披露山公園の七曲坂・古東海道その3 地図はこちら

披露山公園から新宿へと下っていくこの古道は、急坂を曲くねりながらの道ゆえに「七曲坂」と呼ばれています。実際に公園駐車場から新宿の三叉路までの間の大きなカーブを数えてみると、これがちょうど七つあるのです。このような道の形態は海岸沿いを通ることができなく、敢えて急な山を越えて行かなければならない道としての姿なのでしょう。

七曲坂は深い掘割道に鬱そうと繁る樹木で覆われ、昼間でも薄暗い様相を呈していますが、木の葉の隙間から差し込む陽光はキラキラ輝いて、冬の冷気に暖かな自然の安らぎが感じられました。このような森の美しさは現在は大変貴重なものとなってしまいました。現在の街の景観を見ると、ほとんどがアスファルトの道にコンクリートや金属の壁に建物と、何故こうも街の景観美というものが無くなってしまったのか悲しく思えてきます。ただ便利であるというだけで、街を歩いていて良いなと感じるものが非常に少ないようです。本来日本人は自然感と一帯になった美的感覚にすぐれたものがあったと思うのです。そのような感覚はいったい何処へ行ってしまったのか。

ところで、この古道は古東海道ということで紹介しているわけですが、実は古東海道のルートは幾度となく変遷を繰り返していたのです。ではこの披露山公園の七曲坂の道はどのような時期の古東海道と考えられているのでしょうか。

ここ逗子市の披露山公園を通る古東海道は、官道として整備された初期のルートと考えられているようです。

初期の古東海道は足柄峠から関東(相模国)に入り鎌倉から小坪坂を越えて現在の逗子市に入っていたと想定されています。小坪から姥ヶ谷に下りその後は披露山へと上って行きます。披露山を東に下った後、古代には逗子の海岸線は現在よりも深く内陸に入りこんでいて、新宿浜からは、久木、山ノ根、池子、沼浜、桜山、鎧摺、一色、木古庭、衣笠、水走とこのようなルートを辿ったと推定されています。水走からは東京湾を渡り上総、下総、常陸と北へ向かっていったのです。

その後、宝亀2年(771)に武蔵国が東山道から東海道に所属替えされてからの古東海道は、箕輪駅(平塚市或いは伊勢原市推定)から武蔵国府へ向かったと考えられているようです。また一説には武蔵国府を経由せず、浜田、店屋、小高、大井、豊嶋などの延喜式駅家を通過する路線で下総国へ出ていたとも考えられているようです。

初期の古東海道は伝説の英雄である日本武尊の東征伝の道とかなり一致しているところがあり、そのことから、この七曲坂を日本武尊や弟橘姫が通り抜けていった道とも考えられているわけです。更に逆を考えると、日本武尊の東征伝の道が、後の大化改新以降で律令初期の東海道の官道となったと考えるのが或いは必然的なのかも知れません。

古代の東海道がどのよなルートを取っていたにせよ、ここ披露山公園の七曲坂は従来から古東海道の跡と考えられていました。ホームページの作者は歴史や古道の研究者ではありませんので、従来から伝えられてきていた説を素直に受け入れて、この古道を古東海道と紹介しているわけなのであります。しかし、近年の古代道の考古学発掘事例から考えると、この七曲坂は少なくても初期律令時代の官道である駅路とは正直いって似た形態をしているとは考えられません。

しかし、実際のところは古代東海道が三浦半島を通過していたかどうかと言う根拠を示す資料はほとんど見当たらないのです。三浦半島を通っていたとする説の考え基として、日本武尊の走水(浦賀水道)での、渡りの神の妨害の説話があげられ、また房総半島側の上総国が下総国の南にありながら都に近い国名の上・下順位関係などから、房総の官道は南から北へ向かっていて、そのことから東海道は三浦半島から上総国へと渡っていたという考え方なのが上げられます。

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