1997/02/01(SAT)

1997/02/01(SAT)



病気になることに伴うさまざまな不便、煩わしさをあれこれ言いたてるのであれば、それは、魚が「なんでおれは魚なんだ」と文句を言っているのと、選ぶところがない。他人からすれば、完全にナンセンスなタワゴトにすぎないだろう。他人からだけではない、わたし自身にとってもそんなものは単なる無意味な愚痴である。点滴も紙おむつも、もはやわたしの一部なのだから、それについてとやかく言いたてることはもうできないのである。

さて、詩はいいもんだという話をしたけれども、いいとばかり言い切るには、乗り越えるべきいくつかの点があることも事実だ。
まずは、その敷居の高さをぐっと下げること。もっと屈託なく、どこからでも書き始められるものであること。一言でいえば、詩の日常化といったことか。言葉の上からいっても、もっと日常用語を増やす。日常語と非日常語との組み合わせを考える。それとさらには、一見何の繋がりもない別個のブロックの導入。ブロックとしては、この三者の組み合わせで詩を構成する。
それには、最初の段階、つまり書き始める時点で、すでに、詩を具体的なウツワのなかにいれておく必要がある。抽象から出発してはいけない。まずは、事実に即す。
今度の場合で言えば、とにかく誰かの死があって、周囲の誰もが追悼の意を表している時に、一人だけ「わたしはみなさんのように素直には、彼の死を悼むことができない」という男がいる、そうした状況であるわけです。言ってみれば、この詩の具体的なウツワは、まあ、葬式だとか、通夜だとかそうした場面です。これを基礎に据える。礎石ですね。そして、この死んだ人物は、わたしの場合、土方巽さんでしょう。だって、それいがいにそのテの儀式といったものには出たこともなく、なにも知らないのでね。
むろん、だからといって、何も土方さんの死を悼むことができないなんて思っているわけでは毛頭ありませんけれどもね。
まあ、イメージとしては、この詩の背景は、土方さんの死を巡る状況ということでいいでしょう。

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夏際敏生日記 [1997/01/21-1997/02/22] 目次| 前頁(1997/01/31(FRI))| 次頁(1997/02/02(SUN))|