忘れちゃいやよ


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忘れちゃいやよ
作詞 最上  洋
作曲 細田 義勝
歌  渡辺はま子
1.月が鏡であったなら
  恋しあなたの面影を
  夜毎うつして見ようもの
  こんな気持ちでいるわたし
  ね、忘れちゃ嫌よ
  忘れないでね

2.昼はまぼろし夜は夢
  あなたばかりにこの胸の
  熱い血潮がさわぐのよ
  こんな気持ちでいるわたし
  ね、忘れちゃ嫌よ
  忘れないでね
3.風に情けがあったなら
  遠いあなたのその胸に
  燃える思いを送ろもの
  こんな気持ちでいるわたし
  ね、忘れちゃ嫌よ
  忘れないでね

4.淡い夢なら消えましょに
  こがれこがれた恋の灯が
  なんで消えましょ消されましょ
  こんな気持ちでいるわたし
  ね、忘れちゃ嫌よ
  忘れないでね
1936年(昭和11年)

 渡辺はま子(わたなべ・はまこ)
 本名加藤浜子。1910年(明治43年)10月27日、横浜市生まれ。武蔵野音楽学校卒業後、33年(昭和8年)6月ポリドールから「最上川小唄」でデビュー。12月にビクターから「海鳴る空」で再デビューした。このころは母校の女学校の教師もしていた。36年「忘れちゃいやよ」が大ヒット。しかし「甘い歌い方が官能的」として内務省から発売禁止処分を受けた。この騒動で女学校を退職したという。
 その後、コロムビアに移籍、戦時色の濃い世相を背景に38年、「愛国の花」に続いて大陸での切ない思いを歌った 「支那の夜」が大ヒット。「蘇州夜曲」など中国大陸を題材にしたヒット曲を連発し「チャイナメロディーのおはまさん」と呼ばれた。上海など戦地への慰問も数多く行った。
 戦後の1952年、フィリピンの日本人戦犯との文通をきっかけに死刑囚が作詞作曲した「あゝモンテンルパの夜は更けて」(作詞 代田銀太郎、作曲 伊藤正康)が、社会的にも大きな話題をまいた。 「こんな歌を作り、みんなで歌っています。渡辺さんに歌ってもらえたら、こんなうれしいことはありません」の手紙と楽譜が渡辺はま子のもとに届いたのだ。彼女は自費でモンテンルパを訪れ、慰問とともに減刑運動を開始。むろんレコード化され、彼らの切ない望郷の思いが人々の胸を打った。これに感動したフィリピン政府は、戦犯全員を助命釈放して反響を呼んだ。
 NHK「紅白歌合戦」に8回出場。日本レコード大賞特別賞を2回受賞(73、82年)。73年紫綬褒章、81年勲4等宝冠章受章。 1999年12月31日逝去(89才)。
【芸能 この日何の日 12月31日(http://www.hochi.co.jp/html/whatday/index.htm )および (http://www.nikkansports.com/jinji/2000/seikyo000112_1.html )による。】
 なお、彼女のモンテンルパ訪問に至る経緯などについては次のサイトが詳しい。
【「モンテンルパの夜は更けて」(http://www.geocities.jp/showahistory/history2/27f.html)および「そこに歌があった」(http://www.ringohouse.com/sesoufiles/1952/52kayou.html)】


ああ モンテンルパの夜は更けて
作詞 代田銀太郎
作曲 伊藤 正康
歌  渡辺はま子
   宇都美 清
1.モンテンルパの夜は更けて
  つのる思いにやるせない
  遠い故郷しのびつつ
  涙に曇る月影に
  優しい母の夢を見る 
 
2.燕はまたも来たけれど
  恋し我が子はいつ帰る
  母の心はひとすじに
  南の空へ飛んでゆく
  さだめは恋し呼子鳥 
 
3.モンテンルパに朝が来りゃ
  昇る心の太陽を
  胸に抱いて今日もまた
  強く生きよう倒れまい
  日本の土を踏むまでは 
1952年(昭和27年)
(注)譜面を入手できなかったため歌詞のみ紹介している。(http://www1.odn.ne.jp/~ccw84010/hideto/fuiritupin160228.htmによる。)