1997/02/02(SUN)

1997/02/02(SUN)



具体的なものに即して書く習慣をつける。それは、この世の大枠をまずきちんと認めるところにしか成立しない。これさえ認めてしまえば、あとは楽なのであろう。しかし、わたしのなかには、どうもこの世というものに対する不信があるのだ。この世自体がどこかでぐらぐらと揺れていてすこしも安定していない。とてもこんな不安定なものに身を預けるわけにはいかない、という気持ちが常にある。この世は絶対確実なものではない。いつ裂けるか、いつ溶け出すか分からない。しかしだよ、わたしは、この世が消えるかもしれないと、ほんとうに危惧しているかね。どうだろう? この世は確かに不安定だ。しかし、消滅するかもしれないと本気で思ったことはあるか? おそらくはそれはないのではないかね。それだったら、多少は不安でも、信じていなくても、この世というやつの大枠のところだけは認めてやったらどうだろう。これさえできれば、具体的なものに安心して沿うことができる。そうすれば、もっとリラックスして、具象の世界に入っていけるだろう。
少なくともわたしたちが生きている間に、この世が消えるなんてことはあり得ない。そうであれば、わたしの存在よりは、この世のほうがまだ安定しているではないか。
認めちゃえ、認めちゃえ、この世の存在を認めちゃえ!
とはいえ、そう一気にそんなことができるわけのものでもないだろう。
この世の存在を認めろと言ったからって、きょうから急に、具体的なものと親しくなれるというものでもない。思うに、わたしのなかの非・具体志向は、そう簡単に克服できるものとも思われない。だいたい、たとえば、いまから100億年後に、太陽が爆発し、そのちょうど8分後にこの地球が蒸発してしまう、といった話をまともに取り合わない者たちが、この世の存在をしっかりと信じて支えているのである。こんな話は、はっきり言って、ほんとうは受けないのである。このテの話に胸を躍らせ、100億年のタイムスケールで、日常を逆に抱え込もうといった考えに襲われる人間は、この世のことなど、上の空であろう。
わたしは明らかにこの後者のタイプに属している。
この世よりも太陽の爆発のほうが存在感がある。それより、地球の蒸発にリアリティーを見出す。そんな人間に、そうそう急に、具体物に即した思考が身につくだろうか。
だいたい、認めちゃえ、といわれて、そう簡単にこの世を認められるのか、ここまできたら、元の木阿弥。スタート地点に逆戻り……。

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夏際敏生日記 [1997/01/21-1997/02/22] 目次| 前頁(1997/02/01(SAT))| 次頁(1997/02/03(MON))|