190219
Karen Barad "Meeting the Universe Halfway" の第7章の『思考実験の実現』の節(p.287−317)を理解するには、最初に戻る必要がある。

      量子力学史は、黒体輻射のスペクトルを解釈するために電磁波である光が離散的なエネルギーしか持てない、とせざるを得なかったことから始まる。更に光電子効果からも、光がまるで粒子のように振る舞うことが見出された。これに続いて、原子スペクトルも明らかに離散的であり、電子が原子の中にあるとしても、その採りうるエネルギー状態がなぜ離散的なのか?そのモデルとして、今度は電子が波のように振る舞う、というモデルが提案された。それらの関係をひとまとめにすると、精密な実験によって、粒子的な性質であるエネルギー E と運動量 p、波動的な性質である波長 λ と振動周期 τ の間に、

      Eτ=pλ=h (プランク定数)

が得られる。これから、エネルギーと時間、運動量と位置との間にある、相反性(両方を同時には測定できない)を、

      ΔE・Δt =< h、 Δp・Δx =< h

と言う風にまとめることができる。(Δは測定精度の幅を示す。)これは、波長の微妙に異なる波動を重ね合わせて空間のある点の周辺に波動振幅が局在するようにして(波束という)、それを粒子という風に解釈することで、導出される。

      Heisenberg はこのような Bohr の考えとは別に、粒子の位置を測定する為に γ線顕微鏡を使うとすれば、その γ線の衝突によって粒子の運動量が攪乱されて不確定となる、というモデルから不確定性関係として同じ不等式を導いた。Bohr は Heisenberg に対して、結果的には正しい関係ではあるが、攪乱は必要ないのだから、その導出は不完全である、として激論となり、結局 Heisenberg は、彼の論文の最後に、この導出方法には不備がある、と自らコメントして出版したのであるが、そのコメントは注目されなかった。Heisenberg の不確定性原理は、その背景に、粒子は本来的に(存在論的に)位置も運動量も決まっているのであるが、それらを同時には測定(認識)できない、という意味を含んでいる。これに対して、Bohr の相補性原理(その定量的表現として非決定性原理)は、同時には測定できないというのは、そもそも測定すべき物理量が決定されていない(存在しない)からだ、という意味を含んでいる。<認識>の問題として考えるか<存在>の問題として考えるかの違いである。認識の問題であるならば、いつの日か理論が完成した時には、隠れていた物理量を確実に予言できるはずである。この立場に立って、Einstein は Bohr と論争を続けたが、殆どの物理学者は、僕もそうだが、そんな事には興味を持たず、量子力学の応用範囲を広げることに注力した。

      Einstein と Bohr の論争は、『思考実験』で行われた。実現しそうにもないが、理想化されたモデルを量子論に沿って計算してみると、どうもあり得ないような結論が出てしまうから理論が不完全ではないのか?というやりかたである。思考実験は現実化されることなく、2人とも亡くなってしまったのだが、一部の人達は、実際の実験によって2人の議論に決着をつけようと努力していた。最初の成果は、Bell の不等式という理論的な問題設定の組み直しであった。もしも、粒子が測定される結果を予め保持しているけれども我々がそれを知らないだけであるならば、それをどういう風に測定しようとも、結果は確率計算で表現出来るということだけから、それを利用して、いろいろな測定の間に<不等式>が成り立つことを導出したのである。他方、量子力学的に計算すると測定結果の間の不等式が成り立たない場合があることを示した。こうして実験可能な問題設定が為された事で、1972〜1982年の間に行われた幾つかの実験によって Bell の不等式が成立しない場合があることが確認され、Bohr の<存在論>が認められた。

      Bohr の提起したもう一つの課題は、ΔE・Δt =< h の意味である。彼は、これが古典力学の因果律に重要な変更をもたらす、と語ったのだが、具体的にどういう意味なのかが判らない。これについては、『量子消しゴム』と呼ばれる幾つかの実験によって明らかになった。その一つが Scully 等の 1991年の論文である。粒子が二重スリットを通り抜けると干渉効果で背後のスクリーンに干渉縞が生じる。つまり波動性を示す。これは二重スリットのどちらを粒子が通り抜けたのかという情報が無いからである。量子力学的には、それぞれのスリットを通り抜ける二つの状態の重ね合わせの波動として理解できる。だから、二重スリットに入る前に粒子がどちらのスリットに入るかという測定を行うと干渉縞は生成されず、それぞれのスリットを通り抜ける状態で理解できるそれぞれのぼんやりとしたスクリーン上の影の和になる。この測定というのは実験者がその結果を知るという意味では勿論なくて、知る可能性が生じる、つまり粒子が<何らかの痕跡を残す>、という意味である。この痕跡を粒子がスクリーンに到達した後で、消去することが出来るのだが、そのような実験をすると、干渉縞が復活するのである。(僕はまだその論文を読んでいないので詳しくは判らない。)消去するとは言っても、干渉縞というのは、多数の粒子をスクリーンに衝突させてその分布から判別するものだから、一つ一つの粒子に対しては時間的に遅れた操作ではあっても、人間の目で判別する時には、その後なのである。この辺が判りにくいところなのだが、どれくらいの時間の範囲内で、この遅延操作、つまり時間に逆行する因果律が成り立つか、と言えば、それは、粒子がその波動としての位相関係を保つ間、ということになる。位相というのは波動に特有の指標であって、三角関数の独立変数たる角度そのものである。360度で元に戻る。この位相関係が保たれるということは、周波数が安定しているということで、それはエネルギー固有状態に近い(ΔE が小さい)ということでもある。ΔE・Δt =< h から判るように、それは Δt が長いということで、この Δt というは位相関係が保たれている時間そのものである。Bohr の示唆した古典的因果律の見直しというのは、そういう意味であった。

      逆にいうと、Bohr の『測定』というのも、ミクロな現象から人間の日常感覚への橋渡し(情報の伝達)という意味だけではなくて、ミクロな現象内部にまで踏み込んで理解しなければならない。つまり、測定というのは、(粒子のような)被測定系と測定装置との出会いなのだが、出会った時には、それら二つの系は<もつれ合って>いる。これは、二つの系が独立ではなくて(それぞれの波動関数の積ではなくて)一体化している、ということである。その一体化した状態が継続する間(位相関係が保たれている間)に、もう一つの測定系が相互作用すれば、別の状態に変化するのは当然である。これが量子消しゴムという事であり、EPR によってあり得ない事として提案された量子テレポーテーションでもある。しかし、人間が測定結果を観察するには、この一体化した状態から、何らかの周辺からの相互作用によって、位相関係を乱してしまい、痕跡を残す必要がある。具体的には、スクリーン上のある地点に粒子が到達して、そのエネルギーがその地点の粒子群に渡されて、化学反応を引き起こす、という事である。さて、ここまで考えてくると、Scully et al. の実験で、原子がスクリーンに到達した<後で>、どちらのスリットを通過したかの情報を消去した、というのが本当かどうか、が疑わしくなる。Karen Barad の詳しい説明の部分では、情報の消去が起きたという記録があるかどうか(具体的には粒子の残した光子をどちらのスリット側にも通じている検出機が検出したかどうか)、をスクリーン上の各痕跡毎に照合して、消去が起きた時の痕跡<だけ>を集めると干渉縞が見える、という風に書いてあって、どうも消去が行われるのは、原子がスクリーンに到達する前ではないか、と思われるからである。。他の解説本には、原子がスクリーンに到達する<前>、という風に書いてあるのもある。(Arkady Plotnitsky "Epistemology and Probability" Springer(2009/11/6),p.70) Scully et al. の論文は Nature vol.351, p.111-116(1991)で、どこか大学の図書館で入手するしかない。

(追記)
      とりあえず、ネットで入手可能な論文を幾つか読んでみた。Kim, Yu, Shih, and Scully で Phys.Rev.Letters vol.84,p.1 (2000) の草稿が見つかった。図に不備があるが、実験内容はよく判る。ここでは、Zou et al. の論文(p.308の訳注に記述)と同じように、もつれ合った sample 光と idler 光を使って、遅延量子消しゴムの実験を行っている。遅延の意味は、経路情報を得たり得なかったりする idler 光の検出が、干渉したりしなかったりする sample 光の検出よりも時間的に遅れている、ということであり、これは直接その時間差を測定するのではなく、光学的距離が長いから、ということである。だから、上記の僕の杞憂は外れである。どうも、時間という概念はこのレベルでは計算上の概念であって、二つの光の検出の間は因果関係ではなくて、本来的に相関しあっている量が異なる時間順序で確定するだけであり、確定前は<もつれ合って>おり、全体としての測定によって経路情報あるいは干渉のいずれかが決定される、ということのようである。

      こういう事を考えると、結局『現象』というのは測定対象と測定装置がもつれ合った状態、という風に理解できるかもしれない。我々はそのもつれ合いそのものは制御できないから、現象の欠くべからざる一部を構成する測定対象が客観的存在であるとは言えなくて、測定装置を作り上げることで、現象を誘導し、最終的に位相相関が無くなった時点での、測定装置に残された対象の痕跡を知るしかない。現象を離れた測定対象(例えば孤立した電子)というのはあくまでも我々の頭の中で様々な測定によって再構成される抽象的な概念なのだが、我々がそれをあたかも客観的対象のように扱えるのは、測定装置を他者と共有できる(言語化できる)からであり、また理想化された現象を計算上で(言語によって)十分な精度で(確率として)再現できるからでもある。
 
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