2015.06.25

今日は細川俊夫の Hiroshima Happy New Ear 19回目「次世代の作曲家たち」である。2人の作曲家に広島をテーマに作曲を依頼した。演奏は広響メンバー、楽器構成はヴァイオリン3、チェロ、コントラバスに、良く判らないがマンドリンのような楽器、各管楽器1本づつ、ハープ、ピアノ、パーカッション2名である。これに独奏者が加わる。場所はいつものアステールプラザのオーケストラ等練習場で、折りたたみ椅子200席位。いつもながら満席である。

・・・最初は委嘱作品の一曲目。現在広大教育学部に勤務している徳永崇の「広島時間」。最近の彼は日本の文化に作曲のヒントを求めて勉強しているのだが、その中で日本人は現在言われているような単一民族ではなくて、元々は北方、大陸、南方諸島から渡来した多様な民族が共存していた、ということを知った。近代化を急ぐあまり、単一民族という思想が植え付けられたのだが、経済も政治も国際化してくる中で、むしろそれが障害となっている、というような話が演奏会が終わってからあった。まあ、そういう背景もあって、この曲はまずは現在の広島に観察されるさまざまな音を拾い集めて、脈絡無く並べてみることから始まる。だから、個々の楽器は古典的なそれらしい音を殆ど使わず、擦れ音、息の音、叩く音、聞き取れなくぐらい速いフレーズを使う、主役は当然パーカッションであり、街の騒音とか話し声とか、もろもろの音である。なかなか面白い。川瀬賢太郎という若い指揮者と広響のメンバーがそれらを繋ぎ合わせて音楽的統一感を作っているのは大したものだと思った。ともあれ、そういった多様な音の中に彼が発見するものはやはり原爆の記憶である。多くの日本の都市が戦災の記憶を殆ど残していないのに対して、広島は街を歩けば焼け跡やモニュメントや展示やらに行き当たる。それが最近の政治情勢と重なり、戦争への漠然とした不安を掻き立てる。しかし、8月6日のその日に廃墟の中で生まれた赤ん坊も記録に残されている。不安は不安として、彼等に捧げるための歌を歌わねばならない。そういう思いで、多様な音を整理して、大きな2つのメロディーを少しづつ纏め上げていく、というのが最後の方に出て来る。一人の作曲家が数ヶ月かけて持続させた広島への思考の軌跡がそのまま感じられる音楽であった。

・・・2曲目は細川俊夫が大分前に作曲した旅VIII。これはチューバ協奏曲である。この旅シリーズ全てはオーケストラ側が自然を代表し、さまざまな独奏楽器が人間を象徴している。これも演奏会終了後の細川氏の話であるが、ヨーロッパでの演奏会でチベット仏教徒の馨明(しょうみょう)を聴いて感動したのが切っ掛けであった。それを超低音楽器であるチューバに託したのである。オーケストラ側での風の音(弦では擦る音、管楽器では息音)で始り、大地の轟きのような打楽器、まあ、これは高地での自然を表しているのであろう。チューバの音は最初は小さくて、何やら遠くから僧が歩いてきているような感じで始り、クライマックスでは何とも形容しようもないのだが、ともあれ管楽器の爆発音となる。やがて自然の側の様々な音をチューバが吸収して同化していくような感じで静かに終わる。要するに、自然に同化した人間、という事なんだろうと思った。これも後での話しであるが、チューバ奏者の橋本晋哉氏は通常のチューバの歌口では思ったような大きくて多様な音程の音が出せないというので、いろいろ試してみて、トランペット練習用のプラスチックの歌口を使ったそうである。この楽器は普段は目立たない楽器だが、爆発しているときはまるで恐竜が暴れているような感じがした。

・・・休憩の後、3曲目は二つ目の委嘱作品で、三浦則子の「ヒロシマを渡る風」。これはかなり瞑想的な曲であった。風の音と短いフレーズ。それらが繰り返されたり変形されたりしている。短いフレーズはうめき声というか、過酷な状況というか、そういった感じである。彼女は作曲を依頼されて随分悩んだようで、結局、門脇道雄という人の論文を読んで参考にしたということである。曲の解説文に引用があった。「世界に存在する”者”と”物”。者、つまり人間は、次のいまそこを志向することによって時間的存在と成りうるが、物は、時の推移を志向することはない。生きようとする意欲が世界を決定する。世界は、生きようとする者による未踏の現象であり、あらかじめ知ることはない森羅万象である。」その未踏の現象(生きるということ)の象徴として「風」がある。戦争は”者”を”物”に貶める。その時突然風は止むのである。しかし、風は再びやってくる。まあ、確かにそんな感じの音楽ではあった。最後は問いかけるような太鼓の音が響いて終わる。彼女はまだ若いということもあるのか実に寡黙で、演奏会後の質問にもあまり喋らない。

・・・最後は、ジョルジュ・リゲティの「マカーブルの秘密」である。これは Le grand macabre という1977年作のオペラの中から、ゲポポの歌う3つのアリアを集めて指揮者のエルガー・ハワースが曲に纏めたものということで、僕は存在すら知らなかったのだが、細川俊夫によれば20世紀後半での最高傑作らしい。ゲポポというのはナチスのゲンシュタポの事で、ナチスがいよいよハンガリーにやってくる、という事を秘密暗号として歌っている。つまり、この世の終末を知る、という事である。リゲティというのは才能溢れる人で、この世の終末に際して人々が落ち込むのではなくて、馬鹿騒ぎををして気を紛らわす情景として描いている。器楽側もそうであるが、器楽的に歌うソプラノの方も技巧的に非常に難しくて、今のところこれが歌える日本人歌手は2人しか居ないそうである。その内の1人、半田美和子が出て来てコンサートマスターや指揮者と握手でもするのか、と思ったら、舞台に出てきたところで妙な表情をしていつも間にか始まった演奏を聴いている。と、突然訳の判らないつぶやきをヴァイオリニストが始めて、それに半田美和子が応じて、飛び出してくる。何かを訴えている感じだけが伝わる。あとはもう錯乱状態で、オーケストラと歌手がやりあったり合奏したり、広島弁で怒鳴りあったり、まるでドタバタ喜劇であるが、それが奇蹟のようにぴったりと息が合っていて、確かに作曲されているのだということを思い出させる。

最初に細川俊夫が言っていたのだが、こんな曲を最後にすると最初の3曲の印象が薄れてしまうかもしれない。しかしまあ、この滅多に演奏されない曲を是非やって欲しいという要望が非常に強かったというのを演奏会の後の質問の会で知った。

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