2018.01.27
      細川俊夫のオペラ『班女』を見に行った。立派なパンフレットに解説があった。由来は中国の漢の時代に皇帝の寵愛を他の妃に奪われた班という女のようであるが、世阿弥は遊女花子が吉田少将と別れて、京都で狂女となって踊っていて、少将と再会する、という筋の能を作った。更に室生犀星はこれを小説『野上の宿』とした。そして、三島由紀夫が時代を現代に移して現代能にしたのだが、それをドナルド・キーンが英訳して、それに曲を付けてオペラにしたのが細川俊夫ということである。海外ではよく上演されるらしいが、日本ではこれが2回目というので、まあ好学の為に見に行ったのである。

      音楽はいつもの細川俊夫のスタイルで、いつもの川瀬健太郎指揮で広響メンバーが演奏。演奏そのものは緻密でなかなか良かったと思う。やや怪奇的な雰囲気がよく出ていた。しかし、まあ唸るようなスタイルだから、劇的な展開はむしろ歌(というか台詞に近い)に任される感じである。能舞台を使って殆どが会話で成り立つから、そういう意味でも模擬的な能である。但し橋懸かりを使うのは花子だけである。筋立ては如何にも三島由紀夫らしい。花子は遊郭で一度会っただけの吉雄の約束が忘れられず、狂女となっていつまでも吉雄を待ち続ける。その姿に惚れた孤独な画家実子は花子を引き受けて東京に連れて行く。そこに吉雄がやってきて一悶着あるのだが、結局吉雄と花子は会うことになる。しかし、花子はもはや吉雄を認めない。待ち続ける男としての吉雄こそが絶対であって、現実の時間を生きてきた吉雄は骸骨みたいなものに見える。吉雄は諦めて帰り、残された2人は同床異夢の幸せを得るのである。

      中島みゆきの夜会に『わが身世にふるながめせしまに・・・』というのがあって、これも「待つ女」を主題にしているのだが、対照的で、こちらは「待つ女」の美学を社会的に押し付けられた美学として否定している。その美学は結局のところ三島由紀夫も含めて男の側の理想にすぎない。三島由紀夫の描く女は徹底的に対象化された、外側から見られた女であるから、いつもどことなくリアリティを欠いている。『班女』に見られる花子と実子の対は、つまり客体と主体の対であり、いずれも男の心の中にしか存在しない。

      隣で聞いていた人はかなりの年輩で、どうやら謡をやっていたようで、能や舞を期待していたらしく、僕に「あんた判った?ちっとも判らないのが悔しい。」と言っていた。

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