2018.01.24
      『かって10・8羽田闘争があった: 山崎博昭追悼50周年記念〔寄稿篇〕』(合同フォレスト)を読んだ。当時判らなかった全体像がやっと見えてきた感じである。山崎君を高校時代に政治運動に誘った岩崎正人氏が、闘争に関わった者達やその後参加した者達の殆どが自覚している<共通の思い>を簡潔に述べている。

    「全てのイデオロギーが、どうして、常に党派を形成し、その内部に権力的な序列を作ってしまうのか?それは必然なのか?それを無化することは可能なのか?という問い。一つしかない事実やテクストが、常に複数の解釈を生み出すように、様々なイデオロギーの内部では、常に、複数の「正義」や「真理」が存在してしまいます。それらは所詮歴史的、過渡的なもので、移ろい変化するものだが、現実にそこで生きている人間には、その時点時点で切実なものです。それから離れて生きることは困難です。そして、人々は、自分の存在が現実に脅かされる事態でもないのに、理念が違うという理由だけで、しばしば殺し合いをしてきました。戦争のリアリティがそこにあります。異なる原理のイデオロギーが戦いを挑み、生存と自由を否定してきたら、自分は闘うのか、闘わないのか。闘うとしたらどう備えるのか、闘わないとしたらどういう努力が必要なのか?反戦の理念はそこで試される。実現の道筋を示さない理想主義は自覚無き詐欺です。いや、それ以上に必ず厄災をもたらす無作為の悪です。私の属していた党派のイデオロギーもその類のものでしかなかった。(理論、イデオロギー、組織、これらは社会的な運動の為には必要なものである。それらは人々の意思統一を助けてくれるのであるが、同時に思考や行動の柔軟性を奪う。)多くの超越的価値やイデオロギーは古びて現実性を失っていく。残るのは、人間の生命それ自体に、超越的な、他の価値よりも上位の価値を認める理念だろうと、私は想像しています。如何に観念的に見えようとも、反戦の理念はここにしか根拠を持っていません。」

      島元恵子さんの言葉。「記念文集が追憶や郷愁や感傷に満ちたものでないことを願いたい。無数の沈黙が語る声がある。その声を聴く耳を持たないならば、自らも語るべきではないのだ。語るべきは自慰的な饒舌ではなく命のこもった痛切な言葉でなければならないし、己の精神をかけての<行動>こそが求められているのではないか?」

      近藤ゆり子さんの言葉。「暴力革命という命題を立てた瞬間から、それを担う革命側の正義が問われる。人を殺すに値する正義の体現者であることが要求される。その思考に入り込めば連合赤軍の真面目すぎる悲劇が待っている。ならばどうする?2017年現在の答えは非暴力直接行動である。人は必ず過ちを犯す。人が形成する組織もまた必ず過ちを犯す。殺せと命じるに値する絶対的正義など存在しない。」

      三橋敏明氏(日大全共闘)の言葉の要約。「全共闘運動は前年からのベトナム反戦運動の延長線上にはなかった。大学当局の不正や腐敗に対する戦いであった。しかし、闘うスタイルは確かに10・8羽田闘争で始まったヘルメットと角材と投石を引き継いだ。それが有効だったからだ。」

      50年経った。この本には載る筈もないのだが、当時の機動隊員の気持ちも気になる。彼らの負傷も激しかったが、とりわけ、山崎君を撲殺してしまった機動隊員やそれを目撃した人達の心境はいかなるものだったか?デモ隊と同様、機動隊もまた死を覚悟していたのではなかった筈である。

      角材とヘルメットと投石のスタイル、それに呼応する大型の楯と警棒と催涙ガス。お互いにある程度の怪我は容認しつつも、死亡事故を避けるという意味で、戦争における暴力とは程度が異なる。集団示威運動の効果を考えるならば、確かに危うさを伴いつつも、ある種の<最適化>ではある。そのスタイルを一概に否定し去ることはできないだろう。(ただ、死者が出た事に対しては、死を利用するだけでなく組織的反省があってしかるべきだろう。)闘争に関わった多くの人が問題にしていたのはむしろ内ゲバの方だった。死者の数もその方が圧倒的に多いが、それは結果論である。本当の問題は暴力が非公開の場で行われたことではないだろうか?閉じた空間においては社会的抑制が働かないから暴力がエスカレートしてしまうということだけではない。そもそも公的な場でないからハンナ・アレントの言う<多数性>が成立しない。つまり政治ではなくなる。内ゲバの結末は闇から闇へ葬りさられる。暴力団同士の抗争と変わる処が無い。しかしまあ、こんなことを言ったところで何の解決にもならず、まして山崎君の思いを受け止めた事にもならない。。。
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