新しい年創作ノート03

2016年3月

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03/01/火
大学。ブランド発表会。新しいシンボルマークで標語も一新するのだという。よくわからない大学だが、とにかくマークが変わるらしい。その後、食堂で懇親会。よくわからない会だが、とにかく酒があって嬉しい。

03/02/水
学部長会議のあとのあき時間に、来週の大学院入試の情報が入る。すでに5名の合格者が出ているのだが、3回目の入試でさらに1名の応募があったのとのこと。大学院は学生が担当教員を指名するので、指名された教員が面接に出るのだが、その先生の都合が悪いとのことで、研究室を走り回ることになった。結局、申し訳ないが一番新しい先生にお願いした。夜は大学職員の懇親会。昨日と同じ食堂で、同じような料理が並んだところで宴会。とにかく酒を飲んだ。

03/03/木
本日はマッサージだけ。肩ががちがちに凝っている。疲れを癒す。『親鸞』が完成してからまだ一週間ほどにしかならないのだが、遠い昔という感じがする。担当編集者からOKの返事が来たのは3日前で、とにかくいまは締切などのないのんびりした状態だ。

03/04/金
大学。最後の入試。ただし来週の日曜日には大学院の入試がある。それでも学部の入試という儀式がようやく終わる。AO入試から始まって何回の入試があったのか。朝、7時20分に自宅を出るというハードワークを何回か重ねてきた。大学院は始まりが30分遅いし、有明キャンパスなのでそれで10分ほど早い。2回乗り換えだが、最後のユリカモメは本数が多いので待ち時間が読める。三鷹の武蔵野キャンパスは、三鷹まで一本で行けるのだが、バスの時間が読めないので少し早めに行くことになる。入試は待機しているだけなので、自分の仕事が出来る。この前の入試では『親鸞』のエンディングのところをメモで書いていた。ものすごくはかどったという記憶がある。今回は当面の仕事がないので、紫式部関連の本を4冊用意した。とりあえず紫式部ができないかと考えている。小説にならなければ評論でもいい。先に評論を書いてから小説に取り組んでもいい。6月に大学で外部の受講者向けに4回の講座を用意していて、その一つで源氏物語について語ることにしているので、とりあえずそのための準備でもある。『親鸞』が終わったばかりなのに、もう勉強を開始している。何と勤勉な人間だろうと自画自賛する。「新しい年」というタイトルのノートを始めて3月目に突入したのだが、卑弥呼と神功皇后、というアイデアしか出てこない。何だか女性を書きたい気分になっている。河出に聖徳太子を書く前に提出したレジメでは、他のメニューとして、紫式部、額田女王、薬子をリストアップしていたのだが、結局、編集部の指示で聖徳太子になった経緯がある。親鸞を書く直前だったので、順序としてはちょうどよかったのだが、その頃から、女性を書きたいという気分になっていたようだ。これまで書いた女性は、推古、持統、孝謙の女帝三部作がある。額田女王は持統に出てきた。薬子は空海を書いた時にちらりと言及した。孝謙を書いたあと、桓武天皇と道鏡を書いたように、歴史小説はやがてつながっていく。日蓮を書いた時は、冒頭に日蓮が親鸞を訪ねていくシーンを書いた。今度、親鸞のエンディングを書いている時、そのシーンを再現しようかとちらりと考えたのだが、やめた。もうエンディング間近のスピード感のある文体になっていたので、入らなかったのだ。それでも日蓮が鎌倉で活躍しているという噂は書いておいた。自分の書いた歴史小説で、最も古いのは崇神天皇を書いた『角王』だが、最も新しいのはやはり『日蓮』だろう。だが日蓮が出会った有名人も北条時頼と宗時だけなのに対し、親鸞は後鳥羽院と九条道家に会っている。このあたりが一番新しいところだろう。幕末などを書いてみるのも面白いかなと考えているのだが、仏教がらみなら蓮如か天海かとも思う。いま突然思いついたのだが、大国主というのも面白いかもしれない。

03/05/土
かかりつけの医者に行く。それだけ。のんびりしている。

03/06/日
この週末は休み。イーブックの連載を仕上げる。来週はけっこう多忙だ。のんびりできるのは今日までか、と思っていたら、突然、四日市の次男一家が現れた。共同住宅のゲストルームに泊まるのだが、夕食は一緒になる。正月に孫から感染して風邪がまだ治りきっていないというのに。やれやれ。

03/07/月
本日は今週の山場。午前中に大学で教授会をやってから、JASRACの隣のけやきホールで午後2時からのシンポジウムの冒頭の会長挨拶をするというスケジュールで、教授会で問題が生じるとかなりスリリングな展開になるかと懸念したのだが、問題なく教授会が終わり、続く学科会は皆さまのご協力で途中退席できたので、余裕をもって会場に到着。ちゃんと挨拶して、後半のシンポジウムでも必要な意見を述べ、打ち上げにも参加して無事、役目を果たした。孫たちは雨の中をディズニーランドへ行った。雨なので家族連れは少なかったが、学生が多くて、けっこう混んでいたようだ。深夜に帰ってきた。子どもたちを寝かせて、次男と嫁さんと少し話をする。ものすごく子どもを大切にする夫婦だが、自分も若い頃はそうだった。教授会、シンポジウムと、イベントが同じ日に2つあるのは精神的に疲れる。さらに息子や嫁さんと対応するのも非日常なので、これがいちばん疲れたかもしれない。
ペイトン・マニングが引退を表明した。予想されていたことではあるが、古巣のコルツに戻るという噂もあったので、まあ、引退が決まってよかったという気がする。スーパーボウル優勝で引退するQBというのは最高にうるわしい存在だ。フットボールロスという状態だったが、これが区切りがついたようにも思う。それにしても昨シーズンのブロンコスは最初から不思議なチームだった。マニングが明らかに絶不調なのに、なぜか連戦連勝だった。スーパーボウルでのボン・ミラーの活躍を見て、そうだったのかと思った。Footballはディフェンスでも点がとれる。マニングのパスが決まらなくても、無理をしてインターセプトされめようなことがなければ、ディフェンスだけで得点を重ねることができるのだ。マニングは自分の個性を殺して、チームをスーパーボウルに導いた。途中、数ゲーム、控えQBオスウィーラーが先発したこともあった。オスウィーラーはけっこうパスを通していた。しかしマニングの方が冷静に無理をせずに安定した試合運びを見せていた。スーパーボウル勝利という輝かしい結末だったが、もし負けていたら、マニングにとっては欲求不満のシーズンだったかもしれない。終わりよければすべてよしという言葉が、これほどぴったりすることもないだろう。わたしはずっとマニングのファンだったが、一度だけ、裏切ったことがある。セインツが優勝した時だ。ニューオリンズが台風で水没した直後のシーズンだった。震災のあとに仙台のチームが連勝記録を作ったように、災害があるとチームは強くなる。スポーツというのはとくにチームプレーはメンタルな要素が大きい。今シーズンの女子サッカーはメンタルなものが欠けていたようだ。とにかくわたしはニューオリンズ・セインツを応援してしまった。いまとなってはマニングに申し訳ない気がする。さて、次のシーズンはどうなるのか。シーホークスはランニングバックをどうするのか。スティーラーズのロスリスバーガーはまだプレイを続けるのか。49ナーズのキャパニックは移籍するのか。Footballは短期間にフリーエージェントになるし、サラリーキャップもあって移籍が盛んだ。シーズンごとにまったく違いチームにになることもある。とくにQBが移籍するとチームのカラーが変わってしまう。オスウィーラーはブロンコスに残るだろう。新人はどこに行くのか。Footballのドラフトはビリのチームから優先権がある。しかし1人2人、いいプレーヤーが入っても急に強くなるわけではない。次のシーズンもペイトリオッツやパッカーズが強いのだろう。イーライ・マニングのジャイアンツにもがんばってほしい。

03/08/火
文藝家協会の評議員会、常務理事会、理事会、飲み会、飲み会の二次会で一日がつぶれた。咳が止まらず体調がよくないが休んでいるひまがない。

03/09/水
大学。大学院博士課程準備会。研究室でメールを見てから帰るつもりだったが、前の廊下でワックスがけが始まったので出られなくなった。まあ、急ぎの用はなかったので資料などを読んでいた。朝、『親鸞』のゲラが届いたのだが自宅に置いてきた。まだ読み返す決意がつかない。

03/10/木
大学。9時20分から判定会という会議があるだけ。すぐに自宅に帰った。近くに眼科医がオープンしたので行ってみる。実は昨年の人間ドックで、目の検査に行けと指示された。わたしの机から見える窓の正面に、有名な眼科病院のビルがある。明治時代からある有名な病院で、妻も姉もそこに時々検診に行くのだが、ものすごく混んでいて、一日つぶれるということなので、ためらっていた。予約をとるために数日あいている時期にと思っていたのだが、そんなアキ時間はわたしにはない。新しくオープンした眼科医はスタートしたばかりなのですいているだろうと思い、電話してみたら、いつ来てもいいというので、午後の診療の開始時間に行って、検査してもらった。まったく問題はないということで、半年に一度くらい定期検査をすることになった。近くて空いているのが何よりで、設備も充分で主治医も検査技師も女性で親切だった。

03/11/金
ホテルオークラ別館で旺文社のコンクール表彰式。恒例の行事なので慣れている。表彰式のあとでパーティーがあるのだが、次の仕事があるので水割り一杯飲んで退席。文藝家協会でオーファン勉強会。帰宅するとほどなく実家に帰っていた妻が戻ってきた。ここ数日、一人で生活していたのだが、ちょうどいる時間にゲラが届いたので、大きな問題はなかった。さて本日は3月11日。東日本大震災から5年ということで、テレビはその話題を大きく採り上げている。あのあとしばらくの間、テレビは金子みすずの詩の朗読しか流れなかった。コマーシャルや娯楽番組は自粛ということになったのだろうが、この国が全体主義の国だと改めて感じた。国民感情として全体主義なのだが、国のシステムとしての全体主義は、小泉純一郎が郵政事業を民営化したところで終わってしまった。郵便局の貯金を政府が管理できていた時代なら、震災の復興などたやすくできる。実際に中国では震災で壊れたところはその状態のままテーマパークにしてしまって、まったく新たなところにマンションを建設して被災者を収容している。それが全体主義だ。日本は気分としては全体主義的なのだが、すでに機能を失っていく。マネー資本主義といわれる世界経済の中では、儲からない事業には誰も投資しない。復興という、過去のビジョンにすがるだけの事業は進展しないだろう。漁港のように港湾施設と道路、それから冷凍庫と製氷設備などのインフラが整備されれば、魚は海にいるのですぐに復興できる。しかし住民が長い間に培ってきた地域社会や、地域社会に根ざした商業などは、たやすくは復興しないだろう。こんなことはわたしはふだんは考えていない。5年ということで新めて考えているだけだ。それにしても5年前、スペインにいる長男に教えられてドイツの気象情報のホームページを見たら、破壊された原発の風向きが、過去から未来まで連続的に検証できるようになっていた。そして概ね北東に放射性物質が流れていることもわかっていたのに、日本の気象庁はそんな情報を隠蔽していた。東京にも放射性物質が飛んできた日があった。まあ、短期間だしこちらは老人だから影響はないだろうが。あの日、わたしはまだ世田谷区に住んでいた。文藝家協会で総務省の人か何かと面談することになっていて、地下鉄半蔵門線で永田町に行き、地下通路で南北線のエスカレーターのところまで行って、地上に出ようとしていた。赤坂プリンスの別館の前に出てくるエスカレーターだ。エスカレーターに乗っているのはわたし一人だった。突然、異音がして揺れを感じた。エスカレーターの故障だと思った。半分以上は昇っていたので、そのまま駆け上がって外に出ると、高速道路の該当がメトロノームみたいに左右に揺れているのが見えた。街路の上にしゃがみこんでいる人もいた。何だ地震かと思っただけで、文藝家協会の方に歩いていった。事務所に行った。総務省の人もちゃんと来た。一時間ほど話をした。途中で何度か余震があったが、話を続けた。それで事務所の人たちの間に、三田さんは地震が怖くない、という風評が流れたが、わたしだって地震は怖い。だが周囲を見ると天井が破壊されるほどの揺れではないので、机の下に避難する必要はないと感じただけだ。無理に外に走り出たりすれば怪我をする。じっとしているしかないのだし、それだったら話を続けた方がいい。わたしはその日の夕方、吉祥寺で大学の先生方と会食する予定になっていた。そのことしか頭になかったので、電車がすべて止まっていると言われて茫然とした。その時、初めてテレビで津波のようすなども見た。それから麹町から三宿まで歩いて帰った。途中、渋谷を通った時、群衆が駅の周囲を埋め尽くしている光景を目撃した。歩道橋は身動きとれない状態だったので、ハチ公前の方から246を通って三軒茶屋方面に向かった。歩道だけでなく車道も一車線が歩行者用になっていた。歩行者がはみだしたので車が通れなくなっていたのだ。それで車も身動きとれなくなっていた。自宅に被害はなかった。その日の翌日だったか、妻は実家に戻った。義父母を故郷の高知に連れていく約束をしていたのだ。新幹線はふつうに動いていた。西日本には何の影響もなかった。予定どおりに旅行をして妻が帰ってくるまで、わたしはコンビニから食べ物がなくなったので大いに困惑した。そのようなことを久し振りに思い出したが、それだけだ。震災はわたしに何の影響ももたらさなかった。作家の中には、しばらくは何も書けなかった人や、その後も書くものが変わってしまった人もいるようだ。その点、わたしは鈍感なのかもしれない。すでにドストエフスキーを書き直すという作業を始めていたので、それを続けるしかなかった。それにちょうど震災のあった前後に、わたしは大腸ポリープの手術をした。初めの手術では取り切れないポリープがあって再度、改めて手術をすることになった。再度の手術というのは、状態が悪いのではないかという懸念をもたざるをえない。だから東日本で何が起ころうと、自分の自分の命と仕事のことを考えるしかなかった。しかし余震が続く中で行われた手術は無事に終わり、ドストエフスキーの作業も終わって、いまのわたしがある。聖徳太子と親鸞も書き上げて、ずっと以前から考えていた計画はほぼ終わった。あとは余生だ。そんな気がする。が、まだまだ生きそうなので、「新しい年」というタイトルでこの創作ノートを書き始めた。今年の正月から書き始めたのだが、2月まではまだ親鸞を書いていたし、いまもゲラを見ている。こうした一連の作業が終わったところで、これからのことを考えるのだろうか。いまは年度末で大学の仕事も忙しく、とても先のことを考えてる状態ではない。4月になって、新学期が始まり、日常性が戻ったところで、改めて考えることになるのかしもれない。

03/12/土
メンデルスゾーン協会のサロンコンサート。理事長だから出席しないといけないのだが、咳が止まらないので休ませてもらった。もうほとんど治っている気もするのだが、何かの拍子に咳が止まらなくなる。長期的な喘息になったのかもしれない。とにかく自宅で療養する。明日は入試なのでこの休みはありがたい。大学は春休みだが、わたしには休みがない。大学か文藝家協会か、どちらかの仕事があってフルに休める日がなかった。ゲラを見る。第1章が終わった。

03/13/日
大学。有明キャンパスで大学院入試。大学院の入試は3回ある。今回は1名の受験。午前中のペーパーテストの間は待機するだけだったのでゲラを読む。2章と3章が完了。後白河法皇が出てくるところがおもしろい。面接のあと、判定会議もすぐに終わって、2時過ぎには自宅に帰れた。

03/14/月
大学。会議一件だけ。すぐに自宅に帰ってひたすらゲラを読む。妻となる恵信尼および玉日姫との出会いの場面。充実している。ロマンチックだ。4章が終わって5章に入る。ついに法然と出会うところまで来た。たぶん自分のベストの作品だなという気がする。まあ、ドストエフスキー4部作は別だが、オリジナルの歴史小説では、最もレベルのいものになっている気がする。後半は書くのに苦しんだのでどうなっているか心配だが。

03/15/火
ペンクラブ理事会。あとはひたすらゲラ。6章まで終わった。

03/16/水
大学。学部長会議。あとはひたすらゲラを見る。

03/17/木
大学。卒業式。卒業後のガイダンス。卒業パーティー。かなり飲んだが楽しかった。

03/18/金
大学。大学院の卒業式。卒業生3人と飲み会。

03/19/土
このところ大学の行事で飲み会が続いているが、本日はめじろ台合唱団の飲み会。やや疲れがたまっている。

03/20/日
ひたすらゲラを見る。夜中、ゲラ完了。本ゲラが来るのはこれからだが、あとは突き合わせるだけでいい。書き終えてからゲラが届くまでにタイムラグがあり、この一種の冷却期間が貴重で、客観的に作品を見ることができる。前半部分は何度もプリントしてチェックしてきたので問題がないとは思っていたが、それでも文字の間違いなどはあるし、読みにくいところを修正するなどの手は加えた。後半は読み返していないので心配だったが、大きな直しはなかった。テンポ良くコンパクトに親鸞の晩年が語られている。このコンパクトだというところが重要で、仏教だけでなくすべての哲学、論理学には、言葉の限界、論理の限界というものがある。その言葉の及ばざるところは、深入りせずにコンパクトにテンポ良く語って、すりぬけるということが必要なのだが、そこがうまくいっている。親鸞が百人一首を眺めながら、言葉を超えたものを感じるという、想定外のシーンがうまく効いている。とにかく一つの仕事が終わった。あとは本ゲラと突き合わせるだけだ。

03/21/月
祝日で休み。大学の授業期間は、祝日はほとんど授業日になるので、祝日に休めるのはありがたい。ただ大学関係のメールが飛び交っている。短い原稿が残っているのだが、まあ、明日でもいい。

03/22/火
大学で判定会。果てもないほど長く続いた入試関係の仕事もこれで終わった。その後、学科長と打ち合わせをして、研究室でメールを打ち、これで作業は完了。ここ数日、メールで議論を交わしていたことに決着をつける。これですべての作業から解放された。自宅に帰って短い原稿と、編集者にレジメを書く。これで当面は何も仕事がなくなった。一週間は休めるので明日は仕事場に移動する。仕事場で仕事をしない。まあ、いろいろと構想を練ろうとは思っているが、のんびりと散歩などしたい。だが花粉が舞っているか。

03/23/水
これから1週間ほどは大学の仕事がないのでようやく仕事場に移動できた。最新の高層住宅から築30年以上の木造住宅に移動。夜の寒さを石油ヒーターでしのぐ。ベルギーで自爆テロ。長男がベルギーに留学していたので、何度か訪ねたことがある。長男がいま住んでいるスペインを除く外国で、唯一、土地勘があるのがブリュッセルだ。穏やかなよい街だった。最初に着いた時、空港がかなりルーズな感じがした。次男と二人で行ったこともあった。次男と街を歩いている時に、イスラムの人が多い地域に迷い込んだことがあったが、危険な感じはしなかった。いまはそうではないのだろう。

03/24/木
本日は妻につきあって志戸呂イオンに行く。いつもここへ行くとサングラスを買う。本屋にも行く。神田に住んでいるので三省堂まで5分で行けるし、御茶ノ水駅前の丸善は1分で行けるのだが、志戸呂イオンでは妻が買い物をしている間、ひまをつぶさなければならないので、必ず本屋に行く。ショッピングモールには必ず大きな本屋が入っている。ここは谷島屋という本屋さん。地方の書店が次々に閉鎖すると言われているが、モールの本屋さんは成り立っている。要するに小さな本屋さんがなくなっている。これはどの業種でもいえることで、本屋さんだけが不振なのではない。担当編集者からメールが来た。本ゲラは月末になるとのこと。まだのんびりできる。ゲラは自分で一度、しっかり読み返した。追加で挿入するようなところはまったくなかった。言葉を補った方がいいと思われるところがいくつかあっただけで。何度もプリントにして読み返したつもりだったが、それでもタイプミス、変換ミスがいくつか見つかった。こちらを主に文章を読んでいるのに、文字の間違いが見つかる。本ゲラの担当者はもっと見つけてくれるだろう。

03/25/金
この仕事場を建ててくれた大工さんが来たので昼飯を食べに浜松まで行く。仕事場のあるところもいまは浜松市なのだが、もとは三ヶ日町というところだった。もとの浜松市内まで行き、とろろ屋という店に入る。とろろが名物ですべての料理にとろろが付く。わたしはねばねばしたものが嫌いで、納豆、もずく、モロヘイヤなどが苦手だ。とろろは最悪。ついてきたとろろは妻にあげる。とろろがついてくるというだけで、料理はふつう。昔、講演で静岡に行った時、昼食は丸子のととろ料理だった。これはメインがとろろなので食べないわけにはいかなかったが、ここのは味噌が入っていて、まあ、何とか食べることができた。あとは仕事場でのんびりしている。

03/26/土
短期滞在なのでもう本日が三ヶ日の最後の夜だ。ここは丘の上にあるので風が強い。本日は風がなく、庭に蒲団を干した。明日は箱根で一泊する予定。

03/27/日
三ヶ日を出発。仕事場は東名の三ヶ日インターから車で5分くらいのところにある。当然ながら35年前から三ヶ日インターを利用していた。第2東名ができたので第2を通り、三ヶ日ジャンクションで旧東名に戻ることになったのだが、このジャンクションは三ヶ日インターの名古屋寄りにあるので、旧東名に入ってから三ヶ日インターまで戻る感じになる。その遠回りの感じがいやなので、このところ、第2の浜松サービスエリアから出入りすることにした。時間は少しかかるのだが、のんびりとした田舎道なので気分的には楽で、体も疲れない。で、浜松サービスエリアから第2に入り、御殿場インターで下りて箱根の仙石原へ。ホテルでのんびりとテレビを見ていると、巨人は逆転で開幕3連勝した。このところアメリカのFootballのことしか頭になかったのだが、Footballがシーズンオフのいまは、野球も面白いかなと思う。とくに巨人が勝っている限りは野球は楽しい。野球を見ながらハイボール2缶、レストランで食事の時はひたすらビールで、部屋に戻ってからハイボールをもう1つ。いい気分の週末。

03/28/月
朝食の時に土砂降りだったのでどうなることかと思ったが、車に乗り込む頃には雨は上がっていた。御殿場のアウトレットへ。朝早く行くとさすがに駐車場もすいている。ナイキとアディダスで運動靴を買う。大学のキャンパスはかなり広いので、歩き回るのに運動靴は必需品だ。テニス用の靴がソフトではきやすい。いちおう黒の靴を選ぶ。それでナイキの三日月マークが入っていて、少し恥ずかしいのだが、ふつうの革靴では足が疲れるので、大学に行く時は運動靴に決めている。他の仕事でもパーティーなどでなければ運動靴にしている。ということでアウトレットでは必ず靴を買う。あとは妻が買い物をしている間、ベンチなどでメモをとったりする。すいていればフードコートでビールなど飲むのだが、御殿場のアウトレットは中国人の団体が続々と押し寄せるのでのんびりできない。少しはずれたゾーンにいると、あいている椅子もあって時間をつぶせる。食事は喧騒を避けて、東名に入ってから鮎沢パーキング。ここは駐車場が広く、すいている。山桜が咲いている。昔、リュウちゃんという犬がいた頃は、ここで犬を遊ばせた。子どもたちが小さかった頃の想い出もある。少し胸が痛んだ。午後4時には御茶ノ水の自宅に戻っていた。郵便物の整理などをする。急ぎの仕事はないので、資料などを読んでいる。何を書くべきか。紫式部か卑弥呼かと考えている。紫式部は山ほど資料がある。源氏物語そのものもそれほど精密に読んだわけではないので読み返さないといけない。準備に一年くらいかかるだろう。卑弥呼については資料は何もない。すべてを空想で書くしかない。しかし古代史や考古学的な資料はあるはずで、少しずつ読み込んでいきたいと思う。研究室の本棚を探せばまだ読んでいない資料があるはずだ。

03/29/火
大学。在校生への説明会。2年、3年、4年と、同じようなことを話すことになる。学部長などで長めのスピーチが必要。しばらく大学から離れていたので、疲れた感じがした。

03/30/水
本日は夕方の日本点字図書館の理事会だけ。いつも議長に指名されるのでそれなりに緊張する。この3月は仕事場に数日いられたのだが、それ以外の日々はとてもハードだった。スケジュールがぎっしりつまっていた。それも明日で終わる。というか、4月1日に本ゲラを受け取る。そこまでが長い道程だったと思う。ゲラは、すでに校正の入っていないゲラを見ているので、校正者の指摘に答えつつ自分のチェックと突き合わせるだけでいい。大きな問題はないと考えている。結局、1年近くかかった作業でようやく『親鸞』が完成する。いい仕事ができたと思う。このノートを書き始めて3ヵ月になるが、どうやら紫式部を書くという結論になりそうだ。だが、まだ準備が不足している。『親鸞』は依頼を受けてから数年、とりかかれなかった。その間に、ドストエフスキー関連の4作を書いて時間をつないだ。その時間の重みが作品に反映されていると思う。紫式部も5年くらいかけてもいいと思う。

03/31/木
大学。学科会のあと、非常勤講師の方々との懇親会。明日から始まる来年度は4期制への移行など、講師の方々にとっても大きな変化が生じる。すでにシラバスや時間割である程度はお伝えしているのだが、改めて大きな変化が起こることを確認する。いままで前期または後期の16コマでやっていたことを、1学期の2ヵ月間でやるので、週に2回、8週間で完結させなければならない。講師の方は1日に2コマ連続でやることになり、教える方も大変だが、宿題や自宅学習もやりにくくなる。やってみなければどうなるかわからないこともあって、不安だが、乗り切るしかない。お酒を飲みながら交歓する。俳句、短歌、現代詩、小説など、文集でご協力いただいた先生方にお礼を言って回る。けっこう疲れる。控えめに飲んでいたつもりだが、かなり酔ってしまった。3月もこれで終わった。今年の3月はいろいろと大変だった。明日、本ゲラを受け取る。心の準備がまだできていない。しかし自分なりの校正はできているので、突き合わせるだけでいいだろうと考えている。



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