第9章 16世紀ヨーロッパの言語革命
      紀元前50年、カエサルはガリア地域を征服し、ほぼ全ヨーロッパがローマ帝国の支配下に入った。ラテン語は公用語であり、文明の語でもあったから急速に普及した。一方キリスト教はギリシャ人の間で生まれ、奴隷や属州で虐げられた人々の間に広まっていた反権力的な傾向の強い宗教であったが、パウロが都市市民を布教のターゲットとしてから変質し、ローマの支配階級の間にも広まり、4世紀末にローマの国教となった。巨大国家が支配のための体系的な宗教を必要としたのである。ローマ帝国が476年に崩壊した後も、ヨーロッパ各地にキリスト教が広まった背景には、各地の支配層が自らの領地の統治に有効であると判断したからである。したがって、信者は支配層に限られていた。異教徒(pagani)とは基本的に農民を指す言葉であった。こうして各地の王権の上に教皇がある、という2重支配の構造になった。800年に神聖ローマ帝国が誕生し、国王シャルルマーニュはローマ帝政の復興を目指した。彼はラテン語教育に力を入れて、聖職者を養成し、文書管理のための官僚を養成した。書き言葉としてはラテン語しかなかったのである。各地につくられた学校は教会の組織であった。12世紀以降に作られた大学も、ナポリ大学を別として、教会と結託した。俗権からの干渉を逃れるためにあえて教会に従属した場合も多い。他方、読み書きできない大部分の民衆の間では俗ラテン語が使われ、それらは急速に方言化し、各地のロマンス語(フランス語、イタリア語、スペイン語、ルーマニア語などで代表される)と土着語由来のゲルマン語に分離していった。つまり、被支配者階級は言語的に支配者階級から隔絶され、支配者階級は国や地域を越えてヨーロッパ全土に亘って同じ言語(ラテン語)と同じ宗教(キリスト教)で繋がることになった。(日本の中世では漢字と儒教・禅宗が同じ役割を果たした。)

      12世紀に至って、ヨーロッパが温暖化したこともあり、農業生産性が上がり、自給自足経済から余剰生産物の交換経済へと移行し、都市化の波に洗われた。つまり、これまでの聖職者と騎士と農民からなる社会に、都市に住む商人や職人という階層が加わった。初期には商人自身が商品を携えて各地を遍歴していたのであるが、やがて都市に定住して商品だけをやり取りする方法に進化していった。為替手形(遠隔地に居る代理人に代金を支払うように依頼する手紙)での決済である。数学や法律や地理学を身につけた「物書き商人」である。王権としても、商人の支援が必要であったから、都市を保護した。また公文書にも俗語が使用され始めた。それより少し前から、ラテン語を解さない騎士達の間では俗語による文学が流行していた。君主に対する忠誠や戦闘における勇気といった彼らの思想や感情を表現するものであったが、やがて、それも商人の娯楽作品が中心となっていく。14・15世紀にはイタリアの都市において「手習い学校」や「算数教室」が生まれ、商人や職人の子弟達が通うようになった。

      学問と宗教の世界は依然としてラテン語の聖域であった。12・13世紀には古代の学問がアラビア語やギリシャ語からラテン語に翻訳され、各地の大学で支配階層の子弟に教えられた。ラテン語はこれらの学問を民衆から秘匿する役割を果たしていたし、実際そのことは支配者層に意識されていた。大学は学問を教えるギルドであって、外部への漏洩を恐れて俗語使用が禁じられていた。人文主義者は硬直化したスコラ哲学を批判したのであるが、それはアラビアを経由しスコラ哲学で歪曲された典雅なラテン語を純化する、という意味に過ぎなかった。例えば、オランダのエラスムスは手紙はラテン語を用いていて、インターナショナルではあったが、民衆に対して訴えたことはない。こういった秘匿体質はギリシャ以来のヨーロッパの伝統であって、哲学は賢人達のものであって、民衆がそれを知ると悪いことに利用するだけである、と考えていた。プラトンはソクラテスに「どんな言葉でも書き言葉にすると発した人の意思に関わらず広まってしまい、どんな作用をするか判らない。」と言わせた。

      教会でも事情は同じであった。聖書の解釈を行う事は教会に独占されていたし、それゆえに聖書の俗語訳は異端の行為とされた。早くも13世紀初頭にはリヨンの商人ワルドが聖書を翻訳させて読んだところ、教会の解釈と余りに異なることに驚いて公表し、民衆に支持を受けたために異端として弾圧されている。14世紀のイングランドにおいても、ジョン・ウィクリフが聖書を英訳し、職人階級に広まっていった結果、異端とされ(1382)、英訳聖書は焼かれて、信者は殺された。ボヘミアでも聖書をチェコ語に翻訳したフスが異端として火刑に処された(1415)。15世紀の印刷術の普及は教会にとって脅威であったから、ドイツ語への翻訳出版物は教会によって検閲されていた。人文主義者達は一般的に教会を痛烈に批判していたが、それがラテン語で書かれる限りは弾圧されていない。ルターが「95ヶ条の提題」を発表したのは1517年であったが、ラテン語であった。しかし、翌年にそれをドイツ語に翻訳要約して印刷するとドイツ中に広まり、宗教改革の趣旨が民衆に伝わることになった。1526年と1534年にウィリアム・ティンダルは原典のギリシャ語から新約聖書を英語に翻訳した。大陸で印刷されて非合法となったが、イングランドにも持ち込まれ、広く読まれた。その結果、彼は異端の罪で1536年に絞首刑となった。フランスではルフェーブル・デターブルによって1528年に仏訳聖書が出版され異端となった。エラスムスの著書4点を仏訳したルイ・ド・ベルカンも1529年に火刑となった。1559年、教会は「違法」出版物を抑えきれなくなって、「禁書目録」を発表した。ガリレオが宗教裁判にかけられたのは彼の過激な思想の故だけではない。彼の著書「天文対話」がイタリア語で出版された(1632)からである。

      俗語出版とは言ってもそのためには俗語がラテン語に匹敵する表現力を獲得しなくてはならなかったから、それはヨーロッパにおける国語の形成という言語革命を伴っていたし、その原動力の一つが、商人や職人や国家権力の要請による技術書や聖書の出版だったのである。その為には、まずもって語彙の充実が必要であり、多くはラテン語から借用されたし、他国語からも借用された。また職人達の業界用語も採用された。もう一つの要素は方言である。諸方言の中から王権が選択して国語を定めて普及させない限り印刷された書物は普及しないからである。それは同時に王権の支配にも好都合であった。つまり、言語革命の背景には、印刷書籍の出現、宗教改革、国民国家の形成によるナショナリズムがあった。

      印刷が始まるまでは、書物は手写本であり、もっぱら修道院の中に閉じ込められていた。13世紀には大学と提携した民間の工房で手写が行われていた。15世紀半ばに印刷が始まっても世紀末まではもっぱらラテン語の書物であったし、もっぱら手写本の美麗さを追求するものであった。1530年台から俗語の出版が優位となった。結局のところ出版業者は市場の大きい分野にターゲットを絞らざるを得なかったのである。大量の印刷物の配布はまた特定の方言を優位な立場に引き上げることになったし、それがまた市場を拡大させた。文法の整備、文体の統一、正字法の確立も印刷業者によって推進された。翻訳の手引書、文法書、が印刷業者達の手で出版されている。かくして、ラテン語で育てられ、フランス語を外国語として習得したモンテーニュが1580年代に「エセー」を書き始めるにあたって、意図的にフランス語で書くことを決意したのである。イングランドやオランダでも同様に、印刷業者が国語の整備に貢献した。

      ドイツにおいては諸邦の実務家の間でドイツ語の統一がある程度進められていた。16世紀においては公文書がザクセン官庁語で記されていた。ルターはそれに基づいて1522年に新約聖書を出版し、ルター生存中に10万部以上印刷された。1534年には新旧の聖書が印刷され、1626年までに85版を数えた。イングランドでも同じ時期に国語として「英語」が確立した。ティンダルのギリシャ語原典からの翻訳聖書(1526年)はその後の英訳聖書の基準となった。1534年には英国国教会が成立し、教皇庁から英国が離脱することになるが、ティンダル自身はその2年後に処刑された。一時的にカトリックに帰依したメアリー一世の時代もあったが、その後聖書は合法的に出版され、1611年にはウィリアムズ一世の命で欽定訳聖書が作られた。フランスではカルヴァンの従兄弟のピエール・オリヴェタンが1535年に聖書を仏訳出版した。カルヴァンも自ら書いた「キリスト教綱要」を1541年にフランス語で書き直し、後にフランス散文の創造者とされた。オランダでもオランダ語訳聖書、スカンジナヴィア諸国では、王が教会の統治権を掌握する国教会体制をとり、デンマーク語、スウェーデン語、アイスランド語、の聖書が相次いで出版され、これらノルド語を母語とする言語が分離独立することになった。フィンランドでも少し遅れて、聖書が印刷され、フィンランド語が確立した。

      宗教改革は超越的な教皇権力からの国家権力の自立という側面を有していたから、ナショナリズムへの牽引力ともなった。そして、国語の独立(書き言葉としての成熟)はその現われでもあり、帰結でもあった。当時の文法書もドイツ語とドイツ民族の優位性を謳っている。17世紀初頭の30年戦争は宗教改革に端を発しながらも、すぐに宗教とは無関係な国家間の争いになり、1648年に終結して、ドイツは領邦国家になるが、教皇からの独立とドイツ語の確立はナショナリズムの成果として残った。北欧諸国、ネーデルランド、イングランドではナショナリズムはより顕著であった。1338年頃、英仏戦争が始まったが、イングランド内の教会への貢納金は結局フランス領アヴィニヨンの教皇庁に納められて、フランス軍の戦費になっていたから、ウィクリフはイングランド国王に貢納を拒否するように進言している。1533年の「上告禁止法」で国内紛争の教皇への上告を禁じ、1535年の「首長法」で国王がイングランド内での教会の首長であるとした。1580年代のブローカーの「文法詳解」やマルカスターの「エレメンタリー第一部」にも国語の優位が主張されている。後者では、学問のために母国語以外の言語を強要されるのは無駄であり、我々がいまだにローマの奴隷の身分であることを思わせる、とか、わが国語は有能である、とか言っている。17世紀のシェイクスピアを始めとする英文学の絢爛たる開花に繋がった。オランダではスペインからの独立戦争とオランダ語の形成過程が並行している。

      カトリックの影響が強く、もともと民衆の言語がラテン系のロマンス語であったフランス、スペイン、イタリアでも主権国家の成立と国語の形成が進んだ。14世紀にはフィリップ二世が教皇をアヴィニヨンに幽閉して国家教会主義を明確にし、1516年にはフランソワ一世は司教や修道院長の任命権を教皇から奪った。1539年にはヴィトール・コトレの勅令を発して、当時イル・ド・フランスの方言であったフランシア語を公用語とした。スペインでは1459年にアラゴンとカスティリアが合体してスペイン王国が成立するとスペインの国家意識が高揚し、アントニオ・デ・ネブリバが「カスティリア語文法」を書き上げて、進んでいたカスティリア語が国語となり、1519年にカルロス一世が神聖ローマ帝国皇帝になると、スペイン語が帝国主義の象徴としてもてはやされた。イタリアではラテン語にもっとも近い方言が使われていたが、小国に分裂していたために、どれが国語として望ましいかについては議論があった。ダンテは14世紀始めにトスカーナ語で「神曲」を書いたし、1436年にはアルベルティが「絵画論」をトスカーナ語で書き直した。その後一時人文主義者達が古代のラテン語使用に拘ったが、15世紀末には俗語文学が始まり、16世紀にはラテン語を圧倒した。1494年のフランス軍イタリア侵攻に始まる外圧によってやはり国家意識が高揚し、マキャヴェリの「ローマ史」も「フィレンツェ史」もイタリア語で書かれた。採用する方言についての議論は1546年レオナルド・サルヴィアーティが「フィレンツェ語賞賛の演説」を出したことで決着し、結局トスカーナ方言フィレンツェ語が国語となった。(日本で対応する現象を見つけるとすれば、明治維新後の東京方言の標準語化、漢字かな混じり文、漢語の応用による専門用語作成ということになるだろう。)

      最後までラテン語に拘ったのは、大学で営まれる「科学」の分野であった。大学が国境にとらわれていなくて、学生がヨーロッパ諸都市を遍歴しながら学んでいたからである。ポーランドのコペルニクス、ブリュッセルのヴェルサリウス、イングランドのハーヴェイ、ギルバート、ジョン・レイ、オランダのホイヘンス、イタリアのカッシーノ、デンマークのレーマー、ドイツのケプラー、グラウバー、ライプニッツ、フランスのガッサンディ、デカルト、といった17世紀の錚々たる科学者達は国家の枠と越えて活躍し、ラテン語で著述した。ガリレオも天体観測の報告をラテン語で書き直しているし、ニュートンも「光学」をラテン語で書き直し、「力学」は最初からラテン語で書いた。研究は俗語で行ったとしてもインターナショナルな場ではラテン語が共通語だったからである。実は、17世紀に至ると科学の主体が再び知識人・大学に取り戻されるのである。他方で、こういった超一流の著述以外の分野では俗語が一般的に使われたことも確かである。ガリレオは「天文対話」をイタリア語で書いたし、メルセンヌはそれをフランス語に翻訳し、自ら「普遍音階学」をフランス語で書いた。ホイヘンスの「光学についての論考」もフランス語である。1665年にはフランス語の学術雑誌「ジュルナル・ド・サヴァン」が、1665年には英語の学術誌「フィロソフィカル・トランサクションズ」が刊行された。17世紀後半にロンドン王立協会が会員達に、ラテン語を排して英語を用いるように勧告しても、オックスフォード大学の医学部では教育が19世紀半ばまでラテン語で行われていた。しかし、それが最後であった。

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