2023.09.24

『生成と消滅の精神史』の後半である前半は西欧編)。後半では、夏目漱石を中心とした日本での心の問題を語る。

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・・・・・『生成と消滅の精神史』・・・・・万葉集から古今和歌集へ

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    折口信夫『国文学の発生』:村々におとづれる「まれびと」。この外部からの異質な人々を神と考え、言葉や踊りを記憶しようとした。神の到来という一回性の経験をシミュレーションすることによって、共同体において共有可能な「心」を構築しようとした。心は第一義的に在るものではなくて、振る舞いの学習である。

    佐竹昭広は『万葉集』における「見ゆ」という動詞がその前の動詞を連体形としてその終止形として機能していることに着目した。風景は人間とは無関係には存在しなかった。存在は視覚によって把握されたものである。「見ゆ」は時には幻視(呪術)に使われる。日本人の心は自然の共鳴器であった。しかし、『古今集』において「見ゆ」という表現は消滅している。替りに登場するのが「思ふ」である。ソクラテスにおいて、身体の眼(知識)から心の眼(一般化された知識)が区別された。『古今集』における「思ふ」はそのようなものではないが、見てそれを推量する、という高度で抽象的な思考がそこに加わった来たと言える。

    『万葉集』における「思ふ」はまた異なる。「恋歌」において自然を詠うことで自ずと心の情景が描かれる。そこでは、自然は意識の「対象」ではない。つまり意識は「なにものかについての意識」であるよりも「なにものかと共にある意識」である。彼らは風景がなければ「思ふ」ことが上手くいかないということすら詠っている。『古今集』においては風景よりも言葉が重要となり、「あはれ」という言葉が無ければその気持ちが表現できない、とすら詠うようになった。彼らは自然よりも(自然を借りることなく、直接)言葉を通じて心を表現するようになった。

    万葉の人達にとって自然はあまりにも自明であり、心そのものと区別不可能であったが、古今の人々はメディア・情報を通じてそれを対象化したことによってはじめて「自然」を発見した。紀貫之は屏風絵を見て、あるいは書籍に書かれた現実には存在しない自然さえも歌に詠んだ。『イリアス』において、四肢や骨や肉や皮膚などの語はあれど「身体」という語が存在しなかったように、万葉の人々にとって、花や風や霞や波や月は存在したが「自然」が発見されてはいない。古今的な心はそのような生の自然がなくても成立した。この新たなる心は文法や都市というテクノロジーによって成立したのであるが、他方ではこの「心の眼」が環境や文字の変化も促進した。万葉集は自然そのものに誘われて歌われたが、古今集は暦上の季節を意識して歌われている。自然の時間を四季にデジタル化しているのである。植物や動物は万葉の人々にとって人と同じ心を持っていたのだが、古今の人達にとっては対象化され擬人化されている

    古今の歌人たちは自然を心の対象と捉え、歌が視覚から思考へと性格を変えた。これが「思ふ」が多用される背景である。あるがままの世界をそのまま受け入れるのではなく、世界を因果関係や時間的変遷といった、あるルールや法則のもとに再統合するという「事実の再構成」を行っている。歌の技法としては、推論、推量、見立て。

    「春風は 花のあたりを よきて吹け 心づからや うつろうと見む(藤原考風)」花が風で散るのかそれとも自分で散るのかを知るために、風よ花を避けて吹いてみてくれ、という近代科学の実験精神を表す歌である。

    「やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける」(紀貫之)。心が言葉を形成する時代、心の時代の宣言書。「思考」の母体である「心」という機能が、「知覚」という「身体」の能力よりも優先する。

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・・・・・『生成と消滅の精神史』・・・・・夏目漱石の苦悩とユートピア

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    明治維新までの近世日本の知識人達は、万葉的な心と古今的な心の間を揺れ動いていた。西行と松尾芭蕉の句ではその短い語句の間に両方の心が詠われているが、いずれの心(言葉)も花鳥風月を離れてはいない。しかし、明治維新と近代化は都市部において、心(言葉)の依拠すべき(対象とすべき)昔ながらの自然と社会関係を解体していった。そのような環境の変化を敏感に感じ取りながら、自立した心のモデルを作り上げようとしたのが夏目漱石であった。

    そもそも夏目漱石はイギリス留学においてロンドンという都市で強烈な孤独感(故郷喪失感)を抱いて、ノイローゼとなり、帰国してその記憶を、熊本から東京にやってきた『三四郎』に托した。

    現代においても、インターネット技術の導入において、同様な現象が見られる。アメリカでのインターネットは個人の自由を拡張するものであったが、日本では疑似的な自然環境や生態系のように機能すると捉えられた。つまり、インターネットが「道具」ではなくて、そこに適応すべき「環境」として捉えられている。自立した心というモデルが確立していないからである。

    西欧世界における「主体」は主体化を要請する運動が繰り返し挫折してきた歴史の中で鍛えあがられてきたのであるが、明治の知識人に求められたのはそのような主体を「学習」することであったから、現実との乖離を乗り越えるための十分な信念に欠けていた。漱石はそのような知識人の苦悩の様々な在り様を小説(戯画)として書くことで、対象化して、平常心を保とうとしたのである。

    『草枕』と『虞美人草』における「自然と融和した心」は「山中」に入って朦朧とした意識の中で「受動的」になって初めて得られる。そうでもしなければ、自然と同一化することはできない。自然は謎として思考するしかなくなる。

    『抗夫』において、漱石は魂が自らの身体を抜け出して自他の区別がなくなる経験を記述している。4人で山中を歩いていると魂が一体化される。こうして自然の中で身体を失い群体の魂となる理想郷を描きながら、漱石は文明の力による群体化を嫌悪する。彼は「汽車」を嫌った。それが乗客の身体を強制的に一体化してしまうからである。

    『』においては、都会の中で夫婦が一体化して閉じこもるという「自然」の回復方法を模索して、行き詰まり、宗教に救いを求めて挫折している。

    『行人』において、意識の病は行きつくところまで行きついてしまい、パスカルの域に達する。神なき近代の精神は「人間は完全でなければならない、そうでなければ無だ」という極端な二者択一を迫る。西洋ではこうした心の苦悩を癒すために超越的な神への信仰が残っていたが、神を信じることのできない主人公は終に「神は自己だ」と言う。そして、『こころ』において主人公を自死させる。

    江藤淳は、夏目漱石の本質を「我執」と「逃避」という対比的な思考であるとしたが、克服できずに自殺した。

    漱石は27歳で円覚寺で修行をして挫折したが、ジョルジュ・バタイユも1924年に絶望の中で教会に救いを求めた挙句の果てに棄教した。彼は、ヘーゲルの体系を、理論的に構築された純粋な形而上学ではなく、実存的な狂気からの「逃避」であるとした。プラトン的な存在の同一性を前提とせず、常に「生成」であることによって発展し続ける。それは単なる無意味な世界の発展に堕する危険性を持つのだが、ヘーゲルは「神」という契機を与えて人間に適合させたにすぎない。この契機を取り除いてしまえば、ちょうどデカルトから神を取り除いたパスカルのように、方向性のない無秩序の恐怖が残される。これがバタイユにとっての近代批判であった。つまり、漱石の嫌った近代もまた「逃避」である。

    人間は意味なしには生きることはできないが、意味に縛られても生きてはいけない。カントの倫理原則、ヘーゲルの歴史、ニーチェの「超人」としての自己、バタイユの「死」が神なき世界を生きるための試みである。そして漱石は小説の中で自死した。江藤淳も自殺した。

    漱石の小説ではしばしば主人公が横たわる。横たわる身体が他者を招き、交流を開始する。しかし立ち上がるや否や他者との自己承認を賭けた闘いが始まる。意識を中心に据える限り和解は無い。メルロ=ポンティは意識ではなく身体を中心に据えた。横たわり、あるいは病に伏せるとき、漱石は「闘争」から逃れたユートピアを感じる。それは身体が意識とは無関係に取り結ぶ他者との関係性に因る。

    『明暗』における「山中」はこれまでの儀式のように歩いて入っていく桃源郷ではない。一貫して乗り物に乗って山中の宿に着く。山の中は、また温泉場は、女は、その誘惑から逃れて自立する為に「対象化」される。いわば繰り返し訪れる「幻想」との闘いがこの小説の内容となっている。主人公が女と一瞬和解する場面はメルロ=ポンティの記述を想起させる。私達は眼差すことによって他者と関わるのではなく、触れることによって関わる。触れることは同時に触れられることでもある。ふれあいの混じり合いでは愛と暴力を区別することはできない。

    意識は他者と闘争する、意識は世界の所有を求める。しかし同時に、身体化された心は他者の身体と穏やかに繋がり、世界と曖昧に和解する。この両側面を受け入れることである。凡庸な結論であり、矛盾の要請でもある。「夢を持たないで、自分に出来ることだけをする」というのがサルトルの結論であった。これは「世界を超克する(夢を持つ)こと」を前提に作られた近代というモデルを捨てろということである。

・・・・・・サイバネティクス・・・・・

    アメリカはヨーロッパのような哲学の伝統を持たない点では日本と共通する側面がある。1960-70年代のカウンターカルチャーでは、コンピュータによるテクノユートピア、機械への欲望、オリエンタリズム、ドラッグ、神秘思想などが奇妙に融合している。これはヨーロッパのロマン主義運動が機械文明への抵抗として自然の霊性に目覚めたのとは異なる。アメリカの広大な自然を賛美しながらも、森林開発や鉄道を称賛するという文学運動は19世紀に誕生していた。この流れとしてコンピュータシミュレーション(フラクタル)による自然の再現やドラッグ、神秘思想による宇宙との一体感が流行した。

    漱石はロマン派詩人ワーズワースを愛したが、ロマン派の見た自然が広大で圧倒的であったのに比べて、漱石の見た自然は融和的で東洋的であった。このような漱石の自然観はアメリカのカウンターカルチャーとも共通している。漱石の紹介したホイットマンはワーズワースとは異なり、鉄道に対して肯定的であった。自然物も人工物も等価に存在する宇宙としての自然を求めた。日本とアメリカの共通点は要するに人工物とて自らが神に抗って作り上げたものではなかった(近代科学を創始したのではなかった)という点にある。漱石はホイットマンの「平等主義」を称えているが、その平等というのは人間も動物も自然物も人工物も全てが平等という意味である。全てが繋がり合って、「自律・分散・協調」で世界が出来ている、という今日のアメリカ西海岸のイデオロギーに近い。

    ウィリアム・ジェイムズはホイットマンに注目した哲学者である。その起源を「ニューソート運動」に帰している。これはルターの「信じる者が救われる」に対して「ポジティヴになれる者が救われる」という宗教運動である。ヒッピー、ニューエイジ、Google社の標語「Don't be Evil」に繋がる。ジェイムズはこの考え方がドラッグのような一時的な幸福感にを与えるに過ぎないことを指摘しながらも、ドラッグのもたらす意識の逸脱が世界に対する和解をもたらす可能性があることも認めている。漱石も瀕死の病床で意識混濁に陥って、世界と和解したという啓示を告白している。

    ホイットマンは1955年のアレン・ギンズバーグの詩「A Supermarket in California」で、孤独な老人として登場する。ホイットマンの西部開拓時代はカリフォルニアで終了し、「草の葉」の自然は消滅していた。

    父になれなかったホイットマンを継承し、ドラッグを浴びて吠えたギンズバーグと、自然の生態系のフィードバックの中にのみ自己が生成するのだと主張したベイトソンが、文学と科学という別の方向からアメリカの思想を重ね合わせた。サイバネティクスによって全てが自動化された社会の中で、残された自然はドラッグと東洋思想による幻想の中にしかなかった、とも言える。
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    夏目漱石の文芸批評は、「政治と文学」を媒介するのではなくて、「科学と文学」を媒介するものであった。『文学論』において、漱石は、文学を「F+f」という一種の「関数」に見立てている。F は観念(意識すること)で、f はその観念の引き起こす情緒である。いわば文学を「心の科学」と見立てている。古今東西の文学をそのような視点から整理して法則を見出している。それは要素還元主義的というよりも、複雑系的な全体論に向かう。「集合的 F」という概念によって、漱石は意識というものを個人の意識を越えて他者たちと否応なく共鳴する集合的な意識と捉えていた。意識 F には時間スケールに基づく縦の(個人の)階層があると同時に、空間スケールによる横の(他者との)繋がりがある。それは先天的民族的な「元型」ではなく、その場その場で絶えず生成する「集合的 F」である。そのタイプとして、集合的意識を模擬する「模擬的 F」、集合的意識をリードする「脳才的 F」、集合的意識には流されない「天才的 F」を挙げられ、これらの逆順に経緯して集合的 F が形成されるのであるが、それらの相違は本質的なものではなく、単に歴史的時間的経緯における位置づけの違いにすぎない。現代の複雑系科学や人工生命のような発想である。

    漱石のこのような理論上の集合的意識の考え方と現実の小説での我執の自意識との間には大きな乖離がある。彼にはどうにかして孤立した意識を全体へと連関させなければならないという思いがあったのだが、それを為すべき手段を持たなかった。

    人間は自分が独立した小さな小宇宙であることを自ら求めながら、そのことに耐えられず、何らかの存在の一部であることを求め続ける。漱石の苦悩もサイバネティシャン達の統合思想も急激な近代化へのアレルギー反応である。日本では「京都学派」による「近代の超克」(東洋的な「無」による隠ぺい)もそうである。

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・・・・・『生成と消滅の精神史』・・・・・拡散と集中

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   人間は強くあろうとすることによって弱く、賢くあろうとすることによって愚かになる。カントは「答えることができない筈の問いを立ててしまうというジレンマが哲学の課題である」と言った。カミュは「不可能なものだからこそそれを追い求めてしまうのが人間らしさである」と言った。

    世界に拡散してしまうという心の在り方と世界を対象化し記号化し再配列することで「私」の中に集中する心の在り方の間を揺れ動いてきた。ホメロスの心は風のように世界へと拡散した。ソクラテスは集中させて自己の内に収めて、責任を取った。デカルトは集中する心の中心に「我」を据えて、「考える」という機能を与えた。パスカルは拡散と集中を同時に実現しようとして狂った。カントは世界と心を分離して、拡散と集中を分割統治する方法を考案した。フッサールは集中の束をひとつづつ手に取りながら穏かに解き、ハイデガーは拡散する心の可能性を持ちながら、その裏側で極度に集中する心を論理化してしまった。初期の認知科学は集中する心を記号と推論によって強化させたが、「情報」世界という世界との交通路を開いて、心を世界へと拡散する可能性も開いた。自然も意識もコンピュータ上でシミュレーション可能であることから、拡散と集中の代わりに「媒介」という新たな心の在り方が示唆された。メルロ=ポンティは、心と世界の拡散と集中の緊張関係が拮抗しながら運動するプロセスを描いた。

    人工知能は現代における最も象徴的な心の自画像である。心は形式化され、それ自身は何者でもなく単なるデータ処理のアーキテクチャである。その意味ではカントの「心」に近い。思考はアルゴリズムに委ねられる。精神はネットワーク上の変数として、アルゴリズムにデータを与えるだけの存在となる。現代では一個の人間が抱えきれなくなった心の仕事を様々な技術が、つまり究極的には AI が引き受けようとしている。しかし、他方では、私達の心はアルゴリズムを逸脱していく。心は生成の結果ではなく創造の現場である。

    著者は大学を離れて一人で思索する道を選んでいる。思索結果はメールマガジンで公開され、読者の支援によってこの本が生まれた。ネットで著者の現在を知ることができる。https://kazeto.jp/

・・・・・・・・感想・・・・・・・

どうでも良いことだが、夏目漱石というと、大学受験対策ということもあって一通り読んでいて、受験の現代国語の問題に、ずばり「夏目漱石について論ぜよ」という自由問題が出て、喜び勇んで目一杯書いた思い出がある。その趣旨としては「人生を如何に生きるべきかという課題を真正面から描いたという意味で漱石は最初の小説家であった」というものだった。

漱石は知識人としての自分を戯画化していて、それが大衆受けをした小説家でもあったが、それを裏返せば、自分の育ってきた日本的な感覚を近代化を目指す知識人として真っ向から否定しなくてはならず、否定すべき「悪しき」風習には、しかしながら本心で言えば共感してしまう、というジレンマを抱えていた。その辺の苦悩が判り始めたのは大学生になってからである。人間誰しも自分の行為に責任を感じている。だからこそ、行為の善し悪しに迷う。つまり、どの程度の範囲の人々に対して責任を感じているかによって、悩みの大きさが左右される。漱石は日本を代表して西欧の近代文明を学び体現しなくてはならない、という使命を感じていたからこそ、悩みが大きかった。それが判ったということは僕も一端の「知識人」たろうとしていたからである。ただ、漱石に比べれば、僕にはまだ選択の余地があった。科学技術の暴走に対する責任は感じていたが、どういう風に関わるか(責任の範囲を限定する)という自由があったと言えるだろう。その責任範囲を超えた問題については悩まないという、つまり、一種のカント流の分割統治による解決方法だろうか。。。

三石氏との議論: 宮沢賢治と夏目漱石の比較。宮沢賢治に反近代性が見られないのは、花巻が近代以前であったからである。宮沢賢治は結局思春期を越えなかった。宗教による自己規範が強かった。科学技術を使って東北地方の貧困を解決しようとしたが失敗した。ただ、そのことに対して、徹底して誠実であった。夏目漱石は自意識が強い秀才で、いきなり日本を代表して大英帝国の首都ロンドンに留学した。日本との落差はあまりに大きく、また英会話の経験もなく、図書館に閉じこもってしまい、ノイローゼになった。近代化というものが恐怖の対象となった。ただ、近代化を反駁するだけの論理を持ち合わせなかったから、頭は近代化しても身体は江戸時代のままだった。他方、反近代の運動はヨーロッパではロマン主義となり、これは日本の多くの文学者達に輸入された。日本にとってロマン主義もまた近代化の一環として受け取られた。夏目漱石はロマン主義と無縁だったのではないし、ワーズワースの愛読者ではあったが、漱石の描く「自然」はあくまでも受動的なものに留まった。自然に沸き起こる情念の発露という意味でのロマン主義とは無縁であり、むしろそれを批判的客観的に観察して、「浪漫」という当て字を発明したくらいである。醒めた冷静な視点で自分の中にある矛盾を暴き出して戯画化している。そういう多視点的なところは中島みゆきと類似している。

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