デーヴァダッタ18

2024年6月

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06/01/土
昨年の4月1日から書き始めた『デーヴァ』は1週間ほど前にすべての作業を終えて入稿となった。書き始める3ヵ月前の正月から構想を練り始め、このノートを始めた。今月も同じタイトルで続ける。通常なら前の作品の仕上げの段階では、次の作品の構想ができているので、ただちに新たなタイトルのノートを始めるのだが、いまは何のプランもないのでこのままのタイトルで続ける。まだ校正などの作業が残っている。これは自分にとってのライフワークであり、絶筆となる作品なので、しばらくはくだ余韻にひたっていたい。さて本日はしばらく車を動かしていないので深川ギャザリアで買い物。椅子の背もたれのクッションを買う。ダイニングのテーブルで仕事をすることも多いので、そこの椅子にビーズクッションを置くことにした。8の字の形をしていて前から気になっていたのだが、本日は荷物が少ない感じだったのでゲットした。快適。

06/02/日
『文芸思潮』の五十嵐勉さんから頼まれた仕事があって、いまはひまなので集中的に取り組む。原稿を読む仕事だが、大長篇なので一週間くらいかかりそうだ。

06/03/月
五十嵐さんの作品は第三部まであるのだが、第二部まで読み終えた。明日には何か感想めいたものが書けるだろうと思う。久し振りに近所を散歩。何事もなし。

06/04/火
五十嵐さんの作品を読み終えたので感想を書き始める。この作業に何日かかかりそうだ。

06/05/水
暑い日が続く。何事もなし。

06/06/木
日本文藝家協会総会。年に一度の重要な会議だが問題なく終了。懇親会では多くの人々と会った。SARTRASのネット会議でいつも顔を合わせている人々が多かったが、リアルに顔をつきあわせるのは久々なので、言葉を交わせてよかった。新入会員の挨拶も新鮮だった。文化庁のお世話になっている人々にもご挨拶できた。ちょっと疲れた。

06/07/金
山王神社のお祭りで象の山車が初お目見えということを聞いて、日本橋あたりで見ようと思い、とりあえず三越本店の向かいのコレドで稲庭うどんを食べてから日本橋の方に歩き始めたのだが、まだ時間が早すぎるというので、千代田区のお知らせの工程表を見ると、皇居前から行幸通りを東京駅に向かい、丸ビルの手前で仲通に折れて有楽町に向かうということがわかり、徒歩で丸ビルに向かうと、ちょうど先頭の幟が近づきつつあった。パレードの全容を見ることができた。象は巨大で、顔つきが険悪だった。江戸時代の人にとっては象は怪物みたいなものだったのだろう。吉宗の時代に象が長崎から徒歩で江戸に向かい、浜離宮にいたらしい。ぼくの仕事場のある浜松の奥まった山地に、「象泣き坂」という急坂がある。そこを歩かされた象があまりの急坂に泣いたと伝えられる。その話が頭の中にあって、象に親しみを覚えていた。とにかく象と対面できてよかった。

06/08/土
五十嵐勉さんから頼まれた仕事は終わった。少し推敲してから送りたいと思う。散歩に出たらけっこう暑かった。もう夏だ。さて、することがなくなった。『三体V』の発売日はいつなのか。とりあえず書きかけの作品が一つあったのでそれを仕上げたいと思っている。ただ途中で投げ出した作品なので、続きを書けるかどうか難しいところだ。

06/09/日
日曜日。何事もなし。

06/10/月
近所の医者でいつもの薬の処方箋をもらう。駅前の本屋に行って、『三体』『三体U上』『三体U下』の文庫本の平積みの山を眺めていると、隣にブルーバックスの『三体問題』という本があった。隣に劉慈欣の短篇集がないかと思ったのだがなかった。ハヤカワ文庫の棚に一冊だけあった。こういうのを『三体』の隣に置くべきだ。ついでにブルーバックスも買った。『三体V』の発売日は6月19日ということなので、SARTRASの役員会に出向く前に買うことにする。三体問題というのは、三つの物体の相互のニュートン力学による運動を解く問題で、これはラグランジェの指定したいくつかのポイントでは解けるけれども一般解はない。たとえば地球と月、および太陽の運動は三体問題だが、太陽が遠く離れているので、地球と月の重心と太陽の運動と考えて近似値をとる。こういう近似値を重ねていくと、火星や木星などの影響も加味できるし、天王星の発見(ハーシェルが古い星図と最新の観測とをつきあわせて発見した)の直後に、海王星を発見することができた(これは計算で予測した)。劉慈欣の小説では、地球から4光年離れた場所の恒星が三重星できわめて不規則な動きをするために近傍の惑星は三つの太陽の動きを予測できず、高度な文明を有しているにもかかわらず、文明の進歩が断続的で混乱を起こしている。そこの異星人が、一つの太陽で安定して文明を進化させている地球の存在を知り、侵略を企てるという設定になっている。これはハードSFではなく、かなり突飛なフィクションではあるのだが、作者はかなりのハードな知識をもっていて、虚構を組み立てるのがうまい。4光年も離れていれば通信は不可能のはずなのに、陽子の次元を開いてそこに集積回路を組み込み、陽子のサイズになったAIを光速に近い速度と地球に送り込み、そこで得られた情報を量子もつれを利用して一瞬で元の惑星の異星人に送り届ける、という、ほんまかいなというような設定になっている。確かに量子論の不備を指摘したアインシュタインの思考実験に対して、量子もつれは光速を超えて情報を届けることができるということがいまの多くの科学者の認識になっていて、量子コンピュータなどというものも設計されるようになっている。ぼくはいまだに、量子コンピュータについても、ほんまかいなと思っているのだが、そのうちに実現するのかもしれない。

06/11/火
作品社から小包届く。もう白ゲラが出た。校正者のチェックが入った正式の初校は一箇月後で、これはゲラの控えだが、校正を気にせずに読み返すことができる。最終のチェックをしてから時間が経過しているので、もう何を書いたか忘れてしまっている。読者になったつもりで作品に接することができる。扉に観阿弥陀経を引用したのだが、いい感じだ。これで主人公が悪い奴だということが読者に伝わる。わたしの作品では、主人公はただピュアなだけの人物なのだが、結果的に悪事をなしていくことになる。しかしブッダの大きな友愛に包まれて、最後まで友情が失われることはない。そういう作品になっているはずだが、読むのが楽しみだ。ただのんびりと少しずつ読んでいくことする。内閣府の人3人来訪。共同住宅のロビーで打ち合わせ。「心の輪を広げる体験作文」の審査委員長の仕事を10年やって、後任につい担当者と検討した。これで役目が果たせたと思う。

06/12/水
昨日届いた白ゲラを見る。昨日は扉、目次と主な登場人物のページを見ただけで、あまりの壮観な眺めに一人で感動してしまった。扉には観阿弥陀経の冒頭部分を引用したのだが、デーヴァダッタの悪事とマウドガリヤーヤナが空を飛んでかけつける場面が描かれ、短い引用にもかかわらず物語の全容が見てとれるようだ。目次は二十八章すべて17文字に統一してある。その28章を4つに分けて4部の構成にしてあるのだが、第一部の終わりでシッダルタが修行の旅に出発し、第二部の終わりではジャイナ教のマハーヴィーラーの声が聞こえてくる。第三部の終わりではマウドガリヤーヤナがアーラヤ識について語り、第四部には鍛冶屋のチュンダが登場する。まるで計画したように、各部の終わりに重要事項が配置されている。第一部は故郷のカピラヴァストゥにおける物語のプロローグ、第二部に到ってヴァーナラシーでの六師外道との対決が描かれ、第三部では二つの父殺しの物語が進行する。第四部の冒頭には維摩経の主人公の商人の長老が登場して、いよいよクライマックスに突入することになる。まるで最初から設計図を描いていたようにきっちりと四部構成になっているのだが、これはたまたまそうなっただけだ。20章を過ぎたあたりから、全体が28章になればいいがと、ちらっと思った。法華経が28章あって、4で割り切れるというのが頭にあった。実際は27章で終わりそうだったのだが、釈迦の前世を描いたジャータカの物語をどこかに入れようと思っていたので、第四部の中ほどに挿入することにした。他の章と同じくらいの長さにするために予定よりも多めの話を入れたのだが、結果としてはこれが効果的だった。というようなことを目次のページを眺めているうちに昨日は一日が終わってしまった。本日は第一章と第二章を読んだ。堂々としたオープニングだ。それでいてこの2つの章で、主人公デーヴァのシッダルタに対する憎しみが充分に描かれている。自分が書いたものとも思えない見事な文章で、読んでいるだけで気持がひきしまった。こんな文章が75歳になって書けるというのは、天に感謝するしかない。

06/13/木
書き始めの段階では「デーヴァダッタ/釈迦と提婆達多」という仮題にしておいたのだが、白ゲラが出た段階では「デーヴァ/ブッダの仇敵」ということにしてある。デーヴァダッタという人物名は仏典で提婆達多と漢字表記されている人物のサンスクリット発音なのだが、一般に知られているわけではない。作品中では「デーヴァダッタ」と呼ばれているのだが、シッダルタは従弟で義弟にあたるこの人物を語尾を省略して「デーヴァ」と呼んでいる。そこでタイトルも「デーヴァ」だけにして副題は「ブッダの仇敵」とした。「仇敵(ザトル)」という言葉は作品中でも用いられており、これでどういう人物なのかを示すことができる。アジャータシャトル王子に父殺しをそそのかしブッダの教団の分裂を謀った人物として、多くの仏典にその名をとどめている。釈迦ではなくブッダとしたのは、作品中でも「ブッダ」という言葉が用いられているからで、これでタイトルはすっきりした。たぶんこのままでいくだろう。本日は3章と4章を読んだ。3章はシッダルタの生地のルンビニー園だの宴が描かれる。作品中でも最も美しいシーンだ。ここでシッダルタとデーヴァの育ての母でありヤショーダラの生母であるアミターが登場する。「無限」という名をもつこの女性の輝かしい美貌と果てのない慈愛が、シッダルタとデーヴァを兄弟として結びつけている。「アミターバ(阿弥陀)」という仏の名称もここからとられている。また宴の主役であるシッダルタを眺めているデーヴァの心のうちに激しい憎悪が燃え上がる重要なシーンでもある。第4章にはジェータ王子が登場する。漢字表記では祇陀であり、祇園精舎の名称の由来にもなったこの人物をデーヴァダッタが故郷の神殿に案内して、アシュヴァジットという神官からウパニシャドの重要なポイントを教えられる。本作でウパニシャドについて語られるのはここだけなのでここも重要な章だ。なお、手塚治虫の『ブッダ』でアシュヴァジットは「アッサジ」というパーリ語の発音で登場し、三ツ目が通るの主人公のキャラで演じられている。さて、この章の最後にはアシタ仙人が登場し、シッダルタ、ジェータ王子、デーヴァの未来が予言される。ここで始めて、この作品の全容が見えてくることになる。

06/14/金
毎日2つの章を読むことをノルマと決めている。それ以上は集中力が続かない。白ゲラをきっちり読んでおけば、本ゲラが来ても校正者のチェックに応えるだけで作業が完了する。本日は5章と6章。4章に予言者のアシタ仙人が登場して、シッダルタ、デーヴァ、ジェータ王子の未来が予言される。これで全体の物語がある程度は予想されることになる。それを受けて5章に入る。ここでは部隊がカピラヴァストゥから、隣国のコーサラ国の首都シュラヴァースティに移る。観阿弥陀経にも登場するヴァイデーヒーはここではコーサラ国の王女だ。後半には父殺しのアジャータシャトル王子の母親として、悲劇のヒロインになる。その伏線として、デーヴァがヴァイデーヒーを見て、この女性を悲劇のどん底に突き落とすのは自分だと感じる。まだ物語は始まっていないのだが、これは一種の神話の物語なので、次々に予言や予感によって先が見えるようになっている。さらにシュラヴァースティの娼館でデーヴァがマリハムという娼婦に出会う。王女や王妃が次々に登場するこの作品においては、娼婦は貴重なキャラクターだ。6章に入ると、もうひとつの父殺しの物語の伏線として、デーヴァの画策によって母が奴隷と噂される大臣の娘が、側室としてコーサラ国の皇太子に嫁ぐ話と、シッダルタの画策によってデーヴァがヤショーダラの部屋に入っていくところが一つの山場になっている。明日は7章を読む。いよいよシッダルタが修行の旅に出る。そこで第一部が終わる。実に見事な構成になっている。長い作品なので、第一部が終わると、読者はほっと一息つくことになる。第二部に入ると、何やら怪しい展開になっていく。そしていよいよ六師外道が登場することになる。本日は猛暑。夕方散歩に出たが、老人はあまり無理をしてはいけないと感じた。白ゲラを読み終えるまでは体力を温存させたい。

06/15/土
車を動かすために深川ギャザリアに行く。土曜日なので混んでいたが、高齢者ナナコカードは5%引きの日だった。それで時間がとれなかったので、本日は第7章だけ。シッダルタが故郷のカピラヴァストゥを出て、ラージャグリハに到着する。またデーヴァが故郷のデーヴァダハ城までアーナンダを迎えに行く場面がある。アーナンダは光り輝く少年で、この作品のなかでも重要人物としてこれから活躍することになる。さて、本日は毎日2章というノルマが果たせなかったので、夕食のあとに第2部の第8章を読み始めた。シッダルタが旅に出てから数年が経過している。第2部に移ったところで時間が経過しているというのは、まことによくできている構成だが、当初は4部に分けることは念頭になかったので、これは結果オーライの偶然にすぎない。ここで娼婦のマリハムが再び出てくる。コーサラ国の第二王子のヴィルーダカの母が奴隷の血筋だということをマリハムに打ち明ける。噂を流す策略だが、その意図を感じ取ったマリハムが娼館の客にそれとなく噂を流すことによって、ヴィルリ王子にカピラヴァストゥへの憎しみが宿ることになる。娼館に行く前に、デーヴァはスダッタ長者のところに寄る。第一稿ではこのシーンはなかったのだが、ブッダの教団のパトロンとなるスダッタ長者を早めに登場させておく必要を感じて、そのシーンをあとになって追加したのだが、読み返してみるとごく自然な流れになっているし、スダッタの素朴な善良さがよく出ている。デーヴァが商人からそれとなく金をせびるところも書き込んである。この主人公はピュアで繊細な人物なのだが、とくに悪意もなく王族や豪商から支援を受けてしまう。はたから見ると邪悪な人物なのだが、作品の読者は主人公に寄り添って話の展開を見ていくことになる。8章の終わりにはシッダルタに随行したアシュヴァジットが登場して、シッダルタがブッダとなって教団を起こしたことを告げる。そこでこの章は終わるのだが、次の章からいよいよ六師外道の哲学が語られることになる。本篇の山場がここから始まることになるが、4章にわたって哲学的な議論を続くことになる。大丈夫か、と書く前に思い、第一稿、第二稿と読み返す度に、大丈夫かと思いながら読んだ。哲学というものに興味のない読者をどこまでひっぱっていけるかが、書く前は心配だったのだが、作品のここまで読んできた読者は、シッダルタという人物に強く惹かれているはずなので、シッダルタが六師外道とどのように対決したかに興味をもってもらえているだろうと信じて、明日は第9章、第10章を読んでみたい。

06/16/日
9章と10章。9章はアシュヴァジットによる報告。六師外道の簡単な紹介とジェータ王子がブッダになった時の見たままのようす。10章は六師外道のうちに前半3人に対するシッダルタの言動について。ここからは延々と哲学的な議論が続くことになるのだが、シッダルタという人物の多面性を示すためには必要な行程だと思っている。うまくいっている。自分が書いたものとは思えないし、もう一度書けと言われても不可能だ。これがゲラになっているということが信じられない。

06/17/月
11章と12章半ばまで。本日はオーファン委員会があったので時間をとられた。三箇月に一度の会だが司会をつとめなければならないので疲れる。マハーヴィーラーが出てきて読むのに疲れたということもある。主人公がラージャグリハに到着した。ここでシッダルタに会う前に、ビンビサーラ王からブッダの教えについて聞くことになる。そこで主人公がシッダルタの言説に疑問をもつ。作品のなかでは重要な部分だ。教えを王の口から間接的に聞くことで、主人公が一種の混乱に陥ることになる。よくできた展開だと思う。そのつど思いつきでやったことだろうが、そういう思いつきがけっこう当たっている。

06/18/火
12章の残りと13章、14章を読む。これで第二部が終了。ちょうど半分のところまで来た。第一部は壮大なオープニング、第二部は小説としては類例のない哲学的な議論に終始する不思議な展開。何という小説だろうと読みながら感嘆してしまった。第三部からは父殺しのストーリーが始まっていく。それと主人公と実の息子の話も出てくるのだが、それは大きな流れではない。やはりマガダ国の王子が父を殺す物語が作品の中心といっていいだろう。だがその前にコーサラ国における父殺しの物語が出てくる。ここで第一回目の阿弥陀ブッダの話が出てくる。これは祇園精舎で説かれるので無量寿経の方だ。その後、霊鷲山で説かれるのが観阿弥陀経で、浄土の話は2度出てくる。やはりこの作品は、「親鸞」「善鸞」に続く浄土信仰の話なのかもしれないが、法華経、勝鬘経、維摩経という、聖徳太子が三経義疏で採り上げた三部作も登場する。色即是空とか、アーラヤ識の話も出てくるので、仏教の思想の全容がこの作品のなかにちりばめられている。しかし基本となっているのは八千頌般若経という経典で、そこでは影絵芝居の話が出てくる。影絵芝居の舞台の上に幻影のブッダが出てきたとして、そのブッダの説いたことはまことの教えなのか、というような話が出てくるのだが、ぼくが書いたこの作品はその話をヒントにして、その議論を発展させたものだ。

06/19/水
本日はSARTRASのリアルな役員会。明日は総会、理事会、懇親会がある。この2日間は作業はできない。第3部の始めを少し読んでみたがうまくいっている。ガンダルヴァという従者が登場するところは自然な展開でいい感じだ。千代田線に乗る前に駅前の丸善で『三体V』の上巻と下巻を買った。買っただけでまだ読まない。帰りに薬屋に寄る。今日はT割引の日。

06/20/木
SARTRASの定時総会、理事会、懇親会。理事会はかなり紛糾したが、直後に飲み会があるので楽しく交遊できた。昨日と今日は、自分の仕事も1章ずとノルマを定めたので、滞りなく作業は進んでいる。

06/21/金
今週は何やら多忙だった。今日は公用はないのだが、マッサージの予約を入れていたので新宿に出向いた。冷たい雨が降っている。こういう時は散歩を兼ねて、少し早めに出かけて、都営地下鉄の新宿三丁目駅から、タカシマヤまでの地下道を歩いていく。雨なので地下道の人の流れが多かった。

06/22/土
週末だが日本近代文学館の評議員会。『デーヴァ』は19章まで進んだ。ここで勝鬘経、無量寿経についての言及がある。すでに法華経についてはその経典名が示され、第四部に入ると維摩経、ジャータカ(本生経)が出てきて、最後に観阿弥陀経が述べられる。主要な経典をすべて網羅するすごい作品になっている。

06/23/日
朝から雨。散歩にも行かず。『デーヴァ』は21章まで進んだ。ここではアーラヤ識の話が出てくる。色受想行識に続くマナス識、さらにそれに続くアーラヤ識は、釈迦の論の中枢ともいえるもので、小説のなかでこれに言及するのは至難の業ではあるのだが、おもしろく書けていてびっくりする。よくこんなことを思いついたものだ。ここで第3部が終わった。Footballでも、第4クォーターに入ると、それだけで気分が盛り上がる。Footballの場合、7点差以内の状況では、ボールをもっている側は、着地点を考える。7点差以内で最後にボールを持っている側に勝機があるとはよく言われることだが、15分間ボールを持ち続けることは不可能なので、どの地点でボールを相手に渡すかということも念頭に入れなければならない。小説を書く場合は、どうやってエンディングに到達するのかということを考えなければならない。釈迦という偉大な英雄がいる。英雄にあこがれ、英雄と競いたいと考えながら、どうやっても勝てないとあせっている主人公デーヴァがいる。この勝負の決着をどうつけるかというところが、小説家の腕の見せどころなのだが、すでに作品は出来上がっている。この勝負、デーヴァが負けることはわかっている。釈迦の勝利は歴史的な事実だ。歴史小説、あるいは歴史を舞台背景とした小説では、歴史を書き換えることはできない。負けることはわかっているのだが、どんな負け方をするか、負けたあとでどうするのか、というのが、エンディングに向けてのスリリングな展開となる。書いている途上では、どうなるかわからなかった。いまは書き終えているので結末はわかっているが、その結末の展開が読者にちゃんと伝わるかどうかを確認しなければならない。

06/24/月
教育NPOとの定期懇談会。年に2回の懇談なのでとくに話すこともないが、文藝家協会の理事長が留任したことと、SARTRASの状況を説明。あとは同じビルの階下にあるソバ屋でいつものように懇談。夕方からのリアルな会議なので昼間は自分の仕事ができた。第四部の24章まで。維摩経の維摩居士が出てきた。ここからヴァイシャーリー市の商人組合の勢力が強くなり、戦さが起こりそうな気配となる。アジャータシャトル王子が父のビンビサーラ王を幽閉する。さらに主人公デーヴァの実子のラーフラとの会話。ここにも父と子の対立という構図がある。二つの父殺しの物語はデーヴァが息子の方をそそのかして物語が進行するのだが、ラーフラを相手にすると主人公は父親の立場となる。本日はここまで。次の25章は第4クォーターの半分のところで、ジャータカのさまざまな前生譚を夢に見るという、中休みのような章になっている。そして最後の3つの章で一気に終幕に突入する。

06/25/火
25章と26章。25章はジャータカからの引用。これをどこに入れるかで迷ったのだが、いいところに挿入できた。ここで話の流れが途絶えるのだが、ジャータカの説話そのものがおもしろいので、読者をひっぱってくれるだろう。この話のあとでビンビサーラ王の死から霊鷲山の頂上で観阿弥陀経が説かれるという、大詰めに突入する。いい感じで話が進んでいる。

06/26/水
27章と28章。この27章には仕掛がある。前章の霊鷲山の場面から話が続いているのだが、さりげなく視点が主人公のデーヴァから、アーナンダに移っている。しかし読者には違和感はないはず。デーヴァが物語の流れから姿を消して始めて、アーナンダの視点になっていることがわかる。釈迦の死の場面につきそっているのはアーナンダだけだから、どこかでアーナンダの視点に変えなければならないのだが、いい感じて視点の変更ができた。デーヴァが去ったあと、アーナンダの視点でヴァイシャーリー市への旅が描かれる。その前にシュラヴァースティの祇園精舎でヤショーダラとマリハムが出てくる。大詰めなので主要登場人物のその後の姿を描いておく。シャーリプトラとマウドガリヤーヤナはいわゆる「ナレ死」で、亡くなったことがただ説明されるだけ。ヴァイシャーリーではアームラパーリーが登場する。ここで雪山童子の話が出てくるのはいいタイミングだ。そして最終章、クリナガラでの入滅となる。そこで突然、時間を戻して、デーヴァが姿を消した時点からのデーヴァの物語が再会される。どんな物語かはここには書けない。エンディングは一種のミステリーになっているから。とにかく白ゲラを読了した。あとは本ゲラが届くのを待つばかりだ。日大文芸賞の候補作はすでに読み始めている。これは短いからいいのだが、歴時協会賞は単行本12冊読まないといけない。これはたいへんな作業だ。本ゲラが届くまでに何冊か読んでおきたい。

06/27/木
昨日、白ゲラを読み終えてしまったので、虚脱感がある。だがなすべきことがたまっているので、本日は日大文芸賞の候補作を読む。これは日大新聞の主催で長く続いているコンペティションだ。ぼくも10年くらいは関わっている。日大には芸術学部に文芸科があって、そこの在校生や卒業生の成果発表の場になっているのだが、応募資格はすべての卒業生や職員にあるので、かなり年輩の応募者もいる。学生の作品に比べれば、年輩の社会人には書くテーマがしっかりとあって安定しているのだが、新しさという点では若い書き手に魅力を感じることもある。書き手の年齢などは候補作を読む段階では伏せられているので、手がかりがないのだが、選考結果が出てから本名や卒業年度が示される。毎年のように応募する人もいるので、以前に佳作になって人などの情報も提示されて、書き手の成長の跡がうかがえることもある。さてすべての候補を読みおえてみると、今回は新しいさという点ではとくに目立つ作品はなかった気もする。毎年、何かしら時代を反映したような作品があるものだが、今回はオーソドックスな作風のものが多かった気がする。本日はサーラの総会があった。録音補償金を扱う団体だが、いまは停滞している。サーヴという録画補償金の団体もあったのだがこちらは消滅した。ぼくがいま関わっているSARTRASも似たような補償金の団体なのだが、消滅しないことを祈っている。

06/28/金
SARTRASの三者会議。朝から雨。歴時賞の候補作。2日で1冊くらいのペースで読んでいきたいが、3日はかかりそうだ。

06/29/土
武蔵野大学創立百周年の記念行事で、築地本願寺で土岐善麿の新作能「親鸞」を上演するというので出かける。わたしが10年ほど勤務していた武蔵野大学文学部の創設者が土岐善麿で、大学のは付属の能楽研究所がある。最後の6年間は学部長だったので、研究所長を兼ねていた。大学はもとは女子校で、関東大震災の直後に築地本願寺の境内に建てられた臨時の医療施設が1年で閉鎖されたので、その建物に寺子屋として学校を作ったのが始まりで、それから100年ということだ。ということで、築地本願寺にも縁のある学校ということで、お寺で能の公演をすることになった。りっぱな能舞台があって、見事な上演だった。歴時賞は2冊目に入った。なかなかおもしろい。

06/30/日
今月も月末になった。すでに『デーヴァ』の白ゲラは読了し、日大文芸賞の候補作も読み終えた。歴時賞の候補作は12冊あるが、選考日は8月半ばなので、まだ急がない。もう一つ、まほろば賞というのがあるが、これは候補作が『文藝思潮』に掲載されることになっていて、そろそろ雑誌が届くころだが、例年6作くらいだし、短篇なのですぐに読める。『デーヴァ』の本ゲラが届くとこちらを優先して、まず白ゲラとのつきあわせをしたうえで、校正者のギモンに応えていくことになるが、すでに内容については白ゲラでこころゆくまで読んでいるので、内容に関するギモンが提出されない限りは、誤字脱字の類の指摘に応えるだけでよい。1300枚の大長篇なので、チェックだけでもたいへんだが、内容を熟読するわけではないので、半月ほどで対応できるだろう。まあ、こういう校正の作業もこれが最後になるかもしれない。この作業が終われば、何も仕事がなくなるのではという気もするが、以前、デッドストックが3つくらいたまっていた時期があるので、こういうストックが3つくらいあってもいいと思う。ということで、書きたいテーマがあれば書くし、世の中に訴えかけたいテーマでもいい。実は腹案がいくつかあって、すべての作業が終わったら、じっくりと次の仕事について考えたい。『三体V』上・下もまだ読んでいない。例年、秋には旺文社の仕事と内閣府の仕事をやっていたのだが、内閣府の仕事は後任に譲ることになったので、少し楽になる。ところでこの「デーヴァ」というノートを1年半も続けたので、そろそろノートのタイトルをかえたい。バックの色もかえたいと思う。


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