作詞 野口雨情 作曲 本居長世 |
青い目をした お人形は アメリカ生まれの セルロイド 日本の港へ ついたとき いっぱい涙を うかべてた 「わたしは言葉が わからない 迷い子になったら なんとしょう」 やさしい日本の 嬢ちゃんよ 仲よく遊んで やっとくれ 仲よく遊んで やっとくれ |
1922年(大正11年) |
「青い目をしたお人形は、アメリカ生まれのセルロイド・・」ではじまる童謡「青い目の人形」
は1921年(大正10年)野口雨情が雑誌「金の船」に発表し、これに
本居長世が1922年(大正11年)に曲をつけた歌で、現在でも多くの人に親しまれ、口ずさまれている歌の一つであるが、
アメリカから贈られた「青い目の人形」とは関係はない。
「青い目の人形」が贈られるのが昭和2年。そして、
この歌はその5年前に作られているのである。 「青い目の人形」は、昭和に入ってから、 あわただしく決定して贈られてきたもので、 この歌が作られた頃には、アメリカから贈られるなどという話は まだまったくなかった。
さて、「赤い靴」と対照的に作られたこの「青い目の人形」は、日本から外国への移民が盛んだった頃の、大正10年に発表されている。外国との交通と言えばもちろん「船」であり、歌詞にも「港」が出てきて、雰囲気を盛り立てている。
-----------------------------------------------------------------------------------
江戸時代の国学者 本居宣長の6代目の子孫で、童謡を初めて作曲したといわれる人物。野口雨情、西條八十、北原白秋ら作詞家とのコンビで「赤い靴」「七つの子」「青い眼の人形」などの名作を残した。
|
【蛇足】 昭和2年に日米の子供達の友好を願ってアメリカから日本へ 向けて12,739体の青い目の人形が小学校、幼稚園におくられた。 この青い目の人形は当時の子供達の宝物としてかわいがられた。 そして答礼の使者人形として「大和日出子」という人形を日本からアメリカに贈った。 しかし時代の変化とともに日米開戦!(昭和16年12月8日) 「憎い敵、アメリカのスパイ」とされ処分を命じられたそうだ。 今ではおじいちゃん、おばあちゃんになっている当時の子供達は、そのときのことを思い出すと ”胸がつまる!”と当時のことを言っている。 罪のない人形をスパイとし、子供自体も人形処分の執行人に 仕立てられ、それを勇んでやらねばならなかった時代・・・戦争は何とも恐ろしいものと言わざるを得ない。 青い目の人形はすべて処分されたはずだが、実は少数の心ある人々によって 密かに保護され、戸棚や物置のすみに隠され残っている。 (http://www.dokidoki.ne.jp/home2/furusato/sousei/ningyou.htmによる) |