2022.11.13
『「象徴」のいる国で』 菊地史彦(作品社)を読んだ。以下メモ。

第1章 昭和天皇とダブルファンタジー

・・天皇とマッカーサーの対談内容については矛盾する二つの記録がある。通訳の記録には「天皇が戦争の全責任を負う」という発言は記録されていないが、マッカーサーの記録では、その発言に彼が感動した、と書かれている。

・・また、真珠湾奇襲攻撃についての記者の質問への回答に対して、元々の回答文に無い要素が何者か(おそらく近衛文麿)によって追加されている。それは、「奇襲攻撃は東条の勝手にやった事であって、天皇の意図ではなかった」ということ(天皇の責任逃れ)である。

・・通例西洋基準での裁判においては、犯罪の意図を持たなければ、犯罪の直接責任は問われない(過失責任となる)。だから、この二つが矛盾するのであるが、それは天皇の意識においては矛盾ではなかった。

・・これら二つの発言は占領軍の日本統治に最大限に利用された。つまり、天皇を軍部と切り離して、天皇を連合国の責任追及から救済し、その天皇を介して(利用して)日本国民を間接統治する、ということである。「天皇は終始戦争を回避しようとしたにもかかわらず、軍部の勢いを止めることが出来なかったのだが、その天皇は戦争の全責任を負う意思を持っている」というストーリーである。日本の歴史では新たな支配者が必ず天皇を名目として表に立てるのだが、アメリカもまたそれを踏襲したのである。

・・しかし、この本での主題はそういう政略の話ではなく、天皇が内蔵していたその矛盾の在り方が、実は日本人の在り方として本質的なのではないか、ということである。それを戦後史の中で確認していく。

・・天皇とマッカーサーの写真が象徴するものは「我らの天皇は寛大なる保護者を得た」という希望である。50万通にもおよぶ国民からの嘆願書が占領軍に届けられた。天皇の名の元にアジアに侵攻したのであるが、その天皇が赦されたのである!(勿論、アメリカは赦したのであるが、アジアの国々が赦したわけではない。)

・・戦後の天皇の巡幸は、国民に道徳の低下を防ぎ誇りを取り戻させる為に企画された。他人を当惑させるほどのぎこちなさは、彼が純粋で無垢な人間であるというイメージを強めた。彼の究極の目的は天皇制の維持であって、復興や平和は二義的だった。この行動原理に従って彼は死に物狂いで状況を切り開いていく。巡幸で遭遇した熱狂的支持は最大の熱源となった。

・・アジア地域への侵攻という日本人の「原罪」は「神(マッカーサー)」から赦された「天皇」によって帳消しにされた(意識されなくなった)のかもしれない(そもそも最初から意識は無かったのだが)。ただ、その代わりに天皇の臣下達は裁かれた。天皇は殆どの日本人にとっての「キリスト」の役割を果たしたのかもしれない。しかし、侵攻されたアジアの人々の怨念は消えなかったのである。

・・(ちょっと昔に戻って)裕仁皇太子→摂政→天皇の話。

・・大正時代、世の中が不穏な雰囲気を呈してきた。英国留学は英国王室が民主主義となっても命脈を保ち続けている秘密を探るためだった。

・・英国から帰国した皇太子は、大衆の前で演説をして人々を驚かせた。摂政となり、後宮を排して一夫一婦制を維持し西洋風のスポーツにも興じた。現実の政治に興味を示し、雑誌を読んで大正デモクラシーに触れた。皇太后はこれに不満を漏らしたので天皇は儀式にも精を出した。この二重性のストレスの解消手段となったのが生物学であった。ヒドロゾアや粘菌という動植物二重性を持つ生物への興味も偶然ではないだろう。自身のモダニズムと母の神秘主義、立憲政治と神権政治、進化論的世界観と国体論的世界観を同時に表現することの苦悩。

・・二重性のバランスは張作霖暗殺事件の処罰を巡る田中首相叱責→内閣解散事件で崩れた。天皇の叱責行動に対して西園寺公望は立憲君主制に反するとの批判を行い、以後裕仁天皇はストレスを抱えつつも「君臨すれども統治せず」の原則に拘ることになる。

・・幕末・明治と「国体」には二重性があった。一つは天皇のカリスマ性(顕教)、もう一つは統治機構としての合理的立憲主義(密教)である。顕教は山形有朋、密教は伊藤博文が担当した。北一輝も吉野作蔵もそれぞれが「国体」を逆手にとって自説を展開した。しかし、対外戦争の勝利を重ねることで、顕教が密教を凌駕した。1973年、「国体の本義」によってそれが一本化された。西洋近代思想個人主義に対する明確な批判(国民は国家の一機能に過ぎない)である。

・・裕仁天皇の中には二重性が生きていて、神仙政治に拘る皇太后と対立した。二人の弟、秩父宮と高松宮も母の側に居た。二・二六事件に対する天皇の迅速な処断の背景には秩父宮への警戒心があった。

・・裕仁天皇は、1945年8月9日のポツダム宣言受諾の決断においてやっと自らの言葉を取り戻した。戦後の天皇は歌を詠んだ。第4句の「転」には「希望」の言葉が選ばれている。日本は日本であるにもかかわらずアメリカのようであってよい、というメッセージである。この二重性が戦後を規定している。

・・戦後の天皇は積極的に政治に関わった。マッカーサーとの度重なる会談やワシントンへの直接のパイプを通じて日本の安全保障の方向性を打ち出した。非武装の日本を守るには国連軍では心もとない。米軍の駐留をお願いするしかない、と。

・・天皇は自らの責任を認めて退位する意思を3回示した。連合軍進駐直後、東京裁判判決直後、講和条約締結直後。しかし、いずれも政治的圧力から慰留された。謝罪を行う機会も封じられた。こうして、「象徴」は自らの責任に向き合わないという意味での象徴となり、国民もそれに従ったのである。

第2章 孤児と貴種物語

・・12歳で出演した映画『悲しき口笛』で、美空ひばりは戦災孤児の「少年」を演じた。性別を超えた神性を感じさせる。『鞍馬天狗』シリーズの『角兵衛獅子』にも少年杉作役で出演した。原作の大仏次郎は杉作をそれほど重視していなかったが、美空ひばりはその演技力で杉作に貴種物語の主人公(義経)という意味を与えた。

・・角兵衛獅子は新潟県の月潟村を起源とする。子供に獅子として曲芸をさせる見世物である。その角兵衛獅子である杉作が鞍馬天狗に見込まれるのである。貴種物語というのは折口信夫(しのぶ)が提案した日本の物語の類型の一つである。古代共同体から疎外された神職が路上の語り部となって、彼らの神を語ることに起源を持つ。元々は聖なる身分でありながら、共同体から追放されて流浪の身として苦労し、最後には聖性を回復する、という物語である。

・・戦後の孤児ブームは、単に戦災孤児が街に溢れていたということだけではなくて、人々が自らの「孤児性」を自覚していたことによる。1930年代後半から始まった「総力戦」体制は、それまでの階級差を一時的に小さくして、国民の一体感を演出した。その平等意識が戦後復興の中で拡大する格差に対する怒りを引き起こし、他方で戦後没落した上層階級に不安をもたらした。いずれの階層も孤児の奮闘とその聖性に自らの運命を重ね合わせた。イギリスやアメリカにおいても孤児の物語の流行は社会変容と階級流動に同期している。

・・1954年、高校生になった美空ひばりは、それまでの聖少女から恋する女に変身し始める。貴種の役割は相手の男優に担われ始める。中村錦之助、東千代之介、大川橋蔵、市川雷蔵である。ひばり自身はこの貴種性の喪失に対して屈託なかったが、母喜美江はひばりの貴種性にこだわっていた。

・・貴種性を引き継いだ美形の若武者達もやがて貴種性から覚醒していき、チャンバラ映画から複雑な心理描写へと志向を変えていく。1958年、三島由紀夫原作『金閣寺』での市川雷蔵の演技。徴兵検査で落ちて戦死という「美」を逃した三島由紀夫の「美」に対する復讐を演じている。敗戦によって戦後世界に放り出されて、自らの存在理由を失った、という意味で、貴種の資格を得たと考える。これをアプレゲールの貴種流離譚と呼ぶ。この場合の「貴」は天皇の為に死ぬということである。

・・『仮面の告白』の中で、主人公は汚穢屋になりたい、という欲望に駆られる。身を下層に落として、且つそれが人々の目に晒されていることが要件である。そこには、その姿が仮象であり、いつか本来の姿(貴種)が現れるということへの希望があるのだが、それは満たされないで終わる。「貴種は流離する」は「流離する者は貴種である」にすり替わり、三島由紀夫は、貴種に期待して、「流離する者」に惹かれていく。

・・『鏡子』はお金持ちの夫と別居している鏡子の邸宅を根城にしている4人の青年の野望と成功と没落を描いている。貴種流離譚の失敗であり、「戦後」の終わりを象徴する。

・・映画界もチャンバラ映画が廃れて、任侠映画全盛となった。鶴田浩二と高倉健はやくざ世界が資本主義の論理に呑み込まれて堕落していくことへの封建社会の理想からの抵抗を演じた。

・・三島由紀夫は戦後作家として最も貴種物語にとらわれ、それと格闘した作家であった。貴種の徴を血縁ではなく、境涯に求めざるを得なかったのだが、戦後の経済成長は異端者や逸脱者を全て包含して呑み込み溶解してしまった。最後に託したのは。『春の雪』『奔馬』『暁の寺』『天人五衰』における「転生」というまことに恣意的な仕掛けであったが、これは見事に失敗した。『豊穣の海』シリーズは中断され、1970年に彼は自決した。三年後、美空ひばりは、弟の不始末で、10年間トリを務めた紅白歌合戦から追放された。もはや誰も貴種物語を必要としなくなったのである。

第3章 鏡を割ってよ!ピーナッツ

・・1950年代のジャズブームとロカビリーは喫茶店を中心としていた。これを劇場レベルに乗せたのが渡辺プロの始まりである。ミュージシャンの月給制を始めた。ロカビリーブームの最中で、彼らはその基底にあるアメリカのポピュラーソングに目を付けていた。そこで当時ブームになっていたコーラスグループ(ダークダックス、デュークエイセス、ボニージャックス等々)の音楽を取り込んで、「日本産のポップス」を作り出した。クラシックとも歌謡曲とも違うジャズの和声が新鮮だった。その成果が伊藤姉妹(ピーナッツ)である。

・・伊藤家は敗戦で海軍の職を失い、名古屋で惣菜店をやっていた。双子の姉妹は舞踊で頭角を現し、NHK児童唱歌隊で活躍し、偶然からジャズ奏者の指導で歌い始め、見出されて東京の渡辺家に住み込んで、宮川泰の指導を受けた。

・・1959年、洋楽のヒットソングを歌っていた伊藤姉妹(ピーナッツ)のレコードデビューは、渡辺美佐子が米軍基地で見つけてきたクラリネットの小曲に可愛らしい歌詞を付けた曲『可愛い花』だった。

・・渡辺プロは開局したばかりのフジテレビに初めてのポップス専門番組『ザ・ヒット・パレード』を作り、大成功を収めた。ピーナッツを中心として、伊東ゆかり、田代みどり、園まり、中尾ミエ、木の実ナナ、田辺康夫、梓みちよ、坂本九、九重佑三子、、。

・・『シャボン玉ホリデー』はピーナッツとクレージーキャッツを売り出す番組だったが、同時に歌とバラエティの両立を目指していた。これによって、芸の幅の広いタレントが養成された。クレージーキャッツのキャラクターに対応して、ピーナッツはハナ肇の娘たちというキャラクターを身に着けた。

・・ピーナッツは「可愛い」というキャラクター付けをされた最初の歌手であった。ひばりやチエミやいずみには「戦後」が生きていて、「逞しい」という表現が合っている。「美しい」は対象の属性であるが、「かわいい」は自他の不安定な関係性である。容姿の子供っぽさと双子の微妙な声質差による唯一無二のハーモニー。少女と大人の女性の中間のような存在が二重に現前していることへの戸惑い。これらが人々を熱狂させた。

・・『モスラ』への出演はピーナッツのファン層を子供にまで拡げた。役柄は身長30cmの小人=妖精である。怪獣モスラの卵を産んだ女神の分身である。映画における本当の怪獣はモスラよりもむしろピーナッツの演じた「小美人」の方であった。ピーナッツは、いわば芝居小屋の見世物としての役割を演じた。

・・ピーナッツを上記のような「見世物」から救い出し、大人の女性への脱皮を促したのは、岩谷時子ー宮川泰のコンビによるオリジナル曲であった。岩谷時子の特徴:目に見える具体性を配置することで歌の世界を構築する方法。

・・「ホームソング」:パパやママの居る世界、アメリカ中流家庭への憧れ。その背景での「恋」にはホームからの脱出という軽い罪悪感が伴う。代表作『プランタン プランタン』。傑作『ふりむかないで』(1962年)。背景は、女性が専業主婦になる、結婚して子供をニ・三人産む、多産少死時代の到来である。(これは90年代に崩壊する。)更に性愛を公然と歌った『恋のバカンス』(1963年)の衝撃は世界的な高度成長の始まりを背景としている。ただ、性愛は歌い手によって経験された事実ではなく、「夢見られている」。この「二重性」。

・・『ウナ・セラディ・東京』の最終節「街はいつでも後ろ姿の幸せばかり」は「ホーム」の喪失を歌っている。自分の求める自己像と相手の求める女性像が二重化してひとつにならない。

・・1963-67年は海外進出に挑戦し、失敗した。

・・ヒットメイカーとなっていたなかにし礼がピーナッツに次の飛躍をもたらした。『恋のフーガ』には岩谷のような「含み」がなく、ストレートでスピード感がある。ピーナッツに欠けていた情感表現力を逆手に取った。(その頃は美空ひばりを代表格とする「艶歌」がブームになっていたのである。)ピーナッツの持つ高度な歌唱技術を全面に押し出した。しかし、この歯切れのよい恋のフーガは社会状況からは浮いていた。

・・1970年台、渡辺プロが衰退する。1975年、伊藤エミは沢田研二と結婚。「私達は作られたタレントでした。」本格的な消費社会が到来し、女性たちは決断力と行動力を鷹揚さを身に着け始めていた。山口洋子作詞の『浮気なあいつ』にはピーナッツが再浮上する切っ掛けが含まれていたのだが、それは別の歌手たちに引き継がれた。

第4章 未来幻想の夏

・・1970年の大阪万博は、団塊の世代にはさしたるインパクトもなかったが、1960年代に生まれた人たちに大きな衝撃を与えた。「万博小僧」である。ベトナム戦争とか全共闘とか公害とか核実験とか、いろいろと聞いているけど、アポロが月に行き、大阪万博が『人類の進歩と調和』を見せてくれて、明るい未来を信じさせてくれた。

・・開催までの間、万博はさほど注目を集めなかったが、開催して春休みに入ると爆発的に入場者が増えて、総数6250万人に達した。大量の情報発信の力である。マスメディアには「万博翼賛体制」ができた。背後で指揮していたのは、1964年の東京オリンピックでノウハウを蓄積した電通であった。電通は1965年から広告代理店の枠を超えて、プロジェクトに深く関わった。社員旅行に代表される団体旅行の全盛期、戦後の2世代家族の家族旅行ブームも手伝った。日本交通公社はこれを機に「旅行」ビジネスを拡大した。電通の「広告」もそうであるが、それは「未来」への幻想ビジネスと言える。

・・万博は日本に大量の外国文化が展示された最初のイベントであった。大衆が「世界」を直接感じる絶好の機会となった。同時に、敗戦によって得た劣等意識の解消ともなった。

・・万博において日本は積極的に「未来」を演じた。そのために企業群が前衛芸術家に活躍の舞台を与えた。中でも、黒川紀章の「タカラ・ビューティリオン」と東芝IHI館。武満徹、クセナキス、高橋悠治、阿部公房、勅使河原宏、市川崑、谷川俊太郎、横尾忠則、松本俊夫、吉村益信、田中友幸、、。ただ、これらは明るい未来だけでなく、未来に潜む暗い影をも暗示していた。

・・万博の基本理念を主導したのは桑原武夫であったが、それは弟子の梅棹忠夫に引き継がれ、彼が加藤秀俊と小松左京を引き込んだ。文明の歴史を偉大さを称え、更なる未来を予見しながらも、その未来に対する不安を隠さない。そこに含まれる「二重性」。小松左京はやがて万博を離れて「未来学」に没頭する。核の危機が平和共存路線によって延期されて、新たな観測手段による予測がなされるようになり、人口爆発、資源寿命、自然破壊、の可能性が見えてきた。テーマ委員会の中では、未来に待ち受ける「不調和」を乗り越えるための「人類の知恵」に焦点を当てることになりかけたのだが、モントリオール万博に近いということで却下されて、「人類の進歩と調和」がテーマになった。しかし、これはあまり尊重されず、現実の展示には「二重性」が感じられ、小松左京は3年後に『日本沈没』を出版することになる。

・・会場設計は丹下健三主導の元、「メタボリズム(新陳代謝)」を思想的背景とした未来都市を目標とした。復興から成長へ向かう戦後日本の価値観に適合した。他方で「未来」に対する漠然とした不安は、自然な反応として現れた「祭り」というコンセプトによって和らげられた。お祭り広場ではあらゆるタイプのエンターテインメントが繰り広げられた。

・・岡本太郎と丹下健三は対照的でありながら交友を保っていた。丹下健三の「大屋根」に対抗すべく岡本が構想したのが「太陽の塔」であった。勝利したのは岡本の方であった。進歩主義、モダニズムに対峙する、ただポカンと立っているだけの巨大な塔。

・・丹下健三はル・コルビジェが果たせなかった夢「アーチ建築」を代々木国立屋内競技場でかなえた。岡本太郎はピカソに心酔して、古典主義とロマン主義の矛盾を抱え込んだ「対極」を方法論として見出し、ピカソのアフリカ・オセアニア民族文化への傾倒に対しては、縄文土器への傾倒を見出した。

・・万博の最終日には終了後にも82,000人の観客がお祭り騒ぎを演じていた。そこには25年分の戦後が凝縮され、人々は、日本人全体が一ヵ所に集まって幻想を共有することはもうないだろう、と感じていた。

第5章 旅人たちの感情史

・・1969年11月大菩薩峠で、軍事訓練の為に集まっていた赤軍(60年安保闘争の流れを汲むブントからの分派)は逮捕され、53名の中には上野勝輝も居た。(これは昔彼と話した僕の印象であるが、遊び感覚で楽しそうに世界征服の夢を語る彼を見て、この人にとって革命は人の為ではなく自分の為なんだと思った。それとは対照的に中核派の人たちは生真面目で悲壮感さえ漂わせていた。)この事件で赤軍派は国内での蜂起をいったん諦めて、海外の反体制派に合流して拠点を作ろうという動きになった。

・・その最初の事件がよど号ハイジャックである。リーダーは塩見孝也だったが、逮捕されて、田宮高麿がリーダーになっていた。北朝鮮に行った理由はキューバまで飛べる飛行機がなかったからである。犯行声明にも「遊び心」が溢れている。しかし、北朝鮮は彼らの嫌うスターリニスト国家であるから、そこに留まることは本意ではなかった。次のターゲットはパレスチナということになり、奥平剛士と重信房子と岡本公三が医療支援という名目で旅立ち、1972年で乱射事件を起こした。赤軍派の新しいリーダーとなった森恒夫は反対していたらしいが、そもそも重信は森への反発からパレスチナに旅立ったと言われている。

・・もう一つの流れは、日本共産党革命左派である。永田洋子と坂口弘。毛沢東の中国を信奉し、中国に渡ろうとしたが、赤軍派の森に説得されて、共同して国内での武装蜂起を目指すことになる。山岳地域を転々としながら軍事訓練をする間に、リンチ事件が起き、あさま山荘事件で全てが終わった。

・・生真面目なマルクス・レーニン「主義」を貫いていた中核派の方には別の動きが起きた。政治局員だった小野田譲二は中央集権的な党のやり方を批判して離脱した。彼は仲間と共に、吉本隆明の詩の句を引用して、『遠くまでいくんだ』という雑誌を刊行した。革命の為に組織の強化を優先する既存左翼組織を批判して個人の自立を訴えた。これは全共闘の発想と相性が良かった。第2号には「吉本隆明論」、第3号には「黒田寛一の闘いと敗北」、第5号(1972年)には連合赤軍事件を論じた「政治における極北の論理」がある。吉本隆明が批判され、政治と文学の間の橋渡しへの期待が砕かれた。1974年第6号が最後となった。

・・高橋照幸というシンガーソングライターの話。「休みの国」というアルバム。岡林信康風である。(僕は全く知らなかった。)70年台、既にポピュラーミュージックはフォークソングを捨てて、フォークソング風で洋楽的な歌謡曲(ニューミュージック)へとシフトしていた。戦後故郷を出てきた人々が都会に定着し、故郷喪失がテーマとなり、多くのミュージシャンがそれを歌った。しかし、高橋は故郷を歌わない。故郷はあの町であり、彼の放浪はあの町とこの町の間を当て所もなく行き来することだけである。

・・万博をきっかけにして始まった旅ブームに電通は「ディスカバー・マイセルフ」というコンセプトを立てた。自分探しの旅である。交通公社は「ディスカバー・ジャパン」を歌った。女性週刊誌は旅行特集を組んだ。消費構造自身が「家族消費」から「個人消費」へと変わった。注目すべき小説は倉橋由美子の『暗い旅』である。(僕は倉橋由美子を愛読していたが、やがて鼻に付くように感じ始めて止めた。ただ、この小説と『ヴァージニア』だけは残してある。)彼女は反スターリン主義なのか、実存主義なのか、という問いをはぐらかしたまま、おそらくそのどちらでもない個人主義として生き延びた。

・・『アンアン』は独身女性の自由闊達な気分を作り出す新しい種類のファッション誌であった。女性向けのフェミニズム。京都・萩・尾道等への今風の旅特集。女性が自分だけの為に旅をする時代になった。

・・ジャンボジェットの就航、変動相場制による円高ドル安、万博の余波は、1970年台の若者の海外旅行ブームを生み出した。『地球の歩き方』が売れた。

・・沢木耕太郎の旅は、終わりを見つける契機を失う。目的が無い。探していた筈の自分はいつまで経っても判らない。三田誠広の小説の「モラトリアム」。現在に向き合うことを避けて、自分はもっと別の何かだ、と思い込む事。

・・「自己啓発セミナー」が流行した。教育行政も「個性」を前面に押し出した(新自由主義的教育改革)。バブルが終わると共に、「自分探しの旅」は終わりを迎えた。

・・ユーミンには、進駐軍文化とそこからの脱却(ポスト・コロニアル)過程を直接見たという背景がある。荒井姓時代のアルバムは、自身の少女時代とポスト・コロニアル時代の日本を重ねて、その終わりを懐かしむという基調に基づく。終わらせることで、それは「永遠性」を獲得する。しかし、ユーミン自身はそこで終わったのではなく、松任谷正隆を得て、終わりの美学に反抗し、次々と新しい恋の歌を作り始めた。辛い恋の悲しみから楽しい恋の際限ない繰り返しへの転換である。この楽しさの反復は「リゾート」という概念と合致していた。高度消費社会が巧みに操作し得た大衆の幼児的衝動である。政府は「リゾート法」を作ってそれに応えた(が、バブル崩壊で消滅する)。

・・1980年台のユーミンはリゾートの背後にある「反復」を深化させた。「輪廻転生」である。眼前の「自分」に開き直るのが無益なのと同様に、感知しうる「自分」を手掛かりにあるべき自分の姿を追い求めるのも虚しい。人は時を超えて、実は見知らぬ「自分」へと転生するしかない存在である。女性たちには、出来るだけ多くの男たちと恋を繰り返し、自分を変えることを呼びかけた。「ニュー・ミュージック」は大衆化した。

・・バブルが終わり、1990年台になると、ユーミンは街の喧騒を逃れて「辺境」の聖地を夢見る。2002年のアルバム『Wings of Winter, Shades of Summer』はその終端を示している。

・・1980-90年台の村上春樹は、共同体から「離れる旅」と共同体における自分の意味を「探す旅」の二つを統合しようとした。『ねじまき鳥クロニクル』『海辺のカフカ』。それは貴種流離譚の再現でもある。

第6章 「象徴」のカップル

・・1960年、明仁皇太子夫妻がひばりが丘団地を訪問した。モダンカップルとモダンライフ(団地)の出会い。

・・皇太子は家庭教師エリザベス・ヴァイニングと小泉信三の影響を受けている。美智子妃は皇太子の国民認知に決定的な役割を果たした。浩宮徳仁が生まれると、乳母制を廃止、親子同居を始めて、料理も作った。「恋愛結婚、ファッション、核家族、標準語、高級車、医療、、、」といった戦後文化が二人を媒介として地方に拡がった。

・・昭和天皇が行幸を自らの存在意義の確保の為に行ったとすれば、皇太子夫妻の行幸は「象徴天皇」としての天皇の大衆化の為であった。松下圭一は1959年に『大衆天皇制論』を書いて、マルクス主義の社会像を覆した。大衆は行動の主体であると同時に操作の客体でもある。この二重性。天皇は世襲制であるにもかかわらず、正統性を国民から引き出さねばならない、という状況になった。その為の天皇のマーケッティング戦略が「幸福な家庭」であった。

・・1970年代、「幸福な家庭」の最後の買い物は「マイホーム」となった。山田太一のドラマにはこの戦後家族の理想が崩れ行く様子が描かれている。

・・1963年以来、毎年軽井沢には沖縄の小中学生の代表が皇太子夫妻の元に訪れていて、それを切っ掛けに夫妻は沖縄の歴史を勉強していた。そして、1975年の沖縄海洋博出席を名目として皇太子夫妻は沖縄訪問をおこなった。相当な決意であった。沖縄解放同盟の抗議運動により、火炎瓶が投げつけられても、皇太子夫妻は怯まなかった。

・・昭和天皇は陸海軍に配慮して戦争終結を遅らせたことと、講和の時に安全保障戦略として沖縄をアメリカに差し出したことの二つのことで、沖縄に負債を負っている。

・・1987年、昭和から平成になり、新天皇は自ら「象徴」の役割を自覚し、積極的に行動し始めた。護憲・平和・福祉を旗印としていたことから、やがて国内右派の反撃を受けた。1990年代、とりわけ新皇后の美智子妃に批判が集中した。時代背景としては、バブルの崩壊、第二次天安門事件、ベルリンの壁崩壊、鄧小平の登場、湾岸戦争、ソ連邦消滅。「ポスト工業化」という世界史的な構造変容への漠然とした怖れがあった。海外では先行して、1970年台に国内製造業の空洞化が始まっていた。製造は海外に移り、国内には企画・開発・設計等の知的労働部門が残り、そこについていけない人々が「下層」に落とされた。ただ、日本は先に空洞化したアメリカの製造部門を引き受けることで、この流れがすぐにはやってこなかった。結婚・出産で退職した女性が失業者としてカウントされなかった、という事情もある。しかし、社会の変化は人々に漠然とした不安を与えた。1980年代のトレンディドラマが影を薄くして、1993年には象徴的なドラマ『高校教師』がヒットした。消費者としての都会的大衆を新たな支持基盤として追及していた平成の天皇・皇后は、そこからあぶれそうになっていた人々の怨嗟を受けることにもなった。美智子妃はストレスでついに声を失った。

・・1995年の阪神淡路大震災に始まって、東日本大震災、原発事故、オウム真理教事件、山一證券破綻、リーマン・ショックと続く。マスコミのバッシングによって、国民との意識のずれを理解した天皇・皇后にとって、これらの悲劇は自らをアピールしなおすチャンスでもあった。

・・明仁天皇は「象徴」天皇という位置づけを活用して、政権のロボットからの自由を模索した。国民に自らを理解させ、自らも国民を理解することで、初めて象徴となりうる。2001年の「桓武天皇の生母は百済出身である」、2004年の米朝邦雄の日の丸・君が代強制への反対意見、2005年のサイパン島慰霊訪問、2013年での「天皇陛下万歳」への答礼拒否、誕生日会見での反戦平和護憲宣言、2015年のペリリュー島訪問、2016年の「お言葉」での退位希望(皇室典範改正論議が安倍首相の改憲キャンペーンへの側面攻撃となる)。美智子皇后は、2013年の水俣病患者の見舞い、1968年来続くハンセン病療養所訪問、2013年の誕生日会見での「五日市憲法草案」への言及。

・・父裕仁天皇は積極的に新たな支配者であるアメリカを認めて、国民もそれを歓迎したのであるが、明仁天皇は、その「安保国体」から距離を取って、アメリカ依存から国民依存へと舵を切った。「昭和の負債」を返さねばならないという決意である。

・・明仁天皇が追及した「象徴」天皇は日本の歴史からみるとむしろ普遍的なものであり、それこそが「国体」なのではないか?明仁天皇夫妻は聖武天皇と光明皇后を夢見ていたのではないか?

(考察)

・・第1章「天皇が内蔵していたその矛盾の在り方が、実は日本人の在り方として本質的なのではないか、ということである。それを戦後史の中で確認していく。」という事で始まった筈なのだが、第2,3,4,5章での社会・文化現象の記述は必ずしもその「確認」まで至っていない。というか、どうも関連が判らない。そこで、大雑把にまとめなおしてみた。

・・まず、明治維新において、天皇が「元首」となり、政治の責任を負うようになったのだが、逆に言えば、実質的な権力者(薩摩と長州閥)に対して自由に発言することが出来なくなった。敗戦によって、天皇は政治をアメリカ駐留軍に任せた上で裏から操るという本来の姿に戻ることになった。こういう「政治」のやり方はむしろ日本の伝統である。

・・第2,3章は戦後から1970年頃までであり、日本の復興と高度成長の時代である。裕仁天皇が目論んだ通りに、日本はアメリカの経済力と軍事力を最大限活用して、アメリカに次ぐ2番目の経済力の国になった。ゼロから再スタートした国民が、苦しい生活の先には必ず幸せがある、という「貴種物語」を歓迎したという心理はよく判る。「可愛い」ピーナッツも「豊かで自由な」アメリカのホームドラマも大多数の国民の願望をよく表している。「名を捨てて実を採る」という意味で、国民は天皇のやり方を真似たのである。三島由紀夫はその中で追い詰められて自決した。しかし、バブル崩壊でそこに暗雲が立ち込める。

・・第3,4章は1970年頃から1990年頃である。日本に次々と不幸な事件が起きて、社会不安が文化に影を落とす。日本人が同じ気持ちで祭りを楽しんだ万博が終わると、一気に社会が暗くなっていく。万博で始まった「新たな自分を発見する」旅のブームも「革命」や「リゾート」というマンネリを抜けると、「モラトリアム」自閉症に向かう。

・・この時代、明仁皇太子と美智子妃は裕仁天皇の残した負債を返すべく、活動した。そして、自らが天皇になると、「象徴」を活用して、アメリカではなく、国民生活の実態に焦点を合わせた。改憲によって再び「元首」となることだけは嫌なのである。天皇もまた自らの「自由」の為に闘っている。要するに、政権の責任を負うのではなく、「正義」の側に立ちたいのである。

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