赤い靴


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赤い靴

作詞 野口雨情
作曲 本居長世
 一、
  赤い靴 はいてた
  女の子
  異人(いじん)さんに つれられて
  行っちゃった
 ニ、
  横浜の 埠頭(はとば)から
  船に乗って
  異人さんに つれられて
  行っちゃった
 三、
  今では 青い目に
  なっちゃって
  異人さんのお国に
  いるんだろ
 四、
  赤い靴 見るたび
  考える
  異人さんに逢うたび
  考える
 
1922年(大正11年)


「子どものための歌=童謡」という常識をくつがえす、奥深い名作。関連作品「青い眼の人形」と同じ 1921(大正10年)「小学女生」12月号に発表され、 本居長世が作曲したのは翌1922年8月である。 (http://www.azabujuban.or.jp/kimi/ujo-kashi.htmによる。)

 野口雨情は、多賀郡磯原村(現北茨城市)で廻船業を営む家に長子として生まれた。父親は村長を務めたこともあり、伯父には衆議院議員野口勝一(北巖)がいた。中学より東京で学び、東京専門学校(現早稲田大学)に入学したが、家業が傾いたために翌年には中退している。父親が没すると帰郷し家業を整理した(1904年)。
 その一方で日本初の創作民謡集である処女詩集『枯草』を自費出版したが(1905年)、詩壇で認められることはなかった。その後、カラフトに渡り事業を興して失敗、放浪するように各地でさまざまな仕事に就いている。北海道で新聞記者をしていた石川啄木(たくぼく)の同僚だったこともある。その間も民謡・童謡を作っていたが、詩人としてはほぼ無名のままだった。

 大正中期は、児童文芸誌『赤い鳥』の創刊(1918年)をはじめとする新たな童話・童謡の創作運動が展開された時代である。この運動により雨情の才能が遺憾なく発揮される舞台が用意されることとなった。
 雨情は1919年より童謡の詩を児童文芸誌に発表するようになる。また民謡『枯れすすき』は、中山晋平の作曲により『船頭小唄』となって一世を風靡した。
 以後、主に童謡において活躍した雨情は、北原白秋(はくしゅう)、西条八十(やそ)と並んで3大童謡・民謡詩人と称されることになった。哀切をもちつつも親しみのもてる雨情の作品は、庶民的な人気を博した。
 童謡の代表作には、『十五夜お月』『七つの子』『赤い靴』『青い目の人形』『雨降りお月』『兎のダンス』『あの町この町』『しゃぼん玉』『証城寺の狸囃子』などがある。民謡には『波浮の港』『須坂小唄』などがある。 (http://www.pref.ibaraki.jp/data/people/ujo.htm による)《なお、赤い靴の女の子にはモデルがありました。詳しくは「蛇足」を是非お読みください。》


【蛇足】 この赤い靴の女の子にモデルのあることが明らかになったのは、昭和48年(1973)11月、北海道新聞の夕刊に掲載された、岡そのさんという人の投稿記事がきっかけだった。
「雨情の赤い靴に書かれた女の子は、まだ会ったこともない私の姉です」。この記事を読んだ当時北海道テレビ記者だった菊池寛さんは5年あまりの歳月をかけて「女の子」の実像を求め、義妹である岡そのさんの母親の出身地静岡県清水市を皮切りに、そのさんの父親の出身地青森県、雨情の生家のある茨城県、北海道各地の開拓農場跡、そして横浜、東京、ついにはアメリカにまで渡って幻の異人さん、宣教師を捜し、「赤い靴の女の子」が実在していたことを突き止めたのである。

女の子の名は「岩崎きみ」。明治35年7月15日、日本平の麓、静岡県旧不二見村(現清水市宮加三)で生まれた。きみちゃんは赤ちゃんのとき、いろいろな事情で母親「岩崎かよ」に連れられて北海道に渡る。母親に再婚の話がもちあがり、かよは夫の鈴木志郎と開拓農場 (現北海道、留寿都村)に入植することになる。当時の開拓地の想像を絶する厳しさから、かよはやむなく三歳のきみちゃんをアメリカ人宣教師チャールス・ヒュエット夫妻の養女に出す。かよと鈴木志郎は開拓農場で懸命に働くが、静岡から呼んだかよの弟「辰蔵」を苛酷な労働の中で亡くし、また、開拓小屋の火事など努力の甲斐なく失意のうちに札幌に引き上げる。 明治40年のことであった。

   鈴木志郎は北鳴新報という小さな新聞社に職を見つけ、同じ頃この新聞社に勤めていた野口雨情と親交を持つようになる。明治41年、小樽日報に移った志郎は、石川啄木とも親交を持ったことが琢木の「悲しき玩具」に書かれている。
 「名は何と言いけむ、姓は鈴木なりき、今はどうして何処にゐるらむ」

 雨情は明治41年に長女を生後わずか7日で亡くしている。おそらくそんな日常の生活の中で、かよは世間話のつれづれに、自分のお腹を痛めた女の子を外人の養女に出したことを話したのであろう。
 「きみちゃんはアメリカできっと幸せに暮らしていますよ」。こんな会話の中で、詩人野口雨情の脳裏に赤い靴の女の子のイメージが刻まれ、「赤い靴」の詩が生まれたのではなかろうか。
 雨情はまた夭折した長女を「・・・生まれてすぐにこわれてきえた・・・・」と「シャボン玉」に詠ったと言われている。

 後年、赤い靴の歌を聞いた母かよは、「雨情さんがきみちゃんのことを詩にしてくれたんだよ」とつぶやきながら、「赤い靴はいてた女の子・・・」とよく歌っていたそうだ。その歌声はどこか心からの後悔と悲しみに満ちていた。

 ところが、赤い靴の女の子は異人さんに連れられていかなかった。母かよは、死ぬまできみちゃんはヒュエット夫妻(右写真)とアメリカに渡り、幸せに元気に暮らしていると信じていたが、意外な事実がわかった。きみちゃんは船に乗らなかったのである。
 ヒュエット夫妻が任務を終え帰国しようとしたとき、きみちゃんは不幸にも当時不治の病といわれた結核 に冒され、身体の衰弱がひどく長い船旅が出来ず、東京のメソジスト系の教会の孤児院に預けられたのであった。薬石の効無く、一人寂しく幸薄い9歳の生涯を閉じたのは、明治44年9月15日の夜であった。
 きみちゃんが亡くなった孤児院、それは、明治10年から大正12年まで麻布永坂にあった鳥居坂教会の孤児院だった。今、十番稲荷神社のあるところ、旧永坂町50番地にあったこの孤児院は、女子の孤児を収容 する孤女院として「麻布区史」に も書かれている。

3歳で母かよと別れ、6歳で育ての親ヒュエット夫妻とも別れたきみちゃんは、ただひとり看取る人もいない古い木造の建物の2階の片隅で病魔と闘いつづけた。熱にうなされ、母かよの名を呼んだこともあったであろう。温かい母の胸にすがりたかったであろう。それもできないまま、秋の夜、きみちゃんは幸薄い9歳の生涯を閉じたのであった。母かよがきみちゃんの幸せを信じて亡くなったであろうことが、ただ救いであった。
 母と子の愛の絆をこの「きみちゃん」の像に託し、皆の幸せを祈って、平成元年2月(1989)麻布十番商店街はパティオ十番に「きみちゃん」の像を建てた。(後日談を含む詳細については 、次のサイトをご覧ください)
「麻布十番未知案内」http://jin3.jp/
「横浜遊楽 山下公園」http://hamako.blog10.fc2.com/blog-entry-110.html