるなり。

されど我なんぢらに告ぐ、栄華を極めたるソロモンだに、その服装この花の一つにも及かざりき。

今日ありて明日爐に投げ入れらるる野の草をも、神はかく装ひ給へば、まして汝らをや、ああ信仰うすき者よ。

さらば何を食ひ、何を飲み、何を著んとて思ひ煩ふな。

是みな異邦人の切に求むる所なり。汝らの天の父は、凡てこれらの物の汝らに必要なるを知り給ふなり。

【マタイ伝福音書 第6章25―32】

また弟子たちに言ひ給ふ『この故にわれ汝らに告ぐ、何を食はんと生命のことを思ひ煩ひ、何を著んと體のことを思ひ煩ふな。

生命は糧にまさり、體は衣に勝るなり。

鴉を思ひ見よ、播かず、刈らず、納屋も倉もなし。然るに神は之を養ひたまふ、汝ら鳥に優るること幾許ぞや。

汝らの中たれか思ひ煩ひて、身の長一尺を加へ得んや。

されば最小き事すら能はぬに、何ぞ他のことを思ひ煩ふか。

百合を思ひ見よ、紡がず、織らざるなり。されど我なんぢらに告ぐ、栄華を極めたるソロモンだに、其の服装この花の一つにも及かざりき。

今日ありて、明日爐に投げ入れらるる野の草をも、神は斯く装ひ給へば、況て汝らをや、ああ信仰うすき者よ、

なんぢら何を食ひ何を飲まんと求むな、また心を動かすな。

是みな世の異邦人の切に求むる所なれど、汝らの父は、此等の物のなんぢらに必要なるを知り給へばなり。

【ルカ伝福音書 第12章22―30】

この聖書の言葉をふまえながら、マルクスは、なお、つぎのように語ったのである。

こうして、自然的なものそれ自身が、彼の能動活動の器官、すなわち聖書の言葉にもかかわらず、彼が自分自身の肉体的諸器官につけ加えて彼の自然の姿を引き伸ばす一器官になる。土地は、彼の本源的な食糧倉庫であるのと同様に、彼の労働諸手段の本源的な武器庫である[194]

聖書のなかで語られるイエスの言葉は、飾らず偽らぬ、神への絶対の信仰そのものがなにより尊いのだといい、創造主たる神は足るものを知るのである、と説くのであるが、マルクスは、この聖書の言葉をかりて、しかし、なお、人は、自然から生まれ出でながらも自律的に、試行錯誤をへながら、みずからの労働手段として自然のさまざまな諸物をわが手となし足となし、「身の長一尺を加へ」て、さらに自然に働きかけてきたのだ、と指摘しているのだ。

労働諸手段の使用と創造は、萌芽的にはすでにある種の動物にそなわっているとはいえ、独自的人間的労働過程を特徴づけるものであり、それゆえフランクリンは、人間を a tool-making animal すなわち道具をつくる動物と定義している。滅亡した動物種属の身体組織を認識するのに遺骨の構造がもつのと同じ重要性を、労働諸手段の遺物は滅亡した経済社会構成体を判断する場合にもっている。なにがつくられるかではなく、どのようにして、どのような労働手段をもってつくられるかが、経済的諸時代を区別する。労働諸手段は、人間労働力の発達の測定器であるばかりでなく、労働がそこにおいて行なわれる社会的諸関係の指標でもある[194-5]

すべての商品のうちで、本来の奢侈品は、さまざまな生産時代の技術学的比較にとってもっとも意義のないものである(注5)[195]

過去のさまざまな遺物が紹介されるときに、違和感を感じていたことがあった。それは、たとえば、中南米で発掘された文化の遺物や、古代エジプトの工芸品を紹介するときに、その黄金装飾の見事さのみを紹介するケースが多いことだ。たしかに、すばらしい技巧がこらされた装飾品であるにはちがいないが、なにか、その黄金の輝きのほうに目をうばわれているような気がしてならない。もちろん、考古学の分野では、これまでのそのときどきの人間社会で使用されていた労働手段についての研究に、たいへん重要な位置付けがされていることは承知しているが、マスコミでの取り扱い方は、ニュアンスに相当の誤差があると思う。

そういう意味でも、ここでのマルクスの指摘は、たいへん示唆に富んでいると思う。「なにがつくられたかではなく、どのような技術で、どのような労働手段でつくられているか」――これが人間の労働の発達、社会の発展度合いを見る場合の重要な指標となること。だから、黄金の輝きのみに目を奪われず、そのすばらしい技巧がどのような技術によるものか、どのような労働手段が当時存在し、それがどのようにして生み出されたのかということに注目したい。そして、それらの技術を生み出し、支えることのできた社会とは、どのような社会だったのか、という観点が必要だろう。

道具や工具のように人間の身体の一部分の延長として役立つもののほかに、労働対象への働きかけを媒介し、労働活動に役立つものはすべて労働手段と規定することができる、とマルクスは指摘している。

それらは直接にこの過程にはいり込みはしないが、それらなしにはその過程はまったく進行できないか、不十分にしか進行できない。この種の一般的労働手段はやはり土地そのものである。というのは、土地は労働者には“立つ場所”を、彼の過程には作用空間(“仕事の場”)を与えるからである。労働によってすでに媒介されたこの種の労働諸手段は、たとえば作業用建物、運河、道路などである[195]

ここまでの叙述のなかで、よく理解できていないのが、「生産の筋骨系統と名づけることのできる機械的労働諸手段」と「生産の脈管系統と呼ぶことができるような労働諸手段」との区別と関連である。この部分はとりあえず宿題。ここで「化学工業においてはじめて重要な役割を演じる」「容器としての労働手段」というのは、たとえば反応炉や溶融炉のようなもののことをいっているのだろうか。

労働諸手段そのもののなかでは、その総体を生産の筋骨系統と名づけることのできる機械的労働諸手段のほうが、労働対象の容器としてのみ役立ち、その総体がまったく一般的に生産の脈管系統と呼ぶことができるような労働諸手段、たとえば管、桶、籠、壺などよりも、ある社会的生産時代のはるかに決定的な徴標を示す。容器としての労働手段は、化学工業においてはじめて重要な役割を演じる[195]

この「筋骨」系統というのは、生産過程において骨格となる労働手段というような意味あいで使用されているようだ。だから「脈管」系統という言い方は、むしろ「筋骨」ということばに対応するものとして使用されているようだ。

労働過程の一般的規定

労働とは、人間が、彼の目的意識にしたがって、労働手段によって、労働対象を変化させる全過程のことである、ということができる。

過程は生産物においては消失する……労働はその対象と結合した。労働は対象化されており、対象は加工されている。労働者の側においてはいまや静止した属性として、存在の形態で現われる[195]

このように考えると、生産物は、「労働手段」(の一部分)と「労働対象」が労働力によって結合された使用価値である、ということもできる。

上記のノートは引用した「労働はその対象と結合した」という記述を早合点したものだった。ここで「結合」される労働は、あくまで労働手段の使用によって労働対象と結合されるのであって、労働手段と労働対象とは、労働過程のなかで並立的に機能するものではない。

また、労働を労働対象に結実させるに足る労働手段が、「その一部分」であるとしている点は、誤りだ。このことは、つぎの第6章「不変資本と可変資本」で明らかになる。労働は、労働手段に内在する価値の一部分を生産物に移転するにしても、実際の労働過程のなかでは、労働手段の総体が機能しなくてはならない。

この労働力の消費、支出は、支出された生産物において、彼の目的意識に適合するよう形態変化した自然素材、として現われる。だから、労働過程を、

生産物の立場から考察するならば、労働手段と労働対象の両者は生産手段として、労働そのものは生産的労働として現われる[196]

さらに、生産手段のうち、労働手段には、多かれ少なかれ人間労働がすでに加えられているし、労働対象については、さきにマルクスが考察したように、「天然に存在する労働手段」のほかに、「労働によってろ過された労働手段」である「原料」が存在する。むしろ、ほとんどの産業においては、「原料」が、労働手段として労働過程のなかで取り扱われる。

ある使用価値が労働過程から生産物として出てくるとき、それ以前の労働過程の諸生産物である他の諸使用価値が生産諸手段としてこの労働過程にはいり込む。後者の労働の生産物であるその同じ使用価値が、前者の労働の生産手段を形成する。それゆえ、生産物は労働過程の結果であるだけでなく、同時にまたその条件でもある[196]

労働対象を天然に見いだす採取産業をのぞけば、すべての産業部門は、原料すなわちすでに労働によって濾過された労働対象、それ自身すでに労働生産物である対象を取り扱う。たとえば、農業における種子がそうである。自然の産物とみなされがちな動物や植物も、おそらく前年の労働の生産物であるだけでなく、現在の形態をとっているそれらのものは、幾多の世代を通して、人間の管理のもとで、人間の労働を介して続けられてきた変形の産物である[196]

原料は生産物の主要実体を形成することもありうるし、また補助材料としてのみ生産物の形成にはいり込むこともありうる[196]

原料には、主要実体を形成する「主要材料」と、労働手段によって消費されたり、触媒として素材的変化を生じさせたり、労働環境を整えるうえで消費されたりする「補助材料」とがある。マルクスは、この主要材料と補助材料との区別は、化学工業が発展するほどに、実際に生産された商品のなかに痕跡をのこせなくなるので、あいまいになってゆくことを指摘している。

また、「物」は、それ自体がいろいろな属性をもっており、科学技術の発展とともにその属性も新たに発見されてゆくので、

同じ生産物がきわめてことなった労働過程の原料となりうる[197]

また、加工される原料であると同時に主要材料や補助材料をつくる手段となる羊や牛のような家畜のように、

同じ生産物が、同じ労働過程において、労働手段としても、原料としても、役立つことがありうる[197]

さらに、その生産物が、そのまま消費されるにふさわしい形態であっても、なお、原料となりうる(たとえばワインの原料となるブドウのような)原料もあれば、「段階製品」と呼ぶにふさわしいように、

もとの原料は、それ自身すでに生産物であるにもかかわらず、さまざまな過程からなる全段階を通過せねばならないかもしれないのであり、これらの過程においてこの原料は、絶えず変化した姿態で、絶えず新たに原料として機能しながら最後の労働過程にいた[197]

る原料、たとえば綿花や糸、などがある。

このようにみてくると、ある生産物が、原料となるのか、労働手段として役立つのか、そのまま労働過程から出でて消費されるのかは、その生産物が労働過程のなかでどういう機能を果たすかで変わってくるということがわかる。生産物は、労働過程に入らずそのまま消費される以外では、すなわち、生産手段として新しい労働過程にはいり込む場合には、

その生産物の使用諸属性の、過去の労働による媒介は消えうせている[197]

紡績工は、紡錘を、紡ぐ手段としてのみ取り扱い、亜麻を、紡ぐ対象としてのみ取り扱う。もちろん人は、紡績材料と紡錘がなくては紡ぐことはできない。それゆえ、これらの生産物が現存していることは、紡績の開始にさいして、前提されている。しかし、この過程そのものにおいては、亜麻と紡錘が過去の労働の生産物であることはどうでもよいことであって、それはちょうど、パンが農民、製粉業者、製パン業者などの過去の諸労働の生産物であることが栄養行為の場合にどうでもよいのと同じである[197]

生産手段の消費と生活手段の消費

しかし、このことは消極的なことではなく、むしろ積極的な意味をもっているということを、マルクスは次のように指摘している。

これらの物は労働の火になめられ、労働の肉体として同化され、それらの概念および使命にふさわしい諸機能を営むまでに、この過程のなかで精気を吹き込まれながら、確かに消費されてなくなりもするが、しかしそれらは、生活手段として個人的消費にはいり込むかまたは生産諸手段として新たな労働過程にはいり込むかすることのできる新たな諸使用価値の、新たな諸生産物の形成要素として、合目的的に消費し尽くされる……生産物の労働過程への投入、したがって生きた労働との接触は、過去の労働のこれら諸生産物を使用価値として維持し実現するための唯一の手段なのである[198]

労働とは、生産的消費だといえる。それは、労働する人間の肉体と精神を消費し、労働対象や労働手段を消費する。この消費は、人間の生活手段の消費とは区別される。

資本家のもとでの労働過程

さて、ここまでは、労働過程について、「人間の一実存条件」であり、「どのような特定の社会形態ともかかわりな」く、一般的考察がすすめられてきたが、こんどは、いよいよ、資本家が購入した労働力を有する労働者とともに入っていった、彼の工場のなかで行なわれるであろう労働過程について考察がすすめられる。

資本家が、彼の目的とする労働過程を開始するには、まずはじめにそれを行なうのに必要なものをそろえなければならない。だから、資本家である彼は、市場で、さまざまな生産手段――労働諸対象と労働諸手段を購入するとともに、それらを彼が販売したい使用価値とするための労働力をもつ労働者と労働力の売買契約を結んだのだった。資本家が彼の貨幣でもって、はじめに市場から購入しなければならなかったのは、労働対象と労働手段と労働力である。

わが資本家は自分の買った商品、労働力の消費にとりかかる。すなわち、彼は労働力の担い手である労働者に、それの労働によって生産諸手段を消費させる[199]

ここでの労働過程の一般的性質は、これまで考察されてきた労働過程と変わりはない。しかし、また、独自な面も表わしている。

労働者は、自分の労働の所属する資本家の管理のもとで労働する……さらに、第二に、生産物は資本家の所有物であって、直接的生産者である労働者の所有物ではない……商品の使用は商品の買い手に所属し、そして、労働力の所有者は、自分の労働を与えることによって、実際には、自分が売った使用価値を与えるだけである。彼が資本家の作業場にはいった瞬間から、彼の労働力の使用価値は、したがってそれの使用すなわち労働は、資本家に所属したのである……労働過程は、資本家が買った諸物のあいだの、彼に所属している諸物のあいだの一過程である。それゆえ、この過程の生産物は……彼に所属する[200]

上記引用部分のすぐ前の文章のなかで、マルクスは、またたいへん厳密な言い方をして、労働過程が資本のもとに従属することと、生産の仕方の変化との間には、一定の時間的距離があることを指摘している。このことについては、のちの章でとりあげられるはずであるが。

労働過程の一般的本性は、労働者が労働過程を自分自身のためではなく資本家のために行なうということによっては、もちろん変化しはしない。しかし、長靴をつくったり、糸を紡いだりする一定の仕方もまた、資本家の介入によっては、さしあたり、変化しえない。資本家は、さしあたり、市場で見いだすままの労働力を、したがってまた資本家がまだ一人もいなかった時代に発生したままのその労働を、受け入れなくてはならない。労働が資本のもとに従属することによって生じる生産様式そのものの転化は、もっとのちになってからはじめて生じうるのであり、それゆえもっとあとになってはじめて考察されるべきである。[199]

私たちは、一般的生産過程から、流通過程のなかから引き出された新たな、まったくそれまでには存在しなかった、人格と分化された労働力という商品が、さまざまな生産手段とともに資本家に購入され、それらが消費される、これまたまったく新しい生産過程の考察にはいる。



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