2018.09.21
『神学の思考』佐藤優(平凡社)を借りてきて、だらだらと読み飛ばしたりしている内に2週間が過ぎてしまった。「なるほどキリスト教と言っても各分派の考え方はこんなに違うのか。」とか、「救済されるという目的意識無しにはキリスト教の本質は見えてこないのか。」とか、いろいろと教えられたのだが、どうも聖書の言葉には馴染めないのである。とりあえず貸出延長をしておいた。最後までやって来て佐藤優の意図が明確に述べられていて、再読してみようか、という気になってきた。それを後書きから引用しておく。

      <キリスト教神学の特徴は、一般の人々の目に見えない事項を可視化することである。><柄谷行人が繰り返し指摘しているように、資本・国家・ネーションは、不可分のシステムを形成している。しかし、このシステムの内部にいる人々には、この現実が見えない。国家の力によって資本を制御することを考えたり、資本の自由な運動によって国家機能の極小化を試みたり、民族的な同胞意識によって、資本と国家を制御しようとする。しかし、資本には搾取、国家には暴力、民族には自己中心主義という克服することが難しい悪がある。><キリスト教は性悪説に立つ宗教だ。「神学の思考」を体得することで、普段、感知することがなかった、悪を認識できるようになる。><近現代の世界観を正面から受け止め、我々が現実に生活するこの世界の問題を解決すると同時に神の国の到来に備えることができる神学を構築しなくてはならない。そのためには、近現代人が無意識の内に持つ人間の自己絶対化を克服し、人間の力が決して及ぶことのない外部が存在することを、理屈だけでなく、自らの存在を懸けて、皮膚感覚で理解する作業が不可欠になる。>

      人間の力の絶対及ばない領域の問題に対して、それでも何とかしたいと思うとき、多分そういうときに、神学の考え方が生かされるという事だろう。<私の著作は、例外なく、(聖書を引用することがなくても、)キリスト教について伝えています。一般読者でその事に気づく人がときどきいます。>と。。。

      そういうことで、読み直しながらメモを取ってみた。さて、究極の処、近代科学に浸りきってしまった僕にとって、彼の考えの中で、「人間の力の絶対に及ばない領域」というのは、「科学の方法ではどうにもならない領域」と言う風に言い換えることができるだろう。そこは複雑系の世界の中で「解きほぐしようもない過去の来歴」として棚上げしているものに相当する。それが、信仰によって「目に見えないが確かに存在するもの」となるのか?そこに至るために、旧約聖書の世界を背景にして、新約聖書の中でのイエスと他者との関わり方を読み解くことが有効であり、その本質は他者への奉仕(愛)であるというのであるが。。。

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#  プロレゴメナ  #
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・・・なぜいま、キリスト教を学ぶのか
      啓蒙主義の嵐を潜り抜けたキリスト教、しかし、キリスト教は本質的に反人間主義である。カトリック教会・正教会では「教義」がある。しかし、プロテスタントティズムにおいては、人間の側で絶対的に正しい教義を見出すことができるとは考えない。人間が語る事ができるのは多くの可能態としての「教理」である。著者はフロマートカ、カール・バルトの影響を受けている。神は人間の知力をはるかに超えているから神を理解することは不可能であるが、その不可能に挑むのが神学者の責務である。「純粋の、本来のキリスト教」というものは無い。キリスト教はそれぞれの文化との触発によってその具体的な姿を現す。土着化されたキリスト教は「物語の神学」を持つ。

・・・キリスト教神学の方法論
      現象として捉える方法。宗教社会学。例・・・<主権や国家の考え方はみな、神のアナロジーである。近代国家が立法権を持つのもそうである。人権も神が自然法を通じて、人々に与えた権利である。キリスト教徒はキリスト法を持っておらず、世俗法に従う。市場メカニズムについては中世では懐疑的であったが、アダム・スミスはこれに「神の見えざる手」として根拠を与えた。> 神学者はこのような客観的な立場を採らない。知識としてではなく、自らの人生の問題として受け止める。学識や知識に対しては究極的には信頼を寄せない。人間を苦しみから解放すること、救済を目指す。

      方法として「類比」を用いる。「隠喩」の方が差異性が大きいので恣意的な解釈の危険があるが、これもしばしば使われる。パウロは、神の意志が働いて世界が造られたので、被造物にも神の意志が働いていると考えた。「創造の秩序の神学」。被造物という「存在」と神の意志と類比している。しかし、自然を拝むことは偶像崇拝になるため、プロテスタント神学では認められない。「存在の類比」ではなく「関係の類比」、つまりイエスとその周辺の人達との具体的な人間関係、イエスと神の関係から類比する。

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#  神論  #
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・・・神についてどのように語るか
      キリスト教は一神教ではあるが、ユダヤ教やイスラーム教のような唯一神教ではなく、父なる神、子なる神、精霊なる神、という三一論(三位一体論)を採る。

      「神は存在するのか?」という哲学的な問いは採らない。神の存在を大前提として、神の啓示に虚心坦懐に耳を傾けるのが神学の立場である。カトリシズムでは神学と哲学を整合させようとしたが、発生時のプロテスタンティズムは哲学を否定した。啓蒙主義を克服した自由主義的プロテンスタンティズムは哲学を内部に採りいれようとする。現代プロテスタント神学(カール・バルト)では再び神学から哲学を切り離す。「神は自らをその神の言葉によって与える。」観照によっては本質を捉えられない。

      カール・バルトの『教会教義学』。神は絶対的に自由である。神は人間の思考の範囲をはるかに超えている。神はその存在を人間に知らしめることが出来る。それが啓示である。この啓示によって人間は神について思い描くことができる。それが神学である。勿論神学は神を完全に記述することはできないが、最大限の努力をすべきである。(このような考え方は浄土真宗の絶対他力と同じである。「南無阿弥陀仏」と唱えるのは人間ではなく、仏である。)

      神からの啓示に答える、と言う形で人間は神を知る。(バルトは表現主義の方法で神学を語っている。)キリスト教の神は静的なものではなく、生成しつつあるものである。「プロセス神学」。神は説得するという仕方でだけ行為する。神は他の存在に影響を与えるだけでなく、他の存在から影響を受ける「理解ある、共に苦しむ者」である。神の与えた最大の啓示がイエス・キリストである。「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探しますが、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます(パウロ)。」キリストを通じて人は神を知る。(プロテスタントではそれしかないが、カトリックや正教では自然を通じて知るという発想がある。)

      三一論。内在的(永遠的)三一論は難しい。経綸的(救済史的)三一論について。神は自己の外に出て、自己でないもの、すなわち人となる(キリスト)。その延長上に、受肉、十字架、復活がある。昇天して、キリストは父の右に座すと共に、聖霊がこの世に派遣される。父は天地を創造し、子はわれわれに和解をもたらし、聖霊はわれわれに聖化と栄化(完成)を来たらせる。

・・・自由でダイナミックな、生成する神
      ソ連が崩壊し、ロシア正教はロシアの国教となった。西方教会(カトリックとプロテスタント)では三一の一を重視する(勿論イスラム教では完全に三を無視する)。カルバン派では特にこの傾向が強い。英国国教会ではこの傾向が弱い。しかし、東方教会(ギリシャ正教、ロシア正教、ウクライナ正教、ルーマニア正教、日本ハリストス正教では三一の三を重視する。 ユルゲン・モルトマンはプロテスタントでありながら、三を重視し、むしろ三において神を社会的な存在と捉えて、人間に左右されない独裁者であるとは考えない。一種の人格的社会主義。国家と教会の専制を排除し、自己絶対化を防ぐ意味がある。社会の中で生成していく神。救済(神の愛)という視座から創造を見るならば、神は生成し、人間と共に歩んでいる。神は<なる>。ユダヤ・キリスト教を静的に捉えてしまえば聖書の字義通り、神は他者として世界を<つくる>ということになる。丸山眞男の誤解はここにあった。

      ヨセフ・ルクル・フロマートカ『人間への途上にある福音』。神の言葉の人間による解釈は終わることのない努力であり、時代に合わせて絶えず作り変えられなくてはならない。信仰とは、教義や組織等の中にあるものではなく、「召命を受けた」という強い意識がないと成り立たない。召命は人間の意志や決断とは無関係であり、超越的な外部からひとりひとりに聞こえてくる個人的なものである。召命を受け入れキリスト教徒となった人間は旅に出る。教会はそのような「旅人の交わり」である。召命は学識とも主観的解釈とも無関係である。これらを混同することで偶像崇拝が起きる。

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#  創造論  #
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・・・神が作った世界に、なぜ悪があるのか
      神には一切の責任がないということを証明するのが、「神義論(弁神論)」である。30年戦争後にライプニッツが自由意志との関係で初めて論じた。中世には、悪は人間の原罪によるものであるから、悪が神学の問題となることはなかった。原罪であれば、それはキリストが再臨する終わりの時に克服されるからである。しかし、地動説により天に神が居ないことが判って、啓蒙主義以降、地上の悪が問題にされ始めた。カトリックでは、悪は単なる「善の欠如」である。人間の原罪は悪とは違う。それはキリストで贖われているから、教会に所属することで確実に救われる。プロテスタントではこの世の教会組織を信用しない。最後の審判の時に初めて本当の教会が現れる。ロシア正教やギリシャ正教では、神が身代金としてキリストを悪魔に売り払ったことで人間は罪から脱却できている。現実世界の悪については人間の理性を超えたものだから考えない。

      アウグスティヌスは、悪と現在を切り離し、原罪は遺伝のようなもので、精液に原罪が含まれていると考えていたから、そこから禁欲的な考えが生まれた。彼は元マニ教徒であった。東方教会では、そのような禁欲主義がない。ライプニッツは「より大きな善の為に小さな悪が容認される」という「予定調和」を主張した。ヴォルテールやカントはそれを批判し、人間の内面の問題とした。第一次大戦によって、神が悪に関与していない、という事自身が疑われ始めた。しかし、神は居ない、という事は言えず、19世紀自由主義神学者の神は、人間の願望を偶像化したものにすぎないということになった。

      神義論は一義的一般的に語る事ができない。

      アルヴィン・プランティンガの自由意志弁護説。善である神によって作られた人間が悪を生み出すのは、人間に自由意志があるからである。これでは人間の救済と結びつかない。

      リチャード・スィンバーンの自然法神義論。人間が自由意志によって悪を生み出すのはそれを助長する自然的諸悪によって誘導されるからである。この悪への誘惑は人間にとっての試練である。これはあまりに楽観的。

      プロセス神学。神はプロセスであって、強制ではなく説得しかできない。その意味で神の力は制限されている。人間はその神の説得に従うとは限らないから悪が生まれる。モルトマンは、神は世界を作った後、自発的に収縮し、その空いた隙間に人間世界ができたから、悪が生まれた、と考えた。

・・・神が去った世界に、人間は造られた。
      神が神の外部に世界を作ったとすれば、その世界に神は居ない。しかし、神の主権が及ばない領域は無い筈である。この矛盾を解決するために、モルトマンはユダヤ教のカバラー思想に倣って、神は自ら収縮し、その後に出来た空間に人間世界が造られたと考える。その世界に神は居ないのであるが、人間は神の側からの働きかけ、圧倒的な恩恵によって、神と繋がっている。その繋がりを失った人間は悪霊に引き寄せられる。ドストエフスキーや村上春樹の小説に描かれているように。神の残した空間には悪があるが、神は人間を愛しているから、キリストを派遣した。キリストは敢えて人間的限界の中で生きた。人間はそのキリストに倣うことによって、救済される。イザヤ書では、主の僕が人々から蔑まされ見捨てられる様子を語っている。彼が酷い目に合うのは私達の為であり、私達の咎を代理して罰を受けている。その事によって私達は許される。つまり、イザヤはキリストの到来を予言していたということになる。

・・・なぜ神の創造した世界に終わりがくるのか
      神が自ら収縮したときが時間の始まりであり、神がその自己限定を放棄して、われわれの住む虚無の世界を埋めるときが時間の終わりである。

      パウロはファイリサイ派に属していたサウロであったが、ある日天からの光に打たれてイエスの声を聞く。この働きが聖霊である。地上における価値が逆転し、苦難が自由に転換する。パウロは苦悩から逃れられることを願うが、神は「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」と言った。力は外部から、つまり神の聖霊から来るものだからである。神は聖霊により人間に希望を抱かせることを通じて、この世界に働きかけている。

      「エゼキエル書」に復活の話がある。エルサレム陥落の知らせが強制労働に服せられていたユダヤ人達に伝えられたとき、神によって預言者エゼキエルに示された幻。骨からまず筋肉と皮膚が再生し、形とし人間となる。次に神の霊が与えられて人間になる。モルトマン<誰も我慢できない無意味な殺人に対する反抗が息を保ち続けるのは、この反抗が、意味もなく殺害された者達の為の希望によって担われている場合だけである。絶滅する無に対する反抗が、絶滅された者達の排除を忘却となってはならない。これは革命家達の危険である。(生者が未来の為に死者を忘れてはならない。)絶滅された者達の為の希望が彼らの絶滅との妥協となってもいけない。これは宗教家達の危険である。(生者が死者だけに捉われ、過去に捉われ、未来に対する希望を失ってはならない。)復活とは生者と死者の差別を克服し、過去と未来を現在に吸収していく機能を果たす。

      中世のカトリック教会は壮大なスコラ神学を完成させ、森羅万象全てを説明したが、それは思弁であり、人間の救済の役には立たなかった。宗教改革によって生まれたプロテスタント教会にもやがてスコラ神学が出来て、教義が固定化された、こういった体系は人間の救済の役には立たない。神学は終末に向かう旅の途中にあるので、その時の状況に応じて論理整合性よりも具体的懸案事項の解決を優先すべきである。これが「旅人の神学」。

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#  人間論  #
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・・・人間とは何か
      キリスト教は自然のままの(原罪を負った)人間に価値を与えない。良心は内部からではなく神からの啓示である。神と人間の心理作用を混同してはならない。心と身体の区別を認めない。人間は神に似せて作られている。アウグスティヌスは「神のかたち」として現れる理性を持つ点で人間が動物と区別される、とした。したがってカトリックでは救済における自助努力を認める。「信仰と理性」の両方を求める。プロテスタントでは理性に比重を置かず、信仰のみに救済の根拠を求める。神が創造者であることの認識と人間が被造物であることの認識とは切り離せない。神について、我々はイエス・キリストを通じてのみ知ることが出来る。プロテスタントでは人間の創造についても、「創世記」からではなく、イエス・キリストが人間とどのような関係を持ったかという出来事との類比で理解する。イエスは神からの呼びかけに対して誠実に答えたから、人間も神に呼び出された時に答える責任がある。神の愛に対してイエスは愛で答えたから、愛という関係が私達の読み解くべき「神の似姿」である。人間は神との関係において他の被造物と差別化される。しかし、これは人間の自己神格化の危険性を孕んでいる。思考の中で神を作り出すことでドイツ観念論は袋小路に入った。神の恣意性を無視したからである。人間の自由は神から与えられた自由であるから、拘束された自由である。例えば死によって時間的に拘束されている。自由の意味は人間の側からでなく、神の側から考えるべきである。

・・・なぜ「男と女」がいるのか
      「創世記」には2つの物語があるが、伝統的には、一方の物語を引用して、まず男を造り、男を助ける為に、男のあばら骨から女を造った、という解釈がされてきた。しかし、これは間違いである。助けとは救済の意味であり、神は助け合って生きる関係として、男と女を同格として造ったのである。「関係」が概念として先にあり、男と女は関係の表現にすぎない。だから、いずれも相手との関係無しには存在しえないパートナーである。神の本質である「愛」を似姿として実現するために、人間は一対の存在として造られた。

      男と女を両性として具有するのがナルシシズムであり、それは自己完結して他者を必要としない。だから他者の気持ちになって考えることができない。エリートはしばしばその傾向に陥る。

      神からの呼びかけに対して応答責任を果たすことが人間の自由である。神と人間の契約で示された構造が、人と人との関係において、類比的に現れる。だから人間を他者と隔絶した個人として規定することはできない。共なる人間性(Mitmenschlichkeit)。人は具体的な人間と人間の関係、動的で共なる人間性を通じてしか、神を知ることはできない。人間と人間との関係には様々なものがあるが、男と女の関係のみが構造的、機能的な区別に基づいているという意味で、第一義的である。

・・・なぜ「結婚」し、なぜ「結婚」しないのか
      カトリックや正教では結婚は洗礼、聖餐と並ぶサクラメントであり、離婚は原則として認められないが、プロテスタントでは、結婚は人間的事項である。それは単なる出会いと関係であり、結婚という形式にはそれほど意味は無い。人生における出会いの中で結婚の特徴は、特定の人と同じ場所に定住し、生活共同体を形成するということだけである。

      カール・バルトの実生活を紹介している。シャルロッテ・フォン・キルシュバウムは有能な個人秘書として、バルトの家族と同居していた。彼女はバルトの対話相手として必要だった。この関係は40年間続き、バルトは彼女を神学者として自立させず、秘書として繋ぎとめた。妻ネリーは家事に専念した。バルトはこのような三角関係にやや罪の意識を持っていたようである。周囲の人達は勿論倫理的には認めなかったが、バルトがあまりに偉大であったために、この事に触れようとしなかった。

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#  キリスト論  #
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・・・「イエス・キリスト」とは誰か
      史的イエスの探究は19世紀において袋小路に入ったが、最近米国で再燃している。しかし、真実のキリストとは宣教されたキリスト(ケリュグマ)である。近代的な客観性実証性で担保される歴史学の枠組みを超越したところにある。イエスはイエスの人格的影響、すなわち弟子たちの信仰として生きているからである。これはパウロの手紙の内容に基づく。「神がイエスと死人の中からよみがえらせた。」「イエスは主である。」という信仰告白である。

      ボルフハルト・パネンベルクはケリュグマだけでは、キリスト教が他の諸々の神話と権利的に同格となってしまうことを恐れる。「上からのキリスト論」では不充分であって、「下からのキリスト論」が必要である。

      グノーシス主義:救済の根拠は外部にある神でなく、自己の内部に宿っている神性・超越的本質である、とする。

      古代・中世の世界観において、神が「上」にいることは自明だったが、コペルニクス革命により、それが難しくなった。シュライエルマッハーは、宗教の本質を「直観と感情」と定義して、神のいる場所を人間の心の中に転換した。これによってプロテスタント神学が近代自然科学の世界観との対立を避けることができた。しかし、神が人間の心理と同一化される危険が生じて、神がヒューマニズムに吸収されそうになった。この流れを断ち切ったのがカール・バルトであった。バルトは「上にいる神」という表現を使ったが、この「上」はもはや古代・中世の「上」ではなく、神学的な抽象概念である。しかし、パネンベルクは古代・中世的な「下」つまり地上に史実として存在したイエスから出発しなくてはならない、と考える。地上における彼の行動全体から彼と神との関わりを特定しなくてはならない、と考える。

・・・真の神の子であり真の人間であるイエス・キリスト
      モナルキア主義(2〜3世紀の異端)。キリストは本来神ではなく、神の養子にされた、または人間イエスに聖霊が取り付いた(動態論)。あるいは、父なる神が形を変えてキリストになった(様態論)。

      19世紀の自由主義神学では、理性、直観、感情などの人間の側の概念で神をとらえ、世界観が啓蒙主義であったから、地上に神の国を建設するという考え方が主流だった。しかし、第一次世界大戦によって、神学の大転換が起こり、人間が神について語るのではなく、神が人間について語ることに虚心坦懐に耳を傾ける、つまり啓示が重要となった。神は人間と本質的に異なるために、原理的に人間が神を語ることはできない。にも拘らず人間は神について語らねばならない。これは弁証法である。

      啓示は反復されない事項である。その点で魔術と対極にある。啓示の解釈は神学者に依存して変わる。どれが正しいということが出来るのは神のみである。したがって他者の見解には寛容であるべきだ。神の自己啓示のすべては一世紀のパレスチナの地で生きたイエスという男に集約されている。

・・・イエス・キリストは本当にいたのか
      ジョン・ドミニク・クロッサン。イエスの実像を描く為の方法。1.通文化的研究では当時の文化状況を調べる。2.当時の歴史状況、ユダヤ史を調べる。3.本文研究では、イエス本人にさかのぼる言葉や出来事、それを発展させて物語化する、全く新しい物語が作られる、といったことを区別しなくてはならない。例として、イエスの誕生物語が、マルコにはなく、ルカとマタイでは全く異なっている。それぞれの記述はそれぞれのやり方でユダヤ史上の人物との比較によってイエスの偉大さを強調するように作られている。クロッサンのこのようなアプローチは文献学としては正当なものであるし、福音書の著者が、イエスが救いであることを人々に説得するという目的で物語を作ったという見方には賛成である。しかし、こういうやりかたでイエスの姿が一義的に確定できるという作業仮説は間違っている。明らかな限界があり、その先にこそイエスの本質がある。

      パウロはイエスの言説を解釈してキリスト教を作った。マルクスはリカードウの『経済学および課税の原理』を解釈することを通じて『資本論』を生み出した。柄谷行人は柳田国男を読み解く作業を通じて、目には見えないが、確実に存在する事柄を捉えている。『遊動論−柳田国男と山人』。柳田の推定する固有信仰<人が死ぬとまず「荒みたま」になり、強い穢れを持つが、子孫の供養や祀りを受けて浄化されて、御霊となる。多くの御霊はやがて一つの御霊に融けこむ。それが氏神である。祖霊は故郷の村里をのぞむ山の高みに上って、子孫の繁栄を見守る。生と死の二つの世界の往来は自由である。>このような事は実証史学的には証明できない。文字文化が普及する以前には遡れないからである。その境界線は日本史では室町時代、ヨーロッパでは中世後期である。実証できなくても確実に存在するものがある。これは日本的な神学と言っても良い。柳田はこうして「一国民俗学」を提唱したが、弟子たちは比較民俗学や世界民俗学に走った。ちょうど、ナショナリズムが国家社会主義革命や東洋制覇へと走ったように。柳田の求めたものは「共同主観性」であった。その為の方法は各人の主観を重ねあわせること、「重出立証法」である。だから彼は記憶や記録に残された断片的な言葉を集めたのである。柳田の方法を聖書解釈に応用することができる筈である。

      18世紀啓蒙主義によって、史的イエスの探究が始まった。しかし、シュヴァイツァーの『イエス伝研究史』(1906年)がその方法の限界を明らかにした。20世紀には様式史研究が主流となる。ルドルフ・ブルトマン『共観福音書伝承史』(1921年)では、福音書の著者が入手したイエスについての伝承を、史実とは全く別の利害関心から編集したものであることを証明する。クロッサンの「イエス・セミナー」ではこれらが継承され、啓蒙主義に回帰している。「イエスは、占領された土地で暮らす農民達の中にあって、分かち合いと施しに基づく共同体を組織した。それは地上の王国とも見えた。彼はやがて社会制度を挑発し、神殿を象徴的に破壊したことで、当局に逮捕されて処刑された。しかし、彼と共に共同体を作っていた人々は彼への郷愁を捨てなかった。。。。」このようなイエス像は神学的には無意味である。

・・・21世紀にキリスト教神学は何ができるのか
      ナザレのイエスがわれわれにとって救い主である、というのがキリスト教信仰の核心であるから、キリスト教神学の任務は、この事を学術、科学といった体系知の言葉を用いて表現することである。この出来事を史実として確定することはできないし、その意味もない。歴史という概念自体が近代的思考の枠組みの中のものであるからだ。そうではなくて、新約聖書や一連の手紙を書いた人々が考えていた事項を明らかにする、というアプローチを採るのである。

      キリスト教的存在論の特徴は、世界の限界を認めることである。この世界の実在性が、人間の知恵の及ばない彼方からの力によって担保されていることを認める場合に、われわれは世界の現実を認識することができる。人間の理性は究極的なところでは破綻する。しかし、その前の段階ではさまざまな領域やレベルで有用な知的体系がある。例えば資本主義社会を分析するのであれば、『資本論』と宇野弘蔵の理論が有用である。しかし、資本主義に対してどういう姿勢を採るかということになると、これは神学的な問題となる。

      人間の自我の構造は複雑であり、意識できる領域は限られている。だか、「目に見えないが確実に存在するものがある」と言う前提で成り立つ思考、つまり形而上学が必要である。伝統的な形而上学では、階層秩序構造を持つ価値体系に人間を位置付けていた。カトリック神学もそうである。しかし、その中で蟄居して世界を拒否するという姿勢はイエスの生き方に反する。しかし、形而上学から解放されて自由に思考、行動する人間は目に見えないが確実に存在する世界がある、という事実に鈍感になってしまい、自身が収縮し、目に見える価値を追求するようになる。カネ、ポスト、学歴、等々。どうすれば救えるか?近現代人は自律性を求めるから、超越的な事項を押し付けられることには抵抗する。だから、彼等に新たな形而上学を信じさせることは諦めなくてはならない。逆に此岸性に徹底的に拘る方法がある。

      形而上学を持たない人間には無限の可能性がある。無限の宇宙という常識が国家や伝統などを相対化する。対話に対しても開かれている。時間的制約からも解放されるようになる。未来は楽観的となり、克服すべき課題として意識される。このような原罪感が希薄となった終末論を再構成しなくてはならない。聖と俗の区別も無くなる。世界は科学的法則で支配されていると考える。実際にはそれは限定された領域なのだが。世界観は静的でなく、動的な性質を帯びる。愛においても超越的な神の愛よりも隣人への愛が意識される。此岸性の近現代人に神の愛を伝えるには、聖書の話だけでは不充分である。

      世俗化の問題点は、個人主義にある。主観が重視され、他者は自分によって認識された他者にすぎなくなる。他者が実在性を担保されないから、孤独感に悩まされる。

      バルトは教会の外側の人に対しては真剣に語りかけなかった。そこを克服するのが佐藤優の課題である。

      当初、ユダヤ人キリスト教徒は旧約聖書の黙示録の文脈で福音を解釈していた。それはヘレニズム世界の普遍主義の文脈で解釈されていき、イエスの発言も修正された。プロテスタント神学はアウグスティヌスの形而上学的残滓と戦ったのだが、中世的限界があって、「上にいる神」という形而上学を引き継いだ。バルトは形而上学が崩壊していることを前提にした上で、敢て「上にいる神」という言葉を用いた。「不可能の可能性」を表現したかったのだが、歴史を後退したと誤解された。佐藤優は、神は人間と人間との関係に宿り、人間が他者に奉仕する過程を通して人が神を知る、と考える。神は生成において存在する。具体的な状況で、イエスが他者に対してどのような行動をしたかが、キリスト論の中心となる。そこからの類比でキリスト論を構築する。イエスの物語の中に「イエスに従え」という呼びかけを読む過程で、今まで見えなかったものが見えるようになる。そうすると復活を信じることができて、不安が無くなる。

 
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