第8章 16世紀後半のイングランド
      当時のオックスフォード大学やケンブリッジ大学は中世のレベルに留まっていたが、商人と職人の世界では大陸諸国との取引の必要性から数学に長けていた。作者不詳であるが、「ペンないし算板による計算術学習入門」が最初の印刷書物であって、1537年から一世紀近くの間、繰り返し再販されている。複式簿記も普及していた。

      1485年の「ばら戦争」によって封建貴族が没落し、大土地所有者としての修道院も消滅し、チューダー王朝においては、国教会の元で、過激なピューリタンを迫害した以外はカトリックに対しても取り締まらず、中庸政策をとったため、国内政治が安定していた。地主階級(ジェントリー)と独立自営農民層が成立し、100年の間に人口は倍増し、先駆的工業革命が起こっていた。1588年にはスペイン無敵艦隊を撃破して、海外進出を開始した。ジェントリー達は次男三男を都市の商人や職人の徒弟奉公に出して、新しい科学、つまり機械学と航海を学ばせた。

      1066年のノルマン・コンクエストにより、書き言葉はラテン語、支配層の言語はノルマン・フランス語となったが、英仏百年戦争(1339-1453)を契機に公用語が英語に変わって行き、15世紀には書き言葉も英語に変わり、それがイングランドのアイデンティティーとして意識されるようになった。このような背景があって、イングランドでは印刷書物は最初から殆どが英語であったし、その著者は大学を出た知識人達であった。この点が大陸とは異なる。

      ロバート・レコードはケンブリッジ大学で医学博士となった。彼は大きな影響を与える英語の書物を出版している。算術書として1542年の「諸芸の基礎」。幾何学書として、1551年のユークリッドの翻訳「知識への道」。天文学書として1556年のプトレマイオスに基づいた「知識の城」。代数学として1557年の「知恵の砥石」。

      ジョン・ディーはオックスフォード大学に学んだが人文主義に馴染まず、ヨーロッパ大陸を5年間旅行して、実用的な諸学問を学んで、本国で啓蒙活動を行った。大きな影響を与えたのは、ユークリッド「原論」翻訳への「数学的序文」(1570年)であった。そこでは、プラトンの「超自然的なもの」と「自然的なもの」の区分の他に、その中間に「数学的なもの」があり、それは自然的なもの(知覚しうるもの)にも適用される、とした。彼が学んできた「数学的技芸」が正にそれであって、天文学、宇宙誌、音楽、航海術、水理学、気体力学、建築学、図像術、等である。それらを「経験学」と名づけて、定量的測定を重視した15世紀のニコラウス・クザーヌスと数学と経験を重視し、科学に基づく自然力の使役の可能性を主張した13世紀のロジャー・ベーコンに影響されたと明言している。現代流の分類では「応用数理科学」の賛歌である。彼はエリザベス一世の顧問として、イングランドの帝国主義政策の推進論者であった。

      ジョン・ディーの友人でジェントリー階級のレオナルド・ディッゲスもオックスフォード大学に学んだが、やはりロジャー・ベーコンの影響を受けていて、反射望遠鏡を考案したといわれているし、地上測量で用いられる経緯儀を考案している。彼は科学の啓蒙に努めた。死後1571年に出版された「汎測量技術」は広く読まれた。息子のトーマス・ディッゲスはチコ・ブラーエとは独立に同じ新星の観測を行い、アリストテレスの自然観(天上界は不変である)を覆したが、チコ・ブラーエが地球の不動性に拘ったのに対して、コペルニクス理論を実証するものとした解釈を1573年の「数学の梯子ないし翼」に書いている。父レオナルドの「永続的予測」の1576年改訂時に「最古のピタゴラスの理論にのっとり、コペルニクスにより改訂された、諸天球の完全無欠な記述」を追加し、コペルニクスの「天球の回転について」の翻訳も追加した。彼はコペルニクスを超えて、天球が無限の彼方まで存在するとした。こうして、彼はイングランドにおいて地動説の受け入れに貢献した。

      ウィリアム・ボーンは大学とは無縁な宿屋の主人であったが、イングランド海軍の要塞があったので、緊急時には防衛にあたる市民兵でもあった。1561年にコルテスの「航海術」が英訳されると、1574年にはそれを一般的な船乗りのために解説した「航海規則」を出版した。天体観測や船速測定法(ログ・ライン)を説明している。これは、等間隔に結び目(knot)を付けた長い紐の一端に木材(log)を結びつけたものである。航行中に海中に投げ入れて、手に持った紐で通過する結び目を数えることで船の速度が得られる。単位knotの起源である。他にもタルターリアの書を下敷きにした「大型大砲における射撃の技術」、ジャック・ベッソンの機械学の書に依拠した「発明と考案」、ヘマ・フリシウスによる三角測量についての「旅行者の宝」を出版した。

      ヨーロッパ人が磁針の指北性を知り羅針盤に利用したのは12世紀で、磁針が正確に北を向くのではなく偏角があることを発見したのは名も無い旅行用日時計製造職人であった。鞴で高温炉を作る方法も含めて、無名の職人が利用していた技術を知識人が書き下す、というのが一般的であった。しかし、磁針が水平面よりも傾く現象(伏角)を見出した職人ロバート・ノーマンは測定装置を考案して精密に測定し、磁化の時に重量バランスが崩れたためでないことを証明し、磁針はある方向に引かれているのではなくある方向を向くだけである(偶力が働いている)ことを見出して、自ら1581年に「新しい引力」という書物で出版した。自然学における定量的測定の嚆矢であった。偏角は磁針が磁極を向いているということを意味するとして経度測定に期待されたが、実際には偏角の経度変化は単純ではない。「新しい引力」の付録として、叩き上げの船乗りウィリアム・ボロウの「コンパスないし磁針の偏りについての論考」には測定法の記述と共に、世界各地での偏角の測定を広く呼びかけている。こうした船乗りの学習意欲や知的向上心は当時一般的なものであった。日本に流れ着いて徳川家康の側近となったウィリアム・アダムス(三浦按針)もその1人であった。1600年にウィリアム・ギルバートが「磁石論」において、地球が一個の磁石である、という主張をするに至った直接のヒントはノーマンによる伏角であった。

      16世紀後半のイングランドでは、知識人が率先して大陸の先進技術を吸収し、船乗り達も向上心に溢れていたが、大学は依然としてスコラ哲学に閉じこもっていたから、軍人で植民地主義者のハンフリー・ギルバートは1572年に、新たな教育機関として、「エリザベス女王のアカデミー」を提唱した。1588年には、スペイン無敵艦隊襲撃に備えて市民軍が組織され、彼らの教育のために軍事技術の講義が行われた。スペインからの襲撃の危険性がなくなると、それは商人の利害と関心に合わせた航海技術に変化していった。商人トーマス・グレシャムは1597年に技術者教育のためのグレシャム・カレッジを開校した。そこに集ったのはイングランド中でもっとも有能な学者達であって、例えば、常用対数表を発明したヘンリー・ブリッグス、計算尺を作ったエドマンド・ガンター、磁針偏角の永年変化を発見したヘンリー・ジェリブランドが居た。やがてそこから王立協会が生まれて、科学革命の中枢となった。

  <目次へ>  <一つ前へ>  <前章へ>  <次へ>