2023.01.06

『哲学者は何を言ってるんだ?』 中村昇(ブログ

    何かの検索で見つけたのだが、中村昇という「哲学者」の随想みたいなブログがちょっと面白いので読んでみた。直ぐに飽きてしまうので、結構な日数がかかった。 いろいろな哲学者が出てくるのだが、西田幾多郎だけはとてもついていけない感じがした。勿論、随想だからまとまりもないのであるが、言葉に対する切り込み方がいかにも哲学者らしい。もともと原理的整合性のない言葉の世界に整合性を求めると、いろいろと面白いけれども、必ずや誤謬に至る。そんな宿命みたいなものを感じた。でも、日本語独特の「もの」と「こと」の使い分けが最後の方に出てきて、なるほどと思った。

    もう一つ興味深かったのは、前半で、ベルグソンと小林秀雄の方法論「直観」について述べている処である。何かの対象について知ろうと思ったら、徹底的に時間を掛けてその対象に付き合うしかない、ということである。ちょっと引用させていただく。

<つねに、その対象とつかずはなれず、それについて「熟慮反省」しつづけなければならないのです。そうしないと、対象を「直観的に知る」ことはできない。だから、ベルクソンは、「もう充分ということは決してない」と言っているのです。>

<小林秀雄が、ロシア文学者もびっくりするほど、ドストエフスキーを繰りかえし読んでいたのも、まさに、この「直観的に深める」作業を日々おこなっていたと言えるかもしれません。>

<ベルクソンによれば、「直観」のもっとも典型的な事例は、自分自身の「持続」を捉えることなのです。これを話し始めると、きりがないので、深入りしないようにしますが、ベルクソンによれば、われわれの意識に直接与えられているのは、「純粋持続」という有機的な時間の流動です。これこそが真の時間であり、われわれの真相なのです。そして、「直観」は、この有機的な流動(「持続」という真のあり方)を把握する方法なのです。>

記された言葉に対する絶対的とも思われるほどの信頼感(つまり著者への信頼感)がないと、こんな読み方はできない。聖典に対するような接し方である。僕も含めて普通の人達は、1回読んで、自分なりの理解をしてから、それを現実に当てはめて想像したり、行動という形で実験してみたりする。あるいは、自分の理解に基づいて、逆に著者の意図を分析したりする。著者の言葉をあくまでも「仮説」の一つとしてしか受け取っていない。もっとも、「読み返す」とか「聴き返す」というのはよくあることで、しばらく時間を置くと、見方が変わるものである。けれども、それすら、一度読んだり聴いたりしたときに、言葉で定着しておかないと、見方が変わった事すら自覚できないままに流され、引きずり込まれてしまうと思う。勿論、こんなことはいちいち言うまでもないのだが。

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